地域雑誌「谷中 根津 千駄木」7号 / 1986年3月15日(土曜日)発行  250円
春は谷中の花見かな
7号 春は谷中の花見かな 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 7号 春は谷中の花見かな

目次
特集 谷中墓地散策 春は谷中の花見かな

其の7 1986.03.15
谷中墓地と茶屋特集(32p)
表紙/「江戸名所花暦」より
谷中・天王寺-スケッチ/川原史敬

自由民権と谷中墓地4-夜明けのランナーたち―2
春は谷中の花見かな―4
江戸の花見
墓地の茶屋-三原家、おもだかや、坂本屋、金子屋、ふじむらや、花重
天王寺一問一答
天王寺住職・大久保良順先生の話
五重塔炎上
露伴と谷中
谷中霊園著名人墓碑
谷中・花重-剪画・文/石田良介―9
猫-野沢延行(東雲)
この街にこんな人(根津)-“建築の忘れ形見"採集人・佐藤龍蔵さん―13
やったネ!根津寄席-芸術祭賞おめでとう―14
谷根千ちず―16
ご近所調査報告-平和地蔵を救え!―18
日暮里富士見坂-写真/武藤高
富士の見える坂-江黒美代子さん―21
晴れ、ときどき富士山-坂井茂生さん―21
酒屋補遺―22
坂のある風景-千駄木・大給坂-エッチング/棚谷勲-23
谷根千の風景-不忍池の冬―24
かおりのエプロンサイクリング1-谷根千界隈の「ホーム・ベーカリー」のお店を訪ねて―25
ひろみの一日入門5-自分で作ったお供えで、楽しく迎えたお正月-ひぐらし(谷中)―26
自然食の店-根津の谷、大きなかぶ(西片)―28
情報トピックス―29
おたより―30
著者自筆広告5-石田良介「谷中百景」アドファイブ出版局
編集後記―32
お知らせ―32

2頁
文化ガイド自由民権と谷中墓地4
夜明けのランナーたち
さて、いよいよ最終回。今度はいわゆる自由民権「激化諸事件」の当事者のお墓をご案内しましょう。
明治十四年の政変、自由党の結成などで、日本各地の民権家の動きは激しくなります。福島ではすでに三春出身の若き河野広中(こうのひろなか)をリーダー に、板垣退助の立志社に呼応して創立した石陽社、三師社などに青年たちが集まる。そして無名館を本部として十四年十二月、自由党福島部を結成します。
これに対し、翌年二月、薩摩っぽの三島通庸(みしまみちつね)が県令として福島に乗り込み、自由党撲滅をかかげ、中央藩閥政府以上の圧政をしく。そこで三十一歳の河野議長以下、民権家の強い県議会は、県令の出す議案を毎回否決するという未曽有の決議。
ますます自由党が憎い鬼県令。この人は田中角栄みたいに土木工事が大好き。人民に過酷な会津三方道路開設をゴリ押ししようとして、反対する農民が喜多方署 に集結したのをきっかけに、福島県中の民権家を一網打尽。そして残酷な拷問、名ばかりの政治裁判。これが世に名高い福島事件。
この犠牲者のうち谷中墓地に眠るのが田母野秀顕(たものひであき)(甲9-8)。三春の神官の家柄で、戊辰戦争以来河野広中の盟友。気性激しく行動的なリーダーで、三師社の設立、自由党結成にも重大な役割を果たす。
福島事件後、逃走して東京で捕えられ、十六年十一月二十九日、三十四歳で石川島監獄のせんべい布団の上でチブスで亡くなります。一足先に出獄した同志ら が、東京市内をかけ廻って金策、星亨(ほしとおる)、大井憲太郎らにも寄付させて、盛大に葬儀を行なう。谷中墓地へ向う葬列には「自由鬼」「其生不愧天 地」「自由志士田母野秀顕」など紅白の旗がつづいたといいます。
珍しい記事を発見。「二〜三日前、ある人が谷中墓地を過ぎると、田母野氏の墓前に一片の葉書あり。差出人は栃木県自由案子より、谷中墓地自由田母野君碑前 へという宛名書。サスレバ配達夫の墓前に配達せしものにや」(明治18年5月14日、時事)。これを見ても当時の田母野の人気が偲ばれる。
その隣には東京府士族、熱血の文才家で三島県令弾劾文を起草した花香恭次郎(はなかきょうじろう)(明治二十三年没、34歳)の墓もある。(東北自由新誌編集人)
右二名と河野ほか六名は、福島無名館で政府を転覆しようと盟約したカドで有罪となった。これを裁いた大審院長玉乃世履(たまのせいり)の巨大な墓も谷中にある(甲9-17)。彼は明治十九年、身辺整理をしてなぜか自殺。六十歳。
河野らが獄中にある十六年、新潟では高田事件が起こる。頸城自由党のリーダー赤井景韶(あかいかげあき)が一人、内乱陰謀予備で捕まり、同じ石川島監獄に 送られてきたが、三月二十六日脱獄。逃走中の彼を怪しんだ人力車をやむなく撲殺し、政治犯としてではなく殺人犯として死刑になった。五重塔のある天王寺公 園の一角の目立つ墓(甲8-6)。これを裁いたのも前述の玉乃世履。
さて、福島事件と関連深いのが加波山(かばさん)事件。仮借ない弾圧に合法闘争が敗け、指導者がすっかりいなくなった。絶望した青年達の三島県令への怒りは深い。折しも三島が栃木県令も兼任し、宇都宮新庁舎披露に大臣顕官が来るのを一挙に爆砕しようという案が錬られた。
しかしこれは事前に洩れ、挫折したため、明治十七年九月、二十余名の血気の青年が茨城県加波山にたてこもり、山頂に「自由魁」の旗をはためかせ、民衆に蜂起を呼びかけた。これは孤立した戦いとして失敗し、赤井の場合と同様、政治犯でなく強盗の破廉恥罪として裁かれる。
この事件が自由党へ与えたショックは大きく、自由党は翌十月解党し、十一月の秩父事件弾圧後、民権運動の波は急速に引いていきます。
加波山事件の処刑者は十八名。そのなかに福島県人が十三名、うち五名の名を刻んだ碑が谷中墓地安立院前にある(甲8-12)。
三浦文次(34歳、福島自由党中心メンバー)、小針重雄(21歳、元医学生)、琴田岩松(23歳、「三陽雑誌」編集長。熱弁家)、横山信六(20歳、旧会津藩士、獄中死)、天野市太郎(17歳、未成年にて無期刑)。
これら名もなき人の墓を訪ねると、「民主憲法も参政権もありながら諸君らは何をしている」と地下の霊に問われるよう。その声に応えて、「谷根千」はささやかなりとも、言論自由の砦となりたい。
〈参考〉高橋哲夫「福島事件」三一書房 三浦進・塚田昌宏「加波山事件」同時代社
その他「自由民権百年の記録」「自由民権運動と現代」「自由民権運動研究文献目録」(三冊とも三省堂)が役に立つ。

4頁 特集
春は谷中の花見かな

風がやさしくなりますと
そろそろ花見どき
新聞・ラジオでは
やたら上野を騒いでますが
谷中の方が穴場です
圧巻は墓地の並木桜
花見がてら
歴史と文学も
楽しめます
「李白だと見えて
石碑を読んで居る」

(表紙解説)
い・春さらば 挿頭にせむと わが念ひし 桜の花は 散りにけるかも 万葉集。二人の男の求婚を避け縊死した美女桜児の伝説。

ろ・たれこめて 春のゆくゑも しらぬまに まちし桜も うつろひにけり (藤原よるかの朝臣)
「たれこめて春のゆくへ知らぬも、なおあはれになさけ深し」(兼好法師『徒然草』)

は・深草の野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染にさけ (上野岑雄)
上野岑雄が仕えていた藤原基経(太政大臣)の死に当り詠んだ。墨染桜、或は淡墨桜とはエドヒガン(自然種)の事。

に・いざけふは 春の山辺に まじりなむ 暮れなばなげの 花の影かは (素性法師)
素性法師が京都は北山の花見で詠んだ歌。

ほ・さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな (平忠度)
平家の武将で歌人としても知られる平忠度は都落ちの際、藤原俊成に自歌を託した。

へ・ねがはくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ(西行)
二十三歳で官位も家族も捨てた西行は、自然の中を放浪した。各地に西行ゆかりの桜が今残っている。

と・世の哀 春ふく風に 名を残し おくれ桜の けふ散し身は (『好色五人女』西鶴)
井原西鶴によって文学化された八百屋お七の辞世の歌。駒込吉祥寺にはお七・吉三郎の比翼塚がある。

ち・花散りて 葉いまだ萌えぬ 小桜の 赤きうてなに ふる雨やまず (正岡子規)
正岡子規は根岸で短歌、俳句の革新に短い一生を終えた。

り・月ふけて 桜は夜眼に 白かりき 初めて君を 吸ひし日思ふ(平野万里)
平野万里は『明星』主要作家。鴎外の観潮楼歌会に出席。

ぬ・したたかに水をうちたる夕ざくら (久保田万太郎)
久保田万太郎が震災後、日暮里渡辺町時代に詠んだ。隣の石井柏亭邸の桜の老樹。


桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
る・萩原朔太郎の大正十四年、田端時代の詩。『純情小曲集』(萩原朔太郎)。

