地域雑誌「谷中 根津 千駄木」6号 / 1985年12月15日(日曜日)発行  250円
そろそろ熱燗のうまい頃
6号 そろそろ熱燗のうまい頃 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 6号
其の6 1985.12.15
酒屋特集(40P) 
表紙/酒屋の鬼・タイトル文字/岡本明子
大円寺−スケッチ/川原史敬
自由民権と谷中墓地3−小野梓と馬場辰猪
酒屋60軒全調査・そろそろ熱燗のうまい頃
酒屋・取材帳より
谷根千酒屋全リスト
根津の文人ー羅文さんのこと
谷根千の風景ー崖の四季
手仕事を訪ねて4−森田桐箱店
谷根千マップ
聞き書き市井の人ーわたしの谷中 /高橋くら
水晶ローソク遺聞ー町工場の夏 /清水小百合
根津の染物・丁子屋ー剪画・文/石田良介
藪下通りの景色が変わります/木村民子
坂のある風景ー日暮里・富士見坂ーエッチング/棚谷勲
浄名院のジョー/東雲
明治の新聞に表はれたる谷根千附近
郷土史発掘ー鷗外特集補遺
本郷ナイト・アンド・デイ1−白山通り冬午前二時
ひろみの一日入門4−アイロンがけにコツがあった
      三協クリーニング/大和クリーニング
情報トピックス
おたより
編集後記
おしらせ
文化ガイド

2頁
自由民権と谷中墓地3
小野梓と馬場辰猪

 今回は早稲田大学と立憲改進党を作った小野梓、輝ける雄弁家馬場辰猪の二人のオルガナイザーのお墓をご紹介。
 土佐立志社に呼応して自由民権が燎原の火のように広がりゆくなか、東京の民権勢力は政治結社の形をとらず、演説会、新聞・雑誌の言論戦を展開します。
 東洋小野梓、この人の名は最近早大生でも知る人が少なくなりましたが大隈重信の片腕として早稲田大学を作り、財政学の講義をした人。
 自由民権の発祥地土佐は宿毛(すくも)に、嘉永五年(1852)下級武士の子として生まれ、十七歳で戊辰戦争の討幕軍に志願。明治二年、東京に出て昌平 黌 に学ぶが藩の拘束がイヤと士族籍を捨てる。ニューヨークで法律を、そこで運よく大蔵省官費留学生となってロンドンで理財を学ぶ。このころやはりロンドンに いた馬場辰猪と意気投合し、日本人学生会を組織。すでに二人は組織者の才能を見せています。
 自由人馬場辰猪は小野より二年早い嘉永三年、同じく土佐の上級武士の生れ、江戸福沢諭吉の塾から欧州留学。
 さてイギリス議会制民主主義に魅了され、小野梓は「明日は日本だ!」と胸ふくらませ明治七年秋帰国。両国中村楼で演説会「共存同衆」を設立します。翌年からは『共存雑誌』を発行。封建制を打破し権理と義務を明らかにし、人間共存の道を探ろうというわけです。
 もちろん西洋新知識をもつ俊才を政府も放っとかず、彼は司法省、元老院、会計検査院の局長級の役職を転々とするのですが、その一方で自分を雇った政府批判の演説を行う。京橋日吉町七番地(いまの銀座八丁目)に落成した「同衆館」で四十二回も熱弁をふるっています。
 馬場辰猪が帰国したのは明治十一年、まさに沼間守一(ぬまもりかず)の嚶鳴社、小野梓の共存同衆の演説会たけなわの頃。イギリスの立憲政治、パリの革命 の遺跡を見、民衆の時代の予感を胸に、馬場はさっそく、同衆館近くの日吉町のすし屋の二階に陣どり「共存同衆」にデビュー。  テレビもラジオもない時代、こうした肉声が思想を伝える大きな手段。田口卯吉、菊池大麗、江木高遠(彼らの墓も谷中墓地)、肥塚龍、島田三郎、鳩山和夫 らも登壇、この演説会は誰にでも平等に開かれ、女子も入会できると規約にあるのが珍しくも嬉しい。
 演説会の民権熱に困った政府は明治十二年、官吏の演説を禁止、憤激した小野をなだめ馬場が前例に出ますが、馬場は翌十三年、集会条例の弾圧法を機会に共 存同衆を離れ、翌年、末広鉄腸らと「国友会」を組織。浅草井生村楼(いぶむらろう)を本拠に『国有雑誌』も発刊、同年、自由党の結成に参加し、常議員とな ると共に 『自由新聞』主幹として活躍する。
 一方、小野梓は明治十四年の政変で大隈重信と共に下野、その懐刀として、立憲改進党の結成に奔走し、綱領、規約、宣言を起草、翌十五年には明治会堂で大演説会を開催します。
 明治十五年は日本史上、次つぎと全国的政党ができた画期的な年。その二つの党の理論的リーダーが、かつてイギリスで日本学生会を作った二人なのがおもしろい。
 小野梓は政党創設と並行して、研究団体鴎渡会をつくり、在野の優秀な青年を育てるために東京専門学校を開く。その後身早稲田大学には小野講堂の名 が残っています。さらに良書普及のための東洋館書店を始めますが、これが冨山房の前身。最近神田神保町にある冨山房の社屋が惜しまれつつ取り壊されたのは 記憶に新しい。
 不退転の事業の半ばにあって天の利あらず、小野梓は肺結核で明治十九年一月十一日三十五歳で逝きます。谷中天王寺の葬儀には千人が参列、その夢と声望の大なるに比して墓石ははなはだ小さい。
 いま一人、馬場もまた「早すぎる歩行者」であった。明治十六年、自由党のシンボル的存在であった板垣退助が、伊藤・井上らの術策にはまって財閥三井の金で洋行するのを「戦線放棄」と批判、反対に党から追放されてしまいます。
 明治十九年、爆裂弾事件で逮捕され、翌年釈放後、ひとり渡米して海外から日本政府批判を展開するさなか、フィラデルフィアで客死。遺髪だけが帰国して天 王寺に葬られた。その場所に誰か心ある人が小さな自然石で手作りの墓を作った。弟の英文学者馬場孤蝶と並んだ今のオベリスク様の大きな墓は、辰猪の八回忌 に建てられたものですが、その裏に忘れられたようにある小さな墓は、自由を愛し、自由のために闘い死んだ同志を偲ぶ心が、ソクソクと伝わってくる気がしま す。
 次回最終回もお楽しみに。
<参考>「小野梓全集」早稲田大学出版部
     萩原延寿「馬場辰猪」中央公論社

(写真キャプション)
共存同衆演説会のチケット
当時にしては稀有なことに、女性の入会も認めていた。
馬場辰猪
「官吏・貴族と人民の間には利害の対立がある」
小野梓
「立憲国民は自治自働の人民たらざるを得ざるものなり」

そろそろ熱燗のうまい頃
■酒屋六十軒全調査

世の中に酒というものなかりせば
何に左の手を使ふべき

なんぞというパロディもございますが、
酒なくては夜も日も明けぬ江戸っ子の末。
上野戦争のタマをかいくぐっては飲み、
関東大震災の復興中でもかまわず飲み、
戦時下は配給所を取り仕切るといって飲み、
終戦直後の国民酒場には昼の三時ごろから、
大の男がズラッと並んだのでございます。
まさに酒は世につれ世は酒につれ
「寒いから一ぱいひっかけるか」
という夜に、買いつけの酒屋の歴史を、
どうぞ旨い酒の肴になすってくださいまし。

日本人が酒を飲むようになったのは『魏志東夷伝』や『日本書紀』の昔から。のち宮廷や寺で酒作りが行なわれ 、中世には京に造り酒屋が出現。
 しかし酒が庶民の喉を潤すようになったのは江戸寛政をすぎて酒が大量生産され、樽廻船という酒専用の商業ルートが確立されてからである。江戸っ子は灘、伏見の上方の酒を「下り」、尾張、三河、美濃あたりの酒を「地廻り」と呼んだ。
 運送量は幕末で年に百万樽、江戸の人口が当時百万人だから、ほぼ一人年間四斗樽一つを飲みほした勘定。ちなみに今、ビールは一人年間二斗。
 文化文政の頃は寒作りの灘の生一本がおおいに宣伝された。その当時すでに谷中や根津で商売していた店がある。

伊勢五
伊勢五の篠田家は、宝永三年(1706)以来、二百八十年間現地で酒屋を営む。初代から五代目までは五右衛門を名乗り、その後、義三郎、六松(東京市議会 議員)、繁とひきつぎ現当主忠氏で9代目。三崎坂上あたりは宝永より以前、元禄の頃から町屋が開け町奉行支配下に入っていた。菩提寺は日暮里南泉寺。
「上野の住友銀行辺りで地下鉄工事をしてたら、ヤマ五のマークを彫りつけた年代物のとっくりが出た。黄瀬戸焼といって製作方法からして二百数十年前のもの。当時ヤマ五のマークはうちしかないってんで、私は一級酒十本もっていって返して貰ってきたんですよ。
 醤油も問屋から買い付け、うちで若緑という自主ブランドを木版でラベルを刷ってビンに貼って売ってたらしい。蔵の中にその木版もありますけどね。
 昔は女中や奉公人が十五〜六人いたが、浅草の三佐野という料亭1軒でみんなを養えるくらいの注文があったらしいね」

今の建物は昭和十一年、三崎坂の道路を拡げるときの改築だが梁の太さが凄い。


宮田屋
日暮里駅の東口側で唯一、谷根千を置いて下さる。創業者長吉氏が文久二年(1862)に始め一三〇年続く。元は日暮里の農家。四代目の順広(のぶひろ)さんがお元気である。

「元は羽二重団子の並び、日暮里村役場などもあった辺りに店があり、他に下駄屋や洋服屋もあった。木炭、荒物、文房具、国定教科書なども扱っていました.
私は第一日暮里小学校まで御殿坂を上って通い、店の前を流れていた音無川で魚を取って遊びました。春のお花見はうち中で大八車にお酒やご馳走を乗せて飛鳥山まで行きました。 私は近衛兵でしたが、間一髪で除隊となり、2・26事件を逃れました」
 五代目の宮田石根さんが地酒に熱心。新潟の辛口「久保田」がしぶい。

