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古書ほうろうの 2002年01月の一冊
「野分酒場」 石和鷹 著 (福武文庫)
「野分酒場」  石和鷹 著 (福武文庫)

『野分』という妙な名前のその居酒屋は、団子坂下から谷中の墓地のほうへ向う三崎坂の通りを、何とかという寺の先で、右へ、つまり上野桜木方向へひょいと入りこんだ路地のごく目立たぬ一画にあって、『野分』と紺地に白く店名を染め抜いた暖簾をちゃんと出してはいるのだけれど、戦災をまぬがれた古い家屋や、商店や、マッチ箱を積みかさねたようなアパートなどがひしめいている中に、いかにもひっそりと息づいているといったふうで、通いなれたものでも、うかうかしているとつい通り過ぎてしまうことがある。

 以上のような書き出しで始まるこのおはなし、どうです? 読みたくなりませんか?

 さらに付け加えればこの居酒屋、<これから飲みに行く、というあらたまったかまえではなく、たとえば銭湯の帰りしな、濡れタオルを肩にしながらでも、「よう」と大きな顔をして入って行けるところ>で、<六、七人でいっぱいになるカギの手のカウンターと、その反対側の壁際に、チャブ台を二つ置いたこれも六、七人でぎゅう詰めの、縁側のような畳敷があるだけの小さなつくり>。酒の肴には<おでん、湯豆腐、いわしだんご、あたりめ、えいひれ、おひたし、自家製塩辛>といったものがあり、腹が減っていれば<ぞうすい、そばがき、すいとん、わんたん、焼うどん、焼おにぎり>なども供される。値段はもちろん格安。そして店を一人で切り盛りする女主人は<四十をちょっと越えたところ>、<いつも白い割烹着を着て、化粧っ気はこれっぽっちもないが><妙にふっくらとした魅力がある>。

 これらのことは最初の3ページほどにすべて書かれているのですが、もうそこまで読んだだけで、この飲み屋が自分にとって身近な店として感じられてきて、話の中にすっと入っていけます。

 物語は、この店の常連である30も半ばを過ぎたフリーの校正者(男)を語り手に、1980年代後半のある年の瀬から翌年の大晦日までの一年間を描いています。馴染み客たちの心を和ませる場所として、ある意味閉鎖的ではありながらも平穏な日々が過ぎていたこの店に、一人の男が現れ、そして…、といった内容。文庫本で60数ページの短篇で、読み始めればあっという間に読み終えてしまいますし、読んだからといって自分のなかの何かが変るということもありませんが、不思議な読後感があり、心に残ります。また、冒頭の文章をはじめとして、この界隈の様子がとても自然に描かれていることも重要な点です。店の場所と女主人や常連客の住居との位置関係なども、「さもありなん」といったふうで、そういったディテイルの確かさが話にリアリティを与えています。

 著者の石和鷹は1933年、埼玉県の生まれ。本名水城顕。大学時代から同人誌『新早稲田文学』などで、後藤明生や森内俊雄とともに文学を志し、卒業後は集英社に入社。1970年頃より『すばる』の編集長を勤め、本格的に作家としてデビューしたのは1985年のこと。1988年に発表した本作品により泉鏡花賞を受賞しています。1997年死去。ペンネームは、編集者としての彼を愛した深沢七郎が命名した「石和烏」と、やはり彼を信頼していた石川淳の作品『鷹』をくっつけたものだそうです。

 最後に。この本は『谷根千』50号「町が愛した50冊」でも取り上げられていますが、それによるとモデルとなるお店は実際にあったようです。今はもうないその店について僕が知っていることは何もありませんが、特にそれについて知る必要もないように思われます。なぜなら、今でもこの界隈にはたくさんの飲み屋があって、そこでは夜毎いくつもの物語が生まれていることを、ほんの少しだけですが知っていますから。この物語のなかの『野分』という店について思いを馳せるにはそれだけで充分なのです。

 この本は現在当店に在庫があります。福武文庫版で600円です(棚に並べるのは1月5日になります。文庫新入荷棚)。また本駒込図書館にも置いてあったので、少なくとも文京区の図書館でなら借りて読むことが可能です。僕の記憶に間違いがなければ福武文庫は消滅してしまっているので、新刊書店での入手は難しいかもしれません。

(宮地)

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