を・木の繁る上野の奥の土しめる 谷中の墓地にわが子葬る(木下利玄)
光の詩人といわれた木下利玄は愛児利公を大正元年、谷中に葬った。

わ・少女子が 物恥ぢしたる 俤に 匂ひいでたる 八重桜かな (井上文雄)
井上文雄は田安藩の侍医。江戸ッ子歌人。墓は玉林寺。

か・花の雲 鐘は上野か浅草か(芭蕉)
あまりにも有名な芭蕉の句。『続虚栗』浅草は並木町の桜。


江戸の花見
世中にたえて桜のなかりせは
春の心はのどけからまし 業平

と古への大宮人は詠みましたが、下って江戸の人々もまた、春が近づくにつれ気もそぞろだったようです。
昔の人は季節感を大事にしましたから、今みたいに年がら年中、ディズニーランドや読売ランドへは行きません。鶯なら根岸の里か谷中鶯谷(コミュニティセン ター辺り)、梅なら亀戸梅屋敷、椿は向島、桃は中野の桃園と決まっているのです。では花見はどこか。「花見道中地図」、「江戸名所花暦」といった昔の各種 行楽ガイドを参考に調べてみました。
まず東都第一の花の名所は上野東叡山寛永寺。彼岸桜から始まって、一重八重追々に咲き、弥生の末まで絶えることがない。がここは将軍家の菩提寺で、どんちゃん騒ぎははばかられ、六つの時を告げる鐘とともに黒門は閉ってしまいます。
つづいて谷中感応寺。「境内に桜樹多し。裏門へ行方、もっともよし。又風呂屋の前に浅黄桜の古木あり。八重にて蔕(へた)青し」(「江戸名所花暦」)とあります。
慈雲山瑞輪寺。「大門のうち左右の桜箒立(ほうきたち)にして大木なり」(同)。
枝垂桜では養福寺、経王寺、大行寺、長久院、西光寺も有名。
さらに日暮里(ひぐらしのさと)、妙隆寺、修性院、青雲寺あたりは崖を利用した庭で「花見寺」として明治まで栄えましたが、
たれとなく咲そふ花のかげに来て
げに日暮の里ぞ賑ふ 従一位資枝
の一首もあるくらい。養福寺の糸桜、七面様延命院の彼岸桜、一重桜も人気。
このほか、隅田川堤(滝廉太郎作曲の歌があります)や桜と色を争う吉原大門仲の町(西行もまだ見ぬ花の廓哉=醒斎)、浅草伝法院、お茶の水の桜馬場(今の 東京医科歯科大)などが有名。おっと飛鳥山を忘れちゃいけません。八代将軍吉宗が市民の慰安のため、八重一重、数千株を植え、盛りの頃は茶店も出て大賑 い。
文化文政あたり、人々の好みが一本桜から並木桜に移り、集団行楽が流行。踊りや三味線のお師匠さんが揃いの晴着の弟子を連れ、花見に繰り出します。花よ り、「ワァーッとした賑やかな、わけもないことを娯む」(三田村鳶魚)ようになる。茶番(劇)をしたり、見知らぬ人の盃を飲んだり、まさに花見自由空間。
こうして上野ー谷中ー日暮里ー道灌山ー中里ー飛鳥山という尾根歩きこそ、花に囲まれ、眺望絶佳の春のお江戸の人気ハイキングコースなのでありました。

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墓地の茶屋
桜並木の手前に古風な日本建築が数棟、これは墓参の方を接待する茶屋であります。

評判の歴史通、三原家の高尾重子さんの話。
三原家
「ある日のこと、てっきり壁だと思ったところが戸棚になっていて、 古文書や刀剣がごっそり出てきました。そのなかに“高尾氏系譜"があり、従弟と二人で数年がかりで解読したものによると、私共の先祖は秦の始皇帝に発する 帰化人の秦氏で、南北朝時代に高尾和泉守秦重基という人が、広島の三原の西宮社の宮司になっています。その子孫の高尾重一は江戸に出て蔵前で札差を手広く 営み、本行寺にお墓のある永井尚志とも親しく、そのつてで勝安房守(海舟)から幕府御用達の看板を頂きました。古文書の中には維新の際、江戸に総攻撃あれ ば、私共の責任で米その他の食料を賄うという書付もあるんですよ。
高尾重一は副業に浅草猿若三座の金主(興行主)もしており、根岸の自邸には義太夫語りや役者、絵師がごろごろしていた。でも天保の改革、続く激動期と芝居どころじゃなくなったので、商売替を考えたのでしょう。
たまたま安政の大地震のあと、谷中では潰れた家を見ない、地盤が良いというので、隠居所にでもしようと天王寺から五百坪ばかり譲ってもらった。そこにご維 新後、赤坂区役所に勤めていた俊平が父重一と共に、東京府民のための墓地を官民一体となって開くのに尽力しました。その頃はキジやキツネがいたそうです。

おもだかや
墓地も、最初は碁仇とか、つてで入って頂いたようで、だんだん墓参の方の休憩所、樒、線香、花などのお世話をするように整っていったわけです。
猿若三座時代、浅草で芝居茶屋をやっていた親戚筋のおもだかやにも、どうだ、商売としては渋いがこちらへこないかと声をかけると、芝居は築地に移りましたし、喜んでこちらへ参りました。
明治三十三年に家を建てたときは、つるべ建てといって、三原家とおもだかやは二階がつながった大広間で、葬式がありましても昔は土葬ですから穴を掘る間、お客様は二階でお休みになり、八百松や八百善から板前が来て、お浄めの席を設けていました。
昔の葬式はたいしたもので、今でも語り草は明治四十四年、鳩山和夫さん(政治家、早大総長)が亡くなった時など、行列の先頭が谷中に着いた時、最後尾は音羽の邸を出てなかったそうです。
三原家はその後彦次郎、秀介と二代続いておもだかやの筋から嫁を迎えました。彦次郎は下谷区議、お諏方様総代と土地に尽くすことに忙しく、店の方は妻・なかが盛り立てました。次の秀介が私の父です。

坂本家
おもだかやの姓は坂本といい、帝大を出て函館市長となった坂本森一がいます。この家では森一の妹・ますが分れ水谷屋という茶屋を買いとり今の坂本家となったのです」。
坂本家の奥様の話。
「私 はここへ参ってから日も浅く、来た時分には他のお茶屋さんの皆さんには大変お世話になりました。不思議な商売ですね。こうして五軒並びあっていても、お互 いの客を決して取ったりせず、よそのお客様が見えると担当のお茶屋にご案内する。静かな所に暮らしてますので、上野の人混みに出ると、空気がなくなったよ うで、すぐに帰ってまいります」。

金子屋
大正十四年に嫁いで来た金子はなさんの話。
「金子屋は明治十六年、金子勝文という人が開き、孫の一郎で五代目です。
この人は徳川様の家来で、維新後本所で浪人したり、ときには武家の商法に手を出してみたがうまくいかないので、縁があって谷中墓地の事務所に勤め主任をし てました。退職の際、谷中が好きなのでここで隠居したいと申しましたら、ならばお茶屋をせよ、ということでよそ様より遅れて始めたのでございます。
私が嫁いでまいりました頃は淋しくて、夕方になると後ろの藤村さんまでだって怖くて行かれない。雨が降ると、墓地で青い火がちょろちょろ燃えたりしましてねえ、人魂っていうんでしょうか。
私共では徳川慶喜をお預りしております。今もご当主がお見えになりますが、ご家来もお一方見えて『お殿様』と申されますので、私共でもそうお呼びしてま す。また徳川家に由縁のさる宮の妃殿下もおいでになりますが、戦争直後に女官を一人連れて見えた時には、根津まで歩かれ電車に乗って帰られました。お送り した主人の話によると、魚屋の店先を通る時、「あれホッケでしょ」と言われたとか。時代は変わったなと思いました」。
店内に大正の軒燈と五重塔内陣欄間の焼け残りがある。

ふじむらや
藤村幸司さんで四代目。昭和四年から墓を守る善さんの話。「ここに墓地を持ってる人は立派な人たちだよ。渋沢さんのお墓は広くて手入れが大変だ。そうさ ね、昔はこれほど桜は多くなかったが、もっと大木だった。もみじや椎や松もあったが、みんな鉄道が悪いの。もうもう向う側が見えないくらい煙をあげたもん ねえ。てっぺんから枯れちゃった。蛇は線香が嫌いだからいないが、昔はメジロやウグイスもどっさりいたよ。花見の時は上野から飛鳥山まで、皆ここをぞろぞ ろ通ってた」。ふじむらやの建物は明治八年。井戸水は新幹線工事の後パッタリ出なくなった。

花重
墓地入口の花重は創業百十五年の老舗。関江重三郎氏の話。「初代国井重三郎は天保十二年生れ。西新井の出で、今の谷中六丁目三崎坂上にあった花長(三好 家)の養子となり、明治三年、現在地に生花問屋花長を開いたんです。その当時の「剪華問屋」の表札がそこにあるでしょ。明治になって戸籍係が誤って国井を 関江と表記したが、関東の関に江戸の江でいいだろうということで、そのまま関江となっています。
今のうちの建物は中が明治三年。表が墓地の開かれた後の十年頃。宮家や大名の参詣があるので二階建てを許されず、こうした変則的なつくりなんです。
谷中墓地といえば昔はやたら首つりが多かった。彼岸やお盆の墓参客も今どころじゃなく、前の道が横切れないくらい。今の墓地は、そう、愛の巣かな。
うちは戦後、小売り一本に絞り精養軒や文化会館に花を納めたり、花屋の近代化を考え、日本フローリスト養成専門学校やWFC(世界花の会議)を作りました。」
蝶ネクタイにパイプがトレードマークの関江さん。日本生花商協会会長、台東区選挙管理委員長を歴任。明治三年建築のオフィスから、日本中世界中に指令を出している。(花重からは今、全国全世界に花が贈れます)