相模屋
 相模屋の現当主滝沢栄一郎氏に聞く。
 玉林寺のウチの墓に享保九年と刻んであるから、二九〇年くらい前からこの辺で酒屋をやっているんだろう。過去帳に「永代供養料二十五両これを納む」とある。
 江戸の末期から明治初年にかけては、根津の岡場所が大変流行り、うちは土蔵相模といわれ、表通りの第一信用金庫のある辺りで、遊郭へ独占的に納めていた。根津もはずれでは狸の腹鼓が聞こえた頃。
 遊郭が洲崎に越したんで、根津はガタッと火が消えたようになった。
 三代目の仁兵衛のチョンマゲの写真が残っているが、彼は越後の出身で養子で入った。その息子が羅文。坊ちゃんで育って筆が立つんで店なんかやらず、読売 の記者をしていた。「根津の三馬鹿」といわれてひょうきんで面白い人だったらしい。幸田露伴が売れないころの遊び仲間で、うちの店の二階を借りて 二人で勉強したり、露伴が谷中に越してくるとそこに居候してみたり。女中が根津から天王寺まで二人に弁当運んでいたらしいね。
 羅文の娘ふじ(明治十六年生)が私の母だが、『五重塔』は露伴と羅文の合作だなんて死ぬまで言っていたけどそれはどうかね。うちの母はずっと読売びいきだったよ。
 羅文は明治二十四年に、二十七歳で肺病で死んじゃった。母ふじは「十(とお)になったら英語を教えてもらう約束だったのに」と残念がっていたよ。死んだとき持ってた本はみな露伴にやったそうだ。
 母は十二歳で戸主としてお寺に百七十円寄付したりしている。そして弥太郎という養子をとって生まれたのがこの私。
 遊郭の移転についで、大正の五〜六年か、都電が通って、ますます根津はさびれた。「いま来るよ電車が」とワクワク待っていた日のことを今も覚えている が、都電が出来たらみんな上野広小路に買物に行くようになって、呉服屋も何もダメになった。毎月二十一〜二日に夜店が出て豆とか古本屋とか、夜遅くまで人 出があったがそれも出なくなった。
 私の父は八重垣町の前身親交会を作るのに尽力し、初代の会長になった。盛大なころ、権現さまに大きなみこしを寄付したが、これも戦時中に銅の部分を供出させられたしね。表通りの五間間口の立派な店も、震災でもビクともしなかったのに強制疎開であっけなく壊された。
 もう根津は、家賃や人件費がなければどうにかやってけるくらいの土地になってしまったねえ。(側でやはり深川の酒屋から嫁いだ奥さんが、「この人は商売気がなくて困るわ」と笑う。羅文の血筋は争えないのかな?)

相模屋から分れた新川屋
うちの四代前の与八郎が富山県下新川、今の黒部から出府して玉林寺の寺男をしていた時、相模屋さんから声をかけられ奉公しました.そのうち独立して新川屋 をはじめ、焼酎を作って売ったが大当たり。明治十八年に与八郎は死亡し、跡をとった亀吉は酒屋を二十年にやめ、周辺の土地を買って土地を貸す方に 転向しました。(宮本瑞夫氏)
(新川屋を廃業した宮本家は亀吉のあと勢助、馨太郎、いまの瑞夫先生と三代にわたる民俗学者として有名。池の端に宮本民俗記念財団を設立し、民俗学の資料の収集、調査や出版を行なっている。)

不忍通り相模屋――前出の相模屋より祖父塚越鉚吉さんがのれん分け。三代目。

7頁上中段囲み
根津の文人  羅文さんのこと

 朗月亭羅文・滝沢慎八郎は文久三年相模屋に生れ仮名垣魯文に師事し綾垣羅文と名乗り、のち読売新聞の投書家。中坂真節(まとき)に鎮彦の名を貰い、藍染川にちなむ愛川(あいせん)の号も持っていた。
 考証を好み、歴代天皇や古今の名人の伝記、年表を記憶し、たちどころに答えた。字は一画もゆるがせずに正しく美しく書いた。剣術、手裏剣、棒も巧み。無縁の墓を掃除し、誰にでも湯灌を使わせた。だから銭湯で羅文に背中を流してもらうのを誰も薄気味悪がったという。
 商家の出にしては金に淡白。食えなくなったら太鼓持ちをやろうと言っていた。露伴より四つ年上であるが、その最初の門人となった。
 明治二十三年六月、露伴は信州地獄谷から「蚊はなく酒はなく客はなく肉はなく塵はなく、新聞などいふやかましきものは勿論なく、坐蒲団といふ贅沢なものもなきほどの宿」と羅文宛に旅の印象を書いている。
 この年の暮れ、露伴は谷中天王寺の近く、銀杏横丁に移った。のちにここで名作『五重塔』が書かれる。まず「国会」紙に初めての戯曲『満寿姫』を載せる。これは一部羅文の代作といわれている。
 羅文は谷中の家に居候したが、朝は家主の露伴より遅く起きた。辺りが淋しすぎると家事をする婆やが逃げたあと、しかたなく露伴自ら朝食の用意 をしたが羅文はしれっとしていた。羅文は『ソロモン王の洞窟』(ハーガッド原作)を蝦夷十勝岳の幕末物に仕立てた『宝窟奇譚』を露伴との合作にしてもらっ たり、親交のあった三遊亭円朝の伝記を読売新聞に連載したりした。二人とも二十代のころである。
 羅文は明治二十四年八月十八日、洲崎の弟の家で二十七歳で脚気衝心のため亡くなる。明治遊郭は明治二十一年六月、洲崎に移されている。羅文の弟は分家でもして遊郭の引っ越しについていったものであろうか。
 死の翌十九日、露伴は饗庭篁村、宮崎三昧、高橋太華ら根岸党の友人に宛て、「故滝沢氏の出棺は明日午前七時との由に付此段及御報知候也」と書き送り、羅文を谷中玉林寺に葬る。そして羅文の碑を立て、文を三昧が、字を露伴が書いた。
 生前、露伴と羅文は二人で酒をくみかわし、そのあとブランデーに移って、露伴は七杯でダウンしたが、羅文は八杯目を飲み干しケロリとしていたという。そ れがためブラ八という仇名がついた。    「羅文は奇人といわれ、こうした人に生存を許した文壇の空気はよかった」と露伴はのちに回想している。しかしその呑気は天性のものではなく、「人を 笑わせる人間として自分を作った」のではないかと『幸田露伴』の著者塩田賛氏はいう。
 本意は別として、羅文は明治初期の根津が生んだ高等遊民として一生を終えた。(参考・塩田賛『幸田露伴』中公文庫)

6頁下段囲み
・谷中辺りを荒らしまわった酒豪連といえば谷中初音町の岡倉天心率いる日本美術院派。彼らの院歌は酒盛り歌。
 谷中鶯、初音の血に染む紅梅花
  堂々男子は死んでもよい
最初は下戸だった横山大観も天心に鍛えられ酒仙に。彼のひいきは広島の「酔心」で酒代がわりに毎年1作ずつ絵を描いてやったため「酔心美術館」が できたほど。ウニ、カラスミ、メザシで1日7合。死の4日前まで吸いのみで飲みつづけ、「酒ってものはいつまでもよろしいものだねえ」といって亡くなっ た。

吉田屋
 三崎坂上の酒舗吉田屋は明治二十五年の建築。前面に柱がなく、摺り上げる木の揚戸が使われている。これは今のシャッターのようなもの。堂々たる建物だ。
 店主喜多島家の菩提寺神田感応寺(谷中)にある墓石には享保、明和、宝暦などの古い年号が並ぶ。現在の頴一氏が九代目。
 江戸時代、この辺は天王寺門前新茶屋町として元禄年間から町屋ができていた。吉田屋はそこで酒屋と畳表を商っていた。
 番頭も二代目の松本武さんが話す。
「元は行山医院の通りが本通りで四角く曲っていたが、昭和八年、茶屋町を斜めに横切る新しい道ができた。改正道路と皆呼ぶが軍用道路だね。その時吉田屋は二百何十坪も差し出して(もちろんタダ、その頃はね)、店をここまで引っ張ってきたの」
 武さんを奥さんはタケちゃんと呼ぶ。「うちの主人は一歳で父を亡くし、その後は番頭さんや店の人に盛り立て、育ててもらったようなものらしいですわ。小学校の父兄会にも番頭さんが出て、主人を『旦那』と呼ぶので、皆さんおかしがったそうです」
 常時、奉公人が店の二階にある六畳と四畳に住み込んでいた。
「戦後は配給になって、荻野和菓子店のあたりに国民酒場ができ、カストリしょうちゅうを飲みたい人が、この辺まで並んでいたよ」と松本さん。
 三崎坂上に伊勢五と吉田屋があるお陰で、実に谷中らしい味がある。住み手は大変だろうが、できればいつまでもそのままの姿を保ってほしいと思う。

野村屋
 百九十年前から団子坂上で酒屋を開いている。創業者は関原伊三郎さんで現当主顕太郎さんが五代目。
「先祖は越後の出身だそうだ。何べんも焼けたから古い物は残ってないね。母の話だと、彰義隊の戦争ではこの辺の人はひどい目にあったんだって。前の前の家 にはその時の弾(タマ)の跡もあった。タタミを上げて砲を除け、カメにつめたお金を土間に埋めて逃げた。戦さが終わって帰ってみると、酒樽はみんなカ ラッポ。大方、官軍の兵士が飲んじゃったんだろう。世尊院の前あたりで彰義隊の偉いのがぶったぎられたって話もある」
 明治三十九年一月十二日、軍医森鷗外が日露戦争から凱旋。森於莵氏の日記。
「新橋停車場ニ近ヅケバ沿道人垣ヲ作ル中ニモ一旗一流レ本郷駒込千駄木町会ト記シ、ソノ下ノ大石ニ腰カケタルハ隣家ノ酒屋ノ亭主、次ニ町内ノ頭・・・」
とあるのは父上ですね。
 「そういえば鷗外さんが亡くなる時は新聞記者連が大騒ぎでみんなうちの電話を使って送稿した。中には亡くならないうちに死亡記事を電送して青くなってたのもいたっけね」
 そばから奥さんが補足する。
「中条百合子さんは髪をオールバックにして体格のいい方でした。高村光太郎さんの家は三角形の洋館で、配達に上がるとベルを押さず、鐘を叩くしかけでした。智恵子夫人は体を見せるのがお嫌なのか扉を細く開けて陰にかくれてらした」
 ここからのれん分けしたのが不忍通りの野村屋さん。千葉佐倉出身の井岡大治郎さんが、大正末に開店。よみせ通り野村屋の田原昭子さんの実家である。
「昔の店は木の大戸を上げ下げしてそこにくぐり戸が付いて出入りした。日銭が入るのでよく泥棒も入り、母親は泥棒除けに田端東覚寺の赤紙の仁王様を信仰し私もよみせ通りを連れられて行きました。
 この辺は職人さんが多かったし、宵越しの金は持たねえという気性で、日給貰って仕事帰りに、ももひきに地下足袋姿で枡で一杯やっていたわね。正月が近くなると若い衆がここは一斗ガメ、ここは四斗樽と配って歩きました」
昔の銘柄で覚えているのは富久娘。

