地域雑誌「谷中 根津 千駄木」8号 / 1986年6月20日(金曜日)発行  250円
団子坂物語
8号 団子坂物語 其の8 1986.06.20
団子坂特集(36p) 
表紙/「根岸谷中辺絵図」(安政4年・尾張屋版)
根津神社−スケッチ/川原史敬

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目次
団子坂物語 
 見晴しの湯−浜田晋さんの話
 岡本銀行頭取邸−牛丸典子さんの話
 団子坂に並ぶ名医
 文化少年のころ−益田武三さんの話
 団子坂の子供たち
 薮そば、菊そば、今晩軒
 薮そば−母の話から−田口雅恵さん
 イボタ虫ノ話−山口喜雄さんの話
 団高の高橋鈴さん
 百瀬ナツ子さん
 団子坂ばなし
坂のある風景−団子坂−エッチング/棚谷勲
円朝はわれらの同時代人・後編−谷根千円朝めぐり
 円朝グラフィティ(続)
ギャラリー・谷中墓地周辺
谷根千ちず
the 不忍通り−おじいちゃんおばあちゃんに聞く町の歴史−斉藤とよさん、望月次作さん
 町並みスケッチ/つるみよしこ
 街の発展と富士銀行
谷中のカエル−野沢延行
谷中・藤棚のある民家−剪画・文/石田良介
拝啓「こんにちはあいそめ」の皆様!
味のグランプリ−アイスは大正ロマンの味・芋甚(根津)
吉田屋さんありがとう
再び平和地蔵について
情報トピックス
かおりのエプロンサイクリング2−製麺屋さんとおにぎりの「いなほ」
おたより
著者自筆広告6−藤森照信「建築探偵の冒険」筑摩書房
編集後記
お知らせ
文化ガイド


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団子坂物語
扉写真・団子坂(昭和29年)大竹新助著『坂と文学』(地域教材社)より

団子坂〔ダンゴザカ〕文京区千駄木二丁目と三丁目の境を東へ下る坂。本郷台と上の台を結ぶ数百年前からあるメインストリート。
 正式名称は千駄木坂。「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ、此坂の傍に昔より団子をひさぐ茶店ある故の名なり」(御府内備考)
 別名汐見坂、七面坂。登り凡そ一町、幅二間半。

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見晴しの湯  浜田晋さんの話

 大正時代、団子坂に五階建てのビルの風呂屋があった、というのだ。経営者の浜田湯の浜田晋さん夫妻に聞く。
「頭の中にはフロ屋の様子が浮かぶのだが、なぜかうまく話せない。不思議な建物でした。団子坂の浜田湯は、大正十三,四年に開業です。震災直前に骨組みができて、地震でなんともなかった。
 初代は浜田市次郎。石川県の出身で私の伯父に当ります。二代目が私の母のケイ。三代目が私で、昭和五十七年まで医大の通りで浜田湯をやっていました。
 団子坂の方は、今の汐見出張所からガーデンカップのあたりまで。設計したのは初代市次郎。坂に面しているので、坂下から見ると五階建て。しかし1〜2回 は釜場と木材を入れる倉庫で、坂から見ると地下に当る。ですから道から石段を少し降りると、そこが風呂場の入口です。そこから三階分が吹き抜けの風呂場。 天井がすごかった。タイル貼りで天女の絵が描いてあったのを今でも思い出します。
 三階部分が回り廊下になっていて、コの字型に部屋があって住居になっていた。また脱衣場の脇の階段を上ると屋上に出られ、うちより高い建物なんてなかったから、それこそ見晴しがよかった。この辺で、コンクリでできた建物は松坂屋に東大に汐見小にうちくらいのもんでした。
 四角いビルみたいで、エントツがあるから風呂屋ってわかるくらい。そのエントツだって素人が建てたんで曲ってたんだが、えらく頑丈でしたね。建物も頑丈 で鉄筋のないとこは竹を切って中に入れたりしてあった。戦後二十四、五年に壊すときなんて、風呂銭が十二円のころ、解体に四十数万かかったといいます。
 風呂を沸かすのにも新式のアイデアのつもりだったんでしょう。最初は屋上に水を張って太陽熱で温め、ポンプで降ろして沸かしていたが、そのうち屋上から水が漏るって苦情が出てやめたらしい。
 燃料や材木をリヤカーで運び込むのも、団子坂は大変だった。急だし、夏は暑くて、ぐずぐずしていると、タイヤがアスファルトにめりこむ。坂下からセー ノってぐあいに一気に登るんです。戦争になると燃料も少なくなって、一台運んで一日商売すると何日も店を開けられない。そのうち西川さんという人が工場に 使いたいというので売りました。
 客では、春風停柳好、谷脇素文、俳優の井伊友三郎、四階部分にはだだっぴろい部屋があって、よく画描きや彫刻家がアトリエがわりに借りに来ていた。橋本明治さんがここで描いた絵が帝展(日展)で特選をとったことがありましたよ。
 とにかく市次郎という人はアイデアマンで新しいもの好きで、日医大下の浜田湯も、風呂屋にプールを併設したのは東京で第一号じゃなかったか。レンガで固めた壁に滝も流してたんですよ」

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岡本銀行頭取邸  牛丸典子さんさんの話

 団子坂を上り切った右側に今も古い石垣塀が残る。今は宮城県宿舎萩風荘だが、戦前は岡本銀行頭取岡本善治邸であった。
 その息女牛丸典子さんを訪ねた。
「岡本銀行を興したのは祖父の善七で、この人は天保二年、安房多田良村といいますから千葉の生れです。最初は村々を行商して歩き、二十一歳の時、上京して 江戸橋の山崎屋新七という両替屋の丁稚に入りましたが、その時同輩に安田善次郎さんがいたんですって(現在の富士銀行の前身安田銀行の創立者)。明治四年 に山崎屋が閉店したので、祖父は日本橋堀江町に両替店を開き、明治二十三年、岡本銀行を創立しました。
 伯父が団子坂で生れたといいますから、明治三十年代にはもうあそこにいたのでしょう(明治三十六年の人事興信録ですでに岡本善七氏は千駄木町46に住んでいる。菊人形の風俗画にも岡本邸の石垣が見える)。
 善七の最初の妻は汐見サクという人。しかし私の、父善次はじめ八人の子は清水清大園(藪下の植木屋)より迎えたミネが産んだのです。父の善次も初婚に破 れ、再婚の妻ヒデ(私の母)との間に五人、その妻との間に五人の子がいました。銀行家として活躍するより、骨董品の収集などに一生を過ごした人です。
 私は大正十四年にこの邸で生れました。祖父の時代には門と庭は洋風でしたが、父の代で和風にしました。大門の下の大石は島根だか鳥取の方から、夜、牛に 引かせて運んだそうです。大門と通用門にはそれぞれ門番がいて、女中も多く、下働きはエプロンをかけて掃除、上働きは足袋をはいて子ども達を学校へ送り迎 えし、一日、学校のお待ち部屋で針仕事をしながら待っていました。
 母はいつお客が見えてもよいように夏でも足袋をはいて着物をキチンと着ており、大晦日の夜には女中たちに正月の作法を教えました。そのほか車夫や、飯炊き専門のばあや、夜中十二時、明け方四時に火の用心に庭を回るじいやもいて、昔はのんびりしたもんですね。
 大門のあったころに大都映画の「紅とかげ」で近衛十四郎、水川八重子などが撮影にみえて、うちが柳沢家の御殿という設定で巻物を奪うチャンバラのシーン を撮りました。映画女優さんが「こんなお邸でお育ちになるお嬢様はお幸せね」とおっしゃったけど、内情は複雑だったのですよ。
 昭和七、八年ごろまで、庭で園遊会をやりまして、高村光雲さん、河合玉堂さん、棚橋絢子さんも見えました。庭に舞台をつくり、権現様からおはやしの人を呼び、夜はちょっとしたお芝居もしました。四角い行燈をともし、きれいだったのをおぼえています。
 邸内にはお稲荷様もあり、初午の日には大門をあけて、近所の方に伊勢屋さんのお菓子を配りました。権現様のお祭りの時もお神輿が大門から入って、なしと氷とお酒をかつぎ手に出したものです。
 骨董好きの父は、年に一度、珍品会といって、お互い自慢の品を見せあい、その場で気に入ったものと取りかえっこしていました。ですから彫刻家の方も多く 見え、とりわけ高村光雲さんとは仲良くて、豆まきの時は裃を着て一升ますを持って豆をまいて頂いたわ。私たちは帽子を持って拾って歩くんですけどね。妹の お雛様は光雲さんに作って頂いた。額にダイヤをはめこんだりしたそれはすばらしいもので、今もっていれば大変な価値でしょう。懐かしい粉は多いのですけれ ど、今でも年に一度、いとこ同士三十二人集まって、菊和会をやりまして、昔のことを話し合っております」

団子坂に並ぶ名医
 牛丸さんが「かかりつけのお医者様は瀬谷医院で、すぐ近くなのに団子坂を人力車で往診にいらっしゃったですよ。お中元には文房具を下さいました」という瀬谷医院に伺った。
「最初は人力車で、そのあとオースチンの自動車でお抱えの運転手がいたようです。義父の瀬谷子之吉は帝大出の耳鼻科医で、勤めていた順天堂病院が震災で焼 け、患者さんがいくところがないので仕方なく自宅診療を始めたんです。それがいつの間にか押すな押すなに混雑して、下足番もいたくらいで、まあ東京中に知 られていました」
 びるに建て替えの際、古い洋風の扉や電燈を生かし、その名も、クリザンテエム館(菊の館)とした心意気がうれしい。
 四、五軒下の石川医院は、酒屋佐野松の建物を大正期の看板建築に直した。先代の石川教太郎先生は保険を扱わずに、実費だったがそれでも安いと評判。また瀬谷医院の裏には初田眼科(現在本駒込に移転)もあり、三軒名医が並んでいると喜ばれた。