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五重塔炎上
昭和三十二年七月六日明方、谷中の人は夏の夜の浅い眠りを覚まされた。
「忘れもしない、三時三十分頃ですか。消防ポンプが出ていって騒がしい。
火事だというので外に出ると木の上に炎の先が高い。天王寺かなと思いましたがそれにしては火が高いし。あ、五重塔だ、と夫はカメラと八ミリ持って飛んでい きました。はしご車が来て、消防夫が猿の如く駆け上りましたが、谷中は高台で水圧も低い、まあ坊やのオシッコみたいにチョロチョロしか水が出ないんです。 その間に心棒の塵に吹き抜けみたいに火が伝わって、最上階から順に燃えていったみたいです。
屋根は銅で青い炎、そして欅の本体からは赤や青の炎が鬼火のように塔のシルエットをふちどり、透けて見えるよう。
塔に魂があって、それが昇天するかのような神々しさでした。」(三原家 高尾重子さん)。
鎮火は朝五時、寝巻姿の見物一万人。毎日新聞(32・7・6夕刊)によれば、露伴の令嬢、作家の幸田文さんも文京区表町の自宅から浴衣姿でかけつけ「父露伴の書いた塔が燃える……」とぼう然と立ちつくした。
また、谷中在住五十一年の朝倉文夫氏は「関東と関西の型を折衷した塔で、屋根の線が独特の美しさを持っていた。震災であの塔が揺れるのを見たが焼けるのまで見ようとは……」と嘆息した(「アサヒグラフ」7・21)。
焼け跡から男女の二焼死体が発見され、残った金属製の指ぬきなどから、男性は目白の洋裁店ノーブルの職人長部達五郎(48歳)、女性は同店員山口和枝(22歳)であると身元が割れた。
一升ビンに石油を入れて持ち込み、それを撒いて火をつけ、睡眠薬を飲んだもの。死体の気官には煤がつまっていたが、苦しみもがいたあとはなかった。
長部達五郎は腕のよい仕立職人で、終戦後疎開先の群馬で妻を失い、妻の妹と再婚して上京。しかし、同じ店の二十六も年の違う快活な山口和枝に魅かれ、二人 はついに希望のない恋を、文化財を道づれに精算したのである(「サンデー毎日」昭32・7.21、「週刊読売」7.28他より)。

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天王寺一問一答
さて皆さんが今ムシロならぬビニールを広げているここは、谷中墓地の通称メインストリート。桜の下あたりは碑文地と申しまして、碑を立てるための土地です。では遠慮なくお酒をめし上り質問をなすって下さい。
●墓地はいつ出来たの?
明治維新の際、幕府方についたというので朝敵とみなされた天王寺は、明治元年十一月朱印を上納、三万四千坪もあった境内を明治三年に一六〇六四坪、七年に 神葬地の名目で一五九〇〇坪、上地させられてしまうんですね。そして境内の鐘楼や額堂、子院を引き払わされ、公営墓地になったのが明治七年九月です。当時 は谷中共同墓地とか谷中の新葬地と呼ばれていたらしい。
●そもそも天王寺はいつ出来たの?
それが定かではないんです。古いことは古い。昔、関小次郎長耀(道閑)という豪族がこの辺りを治めていて、鎌倉幕府によって佐渡に流されていた日蓮上人が 許されて身延山に帰る途中、この地に立ち寄られたんですと。小次郎の妻がちょうどお産で苦しんでいたので上人がしゃもじに曼荼羅を書いて与え、これに触れ たところ、たちどころに安産したという。
上人は記念に仏像を刻んで与え、それを本尊として長耀山感応寺が開創されました。
●だけど今は天台宗なんでしょ。
まあ焦らないで。十五世日遼上人の時、幕府は日蓮宗不受不施派に属していた感応寺を異端であるとして改宗を命じたんです。が、なかなか従わなかったので一 六九八年(元禄十一)、強制的に改宗、十四世日饒、十五世日遼はともに八丈島に流されてしまうのです。由緒ある感応寺が廃寺になるのは惜しいと寛永寺の輪 王寺の宮公弁法親王が動かれ、寛永寺の末寺として天台宗としての存続が許されたわけです。そして天台宗一世の慶運大僧正が三十五歳で入寺されましたが、わ ずか一年十ヶ月で、焼失した長野善光寺の立て直しのため赴任。再び江戸に戻ると根津昌泉院(根津権現の別当寺)に隠居されています。
●いつ感応寺が天王寺になっちゃったの。
ですから天台宗になったのは、一六九八年(元禄十一)ですが、寺名が護国山天王寺に変わったのは一八三三年(天保四)です。
●改宗のとき本尊はどうしたの。
日蓮自刻のご本尊と例のしゃもじは同じ谷中の日蓮宗の瑞輪寺に移しました。今も七面山に安産守護の小堂がありますよ。
かわって比叡山円乗院より伝教大師の作といわれる毘沙門天を迎えて本尊としました。いわゆる谷中七福神の一つです。しかし今は室町時代の作とされる中品上生の阿弥陀がご本尊となっています。
●富くじで有名だったんですって?
改宗による混乱で寺の経営が思うにまかせなかったので、費用捻出のため富興行が許されたのは一七〇〇年(元禄十三)。目黒不動や湯島天神と並んで江戸三富の一つでした。最初は年三回が終りには毎月興行となり、富札は三千枚も売れ、江戸中が殺気だった。
感応寺いのちからがら一分捨て
というくらいでしたが、一八四一年(天保十二)、水野忠邦の改革で禁止。いまも寺には文政年間の富の規定を書いた板額と「富一件記」などの資料があるそうです。
●富くじのせいで岡場所も栄えたんでしょ。
お、酔が回って来ましたネ。表門前に新茶屋町が出来たのは一七〇二年(元禄十五)、最初は参詣人相手の休憩、食事所でしたが、富くじが栄え、遊興の巷となると、これが岡場所(私娼窟)になっちゃう。くじが外れ、
いろは茶屋 中腹まぎれ上るとこ
当った人はここでお金を落さないように、
しっかりと握って通るいろは茶屋
というくらい。こちらも天保の改革で取り潰され女たちは吉原へ送られたそうです。
●彰義隊も立てこもったんですって?
一八六八年(慶応四)の五月十五日、例の上野戦争が起こるわけですが、天王寺には小川椙太率いる天王寺組が分屯していました。このとき寛永寺輪王寺宮公現 法親王は天王寺でお召替の上、芋坂から尾久村へ逃れました。官軍は黒門口(西郷さんの方)や本郷側の谷中口から攻めたんですが、「窮鼠猫を噛む」ってこと にならないように、わざと芋坂の方は開けといたらしい。芋坂の羽二重団子に行くと、彰義隊士が逃げる時、おいていった刀とか、官軍の不発弾なんかあります よ。
さあ難しい話はこれくらいにして、も一杯いきましょう。それとも酔ざましに墓地を散歩しましょうか。

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露伴と谷中
明治二十四年初、二十五歳の幸田露伴が移ったのが谷中天王寺の畔、銀杏横丁の奥の家(谷中七-十八-二五)である。
東と南を墓地に接し、かなたに五重塔がそびえ、読経の声が聞こえた。夜はまたすごく淋しい。ここに先号で紹介した弟子の朗月亭羅文、一高本科生の弟成友、鋳金科岡崎雪声(この人も谷中日暮里に縁が深い)の親戚の子の広吉少年も同居していた。
栗の飛ぶ外に音なし庵の夜
玄関番であった幸田成友や露伴の妹安藤幸(ヴァイオリニスト)の記憶によると、この谷中の家には、春陽堂主人和田篤太郎、美校校長岡倉天心、痩せた斎藤緑 雨、袴をつけた森鴎外、もちろん根岸派の遊び仲間、饗庭篁村(あえばこうそん)、幸堂得知、宮崎三昧、森田思軒、高橋太華、石橋忍月なども来訪した。
この家は茅葺で古びていたが、間取りは八・八・六・四半、三畳が四つ、二畳が一つの計九間もあり、露伴は茶室作りの四畳半の離れを書斎とした。ここで原稿 を書き、それを持って銀杏横丁をポストまで入れに行く道すがら、露伴は右に左に五重塔を眺め、ついにはこれを小説化することを考えたという。
こうして破天荒な文体を持つ、雄渾なる詩篇ともいうべき「五重塔」が書き上げられた。かののっそり十兵衛のモデルとして、寛政三年再建時の棟梁八田清兵衛 ともいうが、三田村鳶魚は、明治十年「川越の喜多院の古材で寛永寺本堂を再建した名大工平松十吉」であるとし、また「幸田露伴」の著者塩谷賛は「露伴のも とに出入りしていた倉という大工の性格を下敷きとし、倉から聞いた古い大工たち、のっぽりや源太のエピソードを加えた」とする。
二年ほど露伴は谷中にいたが、向島に越したため、友人の高橋太華が露伴の家を譲りうけて、林屋家→旅館素月→駐車場と変転し、現在、敷地は二つに分割されて三階建の建物が工事進行中。

天王寺五重塔由来
○五重塔はまず一六四四年(寛永二十一)感応寺(後に天王寺と改称)日長上人が完成させた。が、この塔は一七七二年(明和九)の目黒行人坂火事で焼失。一七九一年(寛政三)に再建された。
○三間四方、高さは九輪を含め11丈2尺8寸(約34m)。
○名棟梁八田清兵衛が四十七人の大工を使い、一ヵ年半の日時を費やして作った。姿形の良さと総ケヤキの白木の清楚さで人気を集めた。江戸四塔(芝、浅草、上野)のひとつ。
○塔内第一層には壁面と釈迦・多宝の二躰の仏像が安置されていたがいずれも焼失した。

猫―12頁
谷中墓地には猫がいる。何の変哲もないタダのノラ猫。ここで棄てられた仔猫のうち、飢えに耐え、カラスの餌にもならず、人に拾われることなく環境に適応で きたものだけが成猫になれたのだ。だからどの顔も風格があり、体格もいい。何でも食べる。体力をつけなければ寒い日は越せない。年齢のわりに歯石がついて ないのは硬いものを食するせいか。
桜並木を行くとよく猫にあう。人が近づいても物怖じせず、振り向きもせずに歩く。五重塔跡の公園では、遊ぶ子供たちに場所をゆずり、邪魔にならぬように遠回りして目的地へ向う。
天気がいいと日なたに四〜五匹が猫が集合している。鳴きもせず、互いに近づこうともせず、みなちがう方向を眺めてうずくまっている。昼寝しているようでも 近づくと、スッと立ち上がり、尻尾をあげ、巧みに墓石を利用して去っていく。墓地の猫は決して走らない。墓地を知りつくしているので走る必要がないのだ。
今日も桜並木で茶トラの猫を見かけた。(東雲)

