巻頭言アーカイブス

イヤー、猛暑ですね。

このたびわたくし、『青鞜の冒険』(平凡社)を上梓しました。これは1991年の谷根千奮闘記『谷根千の冒険』(ちくま文庫・絶版)につづくもので、明治44年、谷根千より70年前にこの千駄木の地、駒込林町9番地で創刊された『青鞜』の、雑誌として、地域史としての側面を追ったものです。
主催者平塚らいてうは駒込曙町に育ち、誠之小学校からお茶の水の女高師付属高等女学校へすすみます。日本女子大学を卒業後、結婚よりもっと勉強したいと英語を学んだり、日暮里両忘庵に通って禅の修行をしたり、そして夏目漱石の弟子森田草平と雪の塩原心中未遂事件を起こして世のバッシングを受けるも、いっこうに気にせず、26歳で雑誌創刊を果たすのです。
その仲間田村俊子は谷中天王寺町にいた。尾竹紅吉は根岸にいた。発行を勧めた生田長江は根津須賀町にいた。発禁になって駒込蓬莱町万年山勝林寺に事務所を移した。さらに事務所は巣鴨に移り、その周辺には家を出て年下の画家奥村博史と暮らすらいてう、辻潤と伊藤野枝、翻訳をのせた野上弥生子、岩野泡鳴・清子夫妻もいました。同人の安田皐月は白山薬師坂に果物屋を開き、らいてうからバトンタッチした伊藤野枝によって『青鞜』は指ヶ谷町92で廃刊となりました。いかに『青鞜』は谷根千と深い関わりを持っていたことでしょう。

さて、そのらいてう、少女の頃、『富士山の帰依者』であって富士山に関するあらゆる資料や絵や写真を集め、登山しようと思ったそうです。それを父親に「女子供の行くところじゃない」とあわれむように否定され、父への反抗が芽生えたと言います。富士山が世界遺産になったのは中曽根康弘氏を会長とする『国民会議』などのおかげでなく、こういう昔からの富士帰依者や信仰のおかげなのです。その地域からの景色がすでに失われようとしています。
さいごに1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約にあたって、平塚らいてうが『再軍備反対婦人委員会』代表として書いた声明を引用します。「世界を暴力のない一つの法治社会とする事こそ敗戦によって私共があがないえた一大理想であったのであります。今この条文に違反し再び軍備を強行する事は新しい日本の理想の喪失を意味し国民に生きる目標を失わせる事だと思います」
憲法9条は「再び自分の夫や息子を戦争に送らせません」という日本国民の決意であるとともに、「再び武力をもってあなた方を脅かしたり傷つけたりはしません」というアジアの人々への謝罪でもあったのです。自民党とその同調する勢力が参院でも多数を占めることによって、その誓いが失われることを私は心から憂慮します。

(森まゆみ)