地域雑誌「谷中 根津 千駄木」9号 / 1986年9月20日(土曜日)発行  250円
高村家の人々 - 高村光太郎・智恵子
9号 高村家の人々 - 高村光太郎・智恵子 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」其の九

表紙

丸善工場の女工達

「それでも善い方なのよ
傘貸してくれる工場なんか外にない事よ」
番傘の相合傘の若い女工の四五人連れ
午後五時の夕立の中を
足つま立って尻はしよりしをらしく
千駄木の静かな通を帰ってゆく
ああすれちがつた今の女工達
丸善インキ工場の女工達
君たちは素直だな
さびしさうで賑やかで
つつましさうで快活だ
いろんな心配事がありさうで
又いろんな夢で一ぱいさうだ
想像もつかない面白可笑しい夢でね
有り余る青春に
ぱっと花開いた君達だ
君たち自身で悟るには勿体ないほどのだ酣酔だ
八百屋から帰って来る
こののつぽのをぢさんを
君達の一人は見て笑つたね
をぢさんはその笑が好きなんだ
いはれも無く可笑しい笑みを
ああ何といふ長い間私は忘れてゐた事ぞ

丸善の番傘の中に一かたまり
若い小さな女工達は
雨のしぶきに濡れながらいそいそと
道をひろがつて帰つてゆく
どうやら通り雨らしい土砂降の雨あし
ふと耳にした女工の言葉に
不思議な世界は展開する
さびしいが又たのしい世界
遠いやうで又近いやうな世界だ
何処かでもうがちやがちやが啼き出した


エッチング──千駄木・大給坂  棚谷勲
詩──「丸善工場の女工達」(大正九年)高村光太郎
●邸町林町には珍しい丸善のインキ工場は、戦前まで大給坂を登った左側にあった。


其の9 1986.09.20
高村光太郎・智恵子特集(36p)
表紙/棚谷勲「大給坂」
弥生・くらやみ坂−スケッチ/鹿野琢見

p1
目次
高村家の人々−光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此処に住みにき
 仏師、光雲
 谷中の家は道路のまん中
 智恵子の谷中付近
 林町155番地
 25番地のアトリエ
 荒涼たる帰宅
この街にこんな人(千駄木)−光太郎研究家・北川太一さん
ご近所調査報告−谷中の山車はナゼ越生に行ったのか
根津小学校創立90年によせて−12,339人の卒業生へ
ギャラリー−谷根千路上観察
谷根千ちず
町の小さな博物館−江戸の時を刻む町−大名時計博物館
鴎外補遺−色部義明氏に聞く
谷中・永久寺−剪画・文/石田良介
団子坂補遺
 D坂の殺人事件を推理する
 フロへはいる散歩−見晴しの湯資料
 記憶の団子坂周辺
 訂正とお詫び
ひろみの一日入門6−ウェルカムトゥーサワノヤ−谷中「澤の屋」旅館
情報トピックス
おたより
谷中の赤とんぼ−野沢延行
編集後記
お知らせ
文化ガイド



2p−13p

特集/高村家の人々
光太郎智惠子はたぐひなき夢をきづきてむかし此処に住みにき

智恵子生誕百年、
光太郎没後三十年、
「人間が人間であること」を欲して
あくまで欲情に流されず
妥協をせず、
貧を好み、
二人の男女が都会に蟄居したのは、
まさに千駄木の岡、林町であったのだ
安易な愛と別れ、思考停止、中流幻想
管理社会に嘘と偽物が跋扈する今、
狂気をかけてまで人と人とが向い合う
この壮絶な愛の実験は
私たちの励ましにならないか。



仏師光雲

父の顔を粘土にてつくれば
かはたれ時の窓の下に
父の顔の暗くさびしきや  (父の顔)
《高村光太郎の父光雲は嘉永五年、下谷北清島町に生れた。幼名光蔵、本名中島幸吉。生れつき器用で、大工にされるはずが、偶然に、蔵前の彫物師高村東雲の弟子となる。
 下谷西町の九尺二間の長屋で一本立ち。この家で明治十六年、光太郎は生れ、練塀小学校に通う》
「父光雲は一個の、徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であった。いわゆる木彫師であった」(父との関係)
《光雲の技芸を最初に認めたのは、千駄木世尊院の住職だという。光雲が十五〜六歳の頃、いたずらに彫ったネズミを本物と見間違え、感心して一分銀で買いうけた。
 明治維新後、廃仏毀釈の波で木彫仏像の注文がないなか、全盛の輸出用象牙に走らず、木彫に固執した光雲を明治二十二年、岡倉天心が美校に迎える》
「あの頃は町の職人連が急に美校の教授になったんだから、生活習慣も、言葉遣いも、岡倉先生たち美校の監督する側は大変だったようだ」(平塚春造さん)
「着慣れないワイシャツの咽喉のボタンにカラーの孔がはまらないので、かんしゃくを起こしながら、まっかになって父が苦心しているのを、子供の私ははらはらしながらよく見ていた」(父との関係)
《光雲は教授になった翌年、低地の西町から、美校にほど近い高台の谷中に移り、二十五年、長女さくの死に会い、娘の思い出の残る谷中を離れ、千駄木林町に移る》
「光雲さんは長いひげにステッキついて、『駒さんいるかい』とやってきた。私の父平塚駒次郎は、岡崎雪声(鋳金家)の助手の形で芸大の技官をしていたが、岡崎さんは理論家のようではあったが、実技のほうは親父が頼られていたようだ。
 光雲さんの利口な点はのちの楠公銅像でも自分は首だけ、武者装束は山田鬼斎、馬は後藤貞行とその道の名人に任せたことだろう。後藤は陸軍馬政局の役人 で、この馬を研究するため奥州三春にいった競馬ファンであの馬のファンがいますよ』という話もあるが、あの馬はどうもバタくさいから、奥州じゃなくて欧州 でアラビア馬でも研究したんじゃないか。競馬ファンであの馬のファンがいますよ」(平塚春造さん)
「私の実家は萩原という大工で、林町の光雲先生のはす前の角にいたの。あちらはお屋敷だけど、光雲さんはとても気さくな方で、白いおひげでニコニコして た。中背で太って貫禄があって、おこしを高々巻いて高ぼうきでお庭をお掃除していると、まるで高砂の翁みたい。奥さまも、媼のようにやせて上品な方。
 光雲さんが善光寺のお仁王様を彫ってそれを運ぶ前に庭で組み立てて、私と妹に見せて下さったわ。門を入った石畳の上だった。お正月は金モールの帽子をか むり、勲章をつけて人力で宮中に行かれるの。『おじいちゃん、行ってらっしゃい』『行ってくるからね』って。宮中からいただいた打菓子も分けて下さっ た」(中小路静いさん)


谷中の家は道路のまん中

 高村家が明治二十三年四月から二十五年九月まで住んでいた谷中の家を探す。谷中町の37番地。光太郎のエッセイ、「谷中の家」に「茶屋町の裏通り」とあ るので三崎坂を上る。仲良し友達は「車屋の友ちゃん、花屋の金ちゃん、芋屋の勝ちゃん、隣のお梅ちゃん」とあったのを思い出し、観智院隣の「花定」に寄 る。
「うちは明治十年くらいだから店は百年経ってるわね。私の舅が粕屋金蔵といって明治十五年生れですけどね、日暮里小学校ですよ」と奥さん。光太郎は十六年 の早生まれなら同級のはず、その方が?金ちゃん?に違いない。とても活発な性格で、日露戦争で働き金鵄勲章を貰ったという。
 さらに?芋屋の勝ちゃん?を訪ねると、菊の湯の並びに、戦前老夫婦がやる「焼勝」という芋屋があったという。今そこは人が変わっているが建物は古い。光太郎は後年までさつま芋が大好きで、芋を食べると子供時代を思い出す、と話している。(北川太一・光太郎資料)
 あとは?車屋の友ちゃん?だ。寿し万のおじさんが親切に改正前のこの辺りの地図を書いてくれる。昔の路地を斜めにぶった切って、昭和七〜八年に改正道路を通したので、往時の面影はない。
「他しか柴田って人力車夫の溜りがあったと思うよ。そこの人が養泉寺の中に住んでいるはずだが」
 尋ねていくと久保さん(M34生)が、
「父は柴田栄吉といい、たしかに茶屋町の裏通りで人力車屋をやってました。でも家に友ちゃんという名の人はいないと思うな。でも人力車屋はほかにないし」
 ほかに「父森政(通称磯次郎)は明治十六年生れ、日暮里小に通い光太郎さんとよく遊んだようです。生前光ちゃん(光太郎=みつたろう、が本名)の話はよく聞かされましたし、『あいつは偉くなっちゃって』といっていた」(江川花店、江川政太郎さん)
 なにぶん百年も前の話しだし、光太郎と同年輩の方が生きていれば百三歳だ。
「平櫛田中さんなら、この前までいらしたから皆な印象深いけど」(寿し万さん)
 現地はどこか突きとめたい。「谷中の家」のほか「姉のことなど」には「大きな石屋さん(群鶴さん)やお寺や人力車の宿などに囲まれている静かなところで あった」と書かれ、光雲懐古談には「五重塔の方へ行こうとする通りに大きな石屋があるが、その横丁を曲がって石屋の地尻で、門構えの家」とある。これらを 手がかりに聞き込みをつづけ、喫茶川しまの裏の金子歯科医院にたどりつく。奥さまの話。
「私がここに嫁いだのが昭和5年ですが、義父の話だと、たしかにここに有名な石屋があって、道が改正になる前は真四角な地所でした。前は長屋で隣の山本さ んの井戸のあとがあのマンホール、もう一軒あってその先に門構えの古い古い家があって美校に通う兄弟が住んでたけど、そこじゃないのかしら」それだ、きっ と。
 その場所はね、と指さして下さったのはなんと道路のまん中。その隣は総持院の門だったという。裏が寺で「庭はまたお寺の地所十四、五坪を取り入れてなかなか広く」(光雲懐古談)とも一致する。
 前の仲御徒町の家が低地で、密集し、湿気が多く水が悪いので移転を考えた光雲に、この谷中の家を見つけてきたのは、その父中島兼松である。ここなら「学 校(光雲の勤め先美校)に三丁位、土地が高燥で、いたって閑静で、第一水がよい。いかにも彫刻家の住居らしい所」だと、光雲はすっかり気に入った。下谷の 料亭、伊予紋の持家(露伴などがよく遊んだ店。のち光太郎の結婚式が上野精養軒で行われたとき洋食嫌いの母のために伊予紋から懐石膳を取り寄せたのもこの 縁か)で家賃四円、ほかに庭の部分のお寺に納める地代五十銭。間取りは「二、六、六、四・五と八畳の南向きの仕事場」。どうも尋常の家ではないと調べる と、以前は光雲らと対抗した谷中派の牙彫り師鵜沢柳月の住まいであったという。
 この家から光太郎は日暮里小へ通い、谷中墓地で遊んだ。最近日暮里小は創立百周年を迎え、上の門を入って右側に光太郎の「正直親切」の碑を建てた。七十周年に光太郎を招いたときの「病気欠礼」の葉書も残っている。明治二十四年七月、下谷小学校に光太郎は移っている。
 谷中墓地については「墓地は忽ち私の遊び場になり、墓地の中のことにはすっかり精通してしまった。……谷中の墓地もその頃はまだ自然の趣がそのまま残っ ていて、遠くから見ると大きな森のようであった。私の自然に対する愛情は全くこの墓地の中で育てられたといってよいのである」(子供の頃)と述べている。
 この頃は七歳年上の姉さんが生きていた。彼女は利発で、絵がうまく、光雲もかわいがっていた。竹町の狩野寿信について絵を学び、日の暮れる頃、「松や杉 の大木の亭々と聳えていた上野の森を抜けて」帰ってくる。光太郎が怖くないかと聞くと「観音様がついていて下さる」ときっぱりいうので尊敬したという。
 この姉が二十五年の九月九日に死んだ。
「丁度日暮里の諏訪神社の大祭で、私も鈴襷をかけ、万燈をかついで街をかけ回っていた頃から姉さくは病気にな」っていけなくなった。この姉は親思いでもあり、光雲の無事息災を祈って総持院の不動様に願をかけていたという。総持院の林田住職にお聞きすると、
「初めて聞きました。谷中の不動は大山の不動と同木同作です。大山を開くとき、良弁という僧正が三十七日山にこもり断食して祈念すると、山腹に明王が出現 した。それを拝して霊木でお姿を刻んだのを、大久保彦左衛門の兄忠世がゆずりうけ、戦場に持参して数々の功をたてた。この人は家康の入府に従い神田寺町に 総持院を草創、それが慶安年間に谷中に移りました。江戸時代から参詣者が多く、戦前は二十七日の縁日に夜店も出て賑やかだったものです」
 光雲はこのころ、今の上野の国立博物館表慶館にある「猿」の像を彫っていたが、さくの死に力を落とし、林町一五五の家に移る。
 姉の遺品を「見ていると、私を大綿小綿の虫の飛んでいた谷中時代にかえしてくれるし、また自分の仕事への情熱を新たにしてくれる」(姉のこと)。
 谷中の家は光太郎の自然観を養うとともに、愛し尊敬する姉の思い出を残した。