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■この街にこんな人(根津二丁目)
“建築の忘れ形見"採集人 佐藤龍蔵さん

藍染川特集(其の三)でお世話になった佐藤龍蔵さん宅へ再びお邪魔した。あの独特な風貌と博物館みたいな書斎の雰囲気が忘れられなかったのだ。
明 治三十六年、池之端に近い根津宮永町三十八番地生れ。父親の寅蔵さんは大工の棟梁で内務省の仕事などを請け負っていた。明治二十八年、「官衙入札請負人の 資格として市内に不動産を所有すべし」の布告が出て、神田の借家を引払い、宮永町に越してきた。当時の請負人は自分は絹物を着て上役や技師にはワイロを使 い、仕事は下職任せにするものが多い中で、寅蔵さんは早朝から印半纏(しるしばんてん)を着て、職人と一緒に働いたという。龍蔵さんは一徹な父のもと、根 津で大きくなった。
「私が入学したころの根津学校は焼けた後で、今の上原文具店の場所の、味噌工場のあとが仮校舎でした。だから床はみかげ石。近くにはシャボン工場が二軒 あって、香料のニオイがすごかった。本郷方面へ上る異人坂あたりは、確かに外人の家があって、僕らは『異人パッパ、猫パッパ』と大声ではやし立て、メイド が怒って出てくるのがおもしろかった。」
工業学校(府立実科工業)を出て早稲田に通ったが、大正十年、東洋拓殖株式会社に入社。蛙の子は蛙、建築の仕事をして給料六十円を貰う。その後済生会を経 て独立。病院建築を多く手がけた他、陸軍の兵舎や飛行場の滑走路などの設計もした。一番身近な作品は、佐藤邸隣のしゃれた洋風アパート。「昭和十三年頃に 建てました。洋間と和室の二部屋で、ベッドや籐イス付きで家賃は二十五円。」
私たちが驚くのは、こうした八十余年の人生にすべて資料の裏付けがあることだ。「資料の整理がライフワーク」というくらい。最初の給与辞令から、今までに 建てた建物の写真や設計図、雑誌の切り抜き、歌舞伎のパンフ、切絵図などの地図、食べたソバ屋の割バシ袋や和菓子の包み紙まで、話が出る度に身も軽く、あ ちこちからファイルやアルバムを出してくださる。日頃、新聞記事も切りっぱなしの私には神様のように見えた。
さて部屋が博物館のように見えるのは多分に棚に並んだ石や瓦のせいである。これ何ですか、というと、
「古い建物を壊して新しいものを建てる。でも前の建物もいとおしい。これは建築現場から出てきたものですよ、全部。これは旧水戸藩邸の紋瓦、これは加賀屋 敷の梅の紋瓦。横浜の洋館の瓦もあるし、内幸町の勧銀を建てる時には佐賀の鍋島様の屋敷跡から、この香入れを見つけました」
“建築の忘れ形見"を六十年まえから採集している人が、ここにもいたのである。その他、各地を旅行して持ち帰った石はみがいて台にのせてある。佐藤さんは 六十歳にして毎日六十本すっていたタバコをすっぱりやめ、太極拳を始め師範になった。その師範の免状ももちろん、ファイルにきちんとおさまっていた。

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やったネ! 根津寄席 芸術祭賞おめでとう

下町ブームであるらしい。根津の人に聞くと、
「なに言ってんだい。こちとらてんで関係ない」という。
「日曜日は谷中や根津を散歩するのがナウい」という。
「てやんでえ。ひとん家を見物に来るたあ驚えた。ま、せっかく来たんだ。寄席に寄ってかねえかい」
「エッ! 根津に寄席があるんですか」

知らなきゃモグリといわれる我らが根津寄席の柳亭芝楽師匠が昭和六十年度芸術祭賞を受賞した。おめでとうございます。これは昨年十月二十七日に上海楼で上 演した芝楽師匠の“宮戸川"全編の熱演などに対するもの。俗受けをねらったコマ切れ落語がハバをきかすなかで古典落語を守ろうとする姿勢が評価された。
「根津寄席」も今年であしかけ三年目。だいたい三ヶ月に一度で四月で七回目。ちょうど谷根千と同じ歩み。毎回大入り満員の大盛況で、この寄席のお陰で、根津は一層活気づいた感がある。
「昔は根津にも菊岡亭とか哥音本(かねもと)とか藍染座とかあって、落語も芝居も講談も何もよそいかなくたって町ん中で聞けたんだ。『芸人アパート』なん てのもあるくらい芸人さんも多かった。それにこのところ、根津あたりもマンションになったりして昔の人情が薄れてきた。だから、最近来た人たちも引き込ん で、新しい地域のつながりの場を作りたいと思ったんですよ」
と根津片町生れの小瀬健資根津寄席の会会長。
最初は根津生れで根津小学校出身の芝楽師匠を後援しようという同期生の熱意から始まった。師匠の本名は茨木勢三。土地の人はセイ坊とかエバさんと呼ぶ。
「僕達は学童疎開組なんです。みんな栃木県の塩原温泉で同じ釜の飯を食った仲なんだ。でも戦後はみんなバラバラになって消息もわかんなかったんだけど、考 えてみたら僕ら昭和十九年の卒業なんだが卒業式をやってない。それで昭和五十五年に、みんなで三十五年目の卒業式をやったの。そりゃもう懐かしくてね。 すっかり、一致団結、エバさんを応援しようやって芝楽の会を作ったんです」(渡辺臣蔵さん=シーちゃん)
「エバさんも僕らも悪ガキでしたよ。浅野の屋敷や東大で暴れまわって、三四郎池で板っぺらのボートに乗ってひっくり返ってびしょぬれになったりサ。あいつは中学の頃からカバンにせんすと手ぬぐいもって通学してた」(清野善五郎さん=ゴロちゃん)このほか、
「渡辺は小石川出てシナリオ・ライターになり、芝楽は開成を出て落語家になった変り種」とおっしゃる三浦志吾さん(シンゴ)ほか片町の山田勤さん、根津駅 ビルの吉田金物店の祺一郎さん(キーちゃん)、朝日新聞販売所の滝沢三郎さん、渡辺三千夫さん(ミッちゃん)ほか、十六人が世話人となっている。
さて一月二十六日の根津寄席(上海楼)へまいりました。入口にはいつものようにテキパキとした美しい女性軍。田中光子さん(みっちゃん)、大橋洋子さん (アトコ)、森永昭枝さん(モーちゃん)、塚田高子さん(タカコ)など、なかでは世話人の方がお客様を席へご案内しています。
二階の大広間に上りますと、窓の外には根津のお社の森。こんな静かな街の畳に座布団の上で落語が聞けるなんてね。
満員の客席では高橋久雄さんや坂田実さんがお茶を配り、池之端七軒町の宮本瑞夫先生のお話から始まりました。今日は馬場孤蝶の「明治の東京」に出てくる明治のお話。おもしろくてためになる。
春風亭昇吉、三遊亭遊ぼうさんの落語、林家今丸さんの紙切り、春風亭柳好師匠の「禁酒番屋」、中入り後は福引のあと、あしたひろし、順子の漫才、そして芝 楽師匠の熱演。最後に芸術祭受賞を祝ってかけつけたおめでたい獅子舞もありました。下座がテープじゃないのがいい。(イキもぴったり、森本規子さん)「ソ ロバンを度外視して思い切り楽しく作った」だけのことはある初席でした。
「関東一円からけっこうお客様が来て下さいます。地域寄席でこんなに客が入るのは珍しいんだそうです。芸術祭賞も、私個人というより根津寄席全体、ひいて は根津全体がいただいたものと思います。噺家にとっては賞より何よりお客様の拍手が大事」と芝楽師匠。これからもパンツのゴムをきつくしてガンバる決意を 語ってくれました。
最近地域寄席が見直され、なんでも浅草の方では永六輔さんも始めたようですが、負けてはならじ、競争してよい演席を作っていきましょう。

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■ご近所調査報告 平和地蔵を救え!
協力/飛鳥馬健次
四号でお伝えした千駄木三丁目の水晶ローソク跡地には、藤和不動産のビルがもうすぐできあがる。工事音やアスファルト防水のひどい臭いで周辺住民には迷惑な半年だった。
ところが、今度はその隣の不忍通りの一角が次々と壊されていくではないか。そこに町内や商店街の人々がお守りしていた平和地蔵があったが、周辺の平和荘などが壊され、寒風の中に丸裸になってしまった。お地蔵様が危ない! 私は再び取材を始めた。

