パリ − プテイットマノワ−ル 60点
隠れ家みたいなプチホテルとすすめられた。これで8000円なら、気の置けないいい宿でしょう。でも23800円です。部屋は狭い。天井は低い。隣の声は聞こえる。夜中中、トイレを流す音がごおっとひびく。島崎藤村になってヤスやドにいる気分。シャンプーも石鹸も安物なので、ライプテイッヒのホテルのをつかった。たぶんこんなこともあるだろうと思って貰ってきたスリッパもやくにたつ。
それにしてもパリやローマの宿はぼりすぎ。ユーロになって、ものすごい便乗値上げ。それはホテルだけでなく、給料はあがらないのに食料品や服も2倍ちかくなり市民はたいへんらしい。
せっかくドイツ語に慣れたのに、また帰りにパリによるのは愚かしかった。資料で重くなったトランクを引きずり、シャルルドゴール空港からまたパリ市内まで時間がかかる。全く誰がそんなばかなことを、とじぶんをのろって。ホテルの場所がいいのはたすかった。空港からRERの電車で一本。北駅からあるいて7ふん。
でもこのさいごの2日、怪我の功名でおもしろかったのでした。
ついたひはパッサージュめぐり。日本人街、インド人アラブ人ギリシャ人、肌のいろんな色のひとのいる下町めぐり。
次の日はペールラシェーズ墓地。ピアフャイブモンタン、バルザック、ヴェルレーヌ、
アポリネールやちかいところではブローデル。おお地中海。
半日見て回ってたら、ある区画でどきっ。
1870年のパリコミュ−ンで戦ったひとの墓。ナチスとたたかったレジスタンスの人たちの墓。ポ−ルエリュアールの墓。そしてなんと、収容所でなくなったひとびとの墓。ラーベンスブリュック女子収容所でなくなったひとたちの慰霊碑もありましたーーーー。
考えてみたらこの場所はパリコミューンの激戦地、ここで闘士たちはおおく銃殺されたのでした。自由のために戦った人たちの歴史の現場で、しかも収容所の慰霊碑の前で、この旅を終えるということもまた、偶然であり、必然であるような気がして、いつまでもここをはなれがたく立っていました。
このたびを有意義なものにしてくれたすべてのかたたちに感謝します。8、30、2004
森まゆみ
2004年10月18日(月曜日)公開
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