巻頭言アーカイブス

秋風も少々、根津のアパートの物干しにトンボが来ました。

9/6(金)に放送していたTV「和風総本家」。放送日よりだいぶ前に電話があり、取材をした方々から「“谷根千”は雑誌から発祥した名前」と教えられ、ついては創刊号と終刊号の写真を撮って番組でも紹介したいので貸してほしいとのこと。品切れは貸すが、在庫のあるのは買って欲しいと古書ほうろうを紹介しました。しかし結局、放送日前日に「時間がないので雑誌のことはすべてカットになりました」という電話。なんだかなぁ。

さかのぼって7月、法政大学国際文化部の企画で「いま宮沢芳重を考える」というシンポジウム。
信州飯田・下伊那出身の芳重(よしじゅう)さん(1898~1970)は、根津小学校近くの路地に住み、ニコヨン(失業対策事業の労務者)として湯島近辺の公園掃除などをしながら、郷土に郷立大学をつくるべく、収入のほとんどすべてを郷里に送った人でした。水道やトイレは根津神社を使い、食事は上海楼の残飯をもらい、日医大の看護学生のいらなくなった文房具を使ったといいます。(詳細は「谷根千」41号)。
今回のシンポは、志半ばで亡くなった芳重さんの思想や行為の再認識でした。

夏の終わりに谷中3丁目よみせ通沿いの「のこぎり屋根」解体の報。
この工場は明治43年、日暮里渡辺町などの文化住宅地開発を行った渡辺治右衛門の四男である四郎氏がフランスに赴き、「東洋一のリボン工場をつくる」という理想のもとに建てたもの。北側の自然採光を生かした三角屋根がのこぎり状に並ぶ典型的な近代織物工場です。「千代田リボン製織」としてソフト帽や水兵の帽子のリボンを、糸から織り、染色し、販売したといいます。昭和20年の空襲で罹災、煙突が折れましたが、残った工場は以降、創業60年になる旭プロセス製版により大切に使われていました。
明治・大正のよみせ通りは谷田川(藍染川)が流れ、川沿いに多くの織物や染物工場がありました。千代田リボンと並んで、日暮里・谷中辺にはネクタイ工場も多く、ここは日本の基幹産業を支えた織物の町としての顔もありました。この5連ののこぎり屋根は、なじんだ風景という価値のほかに、歴史を伝える貴重な産業遺産でもあります。2010年に「月刊のこぎり屋根準備サイト」を開設したのは、この風景をなくしたくなかったからでした。http://nokoyane.com/
そして希望はわずかにつながりました。
無理を承知でお願いした部材の一部保存が聞き入れられました。のこぎり屋根工場の構造のわかる骨組み、北側の窓を保存し、藍染川沿いで活用しようと前に一歩進みました。今後の成り行きを、ぜひ見守り、そしてご協力ください。

芸工展、菊まつり、安田邸の重陽の節句ももうすぐです。記憶の蔵のD坂シネマは10/5,6,7。見せたいフィルムを物色中です。Mは森まゆみ学級を開講。仰木ひろみは旧安田邸の二代目支配人に就任。ばらばらだけど、生きてます。旧安田邸では助っ人を大募集中。ボランティア登録してОに会いに来てください。

(やまさき)