昭和二十年春。下町を火の海にした大空襲を数日後に控えた三月四日朝八時四十五分、B29一七七機が谷中・根津・千駄木方面を襲った。
「東京大空襲戦災誌 三巻」によると、爆弾は二十六発、焼夷弾多数、死者八〇名、傷者一七〇名、罹災者一三〇〇名とある。
この爆弾のひとつが坂下町にあった鹿島湯に落ち、石炭倉庫の防空壕に入っていた二十一人(+行方不明二名)が、一挙に命を落とした。その犠牲者を慰霊するため、平和地蔵は建てられた。
「家にも防空壕があったんだけど、粗末で頼りにならないと、不忍通りに町会で掘った壕の中に入った。ドーンという音がして、恐る恐るふたを開けたら砂けむりで家が見えない。うちがなくなっちゃったって思いました」(富田幸治さん)。
「八時三十分に空襲警報が出た。風呂屋の百尺の煙突がねらわれたんだね。二百ポンドの爆弾が落ちたあとは、土煙りがファーッと上って、まるで活動(写真)みてるみたい」(沖美一さん)。
「朝からみぞれの降る寒い日だった。高いところを飛んでくるので飛行機は見えなかった。いつも飛行機は林町の高台から谷中へ向って編隊を組んで飛んでき た。うちの子供はいつも風呂屋の倉庫に入るのに、この日は風呂屋の子とけんかして、店の前の壕に入っていた。この壕は土地が低いので、中はじめじめして水 が溜まっていることもあった。
建物疎開で壊した家のタタミを防空壕の上に乗せてやろうとした時、シュシュシュと水道の水が吹き出るような大きな音がして、私はとっさに店の土間に身を伏 せた。そのとたんズドーンとすごい音がして、体が五寸くらい前にのめった。すぐ現場へ行くと、漏斗孔型の大きな深い穴が開いていた。四mの材木を差し入れ たが下まで届かなかった」(故服部丑蔵さん)
鹿島湯は戦争中なのでとっくに営業をやめており、町会で頼んで、空になった鉄筋コンクリートの石炭倉庫を、防空壕に使わせてもらっていた。この倉庫は鉄の 扉がついた鉄筋コンクリートであった。ここら辺は土地が低いため、命令であちこち防空壕を掘ったが、二尺も掘ると水が湧き、とても本気で仕える代物ではな く、皆、コンクリの方が安全だと思って倉庫に入ったわけである。
爆弾は倉庫と煙突の間に落ち、爆風で倉庫はいったん外側に押しやられ、さらにその空気が戻る力で、爆弾でできた穴の中にさかさに転がりこんだという。
メチャクチャになったコンクリの部分を壊し、鉄筋を折り曲げて穴をあけ、救出作業が行われた。しかし四畳半ほどの中に二十数人も入り、さらにコンクリの塊に遮られ、救出は難航し、外に出したものの、すでにほとんどがこの世の人ではなかった。
「なかでもかわいそうだったのは、山本さんとこのきみ子ちゃん。当時一歳位、赤いメリンスの着物を着て、お母さんの背中にくくられていた。ほどけない帯を やっとほどいて、しっかりと抱いたんですが、もうだめだったんです。かわいい顔をして傷一つなく、まるで白ろうの人形のようでした」(故服部さん)。
穴のあとは水が溜まり、そのそこに吸いついていた遺体もあった。寒い日なのに爆弾の熱で穴の中は裸になるほど熱かった。
「いたいよー」「苦しいよー」という声の中で必死にコンクリをかきわけ救出したが、三人しか生存者はいなかった。助かった三人は、石上家の子二人(しげる君と妹)と渡辺さんという十四〜五歳の娘であったという。
遺体はタンカで日本製氷会社(今のサミットストア)に運んだが、その後どうなったかは不明である。
この日、この壕に入って死んだ方々は主に裏の三棟の長屋の住人で、老人、女性、子供が多い。
山本とし江 きみ子、石上金造 一雄 まき みよ子、高橋とよ、宮口佐助、小宮慶寿、清水家の母 娘、白幡シゲ 子供、渡辺正治 かほる、福島正樹 喜美子、梅田作治 きみ 次男(英二?)、米川家の子(タケオ)。
計二十一名がここで死んだと推測される。このうち、白幡家の二人は「入るところをみたというが遺体はない。たぶんバラバラになったのではないか」という。
「石上さんの子供たちは朗らかでね。僕は小さい頃両親を亡くし、養子にきた先の伯父が厳しくて、つらい日もあった。だから一雄ちゃんたちに遊んでもらうのが救いだったんだよね」(金子銀蔵さん)。
ここらの子は仲良しだった。「戦争中はベーゴマなんて鉄だから没収されたんだが、こっそりやったね。おまわりが来ると、それ逃げろって」(富田幸治=コーちゃん)。
「同じ千駄木小でも林町の方の子はお邸の子で先生にひいきされ、僕ら坂下の子は殴られてばかりいた。戦争中は軍人の親戚を鼻にかけたり、子供を殴ってばか りいる先生がいた。それが戦後になったとたん、コロッと民主教師ですからね。これじゃあ信用できませんよ」(金子銀蔵=銀ちゃん他)。
勉強のべの字もしたことなく、路地でベーゴマ、メンコ、天王寺でトンボや玉虫、セミ取りに興じていた仲良しのうち、何人かがこの壕で死んだのである。

平和地蔵が建立されたのは昭和三十四年、「悲惨なる死亡者の冥福を永遠に弔ふ為め」、地域の人々がお金を出し合い、地主の前田さん(石上家の親戚で銀座の方で銭湯をやっていた)が土地を寄付し、供養の日はお坊さんも頼んでくれた。
富田さんが苦労してお地蔵様を手に入れ、はじめ横向きだったが、じき皆にお参りしてもらえるように道の方に向けた。富田家では犠牲者の名を自分の家の過去 帳に書き込み、先祖の霊と一緒に供養してきた。そしてお地蔵様の方は、富田家のおばあちゃん、故ふくさんと平和荘の二人の女性が世話をした。命日には、道 路いっぱいにアーチ状に提灯をつけ、街燈をつけたりして、初期は盛大に慰霊祭をやっていたが、中心になっていた人々が欠けてゆき、昭和四十七年の二十七回 忌を最後にとだえていた。
このお祭りを再び活発にしたのは、昭和五十五年、当時、八中の先生であった飛鳥馬健次(あすまけんじ)先生と二年の生徒たちである。
「地域にいい平和教材はないかと探していた矢先に平和地蔵尊のことを聞きました。場所も知らなかったが、安達豊君と三村秀二君の二人が探し出し、それから聞き取り調査を始めたわけです」。
そのうち慰霊祭をしようという機運が起こり、生徒たちは十七名の世話人会を結成。お花代、お線香代を集め、「平和地蔵尊由来」の板を自主制作した。慰霊祭にはテレビ、新聞が取材に来た。

日米合同演習、核の持ち込みなど、平和が少しずつ崩れて行く今、平和地蔵は戦争の悲惨を教えてくれ、今回の取材で、いかにして戦争を許していったかの庶民意識も少しわかってきた。
さて平和地蔵である。周辺の土地を買い付けた柏木商事は平和地蔵は残す、と確約している。が、土地を転売する先の建設業者が残すとは限らない。「お地蔵様 にお参りし、お世話するようになって、病気が癒った人もホントに何人かいるんです」(富田さん)。ということからして、無念のうちに亡くなった人々の霊を ないがしろにすれば、きっとたたりがあるに違いない。

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富士の見える坂(富士見坂 江黒美代子さん)
いま「谷中スケッチブック」を読んでたら、富士見坂マンションの住人はさぞ富士山がよく見えて羨ましい、という件まで来て、ついお電話してしまいましたの。
本当によく見えます。冬は一週間のうち五日は見える。朝は白く雪の富士が浮び、夕方は夕日に輝いた茜色の富士なんです。そしてお日様が、まさにつるべ落としというように、見る見るポトッと落ちてゆくんです。
私は根津や千駄木で暮らして、この辺は犬の散歩でよく知ってたのですけど、眺望に惚れ込んでここに住むことにしました。三年たっても熱が冷めないんですよ。
よく晴れた日には新宿の高層ビル、東京タワーがキラキラ光り、豊島園や戸田橋や神宮でホームランを打ったときの花火も見えます。

晴れ、ときどき富士山 (NHKチーフディレクター 坂井茂生さん)
東京都内には「富士」のつくものがたくさんあって、富士見坂も二十二あるのですが、わたしたちの調査では欠けないで富士がまるまる見えるのはこの日暮里の富士見坂だけです。
高低差でいうと諏方神社の高台が海抜二十m、不忍通りが七m、つまり十三mあります。だから十階以上のビルが不忍通りや坂沿いに建ちはじめると、富士山が 下から隠されてゆくことになるでしょう。街の人が開発に距離を置いた町を愛してきたから、富士の見える富士見坂が残ったのだと思いますね。谷中の取材で驚 いたのは、予約なしでいっても、実にていねいに答えてくれること。こんなことは地方はともかく、東京では我々がめったに経験しないことです。

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酒屋特集補遺

訂正、陳謝、補遺……ゴメンナサイ。
前回六号の酒屋さん特集ほど反響が大きかったのはありません。何分六十軒を回りまして、私どもにも行き届かぬ点がありお詫び申し上げます。

◎根津の永田屋さんをご紹介する中で、
「造り酒屋から直接仕入れて、店ごとに原酒を水で薄めていたようだ。だから利益も上ったんでしょうね。」(P10)
とあったのは、実は、
「昔は今より酒の原価が安く、利幅が大きかったので、三升から五升売れば食っていける、という時代もあった。また今と違い樽を造り酒屋に取りに行ったが、蔵元で原酒の度数を下げる際、宮水の入れ方も店によって異なっていた。」
というお話で、原稿の書き方、削り方が悪いため、あたかも「店先で水を入れて薄めていた」ようになってしまいました。
永田屋さんでは「ウチはただの一回も店先で水で増やすようなことはしなかった」とのことです。
この点については、池之端の関庭商店さんからも、「水道の水で薄めれば白濁するので売れません。実際やってみたら。」というご教示と「でも、いいことやってんだから、元気を出してがんばってお続けなさい。」と励ましも頂戴しました。
そもそも私たちがこういう誤った記述をフリーパスさせてしまったのは、何軒かのお店で「混ぜる」「薄める」という話を聞いたからでもあります。今ではビンで来て、そういうことはありえないという前提をしっかり知った上で、取材ノートを見直してみました。

◎酒を薄めたことは事実あったのか?
十八歳からこの道七十年の根津萬屋さんや、北野屋さんは、「ありました。でもそれは儲けるためじゃなく、お客さんにより安く、おいしい酒を飲んでもらうため。昔の酒は濃くて、そのままじゃ飲みづらかったからね。」
萬屋さんでは樽の話も聞きました。
「樽は吉野杉で作った。いい酒を入れる樽は、樽の方も最高でね。木を割ると白い部分と赤い部分とあるが、その赤いところを内側に半紙一枚の厚さだけ残すよ うにして、白いとこで樽を作る。赤いとこは木の匂いを移すから、酒にほどよく杉の香りが移って、これがうまい。木の香りは移りすぎてもだめなんだ。」
千駄木の本橋酒店では、終戦後のドサクサの頃のお話を伺った。
「裏話ですが、樽で来たものを小僧たちが飲みたくて、夜、主人が寝ているうちにキリで穴をあけストローで吸い出したそうですよ。後は水で薄めて帳尻を合わ せ、洩れないように、穴に割り箸を突っ込んでおく。当時水は多摩川から引いたので、これを隠語で“多摩わり"といった。
また昭和二十七〜八年頃は酒税が重すぎて、そのまま売っても赤字。そこで一級酒十本に合成酒三本を加え、十三本に増やし一級酒と称したらしいです。開けた 王冠を閉める機械もまだあり、父はとても恥かしがってましたが、私はもう時効だし、歴史の証拠として、どこかの博物館にでも寄付しようと思う。」
この他、多くの酒屋さんが同じような話をしてくれました。