8頁下段
酒屋・取材帳より

江戸は実に男の世界。江戸詰の武士、地方から出てきた商人(ビジネスマン)、出稼ぎといわば江戸チョンガーが多い。これら家庭でゆっくり晩酌でき ない単身者のため、酒屋が店先で飲ましたのが「居酒屋」。それが発展して飲み屋になった。今店先でコップ酒をやれる店は少なく、谷中石段上の大島屋、根津 の水村屋あたりか。

掛け値なし店から見た客のいろいろ
マンション住人=勤め帰りに買ってゆく。単身者は競馬新聞+しょうちゅう+つまみ。
山の上の邸宅=案外しまり屋。貰い物も多いらしく量は少ないのに届けさせる。
古くからの客=ひいじいさんの代から知ってたりして一番安心。でも若い人はドライで、代変わりすると他所へ流れる。
お寺さん=近頃は法事も寺ではやらなくなり、バスで料亭へ行くので注文が減った。
 取材をしていると酒造メーカーや問屋の人とよく会う。匿名氏が憮然として、「メーカーは自分でマスコミのブームを煽っちゃ自分で苦しむんだ。しょうちゅ うブームを作ったが、おかげで高い酒はさっぱり売れない。もうブームも下火。その前は『水で割ったらアメリカン』なんてせっかくの旨い酒の味を分かんなく させて。まずい水道の水で割られちゃたまんないよ。これからは純米酒、地酒、乙類しょうちゅうなど本物志向が強まるよ」
 取材をしたところなぜか千駄木側はコンビニエンス化が進み、谷中側は昔ながらの構えが目立つ。「若い人や勤め人の奥さんは店構えが明るくてきれいなのが好きだからね」「配達は少ないし、店に来て何でも間に合う方が喜ばれる」とコンビニエンス派。
「酒以外おくと他の商売の人に叱られる」「お年寄りはスーパーは買いにくいという」「売り上げにノルマがあるなんてヤダ」とは酒屋派。住人の意識を反映している?
 不忍通り太久美商店の内匠(たくみ)武司さんの話によると「最近目立つのは忘れもの。財布、こうもり、よその店で買った大根や果物を置いてったり、お金だけ払っていっちゃうとか」
私もやりそう。でもこのお店はちょうど信号の前、赤にならないうちに渡ろうとつい焦る気持ちもわかる。
 芋坂羽二重団子店内には桜正宗の江戸時代の木の看板がある。実に珍しいもの。

根津の酒屋
 先に紹介した土蔵相模のほか、根津には現在十軒の酒屋がある。
「みんな仲いいですよ。どこかに祝事や不幸があれば自分の商売などは放っといて駆けつけます。代が変わってもつきあいは続いています」(北野酒店主人)
昭和十一年時点の酒屋の一覧をみるともっとずっと多い。これは「戦時の統制をきっかけにずいぶんやめた」「人口がどんどん減ってきた」せいである。

北野酒店
 紀州生まれの虎蔵さんが神田や本所で奉公したのち大正十三年、ここに店を持った。
「大方、震災にあって逃げてきて住みついたんだろうね」とご主人。外国人が年間四千人も泊まるという澤の屋の近く。
「外人さん、来ますよ。英語に自信はないけど、指さして通じるよ」とのこと。

水村屋
 日本橋の水村屋本店からのれん分けで根津に店を出した。建物は昭和八年のもの。二代目の奥様椎橋けいさんが昭和十三年に嫁に来た時、「家の前には 一間ほどのどぶ川があって木のフタがしてあり、それを渡って客が来ました。都電の走ってた頃は人通りがすごかった。電車から降りたお客さんがそのまま店に 吸い込まれ買い物をしていきました。地下鉄ができてからさっぱり。店は根津駅の二つある出口の中間ですが、人はみんな左右に散ってしまいます」。

サワノ本店
 先代吉田治助さんが 京橋サワノ総本店ののれん分けで、昭和四年、上野黒門町に店を開いた。が空襲にあい、終戦直後の八月、戦火を免れた根津で再出発。
 十一月半ばから賀茂鶴の木樽を開けるのが恒例。そのために店名入りの通いどっくりを焼き、昔ながらの量り売りをする。「でも量り売りは難しくて私なんか地面に飲ませる分が多いわ」と奥さん。

永田屋
 細田益三さんの話。
 「先祖は飯能の庄屋ですが、明治十年ごろ、ここで手焼きの煎餅屋を始めた。当時店の前は一高で、あとは草ボウボウ。このあたりに店は三軒だけ。
 そのうち祖父高三郎が、親戚の作る地酒「君が旗」を売る店に転向。まだ珍しかった加富登(かぶと)ビールの販売所でもあった。
 私が子供の頃は“酒屋は酒を一日に三升売ればごはんが食える」と聞かされた。

吉野屋酒店 
 昭和七年創業。藍染川に続く長屋が新築された当時に開店した。
 「オヤジは三重県の出身で、本郷の吉野屋に奉公してたの。今はどこも家族の数が減ってるからねえ。酒の売れ行きも落ちますよ」と町では若手の富田幸博さん。バイクにまたがり配達に向う。

大和屋 
 吉沢美代さん。「私の主人の和作が昭和十年に始めました。この建物は前はうどん屋で隣は洋服屋の二軒長屋でした。
 赤字赤字ですねえ。家のものでやってるからどうにかね。おかずのない時には店の缶詰開けたってそれまでだし。
 店の横の観音様は隣にあった洋服屋さんの縁の下から出てきたらしい。昔この道も川(藍染川の支流)が流れてましたからね。十年くらい前から、うちでお預 かりしているんです。この頃は通る人がよく観音様に声をかけたり、十円百円とお賽銭を下さる。そのお金を貯めてはお花やお線香をあげています」。

浅野商店 
 大正中期の創立。「震災にも戦災にも焼け残っちゃった」建物には木のおろし戸がある。
 この店は洋酒だけを扱う。戦前は日本酒もおいていたが、配給の時代に酒屋の免許が一時預かりになり、戦後、雑酒の免許だけがおりた。
 洋酒はウォッカやテキーラなどひと通り揃えているが、商いの主流は調味料。種類も豊富で、たまりじょう油やナタネ油などスーパーでは手に入らないものもある。味噌は量り売り。十余種が並ぶ。

 この他、藍染側沿いに長谷川酒店と萬屋酒店。根津観音通りには「みちのく」味噌を売る秋田屋がある。

10頁下段
日暮里と道灌山下方面
 西日暮里駅近辺では宇田川酒店が二軒。本店は六阿弥陀通り。支店は駅前。現在の宇田川喜久雄さんの父忠一さん(神田生れ)が大正初年に始めた。
「関東大震災の時、その夏に売れ残ったサイダーを郊外へ逃れる被災民に売った。喉が渇いた人に一本五十銭までつり上げる店もある中で、うちのオヤジは固いからね。三十銭の正価で売ったらしい」
 道灌山下の太嶋屋酒店は能登半島の内浦町から出てきた先代が大正十年開業。二代目新谷浩太郎さんが語る。
「父は不言実行の人、母は進取の気性。早朝から深夜まで信用第一で働いて、不景気も乗り切ってきた。私も小さいころから店を手伝いましたが、後から来た小僧さんに負けまいと三十キロの砂糖袋をかつぐんだが、うまく腰が切れなくて。
 遠くへの配達も、人様の子に万一のことがあってはと、私が醤油の一斗樽を自転車にくくりつけ、田んぼの畦道を尾久の方まで行ったもんです。半纏に角帯締 め、前かけして、それなりに一人前になった気がしたけどね。夜九時過ぎ戻ってくると、父がガード下まで心配して迎えに来てくれた。その姿が忘れられない ね」
 日暮里駅前には山内屋。練馬生れの山内俊治さんが開き、邦夫さんで二代目。洋酒の品揃えが豊富。ジョニ黒7800円。ホワイトホース3280円と安い。
「お勧めは甲州のウインワイン(千円)自分とこで農場持っていて混ぜものなし。しかも技術がいいというのは珍しい。」
 谷中銀座の石段の上には大島屋。ご主人大島常一さんの祖母いよさんが女手一つで始めたのは石段下の六阿弥陀横丁。
「当時はこの石段がなく、谷中銀座は狭い路地で山の上へは七面坂を上っていった。創業者の祖母は私の子供心にも大変厳しくうるさいバアさんだった。昭和十六年まで生きてましたが、ババアといって柱に縛り付けられたりしたなァ」

足立屋
 谷中あかぢ坂下の足立屋、滝沢熊吉さんの話。「父芳楼の実家は埼玉県北足立郡の紺屋。兄弟十二人の四番目で明治三十三年東京に出て本郷元町の越前屋に半 年奉公。その頃谷中と根津のこの辺は草原だったようですが、これから町も広がると店を出したんでしょう。私は明治二十五年の生れ、子供の頃はもっぱらこの 辺の原っぱで棒もって駆け回ってました。
 昔の酒屋の苦労は、売りかけの回収がひどく悪かったこと。小僧が暮の二十五日から回収を始めて、大晦日まで提灯をさげて夜が白むまで回ってもハカがいか ない。この辺文人墨客が多くて、お金にルーズなところでしたねぇ。絵描きでも菊池華秋とか宮田司山がいた。また日露戦争のころは景気の浮き沈みが激しく生 活も楽じゃあなかった。大正五年、神田佐久間町にあった酒販小売組合の本部では、売りかけ金の回収問題を取り上げています。今は現金取引が多くて助かりま す。
 昔の酒屋の生活というと夏は五時起床。冬でも六時。朝早いのは朝ご飯の味噌汁に入れる味噌をおかみさん方が買いに来るからね。朝はご用聞きと小売、午後 から配達と小卸です。酒の配達には、通いどっくりで、一年に一度、足立屋の名入りのを美濃焼きで作らせてました。昔の酒は腐ることもあってロスが多かっ た。夏など朝と晩に利き酒したくらいです。親父は酒の等級委員もしてました。腐った酒はすっぱく、酢にして売る店もあった。戦後はビン入りになり腐ること もないが、酒屋は勝手に中身をいじれなくなった。
 そして夜は九時まで店を開けてて、朝が早いからと十時には寝てましたね」(熊吉さんはもとは私立高浜学校といった谷中小学校の卒業生である)

言問通りの足立屋 
 先の足立屋初代の妻フミさんの親戚すじ。臼田さんが経営する。その他子店が三店、孫店が三店ある。

本郷保健所通りの足立屋
 根岸さんは大正三年創業。谷中足立屋と同じく埼玉県北足立郡の出身。「昔は足立屋なら足立屋本店に仕入れに行ったものですが」
 二代目の充巨さんは、火事というと商売を放り出して本郷消防団に早がわり。