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文化少年のころ  益田武三さんの話

 不忍通りの団子坂近くでお兄さんが益田運送店をやっていらした益田武三さん(明治三十九年生)にうかがった。
「私の家は今でいう美術運送で、文展などの出品作をうまく大事に搬入するというので大変な信頼があったもんです。田端の大久保作次郎、菊見せんべいの左を入った鈴木良治、藍染町の富田温一郎などもお得意でした。この辺いったい美術の匂いがする街だった。
 吉江自転車の並びの松田写真館の息子と、谷中真島町の通称「モデルばあさん」のところに行ったこともあるな。画家にモデルを紹介するわけなんだ。寺町の 中の仕舞屋の薄暗い八畳敷きくらいのところにモデルがいて、画家がいわばお見合いみたいに選んでいた。写真のモデルだと十分二円くらいでいい商売と思った です。貧乏な画家も文展なんかで入選しちゃうとタチマチお金が入り、すぐ立派な家に移りましたね。岩田専太郎(挿絵画家)も道灌山や田端の方に住んでいた が、ブラリと歩いては喫茶店で一枚絵を描いてコーヒー代がわりに置いていく。そんな姿を見かけたことがある。私も、田端をさまよっては自笑軒て有名な料亭 やら、芥川龍之介邸の辺りをさまよっては、垣根越しにのぞいたものだ。端然と原稿用紙の前に座って腕組みしたり、背伸びしている芥川も見ましたよ。
 私は今の本郷通りの向丘高校あたりにあった駒本に行った。駒込と本郷区をとって学校の名前にしたのだが、寺子屋時代の名残でゴザ敷きで着物を着て通った 記憶がある。その次が白山下の京北、井上円了博士の作った学校で、人、義、礼の各組四十人ずつ。同級には道灌山下の歯科医、故鹿窪勝雄君、彫金家海野建夫 君、中央大の独語科教授北村義男君もいた。団子坂は毎日の通学路だったわけだ。
 もちろんバスにも電車にも乗らず早足で歩いていく。するとよく森鷗外さんが野村屋の脇の木戸から風呂敷包みをもって出てきた。駒込電話局のところは、物 集高見博士という碩学がいて、この人は『広文庫』という漢籍の総目録みたいな手間のかかる本を独自で出版していた。私の父はこの事業の編集係りみたいに なっていたが、すごく広い邸で、丸い素柱の門の所から、母屋が見えないくらいだった(その子息が長寿でときどき新聞を賑わした故物集高量氏、息女が初期青 鞜の同人物集和子氏でのち藤浪姓で『東京掃苔録』を著す。青鞜の事務所は物集邸にあり、いま「青鞜発祥の地」の史跡板が立つ)。
 また大観音光源寺の先に栄松院という寺があり、境内の枯れた木に白い蛇がいっぱいいるので通称“ヘビ寺”といっていた。ここで、大正半ばごろの毎日曜、 脚本朗読会なるものが開かれていた。主催者は岡田三郎、通称サボロー。文学青年、少女が寺の本堂に集まり、得意になってシナリオの読み合せをやっていた。
 一番憧れたのは団子坂を上って右に入りまた左に入ったところにいた久野久子。東京音楽学校でで嘱望されたピアニストで、素敵な洋館の前を通るとピアノの 音が聞こえ、私はこんな人にピアノを習ったら、私の荒んだ気持ちも和むのではないかと思った。それで何度も、下男にでもしてほしい、ピアノを教えてほし い、と頼みに行くことを考えたが、果たせぬうちに、彼女は文部省の命をうけてウィーンに留学。そこで謎の自殺を遂げてしまったんです。
 岡本邸の裏手に「タダ学校」というのがあったと思う。岡本さんが土地を寄付したんじゃないだろうか。坂下の方には貧乏な子も多く、タタキと二畳の長屋に 一家で暮らしてたり、ゴミ箱あさりをして食っている親子もあった。そこで救済措置として、授業料はもちろん、エンピツから何からタダででくれたように思い ます。
 こうして話してくると自分が団子坂の路傍の小石にでもなって何十年かの代の栄枯盛衰を見てきたような気がしてくる。スラムの子は今どこにいるか、お邸の子は今どこにいるんだろうか」

団子坂の子供たち
 わが団子坂は子供に人気のある坂だった。三輪車で両足をペダルから離して、坂の上から勢いよく下りる。今思えばゾーッとする。よくひっくり返りもせず、電信柱にもぶつからなかったものだ。
 当時、市電は団子坂下で止まり、車掌は「団子坂シタアー」と声をのばした。私たちもまねをして「ダンゴザカシター」と声をそろえてドナッたものだ。
「菊見せんべい」は戦時中、配給になるまでは大きな立派なオセンベを焼いていた。砂糖が不足しはじめた頃、醤油の上に、あの白い砂糖液がベターッとついているのを、私たちは大切に大切になめた。
 また坂を上ると、ゆるくカーブした辺りに瀬谷耳鼻科があり、その木の門の前を入ると、突き当たりは講談社が引っ越したあとで、しばらく子供たちの遊び場。池があり、「講談社の池」と呼んでいた。
 瀬谷さんの向いの焼芋やでは、今の丸焼き芋と違い、太い金時がほどよく切ってあった。その上の藪下道の観潮楼の前は、“見晴し”であるが、私たちは“ダ ンガイ”と呼び、口のまわらない子は“ダンカイ”といって、団子坂の帰りには必ず崖の上の鉄柵の所から遠くの景色を皆並んで見るのがお決まりのコースだっ た。
 団子坂をはさんで林町側は千駄木小へ、千駄木町側は汐見小へ通ったが、兄弟校といわれ仲が良かった。仲が良くなかったのは、誠之小で口には出さないが、 “あそこは金持ちの子が行く”と、通学路で通せんぼしたりもしたが、帰宅して普段着に着がえると、誠之の子も一緒に駄菓子屋にいって遊んだものだ。(山辺 康美さん・千駄木小昭和十九年卒)

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藪そば、菊そば、今晩軒

 藪そばと菊そばと今晩軒、この三つは混同しやすいので調べてみた。
 古くは江戸の狂言作者西沢一鳳の句に
  千駄木団子坂より藪そばへ行きとて
    藪蕎麦をうつ棒先や時鳥
 がある(弘化四年、綺語文章)。
 また誰の川柳かわからないが、
  団子より坂に名高き手打ちそば
 の句もあり、すでに天保以前に、団子坂に「藪そば」と称するものがあったことがわかる。
 これと、江戸末期から明治にかけて有名な「団子坂の藪そば」は別物で、こちらは「蔦屋(つたや)」が正式の屋号で、初代は下野国喜連川出身の武士であっ た三輪某。成功して神田連雀町その他に支店を出し、これがいわゆる「藪」の総本家だといわれる。しかし三代目の三輪伝次郎が日露戦争後に相場で失敗して明 治三十九年に廃業。伝次郎のもとで働いていた金子直吉、なお夫妻が、その後「藪仲」を上野池の端に開いた。
 その団子坂の藪の所在地は、諸種の資料を突きあわせた結果、瀬谷医院の角を曲がって二軒目の高橋四郎邸辺りと思われる。門構え、石段、木石の配置、石燈籠などがタダモノではない。
「田野眺望最もよく、また庭前には古石苔滑らかにして、離座敷等数多、閑静なるものありて、その趣き、真に風雅なり」
と「東京百事便」は伝え、藤井浩祐氏の「枇杷の葉と犬」によると、
「きっと藪そばでえ一杯やるんでせう、それを考へるといやになるわ、尤も田圃の景色を見下ろしておそばを食べるのも悪くはないけれど、お酒を飲み始めると長いから、去年の夏なんか小半日もゐたわ。酔ふと滝なんぞあびるんですもの」
 と菊人形へ父といく娘がこぼしている。
 竹藪があり、滝があり、「その青竹で酒を飲ませるほか、お土産にそばつゆを青竹に入れ、ネギで栓をしたっていうから風流だね」(山口善治さん)。菊人形帰りには藪そばへ行き,菊見せんべいを買って帰るのがコースだったようだ。
「菊そば」は「藪そば」とはまったく関係なく、団子坂の菊人形が廃業したのち、植梅の浅井氏がはじめたもの。
「植重、植惣の如きは一昨秋限廃業して小屋跡は何れも家作となし、植梅は蕎麦屋となり、独り種半の親爺のみ頑張って昨秋は開場せしも予想外の不印にて閉場」と明治四十五年の新聞にあるので、菊そば(梅寿楼)の開店は明治四十三年であろう。
 さらに「菊そば」から「今晩軒」への移行について、今晩軒経営者植田宇一氏の息女植田一子さんに聞く。
「菊そばは有名店で大繁盛していました。味がよかったからですが、その秘密は井戸水にあったと思います。
 庭はもちろん立派でしたが、建物も丸太で釘を使わずに建てたすばらしいものでした(加賀前田家出入りの植木頭であった浅井氏が加賀様よりお茶屋風の梅寿 楼を拝領、移築したものという)。最後は岡田さんという方が借りてやってましたが、戦時で主食が統制となり、そば粉や酒も手に入らなくなりやめたそうで す。
 私の父宇一は、戦前白山で、東洋大学の学生食堂をやり、駒込や大塚の警察署の留置所のお弁当も作って納めてました。その関係で、戦争がひどくなると、警 察の依頼で炊き出しを初め、聞くそばが開いているので、頼まれて団子坂でも始めました。二十年三月九日の空襲で白山の方は焼けてしまい、家族中で団子坂に ひき移って炊き出しを続けました。
幸い今晩軒は戦火にあわずにすみ、終戦後はすぐ雑炊食堂となりました。動座、神明町、団子坂、根津にある内で、「団子坂の雑炊には箸が立つ」と濃いのが皆に喜ばれたものです。これがしばらく続き、次に外食券食堂になりました。
 労働基準法のできた昭和二十二年頃からは板前を雇い、芸者さんも呼べる料亭をはじめ、昭和四十年頃までやってました。でもだんだんほかに店も出来るし、 うちは駐車場もないし。仕出し弁当屋に切り替えて、四十四年の五月、ビルに建て替えるまでやりました。本当に、戦中・戦後を今晩軒乗り切らせてもらった感 じです」
 