囲み
谷中の家   高村光太郎
 明治二十四、五年頃の話である。
 美術学校の裏門から北へ細い小路を抜けると、道が急に広くなって大きな谷中天王寺の墓地に向ひ、やがて墓地を両断して五重塔の前を通り、天王寺の門で終 る。墓地の入口には二三軒の立派なお茶屋風の墓地案内所があつた。その墓地の手前左側に茶屋町といふ通があつて駒込団子坂の方に行ける。その茶屋町の裏通 りにあたる狭い短い鍵なりの小路が谷中町といつてほんの十五六軒の小さな家のある町であつた。石塔をつくる角の石屋と人力車夫の溜との間を左に曲がると、 右側には九尺二間の長屋がつづき、左側にはそれでも門などのある平屋が三四軒立ってゐた。そのとつつきの小さな門のある家が当時父の借りてゐた家であつ た。家主は下谷の料理屋伊予紋であった。
 家は古風な作りで、表に狐格子の出窓などがあつた。裏は南に面して広い庭があり、すぐ石屋の石置場につづき、その前には総持院といふ小さな不動様のお寺 があり、年寄りの法印さまが一人で本尊を守つてゐた。父の家の門柱には隷書で「神仏人像彫刻師一東斎光雲」と書いた木札が物寂びて懸けられてゐたが、此は 朝かけて夕方とり外すのが例であつた。
 私の少年時代の二三年は此処で過された。私は花見寺の上の諏訪神社の前にあつた日暮里小学校に通つてゐた。車屋の友ちやん、花屋の金ちやん、芋屋の勝ち やん、隣の梅ちやん、さういふ遊び仲間と一緒にあの界隈を遊びまはつた。おとなしい時は通りの空どぶへ踏台を入れて隣の梅ちゃんなどとまま事をしたり、石 置場でゴミ隠し、かくれんぼをしたりした。男の子が集まると多く谷中の墓地へ押し出して鬼ごつごいくさごつごをやつた。墓地には春夏秋冬草木の花が絶えず 咲き、土手の雑草数知れず、秋になると五重塔道の金木犀銀木犀がやはらかに匂つてゐた。天王寺の庭の池には、鵞鳥が居てそれによく追ひかけられた。
 諏訪さまの見晴しも好きであつたが、それよりも諏訪さまの裏から山つづきで飛鳥山に通ずる小径を行つて道灌山の見晴しに出るのが尚ほ好きであつた。道灌 山の下は一面の水田で遠く筑波山が霞んで見え、春はげんげ草が他面に紅く咲いた。見渡すかぎり何もなく唯焼場の煙突が一本立つてゐた。崖の直下に飛鳥山の 下から来る音無川が流れ、河に沿つて一条の往還が王子から根岸お行の松の方へ通つてゐた。百姓の車がいつでも往来し、ちょうど見晴しの下の処に掛茶屋が一 軒あつて其処に噴き井戸が湧きあふれ、玉子井戸といつて皆がその水をのんだ。卵の味がするのである。或る春の夕方見てゐると一人の郵便脚夫が青い田の畦を 四角にぐるぐる駆けて廻り、いつまでたつても同じ畦を廻つてゐるので気味わるくそつと掛茶屋の人に教へたら其処の婆さんが出て行つて郵便屋さんの肩を平手 で叩いた。郵便屋さんははつと気がついた様子で顔を撫でて川下の方へ駆けて行つた。
 その頃は天王寺の墓地にも上野の森にも松や杉の巨木が亭々と聳え、同じ高さに並んで壁のやうに空を割つてゐた。その森の高く天につづく辺りに、夕暮になると幾万羽といふ鴉の群れが飛びかひ、夜はまつたく怖いお化の世界であつた。
(初出・昭和14年11月「新風土」)



智恵子の谷中付近
  僕はあなたをおもふたびに
  一ばんぢかに永遠を感じる
  僕があり、あなたがある
  自分はこれに尽きている
            (僕等)
《長沼智恵子は福島県二本松の酒問屋の長女として、光太郎より三年遅い明治十九年に生れる。女学校の成績もよく、両親を説得し三十七年、当時の女性としては最高学府の日本女子大学に入る》
「とにかくこのひとの打ち込む球は、まったく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれに飛んでくるので悩まされました。あんな内気ひと?ま るで骨なしの人形のようなおとなしいしずかなひとのどこからあれほどの力がでるものなのか、それがわたくしには不思議なのでした」(女子大テニス仲間 平 塚らいてう)
《そのころ智恵子は、自転車、テニス、油絵などに取り組む。だが外見は無口、話す時は含み声になり、恥ずかしそうに一人離れて考えることが多かった。
 智恵子は卒業後も女子大楓寮に残り、明治四十二年ころから大平洋洋画研究所で絵の勉強を続ける。この研究所は明治三十七年創立、最初は谷中清水町にあったが、採光が悪いため、翌年真島町一番地に移る。
 研究所では中村不折、満谷国四郎、石井柏亭、小杉未醒が教え、鶴田吾郎、中原悌二郎、中村つね、新関自黎、宮崎与平、大久保作次郎、小島善太郎、水木仲一、川口軌外、保田龍門などが学んでいた》
「背は低かったが、丸顔で色が白く華奢な体に無口で誰とも親しまず、唯人体描写を静かに続けていた。その画架の間からのぞかせた着物の裾があだっぽく目に つくといった女性的魅力を与え乍らも、ひとたび彼女のそうした気風に触れると誰としても話しかける訳にはいかなかった」(小島善次郎画伯の回想)
《孤高の美女智恵子にも、青年画家宮崎与兵や中村つねとのロマンスが噂された。二人とも夭折したが、智恵子が従来の「醇風美俗」をものともせず、若い異性の画家のアトリエや下宿を尋ねたりしていたのは確かである。
 このころ楓寮が壊され、四十三年三月智恵子は本郷区駒込動坂一〇九番地の日本画家夏目利政方に移る》
「夏目さんは戦前まではいたけれど、もういません。日本画家としては偉い方のようでした」(本駒込の池野さん)
《現地は駒込病院の横を入って天祖神社の前あたり。四十四年には妹と一緒に住むために雑司ヶ谷に移る。わずかの間だが、出会う前の二人が歩いて十分ほどのところに住んでいるのは奇縁だ》
「青鞜社事務所は物集氏宅に同居す。
     (略)
一、雑誌の表紙、長沼さんに頼むこと」
(青鞜社事務日誌)

《四十四年九月「青鞜」が創刊。その表紙絵を智恵子が描いた。事務所は林町の物集高見方(現NTT駒込電話局)。智恵子も「新しい女」の一人として噂された》


林町一五五番地
 「新緑の葉の重なり繁った駒込の藁葺きの小さな家に、蚊遣りの煙の中で薄茶色に止めついた石油燈の下で一語一語心の底から出た言葉を書きつけている父の顔がありありと眼に見えた」
《光太郎の巴里からの「出さずにしまった手紙の一束」の一節である。光雲は明治二十五年駒込林町ではじめて家持ちとなった。
 明治の林町は植木屋が多く、そこに林を切り拓いて高給住宅地ができていった。光雲の家はもと植木屋の住まいで門も茅葺き。梅林や竹藪があり、よい水の出る井戸もあった。イタチ、ムジナ、テン、ミミヅク…》
「私が新婚でここに家を建てた昭和五年頃でもこの先は林や畑でした。当時の面影を残す大木がまだ庭にあります」(島薗順雄東大名誉教授・生化学)
《ここで光太郎は育ち、団子坂ー三崎坂を通って美校へ通う》
「その時分、兄は父にねだって自転車を買って貰った。兄は昼は美術学校に通い、夜は夜学へ行って外国語や何かを勉強していた。今とちがって電車が本郷へ引けていなかったので、自転車がなくては夜の通学は堪えられなかったのである」(高村豊周・兄のプロフィール)
《その通学時、菊見せんべいの店先で醤油を塗る娘に惚れて、毎日せんべいを買いに行ったという初恋のエピソードもある》
「その娘というのは、私の母のいとこにあたる人で、名前は智恵子といいましたが、光太郎さんは知っていたかどうか」(菊見せんべい 天野善夫氏)
《明治三十九年、光太郎は米ー英ー仏の留学に向い四十三年帰国。これ以前、楠正成銅像を仕上げ、美術界の大家となった光雲は、一族で銅像会社を興す夢もあったが、ロダンをはじめ近代芸術の息吹に触れた光太郎は拒否する》

  私が親不孝になることは
  人間の名において已むを得ない
  私は一個の人間として生きようとする
  一切が人間をゆるさぬこの国では
  それは反逆に外ならない
           (暗愚小伝)

《光太郎は木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、石井柏亭らの「パンの会」の狂躁に参加。神田の画廊「琅かん洞」を開いたり、北海道でバタ作りの夢に挫折したり する。また吉原河内楼の若太夫や浅草よか楼のお梅さんに熱中。同時に美術評論家としても活躍。鴎外の観潮楼歌会にも一度だけ出席》
「鴎外先生という人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないむづかしい顔をしていた…僕は鴎外先生を尊敬していたが、先生はどこまでも威張っているように見えた」(美校時代)
《美校で美学を教わって以来の印象だ。だが「咀嚼に堪えず」を理由に兵役を逃れたのは、鴎外の根回しによるという》
「先代住職服部太元が、光雲先生を父のように慕い、ご一緒にお経を読む、歌舞伎にお供する、温泉旅行や四国三十二観音にも参りました。光太郎先生は禅の「証道歌」がお好きで、よく読まれてました」(本郷の大円寺副住職
服部良元氏)
「同じ町内会だからというんで、満足稲荷のお神輿を神徳会の人たちがたのんだ時、光雲さんはすぐ引き受けて下さったそうです」(田口恒松さん)
《光雲は昭和九年に没す。従三位勲二等帝室技芸員。近所では肴町大円寺の七観音像(昭和二十年焼失)や林町満足稲荷の輿(九月十五日祭礼)などの作品があ る。美術商が扱うとべらぼうの高値である光雲の作品も、直接頼まれた仕事には、時間いくらの職人勘定で、驚くほど安かったという》


二十五番地のアトリエ
  わが家の屋根は高くそらを切り
  その下に窓が七つ
  小さい出窓は朝日をうけて
  まっ赤に光って夏の霧を浴びている
  見あげても高い欅の木のてっぺんから
  一羽の雀が囀り出す
           (わが家)