三河屋一覧
 池之端の三河屋 
 明治三十七年、先々代の鵜飼喜助さんが本郷真砂町の三河屋本店(親戚筋がやっていた)を頼って上京。「目の前が大河内子爵(知恵伊豆松平伊豆守の子孫)の邸で、戦後は荒れて広場みたいになっていてよく遊びました」と現当主英一さん。
 その大河内正敏子爵は、秀才で聞え、理化学研究所を起こし、合成酒「利休」「理研ウイスキー」を製造。自分とこの酒を愛飲した。

団子坂上大久保商店
 もとは「ヤマ三三河屋商店」。「近所の人もお年寄りは三河屋さん、中年は大久保さん、子供たちはキスマートと呼ぶのよ。うちは昔通り、炭もやってるの。 山でバーベキューする人が探しにくる。うちじゃ未だに石炭風呂、お湯の肌ざわりが違うわ。それに安上りですもんね」と奥さん。

団子坂上三河屋
 「慶応四年生れの祖父松本安之助が明治中期に始め私で三代目。昔のお客さんは未だにイチキュウさんと呼ぶ」とご主人。伯父にあたる松本長次郎さんは森鷗 外にかわいがられ「酒屋にしとくのはもったいない」といわれたとか。山形の「沖正宗」、新潟の「杜氏」という地酒が人気。

 このほか団子坂に森川町の本店から分かれた三河屋(三代目)。田端にも一軒、池之端にはもと丸西三河屋の三忠酒店。

上総屋
 酒屋には屋号が同じという店が実に多い。
 上総屋という酒屋も地域内に四店ある。このうち三店は出身が同じ。
「千葉県の同じ村の親戚すじで、東京で酒屋でもやろうじゃないか、と同じ頃出てきた。ところが谷中、池の端、千駄木と近いところに同名の店ができて問屋は ワケがワカンない。で店主の名をちぢめ池の端をセキニワ(関庭五郎)、千駄木をセキタツ(関辰五郎)、谷中をセキモリ(関盛信)などと符牒で呼んだわけ」
 と、いまは上総屋を遠慮して関庭商店にした関秀一さん。建物は昭和七年。
「酒、油、醤油の貯蔵は冷暗所に限る。だから軒を長く出し、天井を高くし、風が表から裏に通り抜ける造りなの」
 大正時代店を始めた頃は池の端の客だけではやっていけず、早朝から田端、上野まで、「障子紙を紐で閉じた注文帳」を持ってご用聞きに。「仕入れ資金がな くて空びんを紙に包んで並べておいたときもある」そうだ。昔の酒屋は炭やマッチもメイン商品。ご主人は「炭を店先で切るとクズが出る。それをタドンに丸め るのなんか手伝わされた」記憶がある。
(ご主人は「天鷹」が好き)

谷中の上総屋屋
 明治三十五年、関盛信さんが始め、店は大正時代、言問通りが開通した時のもの。この辺は上野寛永寺の境内で「ゆるやかな小山に狸やイタチがチョロチョ ロ。根岸方向へ行くには御隠殿坂を通っていた」という。現ご主人の好きな酒は「黒松白鹿」、そのケヤキ造りの大看板が見事である。

向丘のかずさや
 明治から三代目。「昔は油の配給所も。ここら辺では本郷三丁目の萩原さんに配給油が来る。ドラム缶に入った油をここまで運んで売った。ひしゃくで量り売 りだが、そのうち周りに油がこびりつく。ときどき抜き打ち検査があって、量目不足だと始末書を書かされる。油を計るのは難しいんだ」
 この店は夢境庵の指定で、青森の地酒「桃川」を入れている。「子どもに酒売っちゃいけない。子供が欲しがる柄のビール、自動販売機は本当に困る。対面販売が一番だ」とポリシーのある店だ。

田端の上総屋
 は大正十年、大根畑中に岩岡松次郎さんが開き、ただ今二代目。王子の地酒「ぎんから」が遠方まで人気。

慶野酒店(池の端)
慶野たけさんの話。
「私はこの辺じゃ女傑のたけと言われてるの。私の夫の芳五郎は栃木足利の人でね、上野駅前の渡辺本店に奉公して、昭和九年、根津のここで私と所帯を構えた。開店の時にはチンドン屋呼んで賑やかだった。
 この前の道は旧国道で、まわりは長屋だらけ。大工や左官、職人がめっぽう多かった。気風も荒くてよく店で酒を飲む。八勺のコップに受け皿を置いてね、樽 の口からついでやると、わざと手をふるわせて酒を受け皿にこぼすわけよ。コップの酒を飲み終わると、皿の酒をコップに移して大事そうに飲み干すんだね。
 根津は本郷と上野に挟まれたすり鉢の底みたいなところでしょ。そこでゴチャゴチャ動き回ってるだけね、昔から。店同士でつぶし合うし、共存しようと思えば変わったこともできないし。
 夫の芳五郎は病弱で、盆景かなんかで遊んでる人だったから店は私が一人で切り盛りしてた。子供は四人、次男をおぶって荷車引いて、本店まで荷物を取りに行った。苦労じゃないよ。主人が弱くてもこの店には私がいる、女傑のたけだもの。
 私はお酒は一滴も飲まないの。でも匂いで利き酒が出来る。飲まなくても私は酒がわかるんだ。今は孫と嫁と三人。大変だけど。楽しくやってる」。

よみせ通りと谷中
 旧藍染川沿いのよみせ通り周辺はこの地域でも古くから開けたところ。
「もう一軒おきに酒屋って感じだったらしい」と倉田屋さんはいう。滋賀県出身の徳次郎さんが開き、雄蔵さんが二代目。ふるさとの銘酒フェアを春秋二回、沖正宗や山形の樽平など純米酒が人気。
 その斜め前に伊勢元本店。先代斎藤亀治さんは明治二十九年秋田生れ。秋田の銘酒「爛漫」に勤めていた頃、入谷伊勢元総本店の大旦那有馬元次郎氏にスカウトされた。有馬氏は関東一円に二百五十軒の伊勢元を経営し,自主ブランド「有馬盛」の卸もやっていた。芳治さんの話。
「父は利き酒が上手で、すぐ本店の小売り部主任から昭和初年ここの『初音町売場』を任された。私がここに来たとき、難波屋の先は広場で黒須サーカスなど曲 馬団のテントが立ち、子供たちは火の輪くぐりにワクワク。太陽信金の所も空地で芝居小屋が立った。うちの親父なんかしょうちゅうを入場料がわりにしてた ね。」
 道灌山よりには野田屋さん。浅草の日本堤にある野田屋本店に勤めていた佐藤実さんがおこした。昔は主に油や味噌を商っていたという。「最近は不景気だか らね。土曜日に届けてくれ、月曜日に金払うからといって、日曜日にドロンなんてのがあって困る。うちは洋酒が強くて、最近出たニッカのフロム・ザ・バレル が人気です」と二代目の晋次郎さん。
 さて、よみせ通りと直角に交差する谷中銀座はもと安八百屋通りといった。そのころから今の越後屋さんがあった。隣の坂戸麺店のおばさんが越後屋の出だ。
「父本間吉蔵は越後の出身で大正四年から店を始めました。小売りのほか、大学病院や帝国大学、通信省貯金局や東京市設公営食堂の賄いに納品していました。 不景気の年には一銭でも安く売ることに心を砕き、一日十五日は神様にお供えをする日なので先着五十人にはお供物をサービス。朝は五時くらいから店を開け、 特売時間を設け、五人一組でくじ引きをすると醤油やチリ紙が当りました。大震災の時には自分達が罹災しなかったので、避難民にさつまいもを荷車で二台分配 りました。それから毎年九月一日には大震災記念日でまたまた安く売りました」
 安八百屋通りにもう一軒酒屋があった。
「木村屋は父亀吉が大正八年、静岡から出てきて谷中安八百屋通りではじめ、戦災で焼けて、高台に移ったんです。
 昔は伏見の酒、灘の酒、いろんなのが樽できて、辛口がいい、甘いのが、という客の好みに合わせ、店主が飲み口をキュッとひねってブレンドして売る。人の 好みを嗅ぎ分けられる酒屋がいい酒屋。だから店主も自然と呑んべえになる。それで酒屋同士行き来すると、仁義でまあ一杯と飲んだり飲ませたり、そのうちベ ロベロになっちゃう」
 戦後谷中もガラッと変ったと良一さん。言問通り上の佐野屋は二代目。戦争直後のバラックと謙遜するが、丸太も使った建物は素敵。博物館、芸大がお得意。

千駄木方面
 動坂と田端の矢部酒店が親戚筋で古い。不忍通りの矢部弥之助さんの話。
「田端の本店が漬物屋で明治四十二年〜三年ごろ開業。田端付近の農家で取れる大根などを漬け物にしようと思いついたらしい。漬け物は芥川龍之介さんの家に も届けてましたし、板谷波山先生(陶芸家)には、うちで佃煮を煮るために使っていた薪を、窯の火薪に差し上げた縁で、波山作の花びんが二つ家宝です。
 動坂店は大正三年伯父元次郎が始め、私は田端から養子に入りました。戦後、落語の志ん生さんがサミットの裏の坂を上った右に住んでいました。三時四時に なるとよく道灌山下の宝湯へ行くのに、志ん生さん手ぬぐいをさげてスタスタ降りてくる。ある時、「酒屋さんだね」と呼び止められたので、「ハイ」と返事し ますと、「菊正を一本届けてくれ」。お届けしますと「ホンモンだね」ってにっこりなさって、それからのおつき合いです。お酒呑みの志ん生さんですから亡く なる前には、家の方がだんだん一級、二級と変えていって、最後には水で薄めてらしたそ
うですが、「矢部の酒もまずくなった」と言われたとか。
 その後馬生さん(志ん生の息)とのおつき合いも長く、東横劇場で独演会のときも二階に一樽ずつ菊正をもって言って合い間にふるまったり。池波志乃さんと 中尾彬さんの結婚式はお諏方様でやったのですが、四斗樽を運んで、近所のご見物人に赤飯のおにぎり二つずつと紙コップでお酒を差し上げるのを手伝いまし た。
 動坂上の新倉商店は東京に憧れた新倉佐吉さんが、茅ヶ崎から明治二十年ごろ上京、駒込病院前に升本の屋号で開業。
「バラ新という有名な植木屋というか花屋もあった。動坂はもっと狭く、下は田畑で、私はトンボを捕まえようとしてよく肥溜めに落っこちました」
とは明治生れの磊三さんのお話。

 本橋酒店の先代本橋信次さんは大正九年現地に進出した「東洋飲料水」の工場長で、サイダーやシロップを作っていた。シールを貼る仕事は近所の長屋のおか みさんがやっていたが、大正十一年頃工場は閉鎖し、あとが千駄木日用品廉売市場になった。そこで本橋さんは昭和十年ごろから自分でシロップ製造のかたわら 酒屋を開業。ほかに問屋、花屋、テンプラ屋、煮しめ屋などもあった。
 団子坂上にある小西商店のご主人はうれしくも谷根千のファン。千駄木山の熊谷酒店は昭和四十五年創業と新しい。取材の日「予定日がもうすぐ」と嬉しそうな若い若いおばあちゃん。生れましたか?