囲み  藪そば  母の話から

 父は梅原文三郎、母は梅原たま。明治五〜六年の生れよ。当時団子坂にあった藪そばで働いていた二人が恋愛して職場結婚したというわけ。そば屋といっても 大きくて立派で、料亭みたいだったそうよ。秋は菊、夏は庭にある滝を眺めにお客がどっさり来た。そこで母は女中をしていた。お運びさんみたいなものね。父 はそばを作る職人で、藪そばっていえば青粉を入れた青いそばで有名だった。今でいう茶そばみたいなものかしら。
 山岡鉄舟は近くにいたから、ちょいちょい食べに来たらしい。大男で、脱いだ下駄がどぶ板みたいだったそうよ。
 藪そばは女系で、養子をもらったらその養子が株や相場に手を出して失敗。スッテンテンになっちゃって店を閉めたって聞いてるわよ。 
 うちの両親は結婚して、本所に店を出し、麹町に移って、最後は森川町に落ちついた。藪そばの屋号の蔦屋をもらって「藪蔦」というのがうちの屋号。私もそ こで生れた。藪蔦の主人からいただいた、藪そばの半纏がボロボロになって柳ごうりの底にしまってあったけど、ボロ布と間違って捨てられちゃって。もったい ないことしたなって未だに悔やんでる。
 (田口雅恵さん・千駄木五丁目在住)

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イボタ蟲ノ話  山口善雄さんの話

 団子坂に「いぼた屋」という珍しい商売があったと聞いた。山口善雄氏の話。
「ええ、私の家がいぼた屋です。祖父小出高吉がはじめ、父の山口大次郎(明治二十四年生)が養子で跡をつぎました。
 昔、結核が死病だった頃、これに効くというのでいぼた虫というカイコに似た細長い虫を乾燥させ、薬研ですって粉状にした薬があった。今でも漢方薬屋にい けばあるでしょう。うちはその専売特許を持っていて、戦時中までやってました。特許をとるために提出した書類がこれ。井上馨の名の免状もあります。
 二階でいぼた虫を飼っていたので、エサの葉が切れると、夜、人が寝てるところに下りてきてモゾモゾはったりしました。干したのをお八つがわりに盗み食いしたがパリパリしてけっこうイケましたよ。
 地方からもずいぶん引き合わせがあって、まとめて包装しては郵便局まで持ってった」
 そういえば親父の昔話のテープがあったと貸して下さる。これは宝物のようなテープ。今回は団子坂関係だけをご紹介する。故山口大次郎氏の話である。
「団子坂は明治時代は今の三分の一くらいで、あんなにゆるかない。もっとおっ立ってた。
下りる右側は深くなって水が落ちていた。岡本さんの邸の石垣が当時と変わらないね。反対側の奥に根津遊郭の松葉屋の寮があり、おいらんが病気をすると養生に来た。この、今の八中あたりは広くて池があり、たいしたものだった」
 本郷区史によると、八中あたりは紫泉亭という料亭。これを開いたのは団子坂の植木職楠田宇平次で、性豪放で負債一千両を抱えてもケロッとして一大祝宴を 開いたほどの人。嘉永五年二月十九日に開場し、「四時の花を盆栽種の草木を育て崖の辺りに茶亭を設け眺望よし、諸人遊覧の所となって日毎に群集するもの多 し」とうたわれた。梅の木が多いため梅屋敷ともいう。慶応の末、根津遊郭開設のとき梶田某が買収し妓楼松葉屋となった。
「初代の高吉がここに来たのは上野の戦争の前で、そのうち戦争になると評判なので、荷物は染井に持ってって、じいさんがここで頑張っていると、五月の雨の 日に麻から始まったので、団子坂の上まで逃げた。枇杷橋のところの川の中や路地に彰義隊が隠れているというので、官軍がここらに火をつけちゃって、じいさ んはうちが燃えるのを田んぼの中にかくれて見てたんだって。
 私が子供の頃、ここから動坂まではずっと田んぼで、家なんかありゃしません。藍染川の水を田んぼに引いてましたが、ここは底なし田んぼで、絶対入っちゃ いけないといわれた。入るときは四斗樽のタガをはずし、十文字に木を打ってハナオをつけて入ったもんです。新道を造るときは本郷区中のゴミを埋めたので、 ひとしきり周辺住民が騒いだもんだ。
 この辺は梅屋敷に菊人形、大店の寮と華やかだったがね。菊人形時分は毎年十月十五日〜十一月三十日くらいだったのが、だんだん欲張って十〜十一月の二ヶ月いっぱいやってたが、終わりの頃は菊が枯れてみすぼらしく、天長節の頃が一番よかったですね」

団高の高橋鈴さん
 高橋という姓は多いので、団子坂の高橋、通称団高さんと呼ばれてます。
 私は明治三十四年生れ、姉のうちが団子坂で飾り職をやってましたので、十五〜六歳の頃からこちらに参りました。
 その頃は菊人形の首が、大西さん(種半)の裏にころころ転がっていて、夜なんか怖くて通れません。ここでやはり飾り職の夫高橋多助と所帯を持ちましたが、この辺職人が多かったですよ。夫は璃幸といって指輪やかんざし、帯留めなんかでも高級品を作る方だったんです。
 昔の職人の妻は忙しくて子育てもあって、あまり街のことは覚えてません。佐野松、鬼島肉店、塩崎八百屋、魚新、松浦乾物店など品物のよい店が揃っていて 不便はしませんでした。菊そばは出前も届けてくれましたが、店の前を通るといい匂いがプーンとして、よそより高めですが、さすがにおいしかったですね。

百瀬ナツ子さん (大正六年生れ)
 私の生れた高木の家はちょうど見晴しの下で、あそこの崖から下へ降りる丸太の階段がくねくね曲って白蛇坂といい、坂下にバナナの木がありました。崖の上 から両国の花火やチェッペリンを見ましたね。大観音の春の縁日には、芝居、あやつりやろくろ首、剣舞といった見世物小屋が並んで、毎年楽しみでした。
 あと吉江自転車のはすっかけの道の入口に、きれいな水の湧く菊水の井戸があって、馬が飲んでましたが、震災の時にはあの井戸のお陰で助かりましたね。奥 に後藤貞行って有名な彫金家がいました。楠正成の馬などを作ったそうです。裏には山岡鉄舟の娘で山岡しま子さんという琴の先生が住んでいたと思います。
 見晴しの湯に通い、帰りに鰻屋のおじいさんの玄人はだしの新内語りを、母と二人立ち止まって聞きました。
 今でもあるかもしれませんが、フード浴用石鹸とレコード石鹸が汐見小の前に並んであって、後ろのドブにはお湯が流れ、側を通るといい匂いがしました。私 は根津小で四年やって、その後汐見小ができて移りましたが、水洗便所にスチーム、一人机という最新式。根津小は汲み取り便所にダルマストーブであいたか ら、本当にびっくりしました。

(団子坂ばなし)
●団子坂の石降り事件(山口善雄談)
「東京音頭がはやった時分、柳通りの三由という氷屋の隣の広場で町の連中が踊っていたが、毎晩決まった時分に石が降る。それでなんだなんだと大騒ぎになっ て人だかりがした。結局、三由氷店の小僧が面白半分に二階の便所の窓から石を投げていたと判明。皆が騒ぐんで引っ込みがつかなくなっちゃったんだね」

●海亀はどこへ行ったか(中小路静ゐ談)
「団子坂のとっかかりに佐野松という酒屋があって、あそこにそれはそれは大きな海亀が来たというので、町の人が入かわり立ちかわり見に行ったの。大正のは じめかしら。でもそのうちに見えなくなったので、あれ、佐野松で殺して食べちゃったのだろうと、また評判になった。暇な時代だわね」
 静ゐさんは、婚礼のとき、黒の留袖を着、提灯のついた迎えの人力にのって、団子坂を下って中小路家に嫁いだそうだ。
●ほかに菊人形のこと、江戸川乱歩が団子坂上で開いていた三人書房のこと、室生犀星の詩「団子坂」などについては追ってご紹介します。

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谷根千円朝めぐり 

 前編より一年ぶりで、円朝をお話申し上げまする。前回は全生庵住職平井玄恭先生にご登場願いまして、円朝と山岡鉄舟の交わりについてでございましたが、 今回は現地取材の名人、円朝に習いまして、円朝作品中の谷根千の町を歩いてみようという趣向で。円朝はこの町に深い関わりがございますから、その土地カン が物語の細部にリアリティを与えております。

