巻頭言アーカイブス

村岡花子と柳原白蓮、そして平塚らいてうのこと

谷根千で「青鞜」特集をしたのは1988年でした。平塚らいてうは私が卒業した誠之小学校、御茶の水女子大付属中学と高校の先輩に当たります。それで日本で最初に女性による、女性のための、女性雑誌「青鞜」をつくったこの人に、小学校の頃から関心をもっていました。20年後、私は同じ千駄木で、女性三人で地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊することになりました。
「谷根千」は「青鞜」と重なっています。らいてうの家は駒込曙町、創刊の事務所は千駄木林町の物集高見邸(もとの駒込電話局のブリリアのマンションの所)、次の事務所は万年山勝林寺(いまの日医大に降りる坂上の本郷通り沿い)。創刊号の表紙を書いたのは長沼智恵子で高村光太郎と結婚して千駄木林町(いまの保険所通り)に住み、社員の田村俊子がいたのは谷中天王寺町、遠藤清子の墓を青鞜社が建てたのは谷中了ごん院、賛助員の森鴎外夫人森しげや妹の小金井喜美子もこの町にすんでいました。終刊になったのは伊藤野枝の指ヶ谷町(現在の白山)の家です。これを特集し、昨年調べ直して「青鞜の冒険」(平凡社)を刊行しました。本書はこのたび第25回紫式部文学賞を受賞しました。

さて、NHKの朝の連ドラではこの間まで「花子とアン」をやっていました。この人たちもほぼ同時代を生きた人です。旅先でたまにしか見ませんでしたが、あまりにも史実と違うのに驚きました。ドラマの最期には「これはフィクションです」と出てきますが、「アンのゆりかご」という孫娘が書いた伝記、ノンフィクションを原作とし、村岡花子は実名で出てきます。「赤毛のアン」シリーズの翻訳家として知られる村岡花子は東洋英和女学校時代に、片山広子ほかさまざまな人と出会うのですが、ここでは柳原白蓮(ドラマでは蓮さま)との出会いだけをクローズアップしています。
白蓮は伯爵柳原前光の庶子で、大正天皇の従妹です。北小路資武に嫁がされ15歳で息子を産む。嫌で嫌でたまらない婚家を飛び出し、東洋英和にはいり直し、8歳下の村岡花子と出会うのです。白蓮の実の母は幕末の外国奉行で日米通商修好条約の批准にアメリカに向かった新見正興の遺児なのです。そして白蓮を産んで21歳でなくなった奥津りょうの墓は谷中にあります。
その後、九州の炭坑王伊藤伝右衛門と再婚させられ、銅御殿に住み筑紫の女王といわれながら、妻妾同居の生活に耐えかね、夫に新聞で離縁状を叩き付け、新人会の宮崎竜介のもとへ出奔。これを20代の私は「大正時代の自由恋愛の例」として肯定的に書きましたが、その後調べてそんな簡単なものではないと分かりました。事件は新人会の宮崎たちが資本家への攻撃につかったようですし、そのときの伝右衛門の「一切言及無用」の態度は立派です。夫伝右衛門への身分差別、学歴差別を抜きがたかった白蓮はのちに平民から皇太子妃が決まった時には憤激して阻止行動に出ています。ドラマでは個人主義を貫く白蓮を、戦争にいやいや協力する花子と対比させて描いていますが、白蓮の夫宮崎竜介はアジア解放のために日米戦争を推進しました。
一方の村岡花子もいやいやながら戦争に協力したわけではありません。進んで大東亜文学者大会、大政翼賛会に参加し要職を占めています。「女たちの戦争責任」(東京堂)によれば、村岡花子はこのように書いています。レッテルはりではなく、根源的な意味で彼女はファシスト(全体主義者)であり国家主義者です。いやいや協力ではなく戦争の旗ふりをしたのです。 「私は戦争の文化性を偉大なものとして見る。平時には忘れがちになつてゐる最高の道徳が戦争に依つて想起され、日常の行動の中に実現される」「母は国を作りつつある。大東亜戦争も突きつめて考へれば母の戦である。家庭こそは私どもの職場、この職場をとほしての翼賛こそ光栄ある使命である」
(村岡花子「母子抄」1942)

残念ながら、平塚らいてうも戦争協力者でした。「青鞜」の頃は年下の画家との同棲、法的結婚の無視、婚外子を産むなど、勇気ある行動をとった「新しい女」が、昭和に入ると、優生主義、天皇礼賛になだれていきます。「事変以来、行軍勇姿の心境に神を見、彼等が現人神にまします天皇陛下に帰命し奉ることによって、よく生死を超越し、容易なことでは到達し得ない宗教的絶対地に易々として入っていることにひどく感激」した」(『輝ク』)と書いています。 そして健全な人間は産児制限をしなくていいが、不健全な人間は優生手術を受けさせよという国民優生法を支持していきます。

しかしこれは戦時中になっての豹変とも思えません。彼女は最初から日露戦争や大逆事件など社会問題には関心をもたず、一方で禅の修行などのスピリチュアリズムに傾いていました。うちなる神を見る、と言う姿勢が、天皇帰依に赴いた内的必然性はもう少し研究しないと分かりません。また自伝を見ても、教養がない、田舎出の人への蔑視が感じられます。そもそも「青鞜」の最期のころ自分の妊娠に悩んだ時にも「まったく無自覚な無知な劣等な女から、しかも愛なき結合の中から生れ、そういう母の無責任な手によって育てられる今日の日本の多数の子どもに比較すれば、それは屹度より優れた、そしてより幸福なものに相違ない」と自分を励ましています。しかしこれは差別主義であり、優生思想そのもので、戦争期に引き継がれていったものとおもわれます。しかし平塚らいてうは戦時中には活躍の場を与えられず、早くに疎開し、自給自足の生活を送りました。
村岡花子は日米開戦まで10年、日中戦争時の子ども向けニュースのキャスターとして起用され人気がありました。女性は裏方とされることが多いため、表舞台に起用されるとむやみに張り切り必要以上に権力のお先棒をかついでいくようです。いまの女性大臣という人々の行動もどこか村岡花子と似通って見えます。
そして村岡花子も平塚らいてうも、市川房枝、久布白落実、羽仁もと子、その他の多くの人々も、戦争がおわると何らの反省もなく、民主主義婦人運動の先頭にかつがれていきました。戦争中はみんなそうだった。今さらほじくらなくても、ではすまされず、この歴史に学ばなければ同じ過ちを繰り返すことになります。私の母も戦争中はいっぱしの軍国少女だった、といいますが、巻き込まれた庶民と唱導した知識人の戦争責任は同じではありません。ファシズムを担った文学者が公共放送のヒロインになることはドイツならばあり得ず、同じくネオナチとツーショットをとった大臣が許されるはずはありません。それもこれも、戦争責任の追及の甘い日本の姿を露呈していると思わざるを得ません。少なくとも私は筆を持って立つ身として、自分への戒めとして、ここに書いておきたいと思います。

2014年10月   森 まゆみ