十五頁上段囲み
萬屋酒店
 三浦充雄さんの話。「最近はPRで酒の良し悪しが決まるような風潮だが、やはり出生地の酒が身体に馴染む。酒屋は売るばかりが能じゃない。お客に長生き して貰うため、お年寄りには安い酒をすすめる。酒成分が少ないんで早く酔いがさめるからね」この店のウインドーには大正八年の値段表。それによると当時、 酒一升金二円八十銭。シトロン(サイダー)一本二十五銭。平の水(炭酸)などと書いてある。必見。

 子どもの頃、私の実家の行きつけは動坂の矢部さん。母に「油を買ってきて」といわれ裏の細道を忘れないように「ゴマとシラシメ半々」とつぶやきながら歩 いて行きました。おじさんがビンにひしゃくで量ってくれ、「お手伝いして偉いね」とほめてもらって私は大いばり。そんなお店屋さんとのつきあいが子供の成 長に大事なんじゃないかと思います。

17頁
谷根千の風景 崖の四季
 十月二十九日、雨。明治のままの薮下のおもかげが庭に残る加宮貴一さんのお宅へ伺った。ヤブ下のダンダン(日医大裏の階段)より、少し北側に進んだところにうっそうたる崖がある。

 ヤブ下らしい崖も、ここいらだけになっちゃった。僕は現状のままで残したいけど、ふつう上の家はセリ出し、下の家は崖際まで近づく。崖をコンクリで固めて、二〜三十坪の平地を作って家を建てる。あんなことを平気でやってしまう。
 大正五年までこの辺は池で、静かで薄気味悪かったそうだ。池を埋めたてて宅地にしたのはいいが、雨が降ると上からジャージャーと滝のように水が流れてく る。これはいかんと、地主の太田さんが石垣を作った。まだ赤土が盛り上っていた頃、僕はそこに千球あまりのチューリップを植えた。五、六十本のチューリッ プを腕に抱えて、親交のあった菊池寛氏のところへ家内と届けたこともある。
 木の成長は早くて、しばらくすると、崖は日影となり、チューリップもダメになった。ヤブの日影は真夏でもヒンヤリする。魚屋が盤台をかつぐ青年を連れてご用聞きに来ると、庭の木箱かなんかに座って涼んでいったもんだ。汗がひく思いがしたんじゃないかな。
 戦時中は崖の下を掘って防空壕にした。素掘りだからいつ崩れるかわからない。一番大切にしていた青磁の花ビンに米をつめ、防空壕に入れたのを家内は未だに悔しがっている。穴の中は今どうだろう。
 今年は冬になる前に庭の木を伐ってもらう。あんまり茂りすぎたから。いつの間にか生えた山桜の木も、四十年たつとこんなに太くなる。あんまり家にかぶさっちゃうと切るしかないけど、みんな思い出深い木だからかわいそうね。
 今、樺(かんば)がね、白樺の種が羽をつけたように飛び散って、お天気のいい日など乾燥して、それこそ家内なんか「雪のように降ってますよ」というくら い、あとからあとから落ちてくる。いつの間にか鉢の中に「これなんだろう」と思うと白樺の木の芽が出てきたりしてたいへん。
 あそこに咲くのはホトトギス。片栗の花も咲くんです。ホトトギスのように斑点を持っていて、小っちゃなこぶしくらいある薄むらさきの花。人の来ないところにひっそりと咲いている。
 機嫌がよくないと咲いてくれないのが吉祥草。その下に高野わらびというシダがあって。これがステキなシダでね。目の高い人がいて根こそぎ持っていってしまった。花泥棒はとがめないが、自然は好きというだけじゃなくて、愛さなくてはダメだよ。
 鳥が運んできて、いつの間にか大きくなったハゼの木がとてもきれいに紅葉する。でも屋根の上なので自分じゃ見えない。人が見て喜んでくれる。禅寺丸という甘柿が六本あるって、今盛んに尾長(おなが)とヒヨドリが食べにくる。尾長なんて声をあげて喜んでくれる。
 いつもなら十月末にはシベリアから帰ってくるツグミの声を今年はまだ聞かない。いつも五、六羽来るのが決まっていてね。昨年なんか十五、六羽も来て、賑やかに寝ぐら争いしてたけど、今年はどうしちゃったんだろう―。
(加宮貴一氏は大正十四年より藪下に在住)

18頁
手仕事を訪ねてぁ/硬超揚店 台東区谷中6

 谷中高台の三崎坂上から言問通りに抜ける道。最近この通りも車が多いが、柏湯の角を入ると俄然、静けさを取り戻す。両側の家は、この二〜三年でずんずん建て変った。その中で一軒、昔ながらの構えを見せているのが森田桐箱店。桐の箱を作る。二代目指信の広蔵さんが語る。
「父は森田信といって大工上がりだったが、十八〜九で脚気をわずらって、荒い仕事はできなくなった。それで指物に転向したんだね。
 アタシは都立の工芸(高校)出て、船の設計したいと思ってたんだが、けんしょう炎になっちまって、親父の跡を継いだ。高校時代から、金のもらえる仕事し てましたよ。学校に『日展』に出してる先生がいたが、出品作を納める桐箱さえ作ってくれれば授業は出席にしといてやる、といってたぐらい」
 材料は国産の桐、宮城や会津のが多い。外国にもあるが、アラスカの桐は植林しないからもう出ないでしょう。台湾桐はラワンみたいだからね。とのことだ。
 丸太は早春二月までに伐採しないと水を吸い、乾燥した時に目がヤセる。切った桐の皮をむき、丸太のまま六月の梅雨にあてる。これは木のあくを呼び出すため。さらに柾物(板状)にひいて秋雨にうたせ、乾かす。この段階を省くといい材料にならない。
 「丸太で仕入れることもあるが、たいていは柾物。外側の白太ときずをおとす。そして箱の大きさにあわせて木取りをする。といっても桐の場合、そう幅のある板はないから、目をあわせてはぐ(継ぐ)わけ」
―全然はいだようにみえないけど、何ではぐのですか?
 「何だと思う。ごはんのり。『てやんでえ、べら棒め』っていうでしょ。これはヘラの棒でごはんを練る。つまり『ゴクつぶし』。食うだけ食うけど何もしねえ野郎だって意味。今は少しボンドを混ぜるけど、ごはんのりが一番」
―桐の箱の特長は?
「火と水に強い。しかも通気性がいい。だから火事になって逃げるとき、桐のタンスに水ぶっかけて行けばいい。木が水を吸って中の衣装を保護するわけ。反対 に指物師にしてみると湿気を吸った桐ほど扱いにくいものはない。『箱屋殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればよい』ってね。雨の日と晴れの日では、色も 違うし、道具のすべりも違う」
―へえ、微妙なものですねえ。アレ、纏(まとい)も桐なんですか。
「知らなかったの? 桐は軽いから、大きな纏は桐にきまってるよ。話の続きだけど、木の貼り合わせたのを寸法に切って、手と足とこんどは箱を組みたてる。 体中使って角を合わす。これを『ぶつける』というけど、そうして四つ目錐(きり)で穴をあけ、ウツギの釘で止める。この木の釘みたいのは、流山の方で農閑 期に作ってるの。打った釘の頭や木口は湿らせる。さいごに研ぎたてのかんなで仕上げを一気にスパッと・・・」
―ひぇー。手間がかかるんですね。
「だからやる人ないんだよ。何日もかかるんだからこの箱ひとつ何万とかいただかなくちゃ食べていけないでしょ。分ってくれる人は分かるけど、普通はプラス チックやボール紙でいいやってことになるんだ。この前も八千円で買った茶碗を入れる箱を作ってくれというから、一万円かかるよといったら驚いてた」
 父上、信さん(明治三十二年生)は七十五歳まで、同じ仕事場で広蔵さんと向き合って仕事をしていた。腕が良かった。アタシも親父の技術を盗んだが、親父がアタシの新工夫をみんなやっちゃうんだから、参ったね、という。
「この仕事は外から入る光が頼り。だから朝のうちが勝負。斜めにスリガラスを通して入ってくる光が板の上に影をつくる。それで真直かどうか、段差がなく削れてるかなんて見るわけ」
 もうからないがこの仕事が好き、という森田さん。こんなのは桐箱として邪道だが、と桐の根っこの部分で作った手文庫を見せてくれた。
 なめらかに削られた表面に、砂丘のような、波のような、夕焼け雲のような美しい模様が広がる。たいらに持ってだんだんと傾けていくと、模様の色が万華鏡みたいに変化していく。なんてきれいなんだろ。
 私はどうしてもどうしてもこの箱が欲しくなった。そして森田さんに無理をいって、譲ってもらった。ぜい沢かもしれないけど、うちの家宝にしよう。
 森田さんは「大名焼けはいいけど、乞食焼けさせないようにね」という。時代物でつややかな飴色になるのはいいが、ホコリがつくと真黒に焼ける。それが乞食焼け。
 娘を嫁がせる父親みたいな言葉だと、帰り道、その表情が何度も頭に浮んだ。

22-27 頁
■聞き書き市井の人
わたしの谷中    高橋くら

 谷中の高台に住んで八十余年。
 職人の娘として、妻として、おかみさんとして、
 大所帯を切りまわした、その一生 

 私は明治三十五年、下谷区谷中のここ初音町で生れたの。竹建という建具屋で丸萬(○の中に萬の字)が店の印でね。祖父竹次郎が始め、この人は私(あた し)を大変可愛がってくれたというけど三つのとき亡くなった。その名を取って竹建というんですがチョンマゲ結って煙草すっている銀盤写真もあったのに私が 欠いちゃった。文久三年生れの父伊之助は器用な人で、この部屋の茶ダンスも父が二十五の時作った物だわね。
 職人の家はどういうわけか女の子が多く、私が四人姉妹の総領娘で、父の弟子で群馬出身の人を婿に貰いました。その主人の利平のあとを息子の利三郎が継いで今が四代目というわけ。