 まずは今回特集の団子坂の角からまいりましょう。
「随分仕事があるから代りに出ねえかというから、おれの持場は団子坂や茶屋町あたりで、仕事がねえからいい幸えに…」(蝦夷なまり)
 さて、坂の上りっかけ右側に、江戸・明治の昔、蔦屋と申す蕎麦屋、竹藪が茂っておりまして「新蕎麦」の方が通りがいい、これが全国の藪(そば)の発祥でございます。
「むこうがずうっと駒込のほうの山の手に続き、かすかにまだ藪蕎麦の燈火は残っている。田んぼ道で車の輪がはまってなかなか引けません」(松と蒔芸妓の賛紋)
と、団子坂はここまで。これより反対の三崎坂に向います。上りかけの右側に、朝日湯という湯屋が見えてまいりましたが、ここがかの怪談「牡丹燈籠」で有名な新幡随院法住寺の跡。
 旗本の娘お露と恋仲になる美男の萩原新三郎は「根津の清水谷に田畑や貸長屋を持ち、その上がりで暮らしを建てている浪人」で、この根津の清水については おいおい申し上げましょう。恋焦がれて死んだはずのお露が夜な夜な、牡丹芍薬の花のついた燈籠を下げた女中お米を先導に、カランコロンと下駄の音をさせて やってくる。聞けば「谷中三崎村で二人暮し」という。不思議に思った新三郎が、三崎村を探しても、いっこうに女二人暮しという家はない。
「帰りに新幡随院を通り抜けようとすると、お堂の後ろに新墓がありまして、そこに大きな角塔婆があって、その前に牡丹の花のきれいな燈籠が雨ざらしになって」おります。さては幽霊、ゾーっとした新三郎は住職良石和尚より死霊侵入を防ぐ海音如来とお札を頂いてきます。
 戦前まではこの寺がありまして、柳通りのスーパー松浦の松浦照子さん曰く、「入口にきれいなお姫様の大きな人形が飾ってあって、だれか奇特な人がときどき着物をきせかえたり、お花をあげたりしてました」。
 また桜木町の星谷安久利さんも、「牡丹燈籠を芝居にかけるときは、六代目(菊五郎)でも何でも、必ず役者衆が新幡随院にお参りしたもんです」
 さらに坂を下りますと、先ほどの「松と藤芸妓の替紋」の前の件り、
「谷中の笠森稲荷の手前の横町を曲って、上にも笠森稲荷というのがありますが、下の方がなにか瘡毒の願いが利くとか申して女郎衆やなにかがよくお参りにま いって、泥でこしらえたる団子をあげます。あの横丁をまっすぐに行き右へ登ると七面坂、左が螢沢、宗林寺という法華寺があります」
 上の笠森は明和の美女お仙のいた所で今の功徳林寺、下の笠森は大円寺でございます。昨今はアトピー性皮膚炎などにもご利益があるそうで、五月二十二日の大円寺の大祭に参りましたら、泥の団子は今も売られておりました。
 この横町を曲って、ずんずん宗林寺も行き過ぎますると、いよいよ日暮し、南泉寺がございます。ここも円朝の義兄玄昌が由縁。
「お寺は谷中日暮の瑞応南泉寺という美濃の南泉寺の末で、りいぱなお寺で、ただいまは本堂を壊して売ってしまい、仏さんまでも狭いところにごちゃごちゃし て窮屈そうな顔つきをしているかどうだか知りませんが、大きな寺でございます。…私の兄が彼寺にいまして、そのころわたくしは油屋の久松などと言われまし たが、いまは子返りして台なしになりました」(名人くらべ)
 絵師狩野毬信が越前様の御菩提寺南泉寺の欄間の天人を書いておりますと、大塩平八郎の残党が侵入し、それをかくまい、罪に落ちるというお話。
 またずんずん行くと青雲寺。ここも「真景累ヶ淵」その他数篇に出てまいりますが、本日は手前の富士見坂を登ってお諏方様の前へ出ます。また青雲寺を含む谷中七福神についても、円朝には「七福神詣で」という一口噺がございます。
 「えゝ、このお話は御一新前、慶応元年の十一月二十一日に、日暮里は花見寺の前、お諏訪様の境内にございました心中のお噂で……」(心中時雨傘)
 お初と金三郎は「たれはばかることもない相合傘、霜月二十一日の宵暗をようようと日暮里へたどりつきました。ここから諏訪の台にあがりますと、昼も小暗 きお諏訪様の森で、その前が花見寺の裏門でございますから、かけねの破れから墓場へはいり、亡きおふくろの墓にもうでまして、墓前と二人の死にどころと互 いに名残りを惜しんでおりますと、カチカチカチと寺の夜回りが来る様子でございます」見つけられては一大事とそこそこに墓場を逃れいで、お諏方様の森に潜 んで、雨傘の裏に、「わたくしどもはふうふもの、どうぞいっしょにうめてください」と走り書きして心中する物語。あわれに思った寺の和尚様が、望み通り一 つ墓に埋め、花見寺の夫婦塚という小さな墓標が残っていた、と円朝は見てきたような嘘を言う。
 先の「名人くらべ」でも、南泉寺に夫絵師毬信と、夫を救うため操を破った板東お須賀の墓があるとして、その戒名を見てきたともっともらしく述べております。毬信、お須賀は「トスカ」の翻案。
 さて、ここから谷中へまいります。
「はい、あの谷中のほうはどうまいったらよろしゅうございましょう」
「ええ谷中はどちらまでおいでなさるんですい」
「あの長安寺と申す寺でございますがね」
 とある長安寺は円朝の幼少時の住い。紙屋甲州屋の娘お梅が手代粂之助との恋仲を引き裂かれ、悪党千駄木の植木屋九兵衛の手にかかり不忍池で殺される。粂 之助の兄玄道は南泉寺で修業した長安寺の住僧という「闇夜の梅」にも、円朝は上手に谷根千体験を生かしております。ここから谷中墓地をつっきれば、
「……お前さんは何処にいるだ」
「拙者は根岸の日暮ヶ岡にいる。あの芋坂を下りた処に」(菊模様皿山奇談)
 の羽二重団子で有名な芋坂ですが、ずっと抜けて三崎の方へ下れば天竜院。
 指物の「名人長二」は、
「せめて懇に供養でもして恩をかえそうと思いまして、両親の墓のある谷中三崎の天竜院へまいり、和尚に特別の回向を頼ん」だその場で、実の親と出会い、ついにこれを殺すというモーパッサン原作のお話。これより一足飛びに根津へまいります。
「権現様の御境内はひっそりいたしたが、御門前はすぐ遊女屋で、松葉長屋などの長屋見せもございますところで、まだどやどや素見客が押し歩いておりますから」(心中時雨傘)
「ただいまでも全盛でございますが、むかしからあの廓はたびたびつぶれましてはまた再願をしてまた立ったと申しますが、そのころ贅沢な女郎がございまして、吉原のまねをして総門内で八文字で道中したなどと、天明のころはだいぶ盛んだったというお話を聞きました」
(敵討札所の霊験)
 という根津の廓は、江戸の岡場所に発し、近くにて医大も開かれまして、学生の風紀上よろしからずと、明治二十一年六月をもって洲崎に移転しております。水司又市という侍が、根津増田屋の小僧に惚れ、恋の恨みで中根善之助を切る「敵討札所の霊験」の話。
「恋の遺恨を面部の疵、すておきがたいは中根めと、七軒町の大正寺という法華寺の向う、石置場のあるその石かげに忍んで待っていることは知りません」
 廓の賑わいに反しまして、「牡丹燈籠」に出てくる根津は大変静か。
「上野の夜の八つの鐘がボーンと忍が岡の池に響き、向が岡の清水の流れる音がそよそよと聞こえ、山にあたる秋風の音ばかりで、陰々寂寞世間がしんとすると、いつもに変わらず根津の清水のもとからこまげたの音高くカランコロン」
 擬音が実に効果的です。昔、根津には清水町という町がございました。「名人くらべ」の絵師毬信も、「根津清水に家を構え、前は清水の流れ、後ろは根津権 現の森」、「ごく静かなところゆえなかなか容易に人々には知れません」と大塩平八郎の残党をかくまって命を落とします。「真景累ヶ淵」も、根津七軒町の鍼 医皆川宗悦が、貸した金を掛け取りに行った先の深見新左衛門に殺され、「根津七軒町の喜連川様のお屋敷の手前、秋葉の原」に捨てられるところから始まりま す。この辺、江戸切絵をみますとたしかに桐の紋所の喜連川左馬頭の邸。
 因果は巡り、深見の息子新五郎、新吉と、宗悦の娘お国、その姉の豊志賀がそれぞれ恋仲になって殺したたり合うという恐ーいお話で、円朝町歩きのしめくくりと願いまする。

円朝グラフィティ(続)
 前回(四号)では明治五年、円朝が芝居道具を一切、弟子にゆずり、扇子一本の素噺に戻るところまでを申し述べましたが、いよいよ今回は―

――塩原多助
 明治九年夏、塩原多助(本所相生町で成功した炭商)を取材のため上州旅行。ルポルタージュのさきがけか。質素倹約、勧善懲悪の物語でのち修身の教科書にも載る。多助の上州弁「――でガンス」が東京に流行る。

――鉄舟との出会い
 円朝は義兄玄昌の導きで早くから禅に親しんでいたが、陸奥宗光の父伊達千広翁の紹介で、高橋泥舟。山岡鉄舟をしり、禅を学ぶ。

―― 一子朝太郎
 明治十二年、四十一歳のとき母すみ死亡。コレラの流行、不況、寄席も不入り。そして息子の朝太郎の非行と円朝苦難の時代。朝太郎は素行が定まらず、窃盗 をして新聞に書きたてられる(当時はナント十三歳の子の軽犯罪を実名報道してたのだ。のち円朝に勘当された彼は、父の死の床に現われ、看取りをして再び消 息を絶つことになる)。
 この心労の中で、円朝は無舌の悟りに至り、淡々として高座に上る。
 闇王に舌を抜かれて是からは
  心のままに偽も云わるる
 とはいえ世情不安の中、寄席も退廃し、大衆に迎合して、ヘラヘラ坊万橘、ステテコ円遊など、キワモノ、珍芸ばかりが受けていた。

――卵とニワトリ、円朝と速記
 すでに明治四年、山々亭有人(条野採菊・鏑木清方の父で墓は谷中墓地にある)編で、
「菊模様皿山奇談」が初出版されていたが、明治十七年、「怪談牡丹燈籠」の速記本が東京稗史出版社より出て、円朝は一躍国民的作家となる。一席分を毎週土曜に発行し、飛ぶように売れ、円朝の高座にじかに接しられない地方のファンも獲得した。
 テープのない時代、この出版を可能にしたのは、わが国の速記法の完成である。同時に円朝本は速記のPRにも役立った。この時の速記者若林玵蔵の墓は日暮里青雲寺に、酒井昇造の墓は谷中明王院にある。二人とも速記術を大成させ、のち帝国議会の速記者として活躍した。

―― 言文一致と円朝
 明治の言文一致運動は二葉亭四迷の「浮雲」に始まる、と私たちは授業で教わったが、これに多大な影響を与えたのが円朝の速記本。文体に苦心する二葉亭に、坪内逍遥が「読んでみたら」と勧めた。逍遥は円朝の理解者で「春のやおぼろ」の名で「牡丹燈籠」序文を書いている。
「叟の述ぶる所の深く人情の随をうがちてよく情合いを写せばなるべく、ただ人情の皮相を写して、死したるが如き文をものにして婦女童幼に媚びんとする世の浅劣なる操觚者流は比燈籠の文を読みて、円朝叟に恥ぢさらめやは」