《明治四十四年、女子大の同級生橋本八重(のち柳敬助夫人)の紹介で、長沼智恵子は光太郎を訪ねる》
「智恵子さんと私とは道灌山下で当時の市電を下りて、高村さんの元のアトリエに近い坂道をのぼった。人影の少ない曲り角に足を止め、遠くに眼を放って智恵 子さんは『静かな街ですこと』とつつましい讃嘆の声の奥に白熱の火を私は見た。高村さんはストーブに石炭を焚いて待って居られた。相会うべく生れたふたり の人が、相会う日であった」(柳八重・新緑に思うこと)
《翌年六月、25番地のアトリエ完成。智恵子はグロキシニアの大鉢を抱えて訪問》
「一番噂の種になったのは車宿で、団子坂を上って右に曲がると、今はもうなくなったが左側に車屋があった。…その前を智恵子がいつも通ってくる。『あの女 はよく此処を通るがいったいどこへ行くんだろう』にはじまり、『高村さんの若先生のとこに行くんだ』とか『いい女だ』とか、それから『今日は何を持って いった』『帰りに若先生が送っていった』そんな話が乱れ飛んで、近所の噂は激しかった」(高村豊周・光太郎回想)
《強い個性と向上心を示す智恵子に光太郎は魅かれ、芸術家の「同棲同類」を夢みる。大正三年暮、上野精養軒にて結婚披露宴。冬には珍しい豪雨の夜であった。
 新居は林町25番地のアトリエ。工費二千円、ハイカラな三階建ての洋館。芸術と生活上の自由の為に、光太郎は家督と財産継承権を弟豊周に譲り、都会のまん中に蟄居する》
『朝など兄のところへ行くと『そっちはもう飯が済んだかい。こっちはいま朝食なんだ』という。その食卓を見ると、パンにトマトだのアスパラガスだのキャベ ツだの新鮮な立派なものを皿にのせて、ヨーロッパ風の朝飯だ。それにマヨネーズなんかかけて食べている。…だから兄のいう貧乏生活はあまりあてにならな い」(高村豊周・光太郎回想)
《取材中、買物に行く智恵子を見たという人は近所に一人もいなかった》
「この辺はお邸町で、ご用聞きが来たし、光雲さんちの方から食糧が回ってたか、この辺の人は大給坂を下ってよみせ通りを横切った先の安八百屋通りにいったものだがね」(八百屋・西原金二郎さん)
《「丸善工場の女工たち」(表紙)などを読むと光太郎は、家事を苦にしなかったようだ。「兄の家ではお嫁さんの方が自由で、兄の方が気をつかって、世間並 とは逆だった」というが、それでもそれぞれが仕事に熱中して一切の生活が停頓した場合「やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばなら ず」(智恵子の半生)、だんだん絵の勉強から撤退していった》
「私が女学校一〜二年の頃、伯母黒田照子と智恵子さんの家に行きました。伯母はやはり女子大を卒業してアララギの人々とも交際があり、長塚節の婚約者でもありました。
 玄関脇の応接間に通され、椅子に座わり、智恵子さんのいれて下さった紅茶をいただいたことを憶えています。着物を着てらしても変った方だなという印象。普通のお宅の奥さまとは違いました」(西原諾子さん)
《石原さんの父黒田昌恵は十数代つづく医師で、駒込病院医局長もつとめた。光太郎智恵子の披露宴にも招かれているが不参》
「アトリエの坂々の上はちょうど一坪ほどの屋根つきで、雨の日に遊ぶのにちょうどよく、近所の子等とおままごとをしていると、智恵子さんが半紙に包んだお菓子などを下さいました」(岡本よね子さん=旧姓伊藤)
《光太郎を訪ねて林町を歩いた友人には、荻原守衛、村山槐多、宮沢賢治、水野葉舟、尾崎喜八、高田博厚、北原白秋、室生犀星、草野心平、伊藤信吉、真壁仁…》
「六月のよい昼過ぎは木立の蔭の交番もすずしく
 爪先あがりの往来は淡彩の明るい色をして
 むこうからゆるやかなカーヴになって曲がってくる
 そのあたり頭上にさしかかる縦横の桜の枝
 枝の編み目をちらちら洩れるきれいな青空
 つきあたりに出ている夏雲はとおく白く
 駒込林町の往来は
 時おり人のゆききさえ物しずかに
 仕出しの心に自転車が現われてまた走りされば
 田舎の日に焼けた額ににじむ汗を拭きながら
 久しぶりに逢う友の顔を胸にえがいて
 片かげをつくっている植木屋の垣根へ私はさしかかる」
        (古いこしかた・尾崎喜八)
《この植木屋、蔵石徳太郎氏は大家で、「大きなくさめ」の詩にもうたわれている》
「私の先祖は福山の阿部家の臣で、士族出の植木屋です。父の代ではもう植木の方は年に一鉢くらいで、千坪ほどの土地で地主に転じていました。光太郎さんに お貸ししたのは庭つづきの三十数坪です。母は智恵子さんが織った布を頂いたらしいのですが、それがあまり派手で斬新なので、流行歌手じゃなきゃ着られない と言ってましたが、今着たらすてきでしょう。光太郎さんは貧乏で、位階もなかったが、偉い方だということは近所の人はおのずと承知していました」(佐々木 安正さん=蔵石家子息)
「智恵子さんはおかっぱ頭に黒いスラックスで、その頃の女性としては変ってました。毎朝、垣根のバラにじょうろで水をあげていました。そして玄関をきれいに掃除し、通りに水を打っていたのを覚えています」(荷見きく子さん=蔵石家息女)
《油絵から撤退した智恵子は、草木染めや機織りに芸術的な喜びを見い出す》
「光太郎先生のお宅によく伺いましたが、相手をして下さるのはいつも先生。『奥様は』と聞くと、『二階ですよ』。機を織る音が時々聞こえます。『楽しみな んですよ、これは』って二階を指さしておっしゃった。仲良くお散歩のところも見かけましたがよく銀座へいらしたようです。『また銀座ですか』というと、 『エエ、彼女は銀座が好きでね』と先生がいわれました」(大畑ちゑ子さん)
《大畑さんも蔵石家の店子で、父上は根津芙蓉館や神田東洋キネマを設立。作家村松梢風は叔父で、一時同居していた。ほか蔵石家の店子には楠公銅像の馬をつくった後藤貞行、画家難波田龍起などの人がいた。
 結婚した大正二年から智恵子が心を病む昭和五、六年までは二人の最も幸せな時代であった》


荒涼たる帰宅
  あんなに帰りたがっていた自分の内へ
  智恵子は死んでかえってきた
  十月の深夜のがらんどうなアトリエの
  小さな隅の埃を払ってきれいに浄め
  私は智恵子をそっと置く
《昭和四年、智恵子はアダリン自殺を図る。生来の内向的性格に、芸術上の絶望、光太郎との生活の緊張、実家の破産などが重なり、智恵子は狂っていった》
「アトリエで高村さんと話していると、いつもドアが、それこそ音もなくあいた。瞬間私は腰がビクつくように浮きあがった。…ざんばら髪の智恵子さんが放心 状態でアトリエの空間をただ凝視している。高村さんは智恵子さんの肩に手をかけて、無言のまま、静かにつれていったが、しばらくはもどって来なかっ た」(草野心平・悲しみは光と化す)
「病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声がかれ息がつまる程度にまで及びます。拙宅のドアは皆釘づけにしました。往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度」(中原諾子宛書簡)
「千駄木小学校の生徒がガヤガヤ先生の家の前を通るでしょ。すると智恵子さんが急に窓から飛び出して団子坂の方に向って走り出すんです。それを先生が追いかけて、一度は交番のお巡りさんと私と先生と三人がかりで家に連れて帰りました」(大畑ちゑ子さん)
《光太郎は看病で仕事どころではなく、アトリエは荒れる》

  夏草しげる垣根の下を掃いている主人を見ると
  近所の子供が寄ってくる。
  「小父さんとこはばけもの屋敷だね」
  「ほんとにそうだよ」
       (ばけもの屋敷)
《智恵子はゼームス坂病院で昭和十三年十月五日死去。五十二歳、あとには美しい千数百枚の切絵が残された》
「亡くなった時、死に化粧する母の側に立っていたのが智恵子さんを見た最初でした。伯父は焼場にも行かず、骨になって帰ってきた時の『こんなに小さくなっちゃって』というつぶやきだけは、はっきり憶えています」(豊周子息高村規さん)
《智恵子死後、時代は戦争に突入。光太郎は多くの戦争詩を書く。孤独な自炊生活》
「昭和十七年、戦時になると引き売りをやめて野菜の配給所になった。場所はちょうど光太郎さんのアトリエの並びで、先生は一人暮らしで、買物かごを下げよ く店先をのぞきにきたが、もうさつまいもやかぼちゃしかなかった。それでもうちで漬けた沢庵を『これは本物だ』と買っていかれました」(西原金二郎さん)
「当時、うちには電話がなくて、高村先生によく電話を取次いで頂きました。『きくこさん、電話ですよ』と蔵石の家に面した窓からよんで下さいます。ちょっ と変った内にこもるような声でした。それで私が玄関の方へ回ると、カギを開けて下さいました。部屋の中が汚くて男手一つで大変だなとお気の毒でした。油で 何かジージーと炒めるか揚げるかの音もよく聞こえてきました。戦時中は防空演習なども熱心にされ、近隣のために尽され、焼夷弾を落とされた時も、最後まで バケツで運び、消していらした姿が印象的です」(荷見きく子さん)
《昭和二十年四月十三日、アトリエは空襲で焼ける。わずかに小刀程度しか持ち出せず、多くの作品が灰になった。光太郎は戦後長らく岩手の花巻の山小屋で独居し、中野桃園町のアトリエで昭和三十一年死去。四月二日は連翅忌である》
  ◆   ◆   ◆
 智恵子の生きる基本は、
「貧乏なこと
 才能の声を無視しないこと
 どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと
 赤裸なこと」
であった。生やさしくはない、世俗に従って生きる方がよほど楽だ。
 そんな生き方を、六〜七十年も前、私たちの町、林町でやってみせてくれた二人がいる。しかしその事実を知る人は、地域を取材中あまりにも少なかった。智 恵子といえば二本松、光太郎といえば花巻。私たちは観光宣伝でなく自己確認のために光太郎・智恵子がここにいたことを語りたい。




囲み
■この街にこんな人
《千駄木》の光太郎研究家
北川太一さん

 千駄木二丁目、汐見小学校の近くに、「高村光太郎記念会」の木の看板がかけられてあるのが、前から気がかりだった。でも、この家の主、北川太一さんが光太郎研究の第一人者であることを知ったのは、恥ずかしながらずっと後のことだ。