  一 明治の子供時代

 子供心にはっきり覚えているのは明治四十三年、私が八つの時大水があって、お諏方様の崖上から見ると向うが一面の田圃。それが海のようになってワラ屋根 に子どもと母親が乗って流されていった。助からなかったでしょうねえ。私は背の高い若い衆に肩車して、地蔵坂から降りてみたけど、水がどんどん深くなり、 怖くて帰る帰るって騒いでイカダに乗せてもらって帰った。その若い衆は浅草の観音様の方までいってみたと自慢してました。
 この辺はのんびりしてて、あちこちに竹ヤブはあったし、お諏方様の下の方には牛も六〜七頭いる牧場があったり、しょうが畑があったり。夜店通りはリボン 工場や松本工場の裏はじき谷田田圃(やたたんぼ)で、道の反対側は馬小屋がズラッと並んでいた。あの辺は水がボシャボシャ出て、歩けばズブリとしたんじゃ ないかしら。
 谷中学校に入ったのが明治四十一年、男子が松組と竹組、女子が梅組と桜組、男女いっしょの組が菊組、運動場も男女別々にあったくらいでしょ。帰りに若鈴という長唄や三味線のおっ師匠さんの家に通いました。
 団子坂の菊人形は学校から割引券もらってもちろん行きました。歩く場所は狭かったけど人形はたっぷりあってその間にご自慢の菊を並べ、それは素晴らし かった。今はあの坂もなだらかでしょうが、当時は急で狭くて、上っていくと向うから来る人が空と地べたから生えてくるように見えた。私が女学校に通うこ ろ、通いの職人が腹がけの中に弁当を突っ込んで来るのによく出会いました。
 さてこの辺のことを「西門」と呼んでたわね。了(りょう)ごん(人偏に完の字)寺の手前に西門の花屋というのもあったっけ。天王寺の西門があったので しょうか。ボツボツ店屋もあってたいてい買物は町内で間に合った。何か特に買いたいときは根津まで行った。谷中に生れたからには坂の上り下りはしょうがな い。
 朝な夕なに眺めた谷中五重塔は、かっこいいのじゃ名うてらしかったじゃないの。あの銀杏横丁には幸田露伴さんのあとが林家さんといったかしら、それとな んといっても朝倉さん、こっちの洋館は長唄の山田さん、その手前が大きな屋敷で北原白秋って表札が出てました。螢坂の辺はもっと薄暗い道で、螢草と いう小さな紫色の花が一面に咲いてたし、鶯谷ともいってヤブ鶯がいた。下の萩寺は本当の萩むらが沢山あった。

  二 娘からおかみさんへ

 私が十六の年、母が急に亡くなって、私は共立女子職業学校をやめさせられて、妹たちや職人の面倒を見なきゃならない。父に「お前の代だけの建具屋じゃな い」といわれて十六で婿を取り十七の時には子供がいた。地味な二尺の袖切って、髷(まげ)を結い、主人も若かったから職人にもなめられまいと随分つっ張り ましたね。元祖つっ張り、涙のつっ張りね、私の場合は。
 関東大震災の時は谷中では桜木町の省線のきわの二階家がペシャンコになったっていうくらいの話しか聞かない。それでも下町で被災した人がワンサワンサ上ってきて谷中墓地に野営して、自分がここにいるという立札を立ててたりして気の毒だったわねえ。
 子供を産むときは玉林寺の前の白石さんという上手なお産婆さんにかかった。寝てばかりいると子供が下に降りないから、上流の家では豆まいて拾わせたりしたけど、私たちは毎日ハアハアしながら拭き掃除してたもの。
 そのころの職人の生活ぶりはね、ご飯は朝昼晩、ご飯とおつけとおこうこ、それに煮物か焼魚のどちらかで、家族も雇い人も同じものを頂きました。 私の子供時代は箱膳でしたが、そのうち大きな台に並んで食べるようになりましたね。だいたい一人一日六合の計算で、十人いれば六升。足りないと恥かくじゃ ないの。親元に帰ったとき、あそこでひもじい思いをしたとかさ。で、ご飯もつけものもどっさり出す。二つべっついに大きな六升釜―赤ん坊にお湯使わせるく らいの釜とおつけの鍋をかけて、炊き上ると、さあ私じゃ持ち上がらない。男手を呼んで下ろ し
てもらって、それでも夕には三升追い炊きをしました。
 谷中はいったいに水の出が悪い。井戸は深く掘ればいい水出るんだけど、つるべ井戸で冬なんか縄に薄氷張って冷たいのよ。水は朝昼、出が悪いから夜になって洗いもの。
 小僧さんでも小さな子たちの洗濯は私がしてやりましたが、大きな子たちは仕事がすんで自分で洗濯するでしょ。台所にいると、洗いながら話してる声で誰だかわかる。
   工員の水音荒き夜のすすぎ
 ずい分バシャバシャやってるな。急いで早く切り上げたいんだろう。男の子が洗濯するなんてさぞ嫌なんだろうと音が身にしみてね。当時早い子は小学校五年 生くらいで、口ベらしもあって田舎から修業に来ました。最初の一週間くらいはかわいそうに、親が恋しくて寝られないのよね。布団の中で忍び泣き、 それをパッとめくって、「どうした? 寝られた?」と飴玉かなんか握らせて。そのうち年の近い子もいるし、店の衆になついて昼のうち飛んだりはねてくたび れるし、たいてい八日目には夜の見回りもしなくてすんで、ほっとしたわ。

  三 日々の楽しみと祭り

 徒弟は二十一で兵隊検査が来ると年期明け。雑巾がけ、かんな研ぎからはじめて、やっと一人前になったなあと思うと嬉しいわよね。紋付、袴こさえてやっ て、手拭い持たせてお得意さまや近所を回る。「もう小僧ではございません。一人前に仕上がりました」と挨拶すると「そりゃよかった。もう大えばりね」 とおひねりを下さる方もいるし。それから所帯持たせて、通いになってさらに腕をみがくんです。
 職人の家の祝言というと、私の場合、来る人が多くて仲人さんちを借りて、あのころ打掛などなくて大抵、黒の留袖に角かくし。固めの盃を交わすともう花 婿、花嫁とも立って、角かくしを取り、着がえて接待に回る。歌いたい客があれば三味線ひいて相手をして一晩中サービスしたものです。まあお金はかけないけ ど手間ひまは使ったわね。
 お葬式は親族は白い着物、親戚の人は笠をかむるしきたりでした。冠婚葬祭はだいたい鳶の頭が世話してくれました。各町内に町内鳶がいて、お祭りの御輿や 門松、家を建てるときの建て前ややぐら組を取り仕切る。威勢のいいもんで、何でも「頭に相談しな」と顔役みたいな役まわりだったわねえ。
 楽しみといえば、当時遠くまで遊びに行くことはありませんから、根津神社の二十〜二十一日、お諏方様が二十七〜二十八日の月例のお祭りの露店が楽しみで した。あとは根津の稲本で着物見たり、埼玉屋で職人のモモヒキやシャツを買った帰り、哥音本(かねもと)のナニワ節きいたり、カキ氷食べたりね。そういう ときは若い衆に荷物を持たせて「芝居行こうじゃないの」「お酉さま行こうよ」と連れ出すの。主人が職人を一人だけ連れていくんじゃ不公平で角がたつじゃな い。私が荷物持ちを言いつけておごったげる。それも気を使ううちでした。
 各町内には、たいていお稲荷様があって、この辺では鳥正の裏にありましたが、初午の日にはお守りしている家が近所の子供に、おこわや煮しめをふるまいました。
 盆と正月には薮入りといって職人を里に帰す。着物、半纏(はんてん)、ジャケツ、足袋、コールテンのズボンとみな新品を揃えてやる。夏は細かい茶の縞の単衣ね。谷中の夏は蚊がすごいでしょ。どうせ寝れないし、お盆は近いし、蚊帳の中で人数分着物を縫いました。
 暮は暮で大晦日にはかけ取りが来るし、元日は小僧さんがとにかく早く帰りたい。気がせくのを、新しい着物を着せ、角帯しめて仕度してやる。子供は元日、学校に行って菊の御紋入りの打ち菓子を貰ってくる。皆送り出すとヨロヨロして昼前に布団に入ったものよ。

 四 戦中、戦後、そして明治

 昭和の初期、うちは池袋の方に大きな工場こさえて、数十人も職人かかえて盛大にやってたもんですけど、こちらは人間がすれてないし、悪いのにもひっかかって、駄目になったの。
「谷中で小さくやってればいいんだから。人のカマドの心配ばかりしてもしょうがない」と私は主人にいって、またここに戻った。やっぱり商売はつりあいよくやらなくちゃなりませんよ。
 戦時中、昭和十五年に国防婦人会が出来て、どうしてもというので私もこの町会から班長で出ました。ある時、兵隊さんが七十人もお寺に分屯して、 その朝昼晩の食事を当番を決めて岡持で運ぶやら、洗濯やらの世話で、半月でガタッと痩せましたよ。あの時は。兵隊さんがどこから何で来たのか今もってわか らずじまい。軍事機密とかで私たちは何も知らされなかった。ただ粗相があっては一大事と働きまわっただけ。変な時代ですよね。
 終戦で一時止んでいたのが、戦後また声をかければまた出てくるというので谷中の婦人会ができた。婦人参政権もできたし、清潔選挙で白石てつさんを応援しました。主義主張ていうんじゃなく人情として、どうしてもあの人を出したげたいと一所懸命になったのねえ。
 今の人は昔をいいと思うかどうか知らないけれど、明治なんて嫌なことも多いのよね。身分の差はあったし、世間はうるさかったし。おつとめの人は奥さん で、職人はおかみさんで一段低い感じでね。主人は気にするなというけど、どこへいっても「出入りの建具屋がなんだ」と言われないように、出すぎない ようにって。
 戦後、おくさんなんていわれると、かえってくすぐったかったですねえ。昔はとにかく金持ちがいばってる世の中でしたよ。
 この辺の人気(じんき)はまあ、下町の人はウラがないからね。「アンタなんか早く死んじゃいな」くらいのことは言うけど、まともに受け取らないのね。ズ バリと言うけど、お互い思うままにいうからその人がわかるでしょ、腹の底が。そして二〜三日会わなけりゃ「どうしてる」って飛んでくる。それがいいとこ ね。
 とまあ、かいつまんで話すとこれが私の表の人生。もっともっとつらいこともあった。いっそ死んじゃおうかと不忍池を一巡りした夜もあった。
 私にも私の一生わからないわね、今もって。だから雑誌に載るなんてきまりが悪いけど、まあ今の人の何か考えるヒントになるかも知れませんね。

金魚ひらひら 女の嘘の美しさ

28頁
水晶ローソク遺聞 町工場の夏 清水小百合
 其の四『さよなら水晶ローソク』の記事に寄せて、ひと夏、ろうそく工場で働いた様子を知らせてもらった。そこで見たことや驚いたこと、そして、作業のことなど―。