―― 世外、井上馨侯
 円朝ほど元勲、有力者に愛された人もなく、渋沢栄一も伊藤博文もみな友達づきあい。ある会で「私は芸人で」と末座にかしこまる円朝に、睦奥宗光は、「大 臣の代わりなどいくらでもいるが、円朝はお前一人しかいない」と上座に呼んだとか。なかでも一番円朝のひいきは鹿鳴館の立役者井上馨。上州や北海道、興津 の別荘に円朝を連れてゆく。明治二十四年、井上邸への行幸に、円朝は「塩原多助」を御前で口演している。

―― 次々と舞台に
「牡丹燈籠」が初めて舞台に上ったのは明治二十年の本郷春木座。当時は歌舞伎の新作も低調で、これを皮切りに円朝物、続々登場。とりわけ名優五代目菊五郎 による「塩原多助」(明治二十五年春)や「牡丹燈籠」(同年夏)が大当りをとる。円朝も演出上のアドバイスを行い、弟子を連れて総見。
 このころ円朝は、寄席の横暴と一部弟子の裏切りに耐えかね、高座を降りる。この後、数年は円朝の芸を惜しむプライベートな「聴話話会」などの座敷にだけ出演。

―― 最後の高座
 明治三十年十一月、六年ぶりの高座は懐かしい両国の立花屋が皮切り。円朝が出るというので大入りで、寄席側も円朝のために手洗いを改装したり、畳をさしかえたり、気を入れた。最後の高座は明治三十二年十月、日本橋木原店の「牡丹燈籠」。

――下町で死にたいね
 一生、居を転々とした円朝は、下谷坂本から万年町へ。このころすでに体力も衰え、脳障害もすすんでいた。万年町といえば貧民街、ここから葬式を出しては世間の聞こえが悪いと弟子たちは、下や車坂町に家を見つける。
「師匠、箱根に行きましょう」「そうかい」と弟子一朝が背負って新居へ。とろとろ眠っているのを下すと、箱根へ来たものと思って円朝は「女中に祝儀をやってくれよ」といったそうだ。
 死の寸前には、「両国の花火が見たい」という円朝を弟子が二階に背負って上り、それでも見えないので、庭でおもちゃの花火をあげてみせてよろこばせた。
 暑いさかりの八月十一日、
「今すこし遊びたいけれどお迎ひに
   ひと足お先にハイ左様なら」
 こうして一代の名人、円朝は逝った。六十二歳。その名跡はあまりに大きすぎるので、円朝の最大の後援者、大根河岸の藤浦家が預っている。

―― 全生庵へ
 八月十三日、日暮里火葬場で荼毘に付され円朝は骨となって自宅に戻る。そして九月十一日の本葬では、下谷車坂からぐるっと遠まわりして、浅草、両国、神 田と主な寄席の前を葬列は通り、谷中全生庵に向った。会葬者二千円。墓の側面に、辞世「耳しいて聞きさだめけり露の音」が刻まれている。

円朝の眠る谷中全生庵にて昨夏行なった第一回「円朝まつり」は大盛況。今年もどうぞお楽しみに。詳しい日程、催しについては七月下旬頃、三崎坂商店街又は谷根千工房にお問い合わせ下さい。

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ギャラリー  谷中墓地周辺
        (補遺と訂正を兼ねて)

 初夏に入り、谷中墓地の緑のトンネル。最近は薬剤散布のためずいぶん蚊も少なくなりました。でも他の虫や植物はどうなってしまうのか、ちょっと心配。 「昔から谷中はヤブ蚊が多くて、谷中にかがいなくなったら正月だっていうくらい。それでも夏は山越しの風が吹いて涼しいとこだね」と花重の並び、関沢石材 店の職人さん。蚊なんてなれっこだよ、かゆくはないさと石を叩いています。
 さて、連載「自由民権と谷中墓地」、七号の「春は谷中の花見かな」でこぼれた話題と訂正を少々。まず、三号に書いた川上音二郎の銅像の写真を、森茂好さんが送って下さいました。ほおら、やっぱりシルクハットに洋装でしょう(NHKのドラマじゃ胸像でしたよ)。
 次に、小野梓と馬場辰猪(谷根千其の六)自由民権関係のお墓の写真をご紹介しておきましょう。なかには荒れてお参りもないようなお墓もあるので、お近くを通った時には、ぜひお参り下さい。

 次は「谷中の善さん」。どんな方か知りたいという読者の要望に応えて。記事の方はいつも削りに削って、どうしても最後には写真のスペースがなくなってし まいます。ごめんなさい。 そして五重の塔炎上については、その後も町の方からいろんなお話を聞きました。三代続く表具の寺内家では、当日大家からお預か りした絵に火がうつっては、 と竹ヤブに水をかけるのに必死。その後、火事にあっても大丈夫な金庫みたいな建物に建て替えたそうです。千駄木方面の方々も、「上野と谷中と二つも塔が見 えるのはウチの町だけと自慢だったのに」(野村屋酒店・関原顕太郎さん)など、塔を惜しむ声が聞かれました。
 とんでもハップンの間違い三つ。一つは七号の表紙解説で、萩原朔太郎の詩集「純情小曲集」を室生犀星の「抒情小曲集」に間違えました。ちゃんと 資料にあたったのに、下版前のドサクサでこの始末。しかもこの桜の詩は「田端時代の詩」ではなく、この詩集が発刊されたのが、朔太郎の田端在住時代だとい う二重の間違い。刷り上るとすぐ気づいたため、三ヶ月、読者に申し訳なく思っていました。でも朔太郎と犀星は親友ですから笑って許してくれましょう。
さらに「露伴と谷中」の項で、友人の高橋太華が購入したのは露伴の隣家で、のち、露伴邸も買い足したということらしい。また林屋さんではなく林家さんで、 この方は太華の娘にあたり、そのまた息女の大塚さんが、いまも谷中にお住いです。そのうち「根岸党と谷中」も乞うご期待ですです。
 さらに遡って訂正。六号記載の鴎外特集補遺の中で、多田正明氏の文章中、「柳田国男氏が『しがらみ草紙』という短歌集を作った」は間違い。どうも筆者が鴎外と混同してしまったらしい。

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the不忍通り
 
 富士銀行もこの地で創立60年、何か地元の皆さんにご恩返しがしたい、と北浦支店長が悩んでいました。そこで谷根千では富士銀行の援助のもとに、周辺の現在をイラストでおこし、併せて町の歴史も調べました。
おじいちゃんおばあちゃんに聞く町の歴史
●斎藤とよさん
 私は明治三十二年神田で生まれ、数えの六つで千駄木の斎藤の家に貰われてきたの。家は今の旭屋さんのところで、米屋をしてて、のち乾物屋になりました。
 この辺は昔は田んぼで、根津の遊郭の仲通りが伸びて、団子坂まで道がついたのが明治31〜2年でしょ。沼みたいな土地で、うしろにはバンズイの 大きな金魚屋さんもあったし、藍染川がよく大雨で溢れて、金魚が往来に流れ出し、川全体が釣堀になったりしたものよ。太田様の池から流れ出る支流では、う なぎだって取れた。きれいな川でね。お父さんが上流からたばこのヤニを流して、うなぎがういてくるところを巻き取って、割いて食べたものよ。
 この辺で、一番古い建物は前の岩立(いわだて)さん(紙屋さん、明治7〜8年の建物)だったけれど、この前壊して、もう古い家は少ないわね。古くからのお店は高橋米店、野口茶舗、昔菊ずしの望月タバコ屋さん。亀屋ふとん屋さん。
 明治の頃では、日露戦争の凱旋で旗と提灯行列が通ったのを覚えてるわ。それから団子坂の菊人形。この道は団子坂で突きあたりで、その向うは一帯 田んぼでね。夕方になると友だちが「トヨちゃん行こ」と呼びに来て、「そうだね、行こ行こ」とお客様がぞろぞろ出てくる頃に、反対からタダで入れてもら う。きれいだったんですよ、忠臣蔵とかあってね。だから10月11月は大変な人通りで、この辺にもいっぱい店屋がでて、こんなかわいいミカンをむしろにま いてつかみ取りさせたりして。電車が上野までしかないから、菊人形もだめになっちゃったのね。
権現様の縁日は21日で、表門に露店が出たし、裏門坂は桜並木で満開の頃は赤い毛せんにお団子出す茶店もあった。あの頃の裏山は竹ヤブで、乙女稲荷のまん中に矢場があったのよ。
 私は貰いっ子だけど、とてもかわいがってもらった。髪を三つ編みに結って、赤いリボンつけて、五升くらいならお米を届に行きました。梅の湯のおばあさんは「今日は桃のお湯が立つからおいで」って迎えに来てくれた。そして体を洗ってお白粉をつけてくれました。
 籾をキッコンキッコンついて白米にして、一等米二等米に分けて枡で量って、すりこぎで切って売ってたの。灯りはランプで、ホヤの手入れも日暮れに私がし たし、母親は遅くまで働いているからね。お父さんは朝、私をそうっと起こすの。それで、二つべっついにかんなくずで火をつけ、お釜とおつけの鍋をかけて、 ご飯の方はブクブクふいてきたら火を消しておきで炊くの。おこげができるとおしょう油かけておむすびにしたけど、おいしくて、あんたに食べさせたいわ。
 最初はつるべ井戸で、それがポンプの井戸にかわり、今の富士銀行の角に共同水道ができたときは、町の人は大喜びでしたよ。
 それから大正になって、電車を通すので道のこちら側を広げたのね。市電が通ったのが大正五年か六年で、今の坂下の電話局(NTT)のところに車 庫があった。その頃私は結婚して、忘れられないのが震災の時ね。その日の朝、なぜだか根津の赤津湯の煙突が倒れたというんで、赤ン肪しょって見に行って、 権現様の入口の乾物屋さんでお乳のましてたらグラグラときて引き窓や瓦が落ちた。恐くて早く家に帰ろうと往来に出たら、またぐラッときて、電車通りにペタ ンコと腰が抜けて立てないのよ。
 それから、この道をどんどん人が上野の方から逃げてくるし、余震を恐れて近所の人は線路の上に戸板出して、テントや蚊帳つって暮らしてまし た。家にお米がたくさんあったので、不忍池の弁天堂に避難した親類におむすびを握って飯台に載せて運ぶと、途中で逃げてくる人が「下さいください」って三 銭おいて三つぐらい持ってっちゃって、いくらたっても上野まで届かないの。隣の柔道の先生が親切で、怪我人の手当てをしたり、ラムネのビンに水を入れてふ るまったり大活躍でした。
 あらあら、大昔の話しね。私なんか大昔よ。そのあとのことは、子供を育てるのと商売に夢中で、あまり覚えてないわね。今でも町で会う中年の男 の人に「乾物屋さんのおばさん」なんて呼ばれる。「卵が割れちゃいけないからって風呂敷に包んでくれたね」「危ないからって往来を渡してくれたね」なんて いわれると嬉しいわ。