◎混ぜる(ブレンド)ことについては事実あったことで、それは「昔の酒はくせが強すぎたので、客の好みに合わせて調合した。それが酒屋の腕の見せ所だった」
という話を、あちこちで再確認。

◎次に谷中の木村屋さんから「親父のことを十五点だなんて活字になっては、申し訳なくて寝られない」とのこと。これは、百点満点もナンだし、「十五点さっ 引いといてよ」と言われたのを、記者が聞き間違えたもの。失礼いたしました。六号をお持ちの方は、十五の上に八を書き足して下さい。木村屋の先代亀吉さん については、田端の山岸酒店のご子孫は、
「木村屋さんはほがらかで気持ちのいい方で、母なんか、うちのお父さんがああだったら、といつも言ってました」。
◎人名の誤り=根津吉野屋さんのご当主富田幸博氏を先代の幸四郎氏に、千駄木の足立屋さんの根岸充巨氏を先代の甚氏に間違えました。お二人とも笑って許し て下さいましたが穴があったら入りたい。根津の皆様、後生ですから「バイクでさっそうと」配達する幸博さんに「イヨ!幸四郎」などと声はかけないで下さ い。

◎伊勢五さんの黄瀬戸焼きのとっくりですが、日暮里の平塚春造さんも似たようなものをお持ちで、日暮里第一小に郷土資料として寄付されたとか。平塚さんは、「昔、上野から日暮里にかけては花見道中で、あちこちからこうした徳利が掘り出されたものです」とのこと。

◎酒屋さんに喜んでいただきたい一心の記事が、かえってご心配やご心痛をおかけしたのがつらくて、「谷根千アルコール・デイズ」でした。いろいろあっても「雨降って地固まる」ということで、今後ともよろしくおつき合いくださいませ。

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谷根千の風景 しのばず池の冬
イラスト/つるみよしこ

不忍池のカモたちに今年も会いましたか?
我が家の日曜日、散歩といえば近場で根津の権現さま、遠出で不忍池というのがおなじみのコース。
さて、一月のこと。レストラン桜木亭から蓮池に向うと、いるいる、カモたちがエサを投げる人に群がってます。ここにいるのは、マガモ、オナガガモ、ヒドリガモ、ハシビロガモ、キンクロハジロ、それにクイナ科のバンなど。
どれがマガモでどれがオナガ? ちょっと待って。私も覚えたばかり。それにカラーのない谷根千で鳥の説明するのは至難のワザ。まずは見渡す限りの水鳥たちをじっくりと眺めてください。
ホラ、目立ってきれいなカモがいます。頭は光沢があって緑に光り、黄色のくちばしはモンキーバナナのよう。これがマガモのオス。
首と尾が長く、とってもスマートなのはオナガガモ。白と黒のコントラストが美しいのです。
耳を澄ますと「ピュー」と声がします。鳴いているのはヒドリガモ。頭は茶色、ホワホワしています。
黒い体に金色の目をしたカモが来ます。キンクロハジロ。頭には冠のような羽がある。アレ、潜った、潜った。
今度は少々いかつい顔のハシビロガモ。その名の通りくちばしがペチャっと広がってます。
この他に動物園池に行くと、エンジ色の頭をしたホシハジロに会えます。そして今年はクビワキンクロ、アカハジロという珍しいカモも確認されたそうです。
蓮池をひとめぐり。ここだけで三千羽以上の水鳥がいます。ボート池や動物園池を含めると、この時期九千羽に近いカモが数えられるそうです。
少しは見分けられるようになりましたか?
でも、ここまではオスの話。鳥の世界はオスが圧倒的に美しくておめかしをしてはメスの気をひきます。そして一月は恋のシーズン。番(つがい)になると、地味なメスもなんとか区別できるようになりました。
不忍池にカモが渡来し始めたのは一九六〇年頃からといいます。そして一九六九年一月十三日、人のいるボート池にカモが入り込んだのです。今では散歩道にも、ベンチの横にもたくさんのカモが大きな顔して歩いてます。
「カモは野鳥。本当は人に慣れるはずないでしょ。鴨鍋にされたらこまるものね。でもエサをもらってここらのはドガモになっちゃった。」というのは“しのばず自然観察会"の杉本さん。実をいうと、カモの説明はこの杉本さんの受け売りなのです。
そういえば、根津神社にも人の手や肩、頭にまで飛んでくるハトがいて、ドバトと呼びますね。
手からエサを食べてくれれば子どもは大喜び。自分の食べるのも忘れてバラまきます。けど、ここで注意。過ぎたエサやりは迷惑!という話もあります。食べ残したエサは池を汚し、公園を汚します。それにスナック菓子では、カモだって体によくないはず。
不忍池は東京に残る数少ない水鳥の楽園。三月、北へ帰ってゆくカモたちの旅立ちに出会えたら、「また秋に!」のメッセージ。留守中の自然環境をみんなで守りたいものです。

《しのばず自然観察会》
都市の自然のあり方を考えようと上野の杜や水辺環境を中心とした自然保護・公園づくり・まちづくりに取り組んでいます。楽しいですよ。

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かおりのエプロンサイクリング
(谷中・根津・千駄木界隈の『ホームベーカリー』のお店を訪ねての巻)
パンの歴史その1
明治のはじめ、築地居留地の異人パンにかなわなかった日本のパン、そこで工夫したのが日本独特の酒種生地のアンパン! 侍従の山岡鉄舟の斡旋で明治天皇のお口に入ったという。銀座名物木村屋総本店の話。
パンの歴史その2
凶作で米価が沸騰した1890年(明治24年)、スライスした食パンに砂糖・しょう油を塗って二度焼きした「付け焼きパン」が登場、また節米のため「玄米パンのホカホカ」の呼び声を・・・・。
タッカタッカタッカ・・・『ロバのパン屋だチンコロリン・・ジャムパン、アンパン、チョコレイトパンもありますよ。何でもあります チンコロリン』昔ロバにひかせて売りに来ていたという「ロバのパン屋」って、ご存知ですか。
以下、イラストと説明。

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ひろみの一日入門 5 和菓子 ひぐらし(谷中・三崎坂)
『自分で作ったお供えで楽しく迎えたお正月』

昭和六十年もあと一日という十二月三十日早朝、といってももう七時に近い。三崎坂途中の大円寺のお隣、和菓子の「ひぐらし」でお正月用のお供えを作るというのでエプロン片手に助っ人に行く。師走にしては寒くないし、何だかのんびりした朝だ。

仕事は朝の三時から
お店の横の路地を入ると、もうすでに仕事場の煙突からもうもうと蒸気があふれている。
「おはようございます。」と入口を開けたとたん、開口一番「もうほとんど終っちゃったよ。」といわれてしまった。ナント三時ごろから仕事をしていたというのだ。
まず仕事場の風景。十畳ほどの広さの半分は土間で、蒸釜の上には7段のせいろ、その隣にもちつき機。反対側には銅(あかがね)の鍋やボールが整然と並んで いる。ここは長靴姿もカッコイイ田辺武さんの縄ばり。あとの半分は五十センチほど上った板の間。大きな作業台の前にはお父さんの武雄さんが立つ。部屋の中 もすごい蒸気で、ぜんそくの人にはよさそうだ。

五合供えで商売繁盛まちがいなし!
棚の前にメモ。今日のノルマは「一寸50ヶ、二寸27ヶ、三寸20ヶ、五合6ヶ、五寸4ヶ、一・五升2ヶ、六寸1ヶ、粟のし1、のし38やらねばならぬのだ。
五合供えというのは「ひぐらし」オリジナル。四寸(しすん)は好まれないので、五合つまり半升(繁盛)というアイデア。二升五合で升升半升(ますますはん じょう)というのもあるのだ。また昨日二十九日がお休みだったのは、九の日に餅を作ると「苦持ち」になるから。昔からの言い伝えがひょんなところで生きて いる世界なのだ。
さて大きな釜の上に乗ったせいろ一枚で三升蒸せる。これはセイロベーターといって、一番下のせいろから取り出せるから便利。三升で三寸のお供えが十個できる。
蒸し上がった餅米をすぐ隣の餅つき機の石臼に入れる。
「いやあ今は楽だよ。昔は杵を振り上げてついてたんだから疲れたよ。しかも昔の方がずっと注文が多くて、一家でのし餅十数枚なんてザラだった。今は平均二〜三枚じゃないの。食べなくなったねえ」
人手が足りないと、菓子屋の組合で東北から出稼ぎの餅つきマンを手配してくれたそうだ。
いまは機械なので、武さんは臼の前に坐って手水をつけて返すだけ。原理は昔と同じ。機械で持ち上った杵がすごい音でドスンと落ちる。