 中里(国電上中里と田端の間)の高台から動坂下へ下り、不忍通りを通って水晶ローソクへ通ったのは、もう十五年余りも前のことになる。
 高校生になって、ようやくアルバイト解禁。その夏、千駄木四丁目に住んでいた友人が見つけてきたのが、ろうそく工場の仕事だった。
 初めて工場を訪れた日、私はしばし門の前でたたずんでしまった。そこには、四つの頃まで住んでいた荒川区の、私がわずかに記憶していた風景を呼び戻すような雰囲気が漂っていた。その懐かしさと、友人の家の近所という安心感で、初めてのアルバイトを決めたのだった。
 始業のベルが鳴る八時近くになると、近所のおばさん達はエプロンをかけ、サンダル履きで通ってきた。門を入ってすぐ右に事務所。その後ろが従業員の休憩 所兼食堂。中庭を通って工場へ入る。右手奥がろうそくを作る現場で、糸しんを入れたパイプの型にろうを流し込んで固める作業はおじさん達、男性の仕事だっ た。
 驚いたのは、一本の糸にいくつものろうそくが繋がったのが何本も下がって、まるで珠暖簾のような姿で現われたことだった。運ばれてくるたびにろうそくと、ろうそくがぶつかり合ってカラカラと涼しげな音をたて、白く輝くのが、とてもきれいだった。
 蒸し暑い工場は木枠のガラス窓を開け放って、日陰の路地裏からときおり入ってくる、わずかな風で涼をとっていた。そんななかで、ろうそくの奏でる音色は、私にとって何よりの清涼剤だった。
 物干し竿に下がったような、“ろうそく暖簾”の糸しんを包丁で切ってばらすのが私達の仕事だった。この素朴で原始的な手作業に、私は感動してしまった。始めのうちは恐々と使っていた包丁も、慣れると結構リズミカルに動き、上手く切れるようになった。
 切り離したろうそくは、大きくて重々しい年季の入った木箱に並べた。それを大小さまざまな大きさの箱に詰める作業はおばさん達がやっていた。時には井戸端会議を繰り広げながら…。
 鮮やかな花柄の模様を、白いまっすぐなろうそくに張りつける作業もした。人形や動物の型のものもあったが、製造プロセスが違うのか、私たちが手にすることはなかった。
 高校生であった私が、初めて垣間見た“社会”。おじさん、おばさん、バイトの仲間達はみな気さくで親切な人たちだった。
 最後の日に「持って行きなよ」と、白いまっすぐなろうそくといっしょに、手にすることのなかった動物と人形のろうそくを、おにいさんがくれた。ひとつは 大きな白い、ふくろうの形。もうひとつは、淡いピンクのドレスにブルーの羽をつけた天使の形をしたものだった。小さな口をいっぱいに開けて、賛美歌でも 歌っているのだろうか。ふっくらとしたほっぺの、この天使が、私はすっかり気に入ってしまい、とうとう火を灯すことができなかった。
 工場が壊されたことは、九月のはじめに知った。暑く長かった夏を見送ったような、虚脱感を覚えた。“天使”は、これからも私の許で、歌い続けるだろう。
  (北区中里三丁目在住)

根津の染物 丁子屋 師走の風が冷たく通りを吹き抜け、街路樹の葉もすっかり落ちて、針の木となった。陽だまりが恋しくて根津へ行った。やっぱり下駄を履いてくればよかったと思う。 
 剪画・文 石田良介

藪下通りの景色が変わります
 藪下道の通称汐見坂を上りつめると、右側に汐見小学校の裏門がある。裏門から入ると、そこはコの字型を成している西側校舎の三階で、校舎ははるか下に眺められる。校舎の北西の角は半円を描いて、ゆるやかに曲がっており、扇形の教室となっている。
 この珍しい建て物は、昭和二年の開校当時、鉄筋四階建て、講堂つきということで、かなりの評判となったらしい。
 しかし、昨年より、講堂を体育館に改築する計画が、あれよあれよという間に、校舎全面改築へと発展した。すでに第一期工事は完了し、表玄関のある東側校 舎は新築された。これからは、八中側の校舎を改築、屋上にプールを抱く新校舎が出現することになる。藪下道に面した西側校舎は、その後、取り払われ、姿を 消す運命だ。
 古色蒼然とそびえていたあの建物がなくなると、慣れ親しんでいた趣のある藪下道の景観も確実に変る。何ともさびしい限り。
 惜しむらくは、崖下に植えられた樹木を一本も伐らないでほしいものだ。地中深く根をはった大樹を根こそぎ伐採しては、地盤の安定を欠くと、付近の住民から心配の声も上っている。さらに工事の間、五〜六年も校庭を奪われる子供たちの情操も懸念される。
 古いものを次代へどのように引渡すかを考慮した、地域発展を望むのは、無理な注文であろうか。(木村民子)

30頁 浄名院のジョー
 ジョーという名は浄名院の頭文字をとった名である。
 上野桜木にある東叡山浄名院は、八万四千体の地蔵があり、ぜんそくの祈祷寺として知られる。毎年秋の十五夜の日は、へちま加持祈祷法要が行なわれ、せきや痰に苦しむ人々が、早朝から大ぜいつめかける。
 この寺にいるオスの柴犬ジョー(二歳)はすばらしい番犬で、知らぬ人が十メートル近づけば吠え、夜は境内に放され、壁の外を通る人にも吠えるほどで、 ジョーが来てから不審な侵入者は絶えた。ただ参詣人の多いへちま供養の日は裏庭につながれてしまう。この日ばかりは番犬の仕事はお休みである。
 さて、上野の山から谷中にかけてはカラスの繁殖地で、森をすみかとし、昼間は墓地やお地蔵様に供えた菓子を食い荒らして生きている。浄名院もカラスにとっては格好のエサ場であり憩いの場であった。
 ところがカラスたちは昼間犬小屋につながれているジョーに興味を示し、かまうことを覚えた。ジョーはカラスを侵入者とみなし、けたたましく吠えるが、木 の上のカラスにはかえっておもしろかったのだろう。そのうち低空でジョーを掠(かす)め、物を落下させて遊ぶようになった。ついにジョーは忠実な番犬とし ての役目を果たせないと悩んだのか、ノイローゼ気味となった。
 飼主と私は対処方法に頭をしぼった末、考えついたのが畑によくある大きな目玉であった。早速購入し、木に登って取り付けたところ、みごと功を奏し、それ以来、カラスの足は遠のいた。ジョーも落ちつきを取りもどし、立派に番犬に復帰して、門前で活躍している。
(東雲・獣医)

31頁  資料 明治の新聞に表はれたる谷根千附近

(明治八年)
■根津八重垣町裏棚に住む憂黴軒主人の言、「近来天然痘が大流行し、非命の死多し。上様はこれを憂い毎区ごとに種痘所をもうけ、牛痘を実施しようとおっしゃるのはなんとありがたいことか。できれば江戸疱瘡とやらに効く馬痘か豚痘はないものか」(あけぼの 2・21)

■最近、上野や芝の山内に入る泥棒の技術が上達している。去る二日の夜、寛永寺徳川常憲院の霊廟で、金めっきの唐彫の葵紋付の釣燈籠が盗まれた。(同右 5・3)

■数日前、根津八重垣町の質屋の娘小倉たつという十五、六歳の新造が、根津惣門より駒込へ返る旧加州印内の、当節開懇中で往来の人影もない新開町を薄気味 わるく返りしに、道端に倒れ伏したる大きな木が近づくままに動き出した。何物ならんとよくよく見ると八岐のおろちの子か孫かと思うほどの大蛇。おたつ魂も 身につかず、帰宅して三日後に死んだ。
(東京曙新聞 6・25)

■上野山下の雁鍋では湯風呂を設け、庭に滝を流し納涼気分を出して大繁盛。あい鴨や志やもの鍋を食う。あんまり暑いのであちらの堀、こちらの川で土左衛門が沢山出ている。ラムネのビンが暑さで破裂して危い。(同右 7・17)

■根津八重垣町貸座敷渡世の榎本多吉が浅草真乳山の聖天様を信仰し、早朝出かけて参詣し、まず水行場で丸裸で一心不乱に水行した。もう清浄潔白になったか ら拝んでもよかろうと上ってみると、着物の外、六円の金の入ったガマ口まで盗まれた。福徳を授けぬまでも、泥棒の災難に逢わぬ位の加護はしてくれてもよい ものを。不人情な聖天さまだ。(同右 7・24)

■駒込片町は貧乏人が多く、学問の気もないので区内に学校も出来かねていたが、華族の阿部さんが気の毒に思しめし、御殿内に自費で立派な学校を建て、貧乏な子供には筆墨紙までも下さるとか。(同右 10・22)

■根津に住む士族がよほど物好きとみえて、このごろ貸座敷渡世を始めとうござると願出たら、東京府は、士族はたとえ無禄なりとも右の商法は相成らぬ却下。士族にも出来る商法とできない商法があるらしい。(同右 10・30)

■昔の菊は黄か白のあっさりしたものらしいが、当世は紫、赤、まだら、咲き分け、これを細工にする新発明あり。根津、谷中の菊は植木屋連中が思い思いに工 夫を凝らす。藤村源三郎は児雷也、佐川英三郎は岡崎の猫、佐川弁弥は番町皿屋敷、清水徳松は浅間、玉川松道は八犬伝、清水民之助は墨染、楠田左右平次は頼 光公玉藻前、美輪忠蔵は滝夜叉姫。昨十六日は官員さん方の休暇ゆえか見物人は山のよう。菊見はここに限るという評判。(同右 11・17)

(明治二十四年)
■坊さんひやかし暗が善い月夜にゃ衣の袖がブウラブウラとは弘化の昔から流行り俚謡(うた)なるが、一昨四日午後八時頃とか、下谷区谷中長連寺の役僧某 は、下谷摩利支天へ読経に行きし戻りがけ、どこで呑んだか大ヘベレケ大ドロンケンで千鳥足。身に纏いし袈裟はどこへやら。(あづま新聞 24・1・6)

■以前は根津の大八幡で和国といった傾城、中頃は下谷で雪子姫とて大層売れたとか、浮れたとかで「やまと」新聞や何かでチョイチョイ筆叩れた傾城、さっぱ り影も形も見えなかったが、聞けば近頃本郷の菊坂辺の車屋に同居、連れ合いが森川町に書生相手の下宿屋をしているので、日毎の様にこの家に出入り、誰彼な く、お構いなく、ねえ旦那、是非入らっしゃいな、お遊びに、本当に妾ン処は呑気ですョと誘う水心に魚心。君どうだ一度行って見ようじゃないかとのそのそ押 し出す書っちゃん達もある。(あづま新聞 1・10)