望月次作さん
 私は明治三十九年に生まれ、父佐平は四十一年にここに越してきたんです。その昔、ここは田んぼや沼で、団子坂の菊人形を見に行くにしても、汐見坂を上って藪下から見晴らしを通ったんです。明治天皇もそのコースを通ったそうです。
 父が明治四十三年に菊ずしをはじめ、「菊そば菊ずし菊見せんべい」といえば「三菊」として有名でした。当時、中流の勤め人八十円から百円の月給 の頃、すしは十五銭から二十銭しましたから、けっこう高いもんですね。自転車で日本橋の河岸に仕入れに行き、氷と魚をつめて戻る。昔のほうがネタの数は少 ないが、近海ものでうまかったように思いますがね。岡持ちにちらしのどんぶりや皿を並べて遠くまで、そう谷中墓地の三原屋やおもだかやまでも自転車で出前 しました。
 震災では富士銀行のところにあった五軒長屋はパッタリ倒れるし、その裏の熊倉質店の土蔵が往来に倒れて通行止めになったんです。
  楽しみといえばこの並びの芙蓉館で目玉の松ちゃんや栗島すみ子を見ることですが、震災で浅草や上野が焼けて、ここだけ残ったから一流館になっちゃって、有名な弁士がぞくぞく来てたね。入場料は10銭くらいかな。弁当もって浅草にもよく行ったけどね。
 昭和十八年頃、お米の配給が止まったのでで商売はやめたんです。戦時中は戸田橋の方で葦の深い根を切って開墾し、農場をつくってました。その頃ですね、千駄木町会が大きすぎて統制が取れないというので、電車通りで西町会、東町会と二つに分けたんです。
 五月二十四日の空襲で団子坂からサカエ不動産まで、翌日に反対側の中田文具店までが焼けた。なんでも谷中の宗善寺に焼夷弾が落ちて、強い風で飛 火して焼けたんだって。信じられない話しだね。上野の竹の台に高射砲があったが、八千メートルしか届かないんだもの。B29は1万メートル以上飛んでくる んだから、何の役にも立たない。
 戦後は、何でも焼けちゃったから必要だろうと家具屋になった。一昨年前までやってたが、今度は年をとってね。配達も大変になったんでやめました。今は園芸用品とたばこ。外国たばこだけで四十余種ありますよ。おっと長話になっちゃったかな。

街の発展と富士銀行
 明治三十二年、田圃を埋めて新道ができても、団子坂で行き止まりなので、みな歩きなれた藪下か藍染川通りを歩いた。これでは、と新道にできた十 軒ほどの店が、路上に涼み台を並べ、睦会を作って道路のデコボコを直し、水をまき、雪かきをし、夜は電球で明るくし、通りはようやく町らしくなっていっ た。
 大正三年、市電を引き込む目的で六間幅の新道を十二間幅に拡幅。この拡幅を契機に、表通りは八十軒くらいで共栄会を結成、松田写真館主を会長に中元福引大売出を催して好評。吉江、青木自転車店の自転車や、高橋米店の米三俵など大型景品が人気を呼んだ。
 大正五年八月の大雨で藍染川が氾濫し、筏で買出しにいく騒ぎになった。町では秋虎太郎氏(衆院議員)や太田兼造氏(足袋店)を先頭に陳情し、藍 染川の排水をよくし、暗渠化をすすめさせた。このころ電車が開通。千駄木町は終点地として市中に有名になり、大正十年に共栄会などを母体に、千駄木下町会 が成立。
 大正十五年、安田銀行本郷支店根津出張所が開店。場所は宮永町の現細井医院のあたりである。それまで根津はなかなか銀行が立ちゆかない土地といわれ、昭和二年の金融恐慌では、この土地に由縁の渡辺銀行が倒産した。
 しかし安田銀行は一貫して地元住民の財産を守り、昭和七年に千駄木の現地に移転、戦後は富士銀行として再出発、三十七年に現店舗を建築。
 戦後、野口福治氏を中心に、商店街を復興し、街路燈をつけ、昭和四十四年には他に先がけて商店街振興組合を結成した。 同年の地下鉄千代田線開通以降、再開発、ビル化の波が街を変えつつある。

27頁
谷中のカエル  野沢延行(獣医・谷中在住)
 水辺がないのに谷中にはカエルがいる
 森林に生息するヒキガエルである。からだにイボのようなふくらみをもち、踏ん張るようにして歩いている。夜道で出くわすと四肢を踏ん張り、反抗的な態度をとるので住民から嫌われている。
 お寺の住職に聞いた話しだが、実はこのカエル、谷中にはずっと昔から住んでいたらしい。
 毎年三月上旬、今日は暖かいなと思うその日の夜、必ずいつもの池にカエルがやってきて騒ぎたてるうちに何千個と産卵していくのである。今年も 20〜30匹のカエルがお寺の池にやって来た。何千匹と生まれてきたカエルはすぐに天敵のカラスやスズメに食べられてしまう。生き残ったカエルが不敵なツ ラがまえになるのはこのせいかもしれない。反抗的な態度もなんとなく納得できる。
 ヒキガエルは田んぼにいるカエルと違ってジャンプして逃げることはない。眼のすぐ後ろに位置する耳下腺、背腺から毒素を分泌し、小動物の攻撃 から身を守れるのですぐ逃げようとしない。狩り好きの犬や猫がヒキガエルを攻撃して毒素にやられると口から泡を出し、ひどい中毒症状を起こすほどである。
 昔はたくさんいたカエルだが、餌となる昆虫が減ったせいかその数は年々少なくなってきている。
 今年も嫌われものの季節がやって来た。

谷中・藤棚のある民家  画と文 石田良介
都会から季節の風がなくなって久しい。昔、季節の移りかわりは風が運んできた。
谷中にはその風がいつもある。
今は藤の花の香をのせた路地からの風が、幸せを感じさせてくれる。

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拝啓「こんにちはあいそめ」の皆様!
 先日は夜遅くまでおつき合い下さってありがとう。会いたくてしかたがなかった人にやっと会えた。「こんにちはあいそめ」の紙面のやさしさは、「ああ、こういう人たちが作っていたからか」と納得がいきました。
 今は無粋な根津二丁目というなかに、昭和三十九年までは藍染町というステキな町名があった。それは今だって、ちゃんと町会にも祭の半纏、提灯にも、タウン誌にまでも生きているんですね。
 一昨年の七月、暑い日でした。藍染大通りの牛乳屋(斎藤)さんで「こんにちはあいそめ」の一号を手にした時、「この町にこ、こ、こんなものが・・・」と手がふるえたのを覚えています。
「情 報化社会でやたらとせわしく、マスコミを通じて何でも知ってるような気になってるけど、ごく最近、自分自身をはじめ家族や町のことを意外に知らないま ま過ごしているのではないか。神職を忘れて町のため奉公している人が大勢いる一方で、そんな活動に無頓着な方々もいるかもしれない。誰かがそのパイプ役に ならなければと気負ったのがきっかけ」で、タウン誌が生まれたのだと書いてありました。
 でも、気負いなんて見られない。
 昔、権現様の池で釣りをして、異人坂で箱に竹をくっつけてスキーをし、赤津湯でひと泳ぎ。真暗になるまで遊びほうけた腕白坊主が、そのままおじ さんになって書いている記事なんだ。 とりわけ子供たちに目を向けた記事には温かいものを感じます。未だに車のこない裏道で、ビニールの敷物広げて遊ぶことができるなんて、根津の子はなんてう らやましいんでしょう。
 藍染町には手分けして全戸に宅配していると聞いてビックリしました。町会名簿だと350世帯なのに、配ったらその倍はあったとか。町会には無縁の学生や若夫婦がそれだけいるってことを思い知ったって、吉田さんが話してくれました。
 どこへ行ったらもらえるのか、と言う町の外の人には芋甚や観音通りの渡辺肉店に行けばいいと教えてあげます。そして皆さんに会いに行けばいいと 教えてあげます。そして皆さんに会いたくなった時には、あいそめの町を歩きなさいってね。なんたって、うちん中と道がつながっているような町だもの。
 実を言うと、私、根津ってちょっと恐かった。なぜって厳しい町でしょ。失敗するとすぐ叱られる。目立つとすぐ噂される。でも、わかりました。根津って、おせっかいと紙一重の町だってこと。他人に叱ってもらえる町なんて、今どきないってこと。
 今、根津もマンションラッシュですが「環境が変わっても心は変わらない。新しい人々を下町気質のこの町がどう受けとめていくか」と真剣に考えてる「こんにちはあいそめ」の紙面に、私は注目しています。

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●谷根千味のグランプリ 本当においしいお店
アイスは大正ロマンの味 芋甚(いもじん)