上下のバランスが肝心
餅米は宮城産。組合で共同購入しているもので、スーパーで売っている市販の餅みたいな混ぜ物はない。一般家庭からお米持ち込みで頼まれることもあるが、
「やっぱりいくらついてもゴツゴツしてて、餅肌みたいにツルツルしない。やっぱり餅は餅屋に任せてほしいネ」
大きなお供えほど手水を少なくしないとだれてしまうので難しい。
「どうだい塩梅は」「いい塩梅だ」という言葉が飛びかうが、これもいい言葉だと思った。
さてついたお餅をエイヤッと作業台の上に投げ出すと、若奥さんが計りにのせる。お供えは上下で一組、割合としては上が三分の一、下が三分の二。これより武 雄さんの出番。丸めるのも技術がいるのダ。手粉をつけ、まず下を平めに作る。上はつぶさないよう丸く。このバランスが微妙。手粉が中に入りすぎるとカビの 原因になるのでご用心。
私も一寸と二寸に挑戦。二寸のは「アチッアチッ!」といってる間に下の台はだれぎみ、上はコロッと丸くなり過ぎた。一寸はまあまあのできでした。
一寸餅といっても直径三センチよりはずっと大きい。出来上がった餅はまだ柔らかいので上下別に板に並べていく。仕事が進むにつれ仕事場はお供えだらけ。奥 の座敷は早朝作ったのし餅でいっぱい。 ここで一息、余ったお餅にアンコを包み、ホカホカの大福をもらう。つきたてのお餅に手を温め、口に含むと、冷たいアンコとの絶妙なコンビネーショ ン・・・。

意外だった粟餅のおいしさ
さて再びのし餅。伸ばさないように気をつけながら、木の包丁で切って、目方を計り、木枠にはめる。そしてパンと再び台の上に出し、四ツ角を角みたいにつまむ。
最後は某寺のご住職の健康のモト、粟もち。これは特別注文品。餅米と半々だが、きれいな黄色。昔、粟やヒエは粗食の代名詞だったが、今や粟の方が餅米より高い。
作業が終わって一息。
「和菓子の三条件は、見た目に美しい。食べておいしい、値段も手ごろということ。展覧会用の細工物もあるが、本当は大衆的でなきゃダメよ。それと季節感が大事。これから三月初旬までは桜餅と草餅。お彼岸にはおはぎ、五月には柏餅」
当分いろいろ楽しめそうだ。

かびたお餅も捨てないで
最後にお供えのその後。寒のうちにひびの入ったところからバラバラほぐし、ざるに入れて外で気長に干す。それを湿気(しけ)ないように保存すればOK。低めの温度の油で揚げ、塩やしょう油で味付け。お茶づけやビールのつまみにグー。
蛇足。上が赤く、台が白い二色のお供えはお稲荷さんの系統で「うわ赤供え」という。しかし、谷中七福神の大黒天護国院の二色のお供えは、昔からの風習、おめでたいので供えているとのことです。

28頁 生活の基本てなんでしょう
自然食の店ーまずは食べることから始まる

「根津の谷」 電話3823-0030 AM10:00〜PM9:00 第2日曜定休
「冷え性だったのが、北向きの店に一日中立っていても平気になった」と、自然食雑感を寄せてもらったのは谷根千二号のこと。読後気になり続けた自然食の店、「根津の谷」をあらためてご紹介。
「空気と水がきれいなら、何でもおいしく食べられるけど、ここは水も悪いし排気ガスもひどい。こんな状態だから食べるものくらいにはこだわりたい」と女主人。
根津交差点脇に百年は経っているという仕舞屋(しもたや)。店構えも雰囲気も“自然食"的というのか、店としての装飾はほとんどない。
米に混ぜて炊けるハト麦、玄米、納豆、低音殺菌の牛乳も各種、昔からの製法の油、醤油、味噌…。無添加、無農薬のありとあらゆる食料品、洗剤、野菜が溢れる。
「確かにほかの店に比べて安くない。たとえばここで売ってる豆腐は内地産の大豆を使っていますが、この大豆の値段は輸入ものの約三倍。これを一丁130円で売りますが普通は110円。高いと考える人もいますが、原料を思えば安いくらい」とおっしゃる。
自分が良いものを食べたいから、産地へ出向きよいものを探す。それを町の人々に手渡す。たのもしい仕事である。

大きなかぶ
 電話3811-5033 AM11:30〜PM8:00 昼食12:00〜2:00 夕食5:00〜8:00 日祭日定休

うわさに高い本郷の「大きなかぶ」はいったいどこにあるかしら、と迷いつつ見つけたお店はまるで八百屋さん。産地直送の無農薬野菜果物が店の入口に所狭し と並べられ、店内には無添加のお菓子などの食品に埋もれて、二,三人のお客さんが食事をしている。聞けば、このお店の経営者は三人姉妹。
「母が病気になって抗生物質などの薬を使ってかえって身体を悪くした。それから医療とか食の問題に興味を持ちました。私達は自然食品とは言わないであたりまえの食べ物と言いたい。それがみんなの手に入らない現実がおかしいと思う。」
「お金のために時間を切り売りするような人生でなく、納得のいく日々を送りたい」と言うのは妹さん。お姉さんの方はもう十年程前から「学校給食の問題」に取り組んでいるとか。
スリムな体、軽快な動きは日頃良いものを食べているからでしょうか。
今日は仲間と日替定食。(玄米御飯、実沢山のお味噌汁、粟のコロッケ)680円。地鶏を使った鶏定食850円。歯ごたえのある玄麦スパゲティ750円。大変おいしくいただきました。次は、たんぽぽコーヒー300円を飲んでみたい。

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情報トピックス
今年になってあったこと―
1・12 武蔵野市文化会館で上野奏楽堂パイプオルガン保存のチャリティ・コンサート開く。
1・18 本郷法真寺で百人一首の会。会津板がるたというのを初めてとりました。昔、会津の民家のしんしんと雪が降りつむ夜に、板がるたをとる音が響いたとか。
1・26 第六回根津寄席(14頁)
2・2〜3 谷根千第二回のスタッフ親睦旅行。今回は熱海の台東区保養所に。海の見える静かな宿で一人一泊四千九百円。「他所で食べると二万円はする」お刺身舟盛が七千円とは嬉しい。
2・9 谷根千・生活を記録する会。「谷中スケッチブック」を肴に、街を読む、歩く、書く事について。
2・11 谷中大円寺の副住職・豊田日朋師が千葉中山の法華経寺での百日間の荒行に耐え帰還。日暮里駅から町の衆、檀家など数百人の迎えの行列が続きました。
2・12 千駄木の秋邸へ、谷根千建築探偵団(藤原惠洋団長)が向う。(次号で詳細す)

◆おめでとうございます―
棚谷勲先生が2月24日〜3月1日、資生堂ギャラリーで個展を開かれました。今度はもっと早く教えてね、先生。
谷根千・其の六に「本郷」(講談社)の自筆広告を書いてくださいました木下順二先生(向丘在住)が、長年の劇作活動に対し、「朝日賞」をお受けになりました。
また其の四に「東京の空間人類学」(筑摩書房)の自筆広告を下さった陣内秀信先生は同書で昭和60年度「サントリー学芸賞」を受けられました。
そして根津寄席世話人渡辺臣蔵さんが、根津で生活し、二十二歳で夭折した画家村山槐多を描いた「火だるまの如く」(長野放送)で、民放祭ドキュメンタリー部門賞を受けられました。番組のナレーターは根津出身の大滝秀治さん。
◆団子坂下の佐々木麗芳さんは筆耕という字を書くお仕事で、円朝祭りのチラシでもお世話になってます。TBSラジオの「だれかとどこかで」(永六輔氏担 当)で、鰆(さわら)、鰍(かじか)、鮗(このしろ)はあるが、魚偏に夏と言う字はないと言われたとか。これを聞いた佐々木さん。これは「はや」と読むと 手紙を出し、番組で紹介されました。昔、魚屋の娘が武家に恋をした。想いを伝えるのに、七匹の魚の名を書き屋敷の門番に渡したという。
鮗(このしろ)、魚に支(いるか)、鰡(いな)、?(いか)、魚に夏(はや)、鮎(あゆ)、鯛(たい)
「この城に居るか居ないか早会いたい」。佐々木さんが父上から聞いた粋な話だそうです。
◆二十年の歴史を持つ「荒川少年少女合唱隊」が春の団員募集中。
◆千石の三百人劇場では、谷根千読者を観劇にご招待。劇団昴公演『ああ求婚』。
◆東京国立博物館(上野)の「比叡山と天台の美術」に谷根千読者をご招待。

確蓮房通信―この間、会えた人
★憧れの“しのばずおじさん"自然観察会の小川潔さん(学芸大助教授)に会えた! 彰義隊戦士の子孫。
★高村光太郎研究科の北川太一さん(千駄木在住)に会えた! 沢山資料を見せて頂いていたら、ガラッと戸があき、白髪の青年ペリカン書房の品川力さんに会えた! 真冬にシャツ一枚であった。その後、品川さんは「谷中スケッチブック」の誤植一覧表を作ってくださった。光栄です。読者の皆様ごめんなさい!
★天王寺住職・大久保良順先生が気軽に会ってくださった。楽しい話の後、五重塔古材で作った数珠と1万円のカンパを下さった。感謝。
★いとしの草野権和(のりかず)さんが田端から調布に越した。淋しがる私たちに、「一時間もかからないよ」とちょくちょく来て下さいます。
★世田谷三軒茶屋で子供の遊びを研究をしている木下勇さんが美女を連れてふらりと見えた。これから谷中散歩とのこと。「こんにちは小金井」の野口由紀子さんと会えた! 風のような人だった。
★NHK「小さな旅」のディレクター米島慎一さんがおいしいチーズケーキを持ってやってきた。番組そのままの素朴な方でした。
★岡本銀行頭取の子孫牛丸典子さんにやっと会えた。次号で詳報す。
★85年のクリスマス会で江戸千家家元の川上宗雪ご夫妻にまた会えた! お雛様のようなお二人です。

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おたより
「大賞」受賞おめでとうございます。皆さんの努力が認められたのだと思います。それから、発売日が多少遅れてもかまわないから、たまにはゆっくりお子さんの相手をしてあげて下さい。(谷中 金子雅彦様)
・この年賀状にスタッフ一同泣きました。

FM東京「音楽の絵本」という番組のファンの集いの新年会があり、串田孫一さんを始め三十数人集まってワインや電気ブランで乾杯しました。席上「よみがえ れ!パイプオルガン」を紹介したところ、知っている人も何人かいて、すぐに20冊がなくなりました。楽器をやる人は少ないのですが、皆音楽は大好きで、写 真や山、文学などを趣味に持つ人も多く、なごやかな気持ちのいい会です。(群馬県太田市 竹川光一様)

