角川春樹事務所 ほうろう価格800円
(今回はピンチヒッターで近所に住む小森くんに書いてもらいます)
今日もヒートアイランドは暑いぜ、と藪下通りを歩いて、団子坂から三崎坂へ。三崎坂の朝日湯につかりにいく。
朝日湯の男湯のかべにはふろ屋でのマナーについてのポスターがはってある。英語でも書いてあるのだから、ガイジンさんはパンツはいたままではいろうとするのだろうか。まさか。
関西より5度はあつい湯にはいる。ドバドバ水でうめるなんて愚行はしない。ここまで歩いてきたせいでかいた汗を、さらにかくためにサウナにもはいる。もう一度湯を浴びて、黒々した湯に足を入れる。薬湯が鼻につく。
そういえば、田村隆一のエッセイに谷中の風呂屋にはいるのがあったな、そこでも薬湯のことがかいてあったっけ、と思い、湯上がりに蒸し暑い中を古書ほうろうさんにいく。また汗をかいている。みぞおちのあたりに汗がたまる。
あったあった。「ぼくの憂き世風呂」という単行本に入っていたと思ったけれど、それはもう売れてほうろうさんにはなく、「スコッチと銭湯」という文庫本に入っていた。「谷中・菊の湯と吉本隆明」という題がそれだ。そのまま冷房のきいた店で立ち読む。短い文章だから、すぐ読める。
田村隆一はもともと巣鴨生まれ、1961年38歳から三-四年ほど谷中に住んだ。そのころのことを思いながら15年後の1980年、もういちど風呂にはいりに三崎坂へきたのだ。だらだらと坂をのぼりつめた先の菊の湯へ。
吉本隆明とふたり、田村隆一は三崎坂をのぼっていく。駄菓子屋さんでふがしを買ったりする。
R たしか初音町という名のいわれは、どこかの坊さんが鶯を「導入」しようと思って、関東の鶯だと、ナマリが強いから、京の鶯をわざわざ輸入したという記録を、どこかで読んだ記憶がある。たぶん、ホタル坂あたり、霊梅院の裏山にでも、京なまりのうぐいすを放したんじゃないかしら。
Y それで初音町。
R そうか、そうか。鶯谷という駅名のいわれもわかってきたぞ。
緩やかな坂が多い坂町とでもいえるここらあたりだけれど、ホタル坂というのはきいたことがなかった。霊梅院の裏あたりというから、地図で調べたら朝倉彫塑館のあたりだろうか。
二人はぶらぶらと菊の湯にはいる。からだを洗い、ヌル湯や、漱石が銭湯でバカヤローとどなった話を太宰が書いていたよ、そういえばわたしもバカヤローとどなったなぁ、銭湯の絵は原色に限るよ、湯気でちょうどよくなるから、などとひとしきり。
Y ぼくは尋常小学校三年生で、母に連れられて、女湯に入りました。いささか、恥ずかしかったという印象が、いまでも残っている。
R じゃ、あなたの方が精神的にも肉体的にも、ぼくなんかよりも、成長していたのですよ。ぼく、小学校の六年生まで、女湯に、スナオにつかっていましたもの。
いいなぁ。うらやましいぜ、隆一。ぼくは女湯にはいっていた記憶がない。小学生にあがるまでにはあったかもしれない。今でも入りたいと思うが女湯がゆるしてくれない。
そして、吉本隆明の詩のはなしなどになっていく。吉本隆明のはなしは他にもどこかでよんだような気が、とさがしてみたら「詩人のノート」(1976)所収の「どうしたんです?」という小文があった。今は「続・田村隆一詩集」(思潮社 現代詩文庫)に入っている。
戦後生まれの青年を相手に、ぼくが東京の坂の話をしていたら、車は団子坂をのぼっていて、ひょいと右側の町なみを眺めていたら、白いショートパンツにネービーブルーの短袖のシャツを着た中年男が白いビニールの草履をはいて片手にはバスケットを持ってそのバスケットがぼくの幼年時代のバスケットの思い出につながったものだから、ついついその持ち主の顔が見たくなって車窓から目をあげればそのバスケットの持主はまぎれもなく団子坂をヨロヨロと落ちてゆく吉本隆明の顔であった。
それにしても、田村隆一のかいたものを読むといつも感じるのだけれど、透徹した論理とそれにとまどっているジジイの同居。それがこの本にはもちろん、この短い文章のなかでも充分感じられる。惑いまくり。でも飄々。つまり、矛盾と正直がひとつのことばに宿るとでもいうのかしら。
「スコッチと銭湯」はアンソロジーで、酒のはなしが本全体の三分の二。銭湯の話が三分の一。田村隆一の酒の話もいい。というか、アル中だし。
新刊では1000円、ほうろうさんでは800円。買ってもいいと思うけど、ぼくは立ち読みですませました。
二人が入った菊の湯の薬湯は、実母散というらしい。川弓(センキュウ)、芍薬(シャクヤク)、当帰(トウキ)、サフラン、桂枝、甘草、茯苓、丁字、陳皮などがはいっているそう。田村隆一にいわせると、「汗がデッパナシ」になるそうだ。
ぼくはといえば、ほうろうさんのほどよい冷房のなか、立ち読みをしていたおかげで、汗がひいていたしだい。
(コモリ)
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