 私の好きな根津の藍染大通り。震災前の家並みが残っているおっとりした街。路地の角にある芋甚は知る人ぞ知るおいしいアイスクリームのお店だ。
 ガラス戸を開けると店内は白っぽい緑のペンキに塗られ、片側が大きな鏡。奥の棚もいかにも大正時代のミルクホール。少し前までは大きなプロペラの扇風機も天井にあった。
 ご主人の山田市蔵さんで三代目。初代の甚蔵さんが明治末に焼芋屋を始めた。今も本名の尾張屋より芋甚で通っている。
 当時の焼芋は平たい鉄鍋で輪切りの芋を焼いて売る。他にお菓子の種類もなく、庶民はお茶受け、おやつ、夜食に芋を食べ、どの町にも芋屋の一〜二軒はあって大繁盛。とりわけ芋甚の芋はおいしいと店の前はいつも行列だったという。
 震災後、火を使うのが怖くなって、アイスクリームに転向。コーンアイス、モナカ、小豆とバニラのアベックアイス。まず味わってみます。うーん、シャリッとした舌ざわり、さっぱりした味。
 昭和初期から同じ味です。
「根津の土地に合った味ということかな。レストランだったら、お肉やこってりしたものを食べた後も脂肪分の多いアイスクリームが合うだろうけど」
 小倉アイスの小豆ももちろん自分の店で煮る。やたらリッチなアイスクリームが出回る中、このさっぱりしたミルキーな味がうれしいが、市販のアイスみたいにヤシ油だの膨張剤だのといった添加物が入っていないのが安心。それでコーンアイス百円という安さがまたうれしい。
 作るところを見せていただいた。昔は茶筒型の容器に原料を入れ、氷と塩の入った木桶の中でかきまわしながら冷やした。今も原理は同じ。氷と塩の代りに、 容器の周りはマイナス20度のカルシウム液。ガランガランと回す音のすさまじいこと。添加物を入れないから、もちろん毎日作ってその日中に売る。こういう 自家製アイスクリームの機械ももう手に入らないそうで、手作りのアイスの店も見かけなくなった。
 アイスの他みつ豆もご自慢。黒みつも自家製、夏のかき氷のシロップもみーんな自家製。大正時代に建ったこの店で壁一面の鏡に向ってアイスクリームを食べていると、なぜかセルロイドの下敷きを連想するのです。


31頁
●吉田屋さんありがとう
 六号、酒屋特集でご紹介した三崎坂の吉田屋酒店がビルに建て替えるというので、明治二五年の貴重な商家建築を惜しむ声が町中から起こりました。 私たちも持主の喜多島家に迷惑がかからずに保存できればと願っていましたが、このたび内山栄一区長ら関係者の熱意がみのり、言問通り角の空地に移築、町会 事務所並びに史料館としてよみがえることになりました。よかったですね。

●再び平和地蔵について
 千駄木三丁目の平和地蔵は六月十日現在、まだ元気である。但し、三月三十一日、お地蔵様の賽銭箱が何者かによって持ちさられるという珍事件があった。
 さて、土地を売らない地主に対して、底地買い業者がかなりのいやがらせをやっている様子で、夜遅くまで騒いだりしパトカーが来ている。ついに話し合いを破り、買い取った長屋を一方的に壊したので、壁一枚の隣家は無惨な姿となった。
 およそ土地を売るか売らないかを決めるのは持主であって、どこの馬の骨かわからぬ業者に売らねばならぬ義理はない。「あの家は坪一千万でも首タ テに振らないらしい」という無責任な噂もあるが、先祖伝来の土地を手放したくない、ここで今まで通り商売したい、という要求は正当なもので、お金と関係な いと思う。一方、土地を売った人は「あんなボロ家でうまいことやった」といわれている。底地買い業者は、「お宅にだけ多く払うが人には言うな」「あそこは もう売った」という噂をバラまき、せっかくの地域社会のつきあいを壊す。あちこちで、せっかく
仲良しだった隣同士が口もきかなくなりつつある。「売らなきゃよかった」の声もきく。
 こうして庶民がこの土地を追われ、底地買い業者は大企業に転売してたっぷりもうけ、フジタや大京観光は、何千万円というマンションをつくってもうける。
 私たちの街、根津・千駄木で、ヨソ者ばかりがもうけるのを、そして町が庶民のものでなくなるのを、私たちはこれ以上指をくわえて見ているのか!


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情報トピックス

◎最近のうごき
4・5 花見。今年は晴天+一分咲き。花見の最中に二分咲きくらいになったかなあ。仙台から遠藤さん、鴻ノ巣から柴崎さん、成城から酒井さん、群馬から竹川さんなど遠方より来る。ラーメン玉川様、のなかストア様、沢の屋旅館様より多大な差し入れあり、感激。
4・20 生活を記録する会。谷中の野鳥おじさん、伊東清隆氏の案内で谷中墓地を歩く。いつも墓石碑文ばかり気になる私には新鮮な体験でした。子供も自分のつんだノビルをサラダにして大よろこび。十月五日に伊東さんを中心に谷中探鳥会を行ないます。
4・29 根津つつじ祭り(4・25〜5・5)。連休中は谷根千の事務所の引っ越しで、つつじに遊ぶ余裕なし。もっぱら旦那達(ご主人様)が子供を縁日で遊ばせる。
5・11 生活を記録する会。「江戸切り絵図にみる谷根千」を歩く。昔の道が今に生きていることにあらためてびっくり。
5・15 第一一九回 彰義隊士慰霊祭。上野公園墓所にて。剣舞の奉納もあった。
5・18 スタッフの仰木ひろみに待望の女児生れる。前の日まで男の子と信じていただけに喜びも一入。ゆず子ちゃんと命名。
5・25 建築中の奏楽堂の見学会。緑に囲まれた立地は最高。この日、谷中七面山のお祭り。 5・27 千駄木周辺に男のストリーキング現わる。みんなあっけにとられ、パトカーはなかなか来ず。バスもとまって町は賑わった。

◎確連房通信
 新しい事務所は根津神社裏門坂を上り、信号を右に折れた右側数軒目の一軒家。連休は大掃除で暮れました。とても懐かしいうちです。来た方は「海 の家みたい」。日当たりよく、庭もあり、子供を遊ばせるのにも最高です。夜は時にイナイイナイバーにも変身の予定。私たちの「確連房」を探してみて下さ い。ご連絡は月〜金、十時〜四時半。電話番号はそのまま。

 しのばず自然観察会の小川さんより。「私はしのばずおにいさんだ。先生もやめてほしい」という。小川さんは現在「上野公園いいとこマップ」を製 作中。小川さんの専門は植物のタンポポ。山崎範子が子供の遠足で小石川植物園に行くと小川さんに会った。「ここの貴重なタンポポが遠足シーズンで敷物の下 に敷かれるので気が気でなくて」と週に二回は出動。そこへ山崎の息子岳画「お母さん見て見て」とひとかかえのタンポポを持ってきたので、範子の顔は赤く なった。(子供が寝ないと「しのばずおじさんが来る」とおどかしてたのよ)

◎この間に会えた人
★明正堂の宇田川尊雄さんのお土産のおせんベは辛かった。山と渓谷社の清水義雄さん、あかね書房の井上環さん上野良子さん。名著出版の大沢秀一さ ん、古文書の本ありがとう。TBSの衣笠さんのチョコレートケーキはスタッフに偉大な効果があった。名古屋の『あつたっ子』の西野広子さん、お互いがんば ろうね。王子製紙の三木敏正さん「私どものミューズコットン(表紙の紙)をすてきに使ってくれてありがとう」と新しい紙見本を持ってきてくれた。
★梅の湯の裏に住む村山文彦さんによだれの出そうないい資料をたくさん見せていただいた。村山さんのすごさを思い知るにはまだまだ不勉強ですが、興奮やまず。
★東京生活文化局より、天野正子氏他諮問委員会が来訪。遠藤正則文京区長、内山栄一台東区長にもお目にかかるチャンスがあった。 
■トヨタ財団の「身近な環境コンクール」に「上野・谷根千研究会」が通ってしまいました。代表・浦井正明寛永寺執事、事務局・前野まさる芸大助教授で、混成メンバーの中に私たち谷根千も参加しています。これから谷中で調査をさせて頂きます。ご協力お願いします。
■三鷹の吉村昭先生よりカンパ一万円入りのお手紙をいただきました。日暮里の誇る先生は本当に温かい方です。椎名誠さんもお手紙ありがと。あまり に個性的な字のため、スタッフでどれくらいつっかえずに読めるか競争しました。「息子の岳は 哀愁の中学生」を「息子の岳は 高熱の中耳炎」と読んで心配 したスタッフもいるのだ。

かおりのエプロンサイクリング その2(手書き)
夏バテ防止特集
一、食欲のない夏にはさっぱり麺をおすすめ!
谷根千界隈の手作り・機械づくりの製麺所紹介
・よみせ通り
長谷川製麺所/大沢製麺所
・谷中銀座
坂戸商店
・根津
米山製麺所/根津製麺所
そのメニューは、ひも川  70円
        日本そば 70円
        細うどん 70円
        太うどん 70円
        焼そば  70円
        生中華  70円
        あげそば 80円 
  (ほか、ギョーザの皮もあり)
なぜかどのお店も同じ値段なのです(昭和61年5月調べ)
その日に売れる分だけ作る、とのこと。いつも早朝に作ったできたて麺ばかり。
【冷索麺(ひやそうめん)】
そうめんは索麺(さくめん)の音便(おんびん)、小麦粉を食塩水でこね、これを引きのばし、麺状に切って乾燥したもの。これを茹でて洗い、冷水ま たは氷で冷やしたものが冷索麺となる。冷麦よりよりもっと細い。冷麺(ひやめん)とも言う。わさび、しそ、七味、ねぎなどの薬味を入れて、冷たい煮出汁で 食べるのがコツ。索麺流しも有名。
【冷麦(ひやむぎ)】
熱麦にたいして、冷やした麺という意味。小麦粉に食塩をくわえ、水でこねて薄くのばし、細かく切った麺(麦)をさす。うどんに比べて細い。これを冷水または氷で冷やしたものが冷麦で、その中でさらに細かいものを切り麦と言うこともある(「日本大歳時記」講談社)。
二、おにぎり
 いうまでもなくおにぎりは美味しい。家庭の味とはひと味ちがう、お店のおにぎりもまた格別。
 おにぎりならその道ひと筋、なんといっても『いなほ』が一番です。店主の藤森さんを別名「おにぎりおじさん」と呼ぶ人もいるという。
そのメニューは、さけ    90円
        たらこ   90円
        おかか   90円
        うに    90円
        牛そぼろ  90円
        チーズ   90円
        山ごぼう  90円
        葉唐辛子  90円
        梅干    90円
        塩昆布   90円
        紅しょうが 90円
        わさび漬  90円
        よいち漬  90円
        しその実  90円
        でんぶ   90円
        しらす干  90円
        奈良漬   90円
        福神漬   90円
        筋子   180円 などたくさん。
 それからオリジナルメニューのパンダおにぎりもおもしろい。


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おたより

 私は、はとバス「夜のコース」のガイドをしております。夕暮れに不忍通りを通り抜けるだけですが、ここ1、2年急に新築のビルやマンションは増 えて、都市再開発の波が谷根千に迫っているのを感じます。その奥で暮らす人たちの実感とは差があるでしょうが、この心優しいなつかしい街が「人を選んで」 住み易さを保てるか、とても心配です。時の流れが皆様の悠々たる生活に優しくあるよう祈ります。(川崎市 山本紀子様)

 拝復「谷根千」ありがとうございました。私どもの先祖を有名な方々とともに掲載いただきましてありがとうございます。益々のご発展を記念申し上げます。(台東区浅草 神谷信弥様)
◇浅草へ出かけたら、ぜひ神谷バーの電気ブランを一杯!