私がこの雑誌を手にしたのは全くの偶然で、十月中旬のある天気のよい日、なんとなく湯島辺りへと出かけたのです。湯島天神から横山大観記念館と来たところ で貴誌を見つけ、さっそく買ってそれを頼りにまちを歩きました。弥生美術館から弥生坂、おばけ階段、不忍通り、三崎坂とたどり、私はこの町に一目ぼれして しまったのです。今年頭に、もしよい住みかが見つかれば、引越しをとも考えております。でも、学生向けの安アパートなんてなかなかないでしょうね。(武蔵 野市 増田惠子様) ゲリラ的に探せばあります。

私は昭和二年仙台から上京し、谷中三崎町で五年間製本所に奉公しました。兵隊検査で帰仙後、上京はしませんでした。現在七十四歳。六十年前の事でも、谷中千駄木界隈はとても懐かしいところです。昔、私が住んでいた所が「へび道」とは、笑いが止まりませんでした。
(仙台市 遠藤栄三郎様)

まず私が即感じたことは、多くの名所旧跡に付け加えて、江戸文化をささえてきた下町の生命が棲息している風土が、こんなに鮮やかに熱く伝わってくることの 不思議さでした。とてもすばらしい街なんですね。私が住んでいる伏見区小栗栖(おぐりす)は、宇治にも近い、京都市内とはまた違った歴史的風土の宝庫で、 会社に勤め始めた時から少しずつこの街の周辺の歴史を調べるのが私の仕事になりました。歴史的な伝承の中で計画的な住民のための「街づくり」を目的として いるのが私の会社の仕事です。街を活性化させ、文化的風土にするには、大変な時間と人とお金が必要となります。今すぐ結果は出なくとも、コツコツと努力し た中からこの大きなテーマに少しでも私の力を提供できればと願っています。
(京都市 金崎美知子様)

谷根千の愛読者です。其の六の高橋くらさんの「わたしの谷中」の国防婦人会の写真に、私の裁縫の先生がおられました。乙口羊(おとめ)なをさん。上から二 段目の左から二人目です。私も十四から三年間、内弟子でお世話になりました。乙口羊先生も八十六歳で、百人ものお弟子さんが来られたのだそうです。谷中へ 行くたびにお会いしておりますが、お弟子さんでご健在の方はお便りでも差し上げていただければお喜びになると存じます。
(板橋区 須賀すず様)
・乙口羊先生のご住所、お電話は谷根千工房までお問い合わせ下さい。

小生根津小(昭和十一年卒)でして「其の五」の表紙“おばけ階段"の右手は伯母の家、左手は八重葎(むぐら)茂れる急崖の荒れ地でした。懐かしいものです。(港区 雨谷正方様)

新潟市内ではかつて多くあった銭湯が今では数えるほどしかなくなりました。その数えるほどの銭湯も最近また一軒、二軒となくなっていきます。そこで私たち 数人のスタッフで銭湯特集の小冊子を作ろうと思っています。月に一回でもいいから市民の皆さんが銭湯に入ってくれたらと思います。喫茶店で友人と語らう感 覚でお風呂に入ったらいいと思います。何しろコーヒー代より安くて得なのですから。(新潟市 早津博美様)

だんだんとカタチが出来てくるようで楽しい限り、ただあくまでも足でこまめに書いてください。(江東区 平泉明様)

年末からの私の喜びは、芸大生の孫が持って来てくれた「谷根千其の六」でした。私は東京が大好き、小学校の頃からの東京の月日が忘れられないのです。娘に 言わせると「それは現在ありえぬ昔語り」と片づけられます。併し、私は昨年十一月孫と根津あたりを歩き、本当の東京、わたしの愛してやまない東京を見つけ ました。そして今「谷根千」を熟読して、私の東京は生きていると再確認を深め胸を熱くしております。誠に「懐古趣味でなく古くて良いものを生かす…」この ことばに感動もしました。(奈良県 鈴木妙子様)

『谷中スケッチブック』へのお便り
こんなに素敵な本をまとめられたこと、心からお喜び申し上げます。いかにも地元で生れ、育った森さんならではの心やさしい都市空間へのアプローチと描写 で、谷中の素顔がそのまま生き生きと伝わってきて、感銘を受けます。過去と現在を行き来しつつ、歴史のイマジネーションにひたりながら、谷中を散歩するの にも最高のガイドですね。若い世代の書くこうした歴史のある地域のモノグラフというのが今までほとんどなかっただけに、これからの都市や地域に関する叙述 法にとって、大変貴重なモデルになっていくものと確信いたします。(法政大学 陣内秀信先生)

今三回目読んでいます。主人も読み、ホトホト感心し、主婦にしておくのは「モッタイナイ」との事で……主婦の一人として、ちょっと変な感じです。でもすばらしい本をよかったよかったと喜んでいます。(本駒込 村田康子様)

ご出版おめでとうございます。三年前に、木下順二氏「本郷」を手にしたときと同じときめきを覚えました。イッキに読んでしまうのは勿体ないので、毎晩少し ずつと決めました。大方の本は眠り薬になってしまうのですが、この本は読み始めますと、目がさえてきて、アーそうか! アーなるほど!と一人頷いたりして過ぎし昔を懐かしく想い出しています。
お正月は長野で過ごしましたので「谷中は遠きに在りて…」なつかしさひとしおです。目をあげると窓の外に雪化粧の菅平、志賀高原を望みつつ「谷中スケッチブック」を読む、何と幸せな図でしょう。(向丘 長坂希依子様)

・『谷中スケッチブック』(森まゆみ著)は、谷中の四季の風と匂いと音と人情を、たっぷり書き込んだガイドです。千五百円。
・他にも、たくさんのお手紙や電話が谷根千に舞い込みます。中にはカンパを忍ばせてくださる方もあって、本当にありがとう!

32頁
編集後期
◆二月八日と十八日、ついに雪が降り、谷中のお寺も根津権現もきれいでしたよー。でも私たち東京人は雪に憧れるけどいざ降ると弱い。車も坂で立ち往生、私 も子ども二人とずるずる歩いていますと、どこからかトーフ屋さんのラッパ。ワ、こんな寒くても引き売りしてるんだあ、と気持ちが温まりました。
◆皆さまお元気ですか。三ヵ月間いろんなことがありました。三十二頁に戻ったけど、これじゃとても足りなくて。でも精いっぱいお伝えしたつもりです。
◆四号でいっぱいもらったローソク、どうしたのというご質問が多いのですが、来る人ごとにあげていたら、ほとんどなくなりました。とはいえ、味気ないユ ニットバスの換気煽を止め、ローソクつけて静かなお風呂に入って炎のゆらめきを水に映したり、夏は花火の火種に、それから溶かしてクッキーの型で抜いて 「星のローソク」を作ったり、ミカンの汁であぶり出しをしたり、と遊びました。
◆「谷中墓地と自由民権」。勉強しながら最終回まで来ました。墓地にいっても「我に排跪せよ」といわんばかりの大きな墓より、民衆のために生きた人の小さ な墓がいい。田母野秀顕の碑文は「政友星亨」が書き、田母野を裁いた大審長玉乃世履の巨大な碑は「司法大臣陸軍中将従二位勲一等伯爵山田顕義」が書いてい るんです。生き方の差ってお墓に出るのね。
◆二月十三日のNHK「関東甲信越小さな旅」で谷中が「江戸の時を刻む町」のタイトルで紹介されました。私たちも「地域の環境を守る」目的が「マスコミを 引き入れる」結果になりはしないか悩みましたが、映像で町が記録されるのも大事なことですし、よい番組ができるならと協力しました。やらせは一切なくとて も爽やかなスタッフでした。「街も人を選ぶ」でしょうから、放映後もあまり谷中を騒がすような人は来ないものと信じます。
◆一〜五号のバックナンバーがなくなり、絶版にしようと思いましたが、そうするとコピーを取りにみえる方が多いので、最後の増刷をしました。狭い部屋に運び込まれる雑誌の山を見て、あーまた在庫を背負った、と嘆息。またこの山が崩れていくのを見るのは複雑な思いです。
◆千駄木の不良主婦、山崎範子は映画狂で子供が寝静まる土曜の夜はオールナイトへ。「来週は私も」と張り切ると「三十過ぎたら体にこたえるよ」ですと。編 集で徹夜しても真っ先に私がダウンするのです。今回は巨大ねずみ旅人君(たびごん)をかかえた二十六歳の新鋭、藤原かおりが頑張ってくれました。
◆次回はいつ出そうかな。皆様待望の団子坂特集です。知っていること教えてね。

お知らせ
●バックナンバーのご案内
其の一/菊祭り特集 其の二/銭湯特集 其の三/藍染川特集 其の四/和菓子屋特集 其の五/鴎外特集 其の六/酒屋特集(一号は100円、二〜六号は 250円)地域内の書店にあります。遠くへは郵送もします。送料は1冊170円(其の一は120円)、二〜五冊の時は240円、六冊まとめては 300円です。「谷中スケッチブック」は一冊1500円、送料250円。希望の号数明記。
郵便振替 東京5-1-162631
●「谷根千の生活を記録する会」ご案内
3/16(日)AM11:00 日暮里駅霊園口集合「通りに愛称をつけよう!!」
4/5(土)AM10:00 谷中墓地五重塔跡前集合「谷中墓地の見学と花見会」
5/11(日)AM11:00 根津神社表門前「江戸切絵図の谷根千」
●谷根千恒例、大花見大会。去年は満開+晴天でした。今年はいかに。4月5日(土)AM12:00より。谷中墓地中央通りにノボリを立てて待っています。どなたでもどうぞ。参加費は飲み物代として五百円。その他おつまみなどご持参いただけましたら更に歓迎いたします。


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奥付
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の七
一九八六年三月十五日発行
編集人/森まゆみ 発行人/山崎範子 事務局/仰木ひろみ 藤原かおり
発行 谷根千工房(やねせんこうぼう)
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