 なぜ光太郎だったのですか?
「僕の生まれたのは大正十四年。小学校に入ったのが上海事変の年で、出たのが日中戦争の年です。中学は工業学校、そこに吉本隆明がいた。太平洋戦争のはじ まる十六年に卒業し、物理学校の夜間に通った。いつも戦争と背中合わせで、当時の少年は二十歳になったら死ぬとみな思っていました。
 戦時一色という中で、僕らが楽しみに読んだ本といえば宮沢賢治の名作選と、高村光太郎の詩集「道程」や「智恵子抄」くらい。僕は十一ヵ月間戦争に行って 負けて帰ってきた時、戦争に対して自分に罪があるとすれば、戦争の本質を知らなかったこと、無知ということだと思った。そしたら無性に、岩手の山の中に 行った高村さんはどうしているだろうか、ということが気になったんです。
 戦後、遅まきながら東工大に入り直したらまた吉本君がいた。二人でキャンパスの池の畔に寝ころがって高村さんの生き方を語り合った。ひどくあどけない話だけど、岩手に会いに行ったら会ってくれるだろうか、なんてね。
 吉本君は卒業後ペンキ会社に勤め、僕はそのまま大学に残ったけれど、二人して高村さんのことを調べはじめた。僕らにとって光太郎を遡って歩くのは、戦後 の自分の生き方を決めていく大切な操作だった。だから吉本君の最初の評論の単行本は「高村光太郎論」です。僕は高村さんの年譜や、書誌を作るのに熱中しま した。
 そのうち調べるだけでは判らないことがいろいろあって、中野のアトリエにいた晩年の高村さんを訪ねるようになったんです。
 実際に会う高村さんは、学生のような自分が行っても一所懸命聞けば一所懸命話してくれる。人に区別をつけない方で、誰にも高村先生とは呼ばせないような 雰囲気があった。だから私たちも、もっと上等な敬意を込めて高村さんと呼んでいた。僕が妻を連れて行った時などは、今日は新婚夫婦が来るからと、少なく なった髪をなでつけて待っていてくれ、妻にも興味のある話をして下さる。今思えばもっと聞きたいことはたくさんあったのに、と悔やまれます。
 話は前後しますが、昭和二十三年、ひょんなことから向丘高校の定時制で数学を教えることになった。そのおかげで昼間は高村さんのことを調べるのに使えた わけだが、夜学の生徒というのは、みんな何かしら重荷を背負ってる。昼間働き、弟たちに仕送りしている女の子もいる。それでもみんなとても明るいんだけ ど、そういう子たちと人間としてぶつかっていくことは、高村さんに学ぶこととぴったり一致していた。同時に生徒たちは僕の研究に協力してくれ、夏休みに光 太郎の年譜をガリ刷りで生徒と一緒に作った。それを見た草野心平さんが僕に光太郎の年譜を作りなさいと自分の資料やデータをみんなくれた。
 筑摩の光太郎全集に関わり、その後は全集刊行後に新しく見つかった資料や、聞き書きを「高村光太郎資料」として出すのが僕の仕事になった。この資料も ずっと僕の教え子たちがガリ切りしてくれる。百部作って、使ってくれそうな人に、タダで送りつけている。こちらで読者を選んでいるんです」

 私たちが光太郎を学んできた三ヶ月、いつも北川さんの若々しい明るい目が導きの星のように頭にあった。その星は僕のあとを来なさいとは言わず、思う存分好きなようにおやり、と語りかけていた。
(編集部では今回の特集に合せ、北川太一氏の講演会を計画しています)



p14ー15
■ご近所調査報告
谷中の山車はナゼ越生に行ったのか

 七月二十五日の夕刻、埼玉県越生の土地っ子という金子和弘さんから電話があった。越生上町の三十戸ほどで守っている越生神社の山車は、明治十九年、谷中初音町二丁目、上三崎町両町の山車として作られ、大正八年頃、一五〇円くらいで越生に売却されたものという。
 その夜祭りが二十七〜八日行なわれるというので、私は子供を連れ、東武東上線を乗りついで、夕暮れの越生の町に降りた。車窓からは秩父の山なみを背景に桑畑が見えた。その通り、ここは鎌倉時代から、絹織物の産地として栄えた町である。
 上町、仲町、本町、新宿、河原、黒岩と六ヵ町が山車を持つ。四〜五メートルもある大きな山車に、大小の太鼓やお囃子を乗せ獅子、ヒョットコ、白狼などの面をつけた人も乗って踊りながらゆく。引くのは火消し装束をつけた若い衆、お囃子は神田ばやしと江戸風である。
 上町の山車は、川原に待機していた。タテヨコのサイズは九尺六尺ほど。上部に山車製作百周年の飾りがついている。
「足回りだけは作り変えましたが、あとは昔のまんま。横の彫物は豊島家の家紋です」と文化財委員の新井良輔さん。
 豊島左衛門尉とはこの山車のお宮、諏方神社の創設者ですというとびっくりされた。さらに山車の上部には経泰の木彫りの像がつき、横と後ろの幕には、この 山車を世話、寄付した谷中の有力者の名前が入っていたという。その人形と幕は、岩槻の民俗文化センターに保管されている。とにかく、谷中製作の山車が今も 越生にあり、立派に実用に耐え、町の人々に大切にされていることを報告したい。
 私はさらに自分の町で取材をはじめた。諏方神社の宮司日暮英司さんに伺う。
「各町内にどんな山車があったかまでは知りませんが、日暮里九丁目の山車についていた鎮西八郎為朝の人形だけは神社にあります。戦争で社殿も焼けてしまい 資料もなくて。境内で一番古い建物は御輿倉で大正十四年。この中には二年おきの本祭りに出る大みこしが入っていますが、これは嘉永三年に直している。だか ら製作はもっと古い。一説には、谷中天王寺五重塔と同じ製作者といいます」
 その後の調査から、この近辺に、
○日暮里九丁目に鎮西八郎為朝
○初音三丁目にイザナギ、イザナミの命(この二つは人形製作者が同一らしい)
○谷中坂町に加藤清正
○谷中町に中国の英雄関羽
 などの人形のついた大きな山車があったことがわかった。
「昔のお諏方様の祭りは大変で、みこしが行きあうとケンカ。大みこしは神田川を下り大川に出て、荒木田から上陸して田んぼのアゼ道を戻ってくる。畦道で狭 いから千住のすさのお様と、お諏方様は東京でも珍しく二点棒で、これも下手すると『なんだお棺かつぎやってやがる』といわれた。木遣りの音頭にあわせて前 後左右にゆらしたもんだ。
 今じゃあ汚ない半纏着てるが、当時はお祭りというと身を清め、新しいさらしのじゅばん、モモヒキ、麻のたすき、白足袋と毎回そろえた。山車はホコ山車と 小さい花山車があって、大きな大きな山車を引かせる牛を、わざわざ保土ヶ谷まで歩いて迎えにいき、牛を休ませ休ませ歩いて連れてきたんだ」(平塚春造さ ん)
「この辺は百姓が多いから、コエたごかつぐんで肩は強い。山車引くにも、みこしかつぐにもたいした元気だったよ」(江川政太郎さん)

 明治末までは町内を練り歩いていた大山車がなぜ出せなくなり、越生まで流出したのか。それは都市化によって、東京に市電が通り、電線が張りめぐらされ、人家も混んできて、人形がそれに引っかかるようになったかららしい。
「それでも最初は元気のいい若い衆がバチバチ電線切ったりしてたけどね。それはその筋から禁止されたんじゃないか。それで山車も維持できなくなり、よそへ売ったのもあるし、早稲田の演劇博物館に預けたのもある」(大越潤さん)
 八月二十九日、私は人形の町岩槻市にある埼玉民俗文化センターに出かけた。例の豊島左衛門尉と垂れ幕を見るためだ。人形は首だけで三十センチほど。張り ぼての胴、手足、衣服、烏帽子、太刀、槍、よろいが大きな桐の箱に一杯。垂れ幕は深紅の布地に金銀のぬいとりで山や岩、鳥をあらわす。
 以下、箱と幕に書かれたお名前を列挙するので、ご存知の方お教え下さい。
箱の裏/田中市太郎、鵜沢清次郎、池田忠三郎、山下利定、斎藤太良吉、篠田五衛門(●)、長嶌清吉、梅本とし、五十嵐千代松、岸田房次郎、安田金蔵、金子 孝太郎、袖野兼太郎、鵜沢長次郎、加藤六太郎、古森定吉、朝田定吉、石井力之助(●)、高橋六太郎、金子七兵衛(●)、袖野清兵衛(●)、田中新次郎 (●)、津田久右衛門(明治19年8月吉日)
幕の裏/右の●印のほかに水谷茂兵衛、高梨市太郎、三好長兵衛、梨本安五郎、藤田米吉、鈴木巳之助、桐谷経吉、川名庄之助、畠山巳之助、田尻喜太郎、金子杢太郎(幕新調時、明治28年)
 また谷中町の関羽の人形模型を善光寺湯の故松田力治氏が頒布しようとしたことがあり、この時の文面も発見した。
 これによると長いあごひげの関羽は谷中でも人気があり、これは多宝院の檀家である人形師原舟月が、いずれ自分が土になる土地だからと精魂込めて作ったも のである。また明治四十一年、谷中の山車が揃って町内を牛に引かれて巡行したのが、おそらく東京でも最後だろうという。それから多くの山車が、都心から各 地に流出したのではないか。これからも調査を続けてみたい。



p16
■根津小学校創立90年によせて
12,339人の卒業生へ

 明治三十年六月二十一日、根津尋常小学校で授業が開始された。生徒三十七名、先生二名。そして九十年がたち、今春、卒業生は一二、三三九人に達した。

  ♪ 根津の学校ボロ学校
      外から見てもボロ学校
      行ってみてもボロ学校

 なんて歌があったそうで、昭和三十年代以後、新校舎になる前の卒業生に会うと必ず聞かされる。来年の創立九十周年記念事業の実行委員長を務める服部真一 さん(昭和十年卒)や渡辺俊夫さん(昭和五年卒)に同窓会名簿作成のお話を伺いに行っても、話題はすぐタイムトンネルをくぐり抜ける。
「谷中の子とよくケンカをした。ムシロで小屋を作って本陣にする。ちょうど藍染大通りの牛乳屋さんの裏通り。あのころ芋甚は三浦坂寄りの谷中側にあって、 そこのふかし芋が食べたくて買いに行くけど、谷中の連中に見つかると、ボロ学校の根津が来た、ってんで追いかけられてね」(服部さん)
 戦災にも震災にも校舎はびくともしなかった。
「僕が通ってる時に二部制になったことがある。生徒数が多すぎて教室に入りきらなかった。昼飯食ってから学校に行くのは変な感じだったな」(渡辺さん)
 大正十二年、児童は一、八五六名。三十二学級もあった。その上に震災後、湯島と本郷の児童が一時一緒に学び、この時異例の二部制になった。
 おかずのない弁当をふたで隠して食べたこと、「ごきや」の青豆を入れてもらった時の嬉しさ、太田ヶ原のこわい夕暮れ、チャンバラごっこに熱中した頃…話は尽きない。
 一緒に遊んだ連中は今どうしているだろうか?
 根津小では九十周年を記念して、創立以来初めて同窓会名簿を作ることになった。作業は現在急ピッチで進めているが、想像以上に卒業生は拡散していた。昭和一ケタになると空白に近い。名簿委員会(同窓会部会)では、故人になられた方もリストに載せる方針という。
 谷根千読者で根津小の卒業生及び卒業生をご存知の方、ぜひ情報をお寄せ下さい。


p17、20
ギャラリー
谷根千路上観察

 さる七月六日、谷根千生活を記録する会では、「路上観察会」を行なった。いつもつい、史跡は古建築は、ついでに安売りは、なんて町の見方しかできないあ たしたち、視点を変えて町の細部におもしろいものを探してみた。案内役は藤原恵洋氏。建築探偵と路上観察で活躍中の藤森照信氏の手下であるが、「ボスの見 方にはとらわれない独自路線」を追求する。
 まあ駄弁は弄さず、とにかく見ておくれ。まだまだ面白いものがあったんですよ。人のウチを勝手に写すな、ですって?
風景はみんなのもの、このくらいの楽しみは許してよ。どこだか探してね。
 すぐる八月、藤森照信、南伸坊以下路上観察のメンバーが池之端忍旅館に泊り、ヘビ道をいかに写すか赤瀬川原平氏が悩んでいたという噂もあるが。
 結局、路上観察の収穫に関してはこの地域は「不毛」。開発・改修その他、変化を加えるテンポが遅すぎるとの結論が出たらしい。