 ある日、根津から地下鉄に乗ったら、外人の女性を伴った初老の紳士が、大事そうに「谷根千」を数冊持っていました。その時はそれが何だかわから なかったのですが、近日、つつじ祭りに出かけた時、根津の実家に最新号があり、ああ、これがあの……と判ったわけです。懐かしい記事でいっぱいで、根津小 の仲間を集めてクラス会を開きたくなりました。人間、生まれ育った所とは目に見えない糸で結ばれているそうで、私も根津駅で降りて表通りを避けて小路に入 るとホッとします。この「ホッ」とできるのがいつまでか、地下鉄が通ってからは表通りの変化は
激しく、そのうち神田のような町になってしまう気もします。女房も谷中の寺町をゆっくり歩きたいそうで、天気のいい日に出かけようと思います。(江東区 村山建夫様)

 私、とうとう谷中に越してしまいました。正攻法で不動産屋をずっとあたり見つけました。住み心地 ◎(花丸)です。大家さんもとても気さくな方で、本当に来てよかったと思いました。(谷中 増野恵子様)
◇事務所へも遊びに来てネ。

 私は昭和二年に谷中小学校を卒業したものです。古い谷根千、日暮里のことはたくさん覚えております。夜店通りのバナナ屋さん。渡辺さんの屋敷のこと。谷中五重塔でチャンバラごっこをしたことなど。
 谷中小学校の当時の校長は、半田源之進先生。六年松組の担任は蛭田先生でした。昭和二年卒業の方がおられたら文通したいと思います。(埼玉県入間郡日高町高萩 中島正之助様)

 私は今、七十四歳ですが、昭和八年から十四年まで二十代の半ばを団子坂通りを挟んで駒込林町と千駄木町に下宿して、学生、教師生活を送りまし た。今でも残っている御林稲荷の四月の祭は賑やかでした。第一号に紹介された団子坂中腹の「菊そば」は、そのころも広い庭を備えてありました。味と気分の よさは満点でした。戦後、「菊そば」の名はなくなったが、ささやかな店がしばらく残っていたように思います。(千葉県船橋市 水野稔様)

 古きこと、ものなど忘れ去られ捨てられる時代にあって、逆にそうしたことを掘り起こし、大切に保存しようと努力されている若い人々のおられることに泪のこぼれる思いがいたします。
「わたしの谷中」の中に、おひねりという言葉がありましたが、子供の頃、母の言い付けで近所の親しい家に重箱に詰められたお彼岸のだんごを配った ときに、おひねりとは意味あいが違うけれども、頂戴した駄賃のことなど、当時のことを思い浮かべたりしました。(札幌市 兎沢亥八郎様)

 ただ今ビデオ収録の「関東甲信越小さな旅」を見終ったところです。あっっ!谷根千のみなさんが動いている!! 少し予期していたこととはいえ驚 いてしまいました。仰木さんは大竹しのぶに、森さんは桃井かおり、山崎さんは作家、津島佑子に似ていると思いました。大きな声を出していた天才バカボンの 息子に似ている赤ちゃんはどなたのお子さんなのですか? ちなみに私はロバート・レッド・フォードにそっくりです。
 テレビで拝見しても谷根千の皆さんはステキですし、谷中も本当に美しい町だと思いました。でも森さんのご発言通り、「あと5年したらどうなっているか」わからなく不安です。でも今日は楽しかった。NHKさん、谷根千さん、ありがとう。(豊島区千早町 大場文雄様)


夢うらなひ    時本和夫(「スバル」同人)
 上野の山の桜も、早や終りなるべし。谷中は急なる善光寺坂上り、路地入たる処、石屋(いしく)の娘、花は、五女なるべし。
 可愛ゆき花も、年頃十五にて人の風説(うはさ)には継子との咄ありぬ。身形は素(もと)より姉のお旧(ふる)也。隣の花は赤い、なれども、恋は気儘、「三崎坂の、千代紙屋の御子息は美青年にて好キヨ」と、花は思ひき。
 頃は、川上音二郎のオッペケペ節流行る。姉と往きし、浅艸は観音様詣で、奥山に矢場有りて、矢が的に当る度に、女が、
「きん、えらい、あざやか!」と叫びぬ。

 心憂く皐月と成ぬ。花は、和歌を詠めど、木萩(こはぎ)の若葉ゆへ、町娘等は白き目にて嗤ひぬ。「私は、夢の歌人、小野小町様の如く成たし」少女の夢は途方も無し。

 わらべ唄は「向ふ横丁の」。上野の黒門は朽ちてきぬ。
 近々(きんきん)、「江戸千代紙」の御子息は嫁御を向へるとの由。花の、夢うらなひ、とて、あはれ。(をはり)


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編集後記
◆谷根千にとって三度目の夏。私はやっぱり冬より夏のほうが好き。お祭りもたくさんあるし。すだれと氷とうちわです。
◆牧歌的な毎日です。取材に伺うと「急に来て昔の話をしろってもネ。お茶飲んで世間話をしているうちに、そんな話も出るだろうよ」のペースにあわ せ、私たちものんびり。根津神社や谷中墓地で昼寝、東大明治文庫等で資料調べのあとは新緑の森を抜け、弥生美術館で夢二でも見て、ドリームでコーヒー。こ んな生活をしてますと、たまに地下鉄乗って都心に近づくと肩がこってまいります。
◆読売新聞にわが山崎範子が登場しまして、記者さんに「ようやく赤字でなくなりました」といったら、記事では「お陰さまで黒字です」になっちゃいました。さっそく「もうかってるんですってねぇ」と町の何人かの方にいわれこれはヤバイ。
 最初はアルバイトしてお小遣いをつぎ込んでは作っていた谷根千ですが、このところ売れゆき好調で、やっと写植、印刷、フィルム、テープ、コ ピー、資料代などが出るようになりました。でもスタッフに長時間労働に報いるような報酬はとうてい出せません。ま、季刊三十二頁の小冊子で四人も食えるは ずないのだ。
◆谷中のあるお店に、広告や本を置いて頂くお願いをしましたら、「うちは近所の人は来ないし、雑誌の取材もいっぱい来てタダでPRしてくれるから」と断ら れました。断られるのはよくあるけれど、「うちは水物を扱って雑誌をぬらすといけないから」「人手がなくてごめんなさいね」という断わられ方な ら気分がいい。
 今のマスコミの谷中ブームは、たしかに町を活性化している、自分の町を見直した、誇りを持った、散歩が楽しくなったという声から、お客さんが 増えて息子が跡を継ぐ気になったという商家や職人さんちもあります。しかしブームは一過性。ブームの去ったあと、ますます地元に愛され、繁昌するいい店が 多いことを祈ります。私たちも初心に帰り、町の声を大事にしながら、記事の質を落とさぬようにがんばりたいと思っています。
◆「谷根千てけっこうまちがってるネ」というお声を頂戴。私ども人妻のことゆえ、あやまちはくれぐれも起さぬように調べてはおりますが、戦後生 まれの未熟者ゆえ、実際「どこがどうまちがっているのか」具体的に教えて下さると助かります。先日も「千駄木林町なんてない、駒込林町だ。若いのが勝手に 嘘かかれちゃ困る」と叱られましたが、明治時代には駒込千駄木林町というのが正式名称だったんですよね。
◆銀座セントラル美術館で「ザ・光太郎・智恵子」を見てきました。「人生の崇高なるもの」を信じて格闘した二人の愛が自筆の原稿に窺えて、スタッフの心は静かに燃えてくるのです。秋には、「光太郎・智恵子」の特集をお送りします。

お知らせ
●バックナンバーのご案内
其の一/菊祭り特集、其の二/銭湯特集、其の三/藍染川特集、其の四/和菓子屋特集、其の五/鴎外特集、其の六/酒屋特集、其の七/谷中墓地特集 (一号は百円、他は250円)。尚、三、四号は在庫切れ、一、二、五号は残部僅少です。地域内の書店でお求めになれます。 郵送の場合、送料一冊170円(一号は120円)、四冊まで240円、五冊から350円、「谷中スケッチブック」は1500円(送料250円)。希望の号 数明記。
●奏楽堂パイプオルガン募金パンフレット(500円、送料170円)にご協力ください。
●石田良介さんの「谷中百景」の絵はがきできました。谷中銀座各店で好評発売中。
●「谷根千の生活を記録する会」は月一回。7月6日「路上観察のすすめ」参加お待ちしております。
●事務所が仰木宅よりついに独立。事務用品(机、棚、ファイルボックス等)不要品がありましたらご一報ください。

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奥付
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の八
一九八六年六月二十日発行
編集人/森まゆみ 発行人/山崎範子 スタッフ/仰木ひろみ 藤原かおり
発行 谷根千工房(やねせんこうぼう)
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