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古書ほうろうの 2002年10月の一冊
「いつか王子駅で」 堀江敏幸
「いつか王子駅で」  堀江敏幸
(新潮社) ほうろう価格 800円

 都電荒川線沿線を舞台にした小説です。

 確か去年の今頃、お客さんから買い取ったのが、この本との出会いでした。知らない作家の知らない作品でしたが、迷わず高く買ったことを覚えています。この年、作者の堀江敏幸氏は、これとは別の作品で芥川賞を受賞しており、そういう意味ではまさに旬だったわけですが(帯にも「新芥川賞作家の初の長篇」とちゃんと書いてあります)、そういうこととは全く関係ないところで、この本の佇まいは僕を惹きつけました。

 まず、何といってもタイトル。「いつか王子駅で」ですからね。どんな内容かはわからないまでも、鉄道および音楽好きの心を揺さぶるのにこれ以上のものもそうはないでしょう(実際にはジャズとは関係なかったんですけどね。ちょうどビル・エヴァンス・トリオのレコードをかけている時に編集者から電話があり、タイトルだけでも今すぐ決めてくれと言われたまさにその時、曲が「いつか王子様が」に変わり、「とりあえずこれで」と思ったそうです)。

 そして、表紙の下半分強を占める絵(長谷川利行「荒川風景」1939)を透かすように重ねられた帯には、こんなコピーが。

 一両編成の逃げ馬が、湿った闇の中を走り去る-。

 どうです。「一両編成」はまあ良いとして(なるほど、「王子駅で」は荒川線か!)、「逃げ馬」というのはどうしたものだろうということになりますよね。「逃げ馬」というからには競馬です。どうしたってツインターボとかサイレンススズカとかの姿が脳裏に浮かんでしまって、もう大変。路面電車とジャズと競馬が出てくる(かもしれない)小説?というわけで、さらに興味は増すばかり。僕のハートを鷲掴み。

 こうなると、もう読むしかないのですが、実際はどういうお話だったかというと、こんなお話。

 路面電車の走る町。「珈琲アリマス」と記された小さな居酒屋。
 隣で呑んでいた正吉さんは、手土産のカステラを置いたまま、
 いったい何処へ向かったのか? -荒川線沿線に根をおろした人々と
 あてどない借家人の<私>。その日々を、テンポイントら名馬の記憶、
 島村利正らの名品と縒りあわせて描き出す、滋味ゆたかな長篇。

 編集者の方がまとめたのであろう、この簡潔にして要を得た文章(帯の裏側の全文です。手抜きですみません)からもうかがえるのですが、この小説には一応筋らしきものがあります。謎のようなものも示されます。しかし、そういったものは実のところあまり重要ではありません。なぜなら、この作品の魅力を形作っているものは、そんな筋のようなものに沿って進んでいく日々の暮しの中での、特にどうといったこともないあれこれに対して、<私>が感じたり、考えたり、思い出したりするそのこと自体にあるのですから。そして、なかでも、自分の気に入っているものについて語るとき、この人の筆は冴えをみせます。

 たとえば荒川線について。自分が惹かれたのは「むやみと持ちあげられる下町の魅力だの郷愁だのではなく、ひたすらそのアトラクションとしての面白さに由来して」いると断わった上で、それについてより具体的に語るのですが、これがぐっと来るのですよ。

しかし荒川線の真骨頂は、庚申塚あたりから飛鳥山にかけて民家と接触せんばかりの、布団や毛布なんぞが遠慮なく干してある所有権の曖昧なフェンスに護られたながいホーム・ストレートにあり、運転席の背後に立ってこの直線を走るときの固いサスペンションを介して足裏に響いてくる心地よい振動と左右の揺れは乗合バスでも代替できるものの、横光利一ふうに言えば踏切を≪黙殺≫してトップスピードに乗り、火花が飛ぶほどのブレーキングで滝野川のシケインを抜けて、渋滞でないかぎり東北新幹線の高架下までの公道との併用軌道を相当な横Gを乗客に課しながら下っていくわずか一、二分の下り坂がもたらす原初の快楽を満喫できるのは、あの由緒正しい花屋敷のジェットコースターを除いてほかにない。飛鳥山での花見も忘れ、王子の狐をも恐れず、私はこのひと区間を何度往復したことだろう。

 この部分には本当に惹かれましたね。はじめは、<私>の思い入れの深さに引っぱられて、自分も乗ってみたくなり、実際に乗ってみると、今度は、自分も感じたその魅力を、このように表現できるというそのことに羨望を覚えました。本当に良い文章。愛に溢れていて。

 さて、ほかにも、黒電話に古米、そして自転車(「五段変則のバックミラーつき、しかも後部車輪のガードに玩具みたいなウインカーまでついている型」)などなど、<私>が思いを寄せているものはいくつも登場しますが、もちろんその中には小説も入っています。島村利正、徳田秋声、瀧井孝作、安岡章太郎。<私>の日々は、その時々に接した小説の作中の世界と現実の世界との行き来であると言えなくもなく、小説を読むということが(そしてそれについて考え思うことが)、とても自然なかたちで生活に含まれているのです。その結果、この小説は、あまり有名ではない作家や作品を紹介するという側面も持つこととなっていて、個人的にはずいぶん刺激を受けました(島村利正?といった調子で鴎外図書館に行くと、ちゃんと全集がありましたよ)。

 最後に、個人的な蛇足ですが、ひとこと。

 かつて山手線の西側に住んでいた頃、荒川区というと、東京のなかでもずいぶん外れの方というイメージでした。正確にどの辺りなのかということなど把握できているはずもなく(そもそも知ろうと考えたこともなく)、ただ何となく「荒川区というからには荒川沿いなんだろう」といった程度で(間違ってました!)。千駄木で暮すようになって、こういった認識はさすがに訂正されてはきましたが(何と言っても隣町の荒川区西日暮里にはほぼ毎日足を踏み入れてますから)、でも日暮里界隈を離れてしまえば依然として何も知らないも同然でした。現在、この小説を読み、この文章を書くための下見をしたことで、少なくとも地理的にはかなり正確に荒川区を把握しました。なかなか興味深いところのように思われます。かつての僕のような方には、荒川線の一日乗車券(400円)を買って、いちど出掛けてみることをお薦めします。

 あと、競馬の話はどうなったんだ、という方へ。それは読んでのお楽しみということで。ちなみにこの小説、初出は雑誌『書斎の競馬』。7章までで廃刊となったため、残りの8~11章は書下しということです。



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