(写真キャプション)
●ラクダはビルの屋上で何を考えているのか。
●おかしくないが、何かおかしいでしょう
●誰のデザイン。字で顔のつもり
●ブロック塀の穴からのぞく夏
●マンホール・前方後円墳タイプ
●のれんをくぐって入るわけにはいかないの
●フォーカスされちゃったホテルの看板。ガッチリ、グッとつき出した支柱のウラで大島屋酒店の看板が泣いている。
●お屋根のついた換気扇
●無用のハシゴ、無用のドア、芸術的壁面。
●このガードは何のため
●自動販売機の雨宿り
●夜になったら休みます



p21ー25
◎町の小さな博物館
江戸の時を刻む町

●谷中あかぢ坂と三浦坂にはさまれた一角に、うっそうと木が茂る邸がある。黒塗りの木の門を押すと犬が吠え、ジーパンにTシャツの背の高い上口等さんが現われた。今日はここ、大名時計博物館を見学し「江戸の時法」や父上作次朗氏の話を聞くつもりだ。
一、不定時法は体によいのだ
     ───上口等さんに聞く
〈時計の発達〉
 いまでは夜型人間が多いけど、大昔の人は明るくなると起きて働き、暗くなると寝るという自然の生活リズムを持っていたんです。人間には体内時計があっ て、腹時計ともいうけれど、大体時計がなくても生活リズムがつかめたんですね。人間の体内時計はどうも二十五時間周期じゃないかという説があります。
 集団生活をしていると、やはり一日を時間で割って、今が何時なのか知る必要が出てくる。最初にできた時計はもちろん日時計で、太陽が真上にくる時を正午 とし、影の長さや方向で時を知る。これは、世界各地で紀元前からあった。次いで、砂時計、水時計といった一定の量の増減で、時刻を計る時計が出てきまし た。
 西洋では、まず町の中心にあるキリスト教会の塔の鐘に機械時計がつけられた。これはおもりで動く時計です。札幌の農学校の有名な時計も同じ種類。そして、一五〇〇年ごろからぜんまい時計の製作がはじまり、産業として普及していきます。
 また持ち歩きのできる時計も広まり、王侯貴族のお抱えの時計係をつれて歩き、「いま何時じゃ」と聞くと、お盆の上に時計をのせて差し出すわけ。だんだん小型化すると、懐中時計とか、シャトレーヌという女性の装飾的な首かざりになったりする。
 そして革命や戦争が時計産業に大きく影響し、量産され、大衆の買える値段になっていきます。
〈不定時法と定時法〉
 さて、時法には二つあり、いま日本も含め世界で使っているのは定時法で、一日を二十四等分に割っている。しかし昔は西洋も日本も同じ不定時法。例えば日 本では日暮れから夜明けまで夜を六等分、夜明けから日暮れまでの昼を六等分して、これに九から四までの数をあてる。つまり夜の十二時を九つ、八つ、七つ、 六つ、五つ、四つときて、正午をまた昼の九つ、というぐあい。日の出ている間に働く農業国では、こちらの方が便利ですね。
 昔は夜明け前に起き、食事をして一働きすると、十時ごろにはお茶で一服してお菓子の一つもつまみたい。これがお四つ。そしてまた昼まで働き、昼食をとっ てまた働くと、また一服したくなるのが三時ごろ。これがお八つ。だからよく「十時のお八つ」という人がいるけど、これは「お四つ」のまちがいです。
「時そば」という落語が時の数え方をネタにしてますね。与太郎が夜なきそばやで勘定のとき、「一、二、三、四、五、六、七、八、(ひい、ふう、みい、よ、 いつ、むう、なな、や)いま何時だい」「へい九つ(ここのつ)で」「十(とう)、十一、…」と一文ごまかす。それから、夜昼の区分について、日の出から日 の入りまでと勘違いしますが、夜明けというのは日の出より早い。太陽が昇る前にあたりの闇が少し薄らいでくる。空に星がパラパラあって、手をかざして指の 骨の大筋がうっすら判別できる程度、これを夜明けといいます。昔の人は夜明けより前に起きたらしい。
「お江戸日本橋七つ立ち」といいますが、七つ立ちというのは、夜明けより一刻早くてまっ暗です。大名行列は七つ前にはでなかった。行商人は明け六つ半に家を出る。城門も七つ前には開かなかったが、とにかくそんなに早く旅に出立しているんですね。
 明治五年から六年にかけて、旧暦から新暦のグレゴリオ暦を採用した。この年はうるう月で、本来なら十三ヵ月あったはずですが、それもすっ飛ばして明治五年の十二月は一日と二日しかなくて、いきなり明治六年一月一日になっちゃった。
 この時は大混乱で、政府は官吏に払う月給出費を一ヵ月分倹約できたということですが、暦屋の方は作ったカレンダーが使えなくなりあわてふためいたそうです。
〈大名時計〉
 話を戻して、大名時計というのは、父の上口愚朗の命名で、ふつうは和時計といいます。
 キリスト教が伝来するのと同時に時計も日本に伝わり、文献では、一五五一年に大内義隆へ宣教師が献上したものの中に時計が入っているし、信長や秀吉にも献上したようです。
 またセミナリオやコレジオといった学校で、製法を教え、時計職人を養成していた記録もある。これを不定時法に合うように改造し、大名とか一部の権力者が作らせたのが、大名時計です。
 こうした貴重な大名時計も、明治になると、まず外人が目をつけ、金蒔絵だの螺鈿だのの細工を施した派手なものから海外に流出していった。大英博物館に六 十点、ワシントンのスミソニアン博物館にもある。日本は震災、戦災の被害を受けたから、流出により文化財が守られたともいえる。国内にもかなり眠っている はずですが、誰がどんな時計を何点持っているか、明らかではありません。
 大名時計博物館は、昭和四十九年四月に、開館し、父愚朗の収集した時計を、意志により展示しています。約二百点のうち八十八点は都の文化財指定を受けています。といっても、消防署がうるさいだけで何の補助も出ないんですけどね。
 大名時計には、おおまかにいって針の動くものと、針は上を指したままで文字盤が動くものがあります。ただ、西洋時計は、一日二回りするのですが、和時計は一日一周。真上が九つで正子、下が正午。しかも右回りの時計と左まわり、つまり時計回りの反対のものとがあります。
 宣教師に時計製作を習った人たちは、最初は時計を分解したりして仕組みを勉強したんでしょう。時計職人としては、尾張徳川家に仕えた津田助左衛門がいましたし、家康も江戸入府の時、三河から時計職人を連れてきたようです。
 ヨーロッパ式の時計を移入する一番の難しさは、不定時法に合わせるということです。どうするかというと、大名時計の動力はおもりで歯車が動くようになっ ているわけですが、天秤につけるおもりの位置により天秤の動く早さを夜と昼とで変える。たとえば、夏至の日の夜明けは三時四十七分。日暮れが七時三十八 分。昼の一時の長さが二時間三十八分。夜の一時の長さが一時間二十一分です。だから、夜から昼へ、昼から夜へ移る時に、一日二回ずつ天秤のおもりの位置を 変える。そのために大名は専門の時計係を雇っていた。この人たちは当然手入れも修理もする。おもりの位置についてはきっとデータをとって記録したアンチョ コを持っていたのでしょう。
 それが次の段階で、二挺天秤といって、夜用と昼用の天秤が自動的に切りかわるようになります。ほらこうして暮六つまでくると、下の天秤が自動的に動き出 す。これなら節季ごとに、夏至で合わせ、小暑(六月二十一日)で合わせ、次は七月七日の大暑に合わせればよい。これでかなりの合理化ができ、楽になった。
 とにかく、当時の大名時計は製作に早くて一年から二年かかる。それも鋳物、指物、塗師とたくさんの下職の手を経てますし、大名屋敷の時計の間におかれて、専門の時計係は必要だし、まず大名位しか持てないんです。大商家で持っていた記録はある。
 庶民には時計は必要なかった。というのは、時の鐘があって、まず江戸城の櫓で八つの鐘が鳴る。するとそれを聞いて日本橋−上野−浅草というように順に撞き送りしていくんです。
 櫓時計、掛時計、枕時計といった大名時計の他に、この博物館には、香の燃える早さで時を知る香盤時計というのもあります。これは商家で用いられ、一度火をつけると、二十時間位もちます。
 まあ、とにかく、江戸の時の考え方は、現代人の失った心のゆとりや、自然に合わせた生活など、いろいろ反省させられるものがありますね。

二、昔、奇人ありき
      ???噂の上口愚朗氏のこと
 古くから谷中に住む人にとって、大名時計を収集した上口愚朗とその愚朗天宿(ぐろてすく)の印象は強い。
 上口愚朗氏は明治二十五年八月二十六日、谷中生れ、本名は作次郎、父親は足尾銅山で事業に失敗し、宗善寺門前で花屋のようなことをしていた。尋常小学校 を卒業して、日本一の洋服屋になろうと、銀座の大谷洋服店に入る。ここは皇室のご用達だったので、明治天皇の仮縫いなどもしたという。仮縫いといっても下 を向いて伏しているだけ。服は侍従が天皇にお持ちしてし試着してもらうという具合。そして一度着用すると焼却するため、金ボタンなどみんなとりはずす。ハ サミや針も消毒し、針が一本見つからなくても、探すまで帰れなかったそうだ。
 勉強熱心で、中学の幾何や英語の講義録で勉強し、夜中は修理に出された外国製の服をほどき、朝までに元通りにもどしては、型紙や縫製技術に精通していっ た。そして大正の初めに、谷中の現在の大名時計博物館とは道をへだてた所に店を持った。その名を「超流行上口中等洋服店」。当時高等洋服店を名乗る店が多 いなかで、彼一流のしゃれであった。
 しかし実際は中等どころか、天然素材を手で紡いだ、英国製の最高級ホームスパンを使った。「服地はタテにのびず横にのびなければいけない」といい、ズボンのボタンにもカミグチの名入りを特注し、裏地も注文して織らせた。
 昭和の初めで、普通の背広が二十五円〜三十円の頃、百円はとる。大卒者の給料が三十円程度の頃である。しかしもうけ主義なのでなく、自らの素材と技術に自信を持ってつけた値なのであって、払いの悪い客でも「いつか良くなりャ持ってくる」と、一向気にしなかった。
 有名人の服も多く作ったが、自分の方からは、決して採寸や仮縫いに就かず、「谷中まで来るなら作ってやる。料金はきいてくれるな」という高姿勢であっ た。その採寸方法も実に独特で、頭の中に、基準となる大きさのモデルがあり、それと比べて大方の見当がつくらしく、背かっこうを見ただけでサイズを言い当 てたり、計った数字を書きとめないでも、メジャーをあてるだけで、「三人分まで暗記できる」といっていたそうだ。客も採寸はしたが、記録した様子がないの に、平然と客と話している愚朗氏を見て、ちゃんと服ができるのかと心配したそうだ。そんなことから「客を坐らせて眺めるだけで、ぴったりあう服ができた」 という愚朗神話が生まれた。
 その作る服たるや、まさに大正モダニズムというか、超芸術というか、自ら「未来派の洋服」と命名していたが、例えば、左右の衿の長さが違う。ボタンの数と穴の数が違う。右は角で左は丸い裾、ズボンの前後で色の違う服などである。
 また生地は天然色、手織りのつむぎを使ったり、夏は絽のモーニング、絣の金太郎の腹がけのようなチョッキなど、新奇考案が多かった。そのため上口製作の 服を着て銀座を闊歩するのが流行し、宣伝しないのにその名を高らしめた。愚朗氏の説は「かわった服を作るのではなく、客の個性や体型に合った生きた服を作 るのだ」そうで、客と話をして、仕事や性格をのみ込んで作った。流行するデザインや色もかなり早くからつかんでいて、景気がよいと明るい色が流行し、ズボ ンも太く、背広の衿幅も太くなるというのが自説。
 さらに上口洋服店の建築物そのものが超芸術であった。大工も泊まり込みで、けんかしいしい作った家で、丸太造りの家にまっ黒なトーテムポールのような人 形があって、客が戸を開けようとすると、頭の上で鐘がゴオンと鳴るしかけ。あたりは大木が茂る道で、いまだに谷中の子供たちは、「あそこは恐くて走り抜け た」「夜なんか近づけなかった」というほど。この家は映画のロケや、コマーシャルの背景などによく使われた。この家にはのちに、金子洋文(小説家。「種蒔 く人」創刊)や千駄木の吉行医院一家が間借した。
 戦前は十人ほどの弟子が住み込み、皆、お揃いの水兵服と三本歯の朴歯の下駄をはいていたので、「あれは上口の弟子」と区別がついたが、戦後、後継者を育てる意欲を失い、仕事もやめた。
 今の大名時計博物館は、そもそもあかぢ銀行渡辺治衛門の縁者にあたる渡辺六郎邸で、千坪あり、門と塀と倉は往時と変わらない。石だたみのつきあたりが玄 関で、靴ぬぎの石の幅が一畳半もあった。そこを愚朗天宿(ぐろてすく)と名付け、戦後は盆栽、油絵、その他の趣味に生きた。上野の山の赤土を使って「愚朗 焼」を製作した。また一年に一度「すねもの会」を主催して客をもてなし、その際、客を絵付けすると、次の会までに焼き上がっているというぐあい。
 木内克、萩原忠三ほかの人々が常連であった。
 愚朗氏は「谷中の三奇人」の一人といわれ、アサヒグラフの「天下の奇人変人」にもとりあげられたことがある。天性の自由人であった。子供の名前は「上口 中等洋服店」から、長男は洋一、長女は服恵、次男の現館長は中になるところを辛くも、等(ひとし)となった。その等氏も私どもがお見受けしたところ、十分 奇人の類に入る方であり、つまり現代日本の管理社会の中では、実に悠々と生きておられる。「私は子供は、愚朗天宿の天をとってタカシ。次の子は一本引いて 大と書いてマサル。もうひとり生まれたらまた一本引いて人にしようかと思いましたけどね」という。氏が語る愚朗像は、「昔からモダンで上野のレストランで 土曜の午後にサンドイッチをごちそうしてくれたり、コーヒーは飲んだし、歌を歌わせると音痴なのに、ジャズのレコードなんかに凝っていた。自分の父親が飲 んべえで苦労したせいか、自分は酒を飲まず、夕食はいつも家族揃って、ずいぶんゆっくりでいろんな話をした。しつけは厳しかったけれども」とのことであ る。
「奇人なのは私ではない。私は自分の気持ちに率直に生きているだけ」といった愚朗氏はいかにも谷中人らしい生涯を送った。


