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明治の避病院 − 駒込病院医局日誌抄 / 東京市営最初の総合病院 築地施療病院の生涯
明治の避病院 − 駒込病院医局日誌抄 / 東京市営最初の総合病院 築地施療病院の生涯
明治の避病院 − 駒込病院医局日誌抄
磯貝 元 編
思文閣出版 本体13,000円 515頁 1999.5.10発行 ISBN4-7842-0998-0

東京市営最初の総合病院 築地施療病院の生涯
磯貝 元
楽友舎 本体1,300円 189頁 2003.8.9発行 ISBN4-906472-68-0

この2冊はぜひとも一緒に紹介したい。

いまある東京都立駒込病院は癌と感染症を中心に診る総合病院で、明治12年に東京府が臨時の「避病院」として徳川時代の御鷹匠の屋敷跡に病院をつくったのに始まる。当時東京市内にはコレラが蔓延し、その患者を隔離する場所としたが、この時の病舎はコレラの終息後に取り壊され、その後も伝染病が流行すると病舎をつくっては取り壊したという。常設の隔離病院になったのは、明治30年3月の「伝染病予防法」制定前の1月に新改築されてからだった。

「谷根千」4号で、千駄木3丁目にいらした岸むめさん(故人、明治22年生まれ)に、「大正荷馬車のころ」と題してお話をうかがった。その時に見せていただいた写真を、“避病院建設反対運動成功!不忍通り で記念撮影”とキャプションをつけて掲載したが、駒込病院は不忍通り 沿いの今のNTTのところに建設の予定であったらしい。明治の頃とはいえ、こうした隔離病院の常設には、地域との軋轢が相当あっただろうと想像できる。

また、「谷根千」35号に書いた「駒込ピペット」を開発した二木(ふたき)謙三氏の名が、日誌に頻繁に登場する。駒込病院の5代目院長であったから当然だが、そこには二木氏の研究熱心な、そして若い医師から慕われる人柄も見えてくる。

「明治の避病院」は、副題のとおり明治32年から42年までの、駒込病院の医師が当直時に記した日誌が記されている。それは公務の日誌ではあるけれど、それは淡々としたなかに若い医師たちの血が通う。
明治三十四年六月二十五日 曇天
夜九時頃、赤痢患者一名あり
二十六日午前七時頃、赤痢患者○野○弥、病勢頓に増劇し、回生の術意に叶はず、
怱焉として黄泉の客となる、家族の愁歎それ幾何ぞ
同じく七時過ぎ、三舎の◯木某、腸出血すること約四、五十瓦

コレラや赤痢との苦闘、患者が亡くなった時の落胆、医局員の祝い事の晴れがましい様子、来院者からの菓子の差し入れのことなど…
ちょうど日露戦争の始まるころで、世情の不安や町の様子なども読み取れる。
なかでも、本所病院に隔離されたペスト患者の治療にあたった駒込病院の横田利三郎医学士が感染し、死亡した当時の記述は息をのむ。東京でペスト菌を持つネズミが発見されたのは明治三十四年だった。
明治三十五年十二月三十一日
一夜の辛目と云う大厄日、明けましてはお芽出度と云ふ喜びをうむ日と思へば、
人も我も心せかるる事のみ多かりき、まして今年の如き世の不景気なる折りの事のみ、
ひまなるべき病院も多数の患者で人の悲しむ本領仁者気取りをせねばならぬ上に、
ペストなど云ふおそろしき病のある事とて、日頃和気洋々たるべき病院も何となく物憂く思はれき
芽出度たかるべき春をも迎はで入院する不幸者は[T]一名[D]一名、
然も[D]◯時十分に入院、そをもてる親の心ぞ如何なるべき

明治三十六年一月十四日
午後七時、大瀧・鈴木・杉本三氏帰院、報じて曰く、午後三時横田君心臓衰弱の為死去せらると、
嗚呼悲しいかな、温厚性(誠)実、学篤、上には誠、下には愛、
此の如き君子再び得べからず、駒込の不幸これより大なるはなし、院内上下寂然たり

明治の日誌が貴重な資料であることは当然だが、この本に感動するの理由はもう一つ、日誌に脚注という形で書かれた編者の解説である。医学用語の解説だけでなく、その当時の町の様子、物の値段、世情、風俗、人の説明が丁寧になされ、資料を飽くことのない本にしてくれる。この解説がなかったら、こんなにドキドキしながら読むことはなかったかも知れない。

ペストに罹り、30歳の若さで殉死した横田医師の葬儀は谷中斎場で行われた。この葬儀の日、明治36年1月20日から書きはじめたのが、「東京市営最初の総合病院 築地施療病院の生涯」である。

東京市立築地施療病院は海軍軍医学校の隣地に、明治四十四年三月二十八日に開院した。本にある病院規則を引くと
「第一条、本院は東京市民にして医薬を得る資力なき傷病者を施療する所とす。
第二条、患者は入院、外来の二種とし学術研究の用に供することあるべし。」
とある。
関東大震災後は施療病院から、ほかの市立病院と同じ一般病院にかわり築地病院と改称したが、その内容は海軍軍医学校の教育機関として、軍医生の臨床実習の場であったという。昭和20年、日本敗戦、軍隊の消滅と一緒に築地病院の業務は停止され、建物は米軍に接収されている。

この本を書くことになったきっかけを、著者はあとがきに「『海軍軍医学校と築地病院』なる一文との出会いであった」と書いている。当時海軍軍医学校長であった本多忠夫軍医総監と、東京大学医科大学を卒業した若手代議士の山根正次の親交が、病院設立の大きな原動力であった。一部にフィクションを織りまぜながら、施療病院の歴史が文献を駆使し史実に則って書かれいる。病院設立・運営にまつわる、当時の海軍、行政官僚、代議士による予算や人事の駆け引きも興味深い。

巻末の[主要事項概略]と[登場人物略伝]に、全体の3分の1のページが割かれているが、項目には谷根千に深く関わる事や人も多かった。
2004年2月6日(金曜日)公開
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こんにちは22004年11月18日(木) 21時41分
すみません。駒込と築地を混同していました。昭和19年当時、 駒込病院は「東京市立駒込病院」だったのですね。 その当時、駒込病院で出産するということは、 特に珍しいことではなかったのでしょうか・・・
こんにちは2004年11月18日(木) 21時23分
私の父親は駒込病院で産まれたとのことです(昭和19年8月)が、 その当時の旧築地施療病院には、産科もあったのでしょうか。 気になります。そんな時代に病院で産んでいるのもどういう経緯か わかりません。結婚できない間柄だったようで、未だに...
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