p26ー27
■鴎外特集補遺の補遺
色部義明氏に聞く
 六号鴎外特集に関する補遺で、「青年」に出てくる「色川国士というどこかの議員の別邸」が色部邸ではないかとの記事につき、某日、色部義明氏から手紙を 頂いた。いかにも、色部邸は薮下通り右側三軒目にあり、父は貴族院議員であったとのこと。いつでも遊びにいらっしゃいとの言葉に甘えて伺った。
 その伺った先は大手町の協和銀行ビルで、色部さんはここの取締役名誉会長なのである。日頃サンダルばきでウロチョロしている私は役員室のふかふかのじゅ うたんの上を固くなって歩いていったが、迎えて下さった色部さんは、素晴らしくダンディーで気さくなニコニコした方であった。
「やあ、よくいらっしゃいました。
 私は明治四十四年の七月十八日に本郷区駒込千駄木町六十五番地の例の家に生れ、大正十二年八月二十五日までいました。それから小石川竹早町に引っ越してすぐ関東大震災にあった。だから薮下の家はちょうど十二歳まで住んだ勘定です。
 まず道の入口の右手には大きな風呂屋があって、外にはプールもあった。男湯からプールに入れるようになっていて、子供が多くて夏は大さわぎでしたよ。
 反対側は日本医大、当時の医専のガケ下に一カワ民家があって、端が絵葉書屋。封筒や文房具も売ってたんでしょうが、私は軍艦、陸奥とか長門とかの絵葉書や栗島すみ子、五月のぶ子なんかのブロマイドが印象的です。新橋の売れっ子芸者やお相撲さんのもあったと思うが。
 それで鴎外の「青年」に出てくる色川邸ですが、鴎外の最初の妻赤松登志子は実はオヤジの長姉なんです。父康男は、幕臣で、幕末に留学したのちの海軍中将赤松則良の四男に当る。兄弟は十六人いて、則良は謹直な人ですから、一人の妻で十六人、まあよく産んだもんですな。
 長女が鴎外の妻になって、池之端のいま水月ホテルになっている所で、新婚時代を送ったが、一年ほどで、於菟という息子を一人産んだ直後に別れている。
 なんで別れたかはちょっとわからない。まあ津和野出身のご典医森家と、幕臣のチャキチャキの江戸っ子赤松家では、家風は合わなかったでしょうな。登志子 という人はお乳母日傘で育ったお嬢様で女高師の出身かなんかですから、それが気に入らなかったのかも知れません。鴎外と離婚して、宮下ナントカという医学 士と再婚したみたいですが、なぜか墓は吉祥寺の赤松家の墓地の一角にあります。
 父は貴族院の同僚だった色部義太夫に子供がないんで、請われて養子になったんです。色部家は信州の屋代の資産家で、昔は各県多額納税者上位百人くらいで互選で貴族院に出てました(赤松の方は勅選ですが)。それで薮下は、長野の邸の「別邸」というわけです。
 で、父は鴎外にとっては別れた妻の弟ですが、家も近いし、於菟さんと私は血のつながった従弟だし、行き来はありました。というより私の父と於菟さんの方が年が近くて仲良かった。
 でも、鴎外という人は私はあまり好きじゃなかったな。やかましい親父というかんじで、いつも勉強勉強で、うるさいからあっちいけというようで、遊びに いっても楽しくなかった。反対にうちの親父は、慶応の理財科出ですが、財産もあるので就職もせず、遊び呆けてたから、鴎外には、息子に悪いことを教える奴 とお気に召さなかったのでしょう。とにかく芸事は、三味線、長唄、端唄なんでもござれ。芸者遊びはしたし、ものわかりはいい。だから於菟さんもうちに義太 夫を習いに来るといって息抜きにきてたんでしょう。
 私の家は昭和の初めに、印刷屋さんの桜井源一郎さんにそのままゆずりました。太田子爵の息子さんも誠之小学校の一、二年上におられた。遊んだ場所といえ ば、太田ケ原、千駄木の上の方の牧田の原。根津神社では縁日に小屋がけで、曲芸、ろくろ首や剣舞みたいな見せ物をやっていた。ただ、町も上の方と下の方で は分かれていたみたいで、下町の方では遊ぶなといわれていたし、八重垣町にあった娘義太夫なんかの出ていた席亭の前も通って、のぞいてはみたけれど入った ことはない。
 また、尼子四郎といったか大変有名なお医者にかかっていたのを憶えています。

(色部義明氏は協和銀行名誉会長のほか、日本棋院理事長、古代学協会理事、日蘭協会会長、日本DDR文化協会会長。
 DDR=東ドイツのライプチヒには鴎外記念館も出来、さっそく見学にいらしたとのこと。時折なつかしい千駄木、根津界隈を歩いておられる)

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谷中・永久寺   剪画・文 石田良介
 昔、ねぎ坊主の中には小さな坊主がいっぱい入って居て、月の明るい夜、そこから抜け出して行って、いたずらをして帰ってくると云う話しを聞いた。永久寺 さんの植込の中にそれを見つけ、岩がらみの花の賑わいと、孤高なねぎ坊主と、粋な語り口調の永久寺のご住職との取り合わせの妙に、谷中ならではとうれしく なった。


p28ー29
団子坂特集補遺

D坂殺人事件を推理する
 江戸川乱歩の「D坂殺人事件」は大正十四年一月『新青年』に発表された。
 D坂のいきつけの喫茶「白梅軒」で「私」と明智君は冷コーヒーをすすっている。そのうち、先程から道の反対側にある古本屋の様子がおかしいのに気づき、行ってみると古本屋のおかみが殺されている。
 このD坂というのは「以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになってまもなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空地などもあって今よりずっと淋しかった時分の話だ」とあり、団子坂と断定してよい。
 私は乱歩の小説中の団子坂の見取り図を作ってみた。こんなふうになる。古本屋が坂のどちら側にあったかは小説には書かれていないが、本屋を含む長屋の裏 に路地があった、というので、多分坂を上る左側であろうと思う。白梅軒は「D坂の大通りの中ほど」と出てくるので、いわば「ターボラ」から真向かいの古美 術「明六つ」をのぞいている感じではないか。などと、私はターボラでアイスコーヒーを飲んでいる。もちろん架空の話だ。
 しかし乱歩は案外に団子坂の地理にくわしい。調べてみるとそれもそのはず、乱歩は大正八〜九年のころ、団子坂上で古本屋「三人書房」を開いていたことが あった。乱歩は明治二十七年、三重県生まれ、本名平井太郎。早稲田大学を出て文学を志したが食えず、大正末年までいろんな職を転々としている。本郷駒込林 町六番地で弟二人と古本屋をやり、夜は一時支那そばの屋台を引いていたらしい。大正時代の団子坂をご存知の岡本四郎氏は「古本屋は確かに二、三軒あった が、乱歩がやっていたとはねえ」とおっしゃる。乱歩も無名の時代だからしょうがない。並べる本もなくて、空箱ばかりで隙間をうずめ、一年ばかりも続かな かった。
 その位置は、現在の千駄木五丁目五番地、西尾食品や和菓子「山びこ」あたりのようだ。古本屋を殺人現場にした理由が、なんだか少しわかった気がした。

フロへ入る散歩(見晴しの湯、資料です)
 団子坂をのぼっていくと、途中から坂が急になる。その手まえの左がわにフロ屋があった。それは洋館まがいの一風変った建て物であった。
 私たち『驢馬』同人の三人は、あてもなくあちこち歩きまわってくたびれたので、どこかでお茶でも飲んで休もうとしたが、三人ともそれだけの金をもっていない。そこでこのフロに入ることになった。
 お昼ごろのことで、まだ番台もいない。深閑としている。流し場はからからにかわいて、高い窓から真昼の日がいっぱいさしこんでいた。湯ぶねは青々として、かすかに湯気があがっている。
 私たちはちん入者であった。
「こういうのが湯をもむというんだね」
 さきにはいったひとりが、熱いものだから、がばがばやりながらこんなことをいう。三人はいると、かわいた流し場は湯がざあざああふれ出て、日の光にきらきらぬれていく。
 私たちはすっかり喜んでしまって石けんも手ぬぐいもないことなどとんちゃくしなかった。
「フロへはいる散歩もいいなあ」
 ひとりのジの悪いのが、すっかり安心したようにいう。けれども石ケンも手ぬぐいもなくては、まったく手持ちぶさたである。
 ひとりが湯ぶねの横の戸を押してみると、そこに上へのぼる階段があった。それは途中から曲がっている。そうっと足音を偲ばせてあがっていくと??どうなることかと思ったが??とうとう屋上に出た。大発見である。
 小さなビルの屋上とかわりない。そのころはビルの屋上など、まだめずらしかった。それが裸体をみとめるフロ屋の屋上だから、すっかり有頂天になってしまった。
「おお、原始のわれら!」
 指呼の間に谷中の森が見える。
 森はシイの花の、らんまんたるさかりである。まっ黄色に森をおおい、晴れわたった青空のただ中に光りかがやいている。
 まったく五月の陽光の供宴である。
(読売新聞 昭和36年11月17日 窪川鶴次郎。「東京の散歩道」社会思想社教養文庫)

記憶の団子坂周辺
 其の八を読み、若い時代を過ごしたあの坂がなつかしく思い出されてきた。
 団子坂湯のベランダで涼んだこと、瀬谷さんで中耳炎の手術をした時、病室が畳敷きだったこと、見晴しで見物した遠花火、菊そばでもりを三枚も食べて叱られたこと、講談社の原っぱでの凧揚げ。
 世尊院のお坊様は毎日駒込湯にいらしてご自分で頭をそっていた。「タンダバハ」という変った名のダンス教室に童謡舞踊を習いに通った。太田さんのお屋敷の椎の実をもらって火鉢で焼いて食べたっけ。聖テモテ教会の高瀬牧師様にはよく小石川植物園につれていって頂いた。
 駒込中学の裏の杏林舎という印刷所に勤める女装の人。女の着物にお化粧、シナを作って歩くのを「おとこおんな」とはやしたてた。遅刻しそうな朝、誠之まで走る道すがらの一炉庵の小豆の煮る良いにおい……。
(杉並区 野崎多嘉栄さん)

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◆訂正とお詫び??
 八号の団子坂特集七頁で、岡本邸の裏にあった『タダ学校』の記事について。
 この辺りにそうした先駆的社会事業的な学校が存在したことを何人かの証言によって知りました。ただしそのタダ学校の経営様態、位置、並びに現状について は確かめられていません。にもかかわらず、同記事に続けて『田舎の分教場にも似た建物』として家の写真を載せ、内部の説明書きを加えてしまいました。
 しかし、その後の調査で、写真の家は「タダ学校」とは関係ないことが判り、ここに訂正いたします。
 また、許可なく写真を撮影し、不十分な取材で憶測のコメントを載せ、現在お住まいになっている方に大変ご迷惑をかけたことを、心からお詫び申し上げます。


p30ー31
ひろみの一日入門?6 谷中「澤の屋」旅館
ウェルカム トゥ− サワノヤ

 八月十五日、朝七時半。話題の外人がくる旅館「澤の屋」へ一日入門。なぜ外人が来るかって? 「駅前じゃないし、フロがついていない。日本人が来ないだけなんです」

英語講座その1
 玄関の掃除からはじまる。
 年間六千五百人の宿泊者のうち約七割が外人。今日も十二部屋満室で日本人は二人だけだ。
 朝食は八時から。トーストの焼き加減は自分の好みで、コーヒー、紅茶もセルフサービス飲み放題。おかまいしないというより、お好きなようにというサービ スの仕方。私の仕事はお盆にパンとフォークナイフをのせて運ぶだけ。一枚トーストを一時間かけて食べる人あり、コーヒー一杯で急いで出かける人あり。食堂 の壁には、情報やメッセージが英語でびっしり。日本各地のお面やお土産もにぎやかに飾ってあり、夜になると、外人同士の情報交換の場として活躍。
 オーストラリアからのコティオス一家のチェックアウト。各自が半畳ほどもある大きな荷物を持っている。これを台車にのせて不忍通りまで運び、タクシーを 拾うのが私の仕事。荷物が大きくて重たくて私一人ではびくともせず、自分のは自分でのせてもらうしかない。コティオス一家のお父さんに恐る恐る話しかけ る。「エーとアノー雑誌を出していてー、ソノー今日は一日沢の屋旅館で働いてレポートしましてー」まったく通じない。パイプをくわえてひとこと。「ボンで トーキョーは静かだ」
 タクシーの運転手さんは心得たもので外人と見るや手も上げないのに止り、音もなくトランクを開け、さっとおりて荷物をつめ、「ハコザキ?」「イエス」。 この間一、二分。あっけにとられていたが、乗り込んだ四人は「サンキュ」と笑って手を振ってくれた。こちらもこれが仕事と手を振る。
 さて次は、マルコムさん親子の国内旅行の予約代行。電話で希望する同じジャパニーズイングループ内の旅館に電話する。日光、金沢、佐渡、京都とひと回り する予定だが、夏休みでどこも満員。長距離電話で10円玉が次々と落ちてゆくのであわてる。隣で心配そうなマルコムさんも、財布からありったけ10円玉を 出す。夕食は付かないが、イングループの加盟店は二人で一室七千円と信じられない程安い。「外国の方は泊るのは手段、清潔で安ければベリーグッド」とご主 人の沢功さん。インコを肩にのっけて、英語と日本語をチャンポンで話す。
 十一時、ほとんどの人は外出し、朝のあわただしさも一段落。谷根千事務所は目と鼻の先。残してきた二ヵ月のわが娘に授乳タイム。

お風呂でコーラン
 沢の屋にはあらかじめ自国の旅行センターで申し込む人、成田から電話してくる人、常連さん、友だちの紹介などで、45ヶ国もの人たちが集まってくる。な かには、お風呂場でコーランを大声で唱えたり、国から持ってきた木の実を根津辺りで売り歩く人もいるというからびっくり。
 ふとんやシーツの世話をするおばさんたちによると、土足で部屋に上がってきたり、スリッパをふとんの横にチョコンと脱いだり、床の間にずらっと靴を並べて、そのかわり下駄箱に買ってきた果物を入れてしまう人もいるらしい。
 もとは日本人相手にやっていたが、外人客用に変えたのは、看板とトイレ、シャワーをお風呂につけたぐらい。成田から直行する客がゆっくりできるようにふ とんは敷いておく。マットの上にはふとん。和風ベッドのようなものだ。お風呂には、栓を抜かないでとか中で石鹸を使わないでと英語のはり紙。冷蔵庫には冷 たい麦茶や水、三階のコインランドリー(洗剤は無料)、食堂のコーヒー、紅茶は好きな時に無料で飲めるなどのサービスがある。気を使わず自分の家のように くつろげるのが家庭的、と喜ばれる。しかも夜十一時までに帰れない人には玄関のカギまで預けている。
 当然、休みらしい休みもとれない。「ごはんもゆっくり食べられないの。ラーメンなんかゆでていて、ベルが鳴ると、食べる時にはもうのびきってるのね」と奥さん。夫婦二人と奥さんの叔母塚越さんの三人で切り回している。
 英語は? ということになるが、沢さんが英語に特別堪能であるわけがではない。でもすごく堂々としていて、単語だけでも用は足りてしまう。
いざという時、何でもしてあげようという気持ちさえあれば、ノープロブレム、問題ない。

英語講座その二
 二回目の授乳タイムのあと、夕方は手紙の返事書き。予約OKのハガキ、某国の旅行代理店へ予約ができないという返事など、英作文の時間となり、わが貧しい単語の引き出しはカラッポで、こんな手紙が海を渡って知らない国で読まれるかと思うと恥ずかしい。
 夜七時、ラジオ局の人がきて、最近の円高についてインタビューを始めた。
 外人旅行者も円高で大変らしいが、お土産など買わなくとも、合理的に思い思いの旅を楽しむあたり、日本人も見習いたいところ。
 その後、ビールをくみかわす輪の中へ入れてもらう。
 谷中の印象は?
「谷中の人の顔はやさしい。ピースフル、フレンドリー」という言葉があちこちからきこえた。新宿のレストランでは相席がイヤだったとカナダ人夫婦、谷中では相席が良い思い出になったそうだ。
 高層ビルや工場見学をするより谷中の方が「日本人の生活が丸ごと見える」ともいう。彼らは名所見物ではなく、町の畳屋さんや豆腐屋さんをのぞきに行く。 沢さんが近所を駆けずりまわって理解を求め、町の人も外人が来るのを楽しみにして英語のメニューや「ウェルカム」という札をはり出している。これこそ本当 の草の根国際交流であろう。
 毎日近くの「田吾作」で飲んでは友だちを作ってくるエリックさんに谷根千をみせると、「たいへん良い趣旨だ」と握手を求められた。
 日本の風呂は好きだけど熱すぎるとか、畳の匂いが好きで、自宅でも使っているとか、九月から日本に住むつもりなど、日米加仏豪の五ヶ国対談となる。
 九時半ぐらいまでワイワイ飲んで、これでお開きと思いきや、みんなそれから夜の街へくり出した。
 もうクタクタ。私の一日修業はこれでおしまいだが、沢さん夫婦に安眠ということばはない。


p32ー33
情報トピックス

◎最近のうごき
6・27 今般、谷中文化を紹介し、良い形の町の発展を趣旨に、全町会商店街に寺院が加わり「谷中寺町花のまち」会が発足。その第一回事業として「谷中スケッチブック」出版記念を兼ねて、?森まゆみを励ます会?が全生庵本堂で行なわれた。本当にありがとうございました。
 当日は内山台東区長、金子信雄氏のユーモアたっぷりのお話のあと、石田良介さんの切り絵スライドに合わせ、多くの方が谷中への思いを語った。町とお寺と商店街が中心となった「前代未聞の出版記念パーティー」(芸大助教授・前野まさる氏)だった。
7・19〜21 会津若松、大内宿、喜多方で第9回全国町並みゼミ。日本の文化遺産と自然を守りながら、観光資源も守ろうという、全国町並み保護連盟の主 催。妻籠、足助、有松、祇園、角館、小樽などでの運動はかなり前から進んでいます。東京でも今後は、マンションやオフィスビルの林立に対抗して、住民がど のように町の環境や歴史性を守ってゆけるか、という運動が増えそうです。
8・24 谷根千に寄稿されている野沢延行さん(獣医)が、根津の「芋甚」でかき氷13種全部にチャレンジ。全部食べ終ってもう一度食べたいと思ったのは 氷オレンジ。一つだけ食べるなら氷イチゴミルク。氷しるこには律儀にお餅が入っていたとか。近く「芋甚」より表彰状が贈られる。
 同じ日、藍染大通りではジャンボ折り紙。一辺5メートルもの紙でカブトや鶴を折る。約百二十名が集まった。企画は藍染町会青年部。楽しいことたくさんやろう!
8月 恒例の全生庵円朝まつり。とうとう幽霊画の見学者四千人を突破! 円朝寄席も盛況だった。

◎確連房通信
★事務所開設以来、本棚やカードを品川力さん、食器棚を三盛社さん、机を夜店通りの山崎呉服店さん、西日暮里の森田さん、食器や座布団を千駄木の斎藤佐知子さん、古川恭子さんなどにいただき、備品はほとんど買わずに揃いました。どうもありがとう。
★事務所にいると夕方、決まって豆腐屋さんのラッパと戸田文具のニワトリの鳴き声。時計なんかみなくても「あっ、保育園に迎えにいく時間だ」とわかる。
 この文具店のニワトリのコースケ君、すごい立派なトサカで足?には真っ赤なマニキュア。なんで夕方五時ごろに鳴くかというと、朝早くから騒ぐとご近所迷惑だというので夜遅くまで叩き起こしておくからとか。出身は東大五月祭でもらったヒヨコとエリートでした。
★スタッフの若手、藤原かおり、恵洋夫妻、ついに公団住宅に当り越谷へ引越す。あまりの広さに本人たちもとまどいぎみ。「生活を記録する会」の主宰は続けてくれるそうですからご安心を。
★団子坂途中右手に岩広ビル(三菱銀行)が建ちました。持主の岩沢さんは定礎石の中に、団子坂辺の古地図や最近の新聞、通貨といっしょに谷根千その八を入れたそうです。このタイムカプセルを開ける時、谷根千は存在するか。
★八号でもお伝えしたトヨタ財団のコンクール「上野・谷根千研究会」は、次の審査に向けて地元の方からの聞き取り調査を行なっています。どうぞご協力下さい。
★彫塑の基俊太郎先生、戸張孤雁の生涯を調べに事務所にみえました。孤雁は彫刻家で、明治三十五年、荻原碌山にめぐりあい、谷中七面坂下に住み、肺結核で 根津真泉病院に入院、四十五歳で亡くなった。墓は谷中大行寺にある。その孤雁の六十回忌の今年、長野県穂高の碌山美術館で孤雁展が催されます (9/2〜11/3。近く続報す)。
★団子坂のカドの喫茶シルビア。ビルになるかと心配していたら、すてきなレンガ二階建ての喫茶店「千駄木倶楽部」ができた。味なことやるネ。

◎耳寄りなお知らせ
■「坂の風景」のエッチングでおなじみの棚谷勲さんの主宰する彩黎美術館(団子坂マンション1F)では素描、版画展を常設。その他美術講座や詩人諏方優氏による詩の朗読会を開催しています。
■根津神社例大祭 二年に一度の本祭り。9月20・21日。
■画廊喫茶印沙羅は半月に一度展示を替えています。11/1〜11/15野沢延行さんの「谷中毒キノコ展」、12/1〜12/15はリオネル・ギラン氏の写真展など。
■西サハラの子供たちは本物の生きた花を見たことがないそうだ。台東・文京の若者たちによる「西サハラ救援コンサート」が9月21日4時、日比谷野音で開かれる。本多俊之、マリーンという一流の顔ぶれで三千円。売上げで花と井戸掘機を送る。夢のある話じゃないか。
■「谷根千自然散策」のお知らせ。?谷中墓地探鳥会?を行ないます。10月5日(日)午前7時、日暮里駅谷中霊園口集合。解散午前9時頃。参加費百円、持ち物(持っていれば)双眼鏡、鳥の図鑑。
「こんな都会のまん中でも、鳥たちは必死に生きています。谷中墓地は鳥から見れば、荒野のオアシスのようなもの。春夏秋冬、いろんな鳥が訪れます。特に秋 は、北国や高山で繁殖を終えた夏鳥たちが、南へ移動する時期。思いがけない鳥が、墓地の繁みでひと休みしているかも知れません。あなたも早起きして一緒に 谷中墓地を歩いてみませんか」と案内役の伊東清隆さん(日本野鳥の会)
 この会は不定期に開催の予定。どなたでもお気軽に参加してください。
■日展より地域の方へ
10月1日、10時より5時まで、千駄木三丁目の日展事務所前で、昨年の入賞作品の絵ハガキを無料で配付します。一人20枚まで。当日は、谷根千其の五でご紹介した児玉希望画伯の画室も見学できる予定です。
■「谷根千の生活を記録する会」では九号特集に合わせて、高村光太郎研究の第一人者、北川太一氏による講演会を十月中に行ないます。詳細は九月下旬に谷根千工房へお問い合せ下さい。
■谷根千では「記録する会」はじめ各種催し物を計画しています。案内ご希望の方は、通信費として500円(一年分)を郵便振替でお送り下さい。
■第五回「ふるさと東京まつり」 10/4〜5は代々木公園、10/18〜19は日比谷公園と多摩国営昭和記念公園で開催されます。


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おたより

 ファンレターです。五月三十日夕刻チャンネル6の「谷中」を家内と一緒に拝見しました。子持ちの主婦の方々が、タウン誌日本一の栄冠を得られてスバラ シーイことです。いつも控えめに仕事をなされていて尚スバラシーイことであります。引続き「義理」と「人情」「やせがまん」でがんばって下さい。
(神田須賀町 海老原保翠様)

 先日、娘が谷根千を見て、なぜ我が家にあるの?と驚いていました。娘は西武百貨店池袋店の書籍部に勤務し、係長が「谷根千」を仕入れたいというので、娘がそれを仕入れ、並べた由。嬉しくなりました。娘からの明るいニュースをきき、つい筆をとりました。
(三鷹市 吉村昭様)
●西武ブックセンターの吉村さん、谷根千の売行きはいかがですか?

 前略、俄なる書信にて失礼。友が与へ呉レしが『谷根千』にてとりわけ鴎外特集なぞ一息に読み終へけるが、敢えて我が好ミを記せば「青年」の純一君のみな らず、貴誌にもちょいと、名の出でたる「細木香以」等、史伝ものよりの話もあらばと思いはべりき。ちと足をのばして不忍池に臨めば掖斎や史伝中の人物も多 く住みをりしなるべく近世の谷根千もさぐり給へば我れ幸甚にさぶらふ。
(京都市左京区 木島史雄様)
●かしこまって候

 七号情報トピックスの記事で、「天台の美術」招待に申し込みましたら、見事に当りまして、娘と二人拝観させていただきました。上野のお山には色々と見るところがありまして有意義な一日でした。
(川崎市 青柳淑江様)
●おめでとう。実は、十人ご招待に十枚ハガキがきたそうです。

 谷根千は創刊号より愛読しております。「其の八」文化少年のころの記事にある彫金家海野健夫君は五、六年前に病死されました。私とは根津小学校の一年生 から卒業するまで同級でした。いつも成績がよく級長にえらばれ、京北中学でも主席であったそうです。父上も美術学校の彫金科の教授で、仕事を継承したので せう。?君?も美術学校で学び、作品は特選になりました。当時海野家は上野桜木町に在り邸宅の奥に二階建てのアトリエがあり、御弟子の彫金するカチカチと いうハンマーの音が聞こえました。
(板橋区 左藤嘉雄様)

 小生昭和二年生まれ、三十歳まで旧駒込坂下町に住んでいました。時折日暮里駅か西日暮里駅でおりて故郷めぐりをしています。大変気持ちが落ちつき心あたたまる思いがします。と同時にほこりも感じます。
 子供の頃、宮本百合子さんの和服の気品ある姿を何回か拝見しました。平和地蔵尊になった石上金蔵君も都電停留所前の防空壕に入るようにすすめられました が、家のことが心配で帰ったあとの爆死でした。本当に心から皆さんのご冥福を祈ります。これからも元気な限り谷根千を読みます。
(埼玉県草加市 三戸亮二様)

 タウン誌、ミニコミ誌が大好きで、あれば必ず買いますが、こんなに読みごたえを感じたのは初めてです。とにかく地域を愛する心がほとばしっている。これが情熱になっているのでしょうね。
 お願いがあります。私の町、根岸もお仲間に入れていただけないでしょうか。谷根千の根はついでに根岸の根と思っていただけないでしょうか。谷根千に負けない程根岸もいいとこたくさんあります。『谷根千おまけに根岸』なんて特集もおもしろいと思うのですが。
(台東区根岸 倉田育子様)
●谷根千に境界線はありません。いい所たくさん教えてネ。

 其の八の文化ガイドの上のスタッフのお子さんたちの年と名前が書いてありましたが、なんとほほえましいことかと思わず名前を呼びかけてしまいました。
(文京区大塚 内野剛一様)
●励ましのお便りとカンパありがとうございました。

 表紙の尾張屋版の地図をはじめ、毎号の発想には驚くと共に楽しみです。次の号はどのような表紙かな?と楽しみにしております。
(千葉市 野中朗様)
●表紙は毎号悩みの種です。

 私は現在七十一歳、十一歳位まで本郷追分町に住んでいた。前がガス会社(赤レンガ)となりに青年会館、クリスマスはすごかった。一高の大きな時計台は震 災で曲がってしまったので赤羽工兵隊によって爆破されてしまった。平和博覧会では夜、大きな燈台みたいなのが光を放ってグルグル廻り、不忍池では水上飛行 機が大きなプロペラの音をたてて池の中を走っていた。根津権現さまは大勢で遊び、よく兵隊ゴッコをした。坂下の芙蓉館には五銭貰って見に行った。尾上松之 助、沢正の国定忠治、洋物スピードハッチ、ディアポロなど子供心をワクワクさせて見た。追分、根津附近は心の故郷である。
(荒川区東日暮里 宍倉寛人様)

 其の六の足立屋さんの記事に私立高浜小学校(元谷中小)とあるのは私の先祖です。高浜家・織田家=武士で寺子屋=高浜小学校です。両家の墓は谷中感応寺にあります。
(谷中初音町 加藤ふゆ様)

囲み
谷中の赤とんぼ  野沢延行
 秋になると谷中に赤トンボが来る。秋の代表的なトンボ、アキアカネである。この時期、秋の澄んだ空と赤トンボのコントラストは実にきれいだ。毎年十月頃 になると朝夕、草むらの上を飛ぶ赤トンボを見かける。これは餌となる小さな昆虫を捕食しているのだ。小さい頃トンボの群れを見て気味悪がったことが懐かし い。
 このアキカカネは夏の暑い時期、避暑のため山林で生活し秋の訪れと共に平地に帰ってくることで知られる。特にオスは赤みを増して立派な赤トンボになって 帰ってくる。およそ、100kmの移動をするそうだ。谷中では夏でも避暑に行かないナツアカネやノシメトンボなどの赤トンボを見ることができる。
 六月中旬頃、ヤゴからトンボになり早速山地に向うのだが天敵の野鳥が餌にしようとこれを狙っている。今年も芋坂のツバメが赤トンボをくわえて行った。山地へ行けばトンボの餌は豊富だろうが、さらに厳しい生活になるに違いない。
 そして谷中に帰ってきた時、夏の間に大きくなったジョロウグモがこの大物を餌にしようと網をはって待っている。お寺の住職は。「昔たくさん池にヤゴがい たが今はあまり見かけません。産卵場所は不忍池ぐらいでは」と言う。それでも秋が深まればまた、谷中に赤トンボがやって来る。


p36
編集後記
◆夏は窓から盆踊りの太鼓が聞こえるたび、夕食もそぞろに飛び出し、?お祭りジプシー?と冷やかされました。秋は権現さま、天祖さま。浮き浮きしてきます。
◆「いろんな方の話が聞けて楽しいでしょう」とよくいわれますが、私たち、人見知りで、やっとのことでお約束の電話をかけ、二人で伺うと、どちらがブザー を押すか譲り合い、こんなことお聞きしていいのかと冷汗を流し、発売日の頃は記事にして良かったのかしらとドキドキ。お話を聞かせてくださった人に事前に 気を見せる場合もありますが、正直いって、一番ホンネに近いおもしろい部分が削られてしまうものです。
 今日は「いい話が聞けた」と喜んで帰ったとたん、「やっぱり差支えがあるからあの話はなかったことに」との電話にガックリ。地域誌の難しさは、登場人物 をよくご存知の読者が多いことで、情報が拡散してウヤムヤになってくれないことです。私達としてはお話して下さった方のプライバシーやお立場には十分配慮 しているつもりですが、思わぬミスもあり薄氷を踏む思い。しかし歴史の真実を記録したいという意欲はお汲みとり下さい。
◆光太郎・智恵子特集はいままでで一番苦しみました。大衆化された「至純の愛」といった視点にはとらわれなかったものの、勉強と調査が進むにつれ、万華鏡 のように私達の視点も動揺しました。同時に、地域の方に光太郎や智恵子のことを紹介し、さらに地域史ならではの独自性も生かしたい、と欲ばったのですが、 たかだか十二頁で、この矛盾多き巨人の総体には迫り切れませんでした。鴎外・円朝に次いで、また宿題が増えました。
◆事務所が仰木宅から独立して、昼の外食が多くなりました。ところが根津付近では一時半を過ぎるともう「準備中」。それと化学調味料の味が気になります。化調を使わない自然味のお店があれば紹介します。自薦、他薦どちらでもどうぞ。
◆古い建造物、古文書、昔話などばかり追ってますと、つくづく人間の命の短さを実感します。つまらぬことで争ったり、落ち込んだりせず、本当に大事なこと だけに精一杯力を傾けたいと思います。谷根千をはじめて、ますます子供が大切になり、夫婦げんかは少なくなりました。(M)

お知らせ
◆バックナンバーと地図のご案内
 数カ月売切れ状態の一〜五と地図、ご要望が多いため増刷しました。増刷分は地域内の本屋さんにあります。
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奥付
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の九
一九八六年九月二十日発行
編集人/森まゆみ 発行人/山崎範子 事務局/仰木ひろみ
発行 谷根千工房(やねせんこうぼう)地域雑誌「谷中・根津・千駄木」其の九
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