広告 広告産舶来諸草木並接合杉桐其外落花生種物正直ニ光捌キ且庭木等ハ枯レズ受合ニテ入念植付仕候間四方看護之君子不相替御申被仰付被下候様伏テ奉希上候
 谷中清水町一番地 拼種園(東京曙新聞 10・2)

郷土史発掘 鷗外特集補遺
 其の五の特集「森さんのおじさんと散歩しよ!」未消化部分を消化中。
●初音町とはどこを指すか?  中澤伸弘(谷中)
「初音町ならばもう少し日暮里駅寄りのはず」(5号11頁)は稿者のカン違い。谷中初音町は図のごとく非常に広範囲です。
 初音町の名の起りは、江戸時代鶯の名所として、この辺を「初音の森」「鶯谷」と呼んだことから起った。江戸時代、寺ばかりであった谷中村の中にも、ぽつ ぽつ家が建ち始めると、それを○○寺門前町として町奉行支配下に入った。それがまとまって初音一〜四丁目になった(以下中澤さんの詳しい説明は“町名特 集”のとき紹介します)。それゆえ、純一の大家の植木屋の前側は明らかに初音二丁目となります。

▼「東側の窓の外が往来」という小説の言葉から、長安寺などの寺のある北町の側にその家はあったのではないかと考えたのです。しかし散歩者としての鷗外がそれほど入り組んだ町名区画に詳しいとも思われず、上野寄りの北町も含め「初音町」と表現したのかも知れません。

●本郷通りはガス燈ではなかった  平塚春造(日暮里)
 「昔は本郷通りにガス燈がついていたのか」(12頁)とあるが、それは間違い。
 点燈会社というのは人家の軒燈や門燈を依頼に応じ取り付け、朝は石油ランプのホヤの掃除をして一晩でとぼし切れるだけの石油を注入して歩き、夕刻は点燈 して歩く。歩くのではない。駆け足である。その際、朝は丸い石油罐を提げ脚立を担いで走り、夕刻は角燈(火種)を提げ、脚立を担いで走る。
 ガス燈(現在の街路燈)の方は、朝、長い竿で消して、夕刻、長い竿でコックを開き、その先の火でガスに点火するので、踏台は持って歩かない。近くでは上野公園などにガス燈が立っていた。

●色川国士は色部さん邸? 吉田貞之助(元藪下在住)
 藪下通りを入ってすぐ右側「純一は色川国士別邸というどこかの議員の冠木門を見つける。モデルは井上範氏あたりか」(6頁)は、井上範氏ではなく「色部さん」という邸ではないかと思います。私は当時その隣に住んでいましたが、色部さんが何をしていた方かは存じません。

●鷗外と柳田国男 多田正明(千駄木)
 柳田国男はもと松岡国男といい、短歌集『しがらみ草子』などを作る多感な少年であった。明治二十三年、国男は下谷御士町の次兄・井上通泰(医博、眼科医)宅に同居し、兄の短歌の友人であり、軍医でも会った鷗外の家にも出入りした。
 翌年、兄達の援助で、開成中学に編入学、さらに翌年中学卒業資格を得るため、郁文館中学に転校と年譜にある。ちなみに彼の養父母柳田家の墓は谷中墓地乙10の小野梓の墓の裏手にある。
 蛇足ながら私自身の思い出。私が生まれて初めて人から買ってもらった本は『安寿と厨子王』で未だにボロボロになって手もとにある。また、千駄木小の五、 六年のクラスメートの中に、色白の美しい森りよさんなる人がいた。彼女は鷗外の末子森類さんの長女で、つまり文豪の孫。類さんは当時観潮楼の跡で本屋さん をやっていたが、りよさんはお祖父さんの作品はあまり好きでないといっていたことが、未だに私の脳裏から消えない。

●新事実! 楽器製造所の存在
「『青年』中で純一が藍染川沿いのあたりで「楽器製造所」をみかけ、国とは違うハイカラさに驚く件りがある。これについて上原文具店の上原捷治さんと小瀬 健資根津郷土史研究会長の証言。根津の辺、木工や漆塗りの職人が多く、江戸から明治になって渡世できなくなり、上野音楽学校ができたので、バイオリンなど 楽器作りに転じた人も確かにいたという。

●愛人、児玉せきのこと
 特集では触れずじまいに終ったが、地域の何人もの人から「鷗外の二号さん」の話を聞いた。そのひと児玉せきさん(慶応3〜昭和16)は観潮楼の向いの路 地を入ったところ(千駄木林町三番地)に住み、街のみんなに「静かで美しい人」の印象を残している。彼女は鷗外の離婚から再婚までの一時期かかわりがあっ たというから、二号さんというより愛人であった。鷗外再婚後もごく近くに住み、鷗外の母峰子に気に入られ、その元には出入りしていたという。

●誤記発見!! 
『文京の文化史』(文京区発行)には『細木香以』中の藪下道の描写を『青年』中の文章としている。

33頁上段囲み
本郷・ナイト・アンド・ディ ’鮖劃未蠹澹畫案鷸
 本郷の大学にもう六年。悪名高き賃貸個室(ワンルーム)に古本と添い寝の男所帯だ。夜も二時を過ぎれば腹が減る。といって備蓄食糧など望むべくもなく、白山通りを渡った先の、24時間営業(コンビニエンス)へ向かう。
 深夜の白山通り、タクシーがやけっぱちに飛ばしていく。ブレーキの悲鳴、ドアが開いて降り立つ女の影。ヒールの高いショート・ブーツ、シルバーホワイト のスパッツに薄手のVネックは真紅。無造作に羽織った毛皮のハーフ・コートの肩ごしに、きつい化粧の疲れた視線、だが年は、万年書生の私より下だろう。
 新宿からタクシーで意外に近いこの土地、彼女らの便利な「ベッド・タウン」と化しつつあるとか、床屋の親父が言っていた。街頭に光る銀の爪。
 この娘(こ)の部屋、備蓄食糧あるのかな。遠ざかるヒールの音を背に、私はカップヌードルを買いに急ぐ。(G)

34頁
ひろみの一日入門 ―
三協クリーニング/大和クリーニング

アイロンかけにコツがあった

 ページの都合でムリヤリ夏休みをとらされていたら、もうすっかり冬の気配。「一日入門を復活して」の声に支えられ、やってきたのはクリーニング屋さん。いつもは大きな窓のむこうで、おじさんがアイロンをかけるの見るくらいだが、その仕事の実態やいかに?

システムを知ろう!
 何げなく洗濯物を紙袋につっこんで行き、預り証をもらって帰る。だいぶ日数が過ぎてから思い出して取りにゆく、私は悪いお客さん。
 クリーニング店にも自分で洗濯する店と取次ぎ店がある。一般に安さを誇るのは取次ぎ店。仕上げを誇るのは自分で洗濯する店だ。
 洗い方は、ドライと水洗いの二種類があり、衣類の素材で店の人が判断し、どちらにするか決める。

一つずつ色落ちテストまで。
 まず根津二丁目の三協クリーニングにお邪魔した。本当にお邪魔したということばがぴったり。今回の一日入門は何もお手伝いすることがない。エプロンが空しい。
 ご主人の飯塚省三さんはこの道二十六年。奥さんと二人で店をやっている。
 預かった洗濯物には、一つ一つネームを入れ、ドライと水洗いに仕分ける。「ポケット掃除」をする。タバコを吸う人は、タバコの粉が上着のポケットに入っていることもある。
 次に色分け。色落ちしないか調べる。白いシャツでも飾りに色物のワッペンなどついていることもある。そういうのは、一つずつ色落ちテストをする。本体と素材の違うものがついているのは要注意。
 ドライクリーニングの機械は、前から見るとコインランドリー乾燥機によく似ている。中でカラカラと洗濯物が回るのも同じ。違うのは、機械の下に溶剤の 入ったタンクがついていて、その溶剤が衣服の汚れを落とす。溶剤はフィルターを通っていつもきれいになっている。全自動で機械が動き、乾燥、脱臭までして 約四十分。湯気のたつズボンやシャツが出てくる。よごれのひどい物は何度も洗い直す。きれいになったら、アイロンをかけて仕上げる。
 お店では、ドライの日、水洗いの日を決め、アイロンかけや配達も無駄な時間のないように組み合わせて仕事をしている。

西洋洗濯事始
『東京クリーニング組合沿革史』という本をお借りしてにわか勉強をした。
 まず西洋洗濯の事始めは浦賀にペリーが来航した一八五三年。外国船員の服などを洗う係ができ、西洋人に見よう見まねでシャボンの使い方を習った。横浜元 町に異人洗濯業を青木屋忠七という人が開業したのが、安政六年(一八五九)。クリーニング屋さんの発祥の地は横浜なのだ。谷根千地域の中で古いのは宮永 町。光井俊太郎という人が明治十六年に創業したらしい。「根津の音さん」という洗濯屋さんもいたようだ。
 さて、明治四十年。新橋のスター商会というクリーニング屋がドライを始めたのがドライクリーニング業のはじまりらしい。意外にもその歴史は古いのだ。

ネームつけには驚いた。
 さあ、次に水洗いについて谷中三崎坂途中の大和クリーニング店におうかがいした。
 クリーニング発祥の地横浜から、ご主人鈴木稔さんのお父さんがこの地に来てお店を出した。
 広い店内には所狭しと洗濯物や仕上がった洋服が置いてある。中には寺の多い谷中らしく、足袋や着物が混っている。
 まず預かった物に、誰のか間違わないようにネームをつける。ネームは水に溶けない六ミリ幅のリボンに、クリーニング店専用の油性インクのボールペンで書く。名前と日付のほかに、スーツなら上下とか、ベルト付など細かいことも書いておく。
 驚いたのは、ネームを留められない着物やクッションカバーは、一度2センチ四方くらいの白い布にネームをホチキスで留め、その布を針と糸で着物に縫いつけて留めるということだ。この作業を毎日繰り返すかと思うと気が遠くなる。
 ポケット掃除もゴミやホコリの他、貴重品が入っていないか調べる。ハンカチが入っていれば、サービスに洗ってアイロンをかけ、そっとポケットに戻しておくというからニクイ。

なんと白木の板張り
 何しろ洗濯場は寒いのだが、ここは井戸水を使っているのでいくらか助かっているそうだ。
 ワイシャツだと一度に60枚くらい洗える洗濯機は、ドラム缶を横にしたような形。内側は穴のたくさんあいた白木の板張りだ。これがグルグル開店し、洗濯する。
 予洗い→洗い→すすぎの後、のり付けして脱水機にかけられる。すごい威力の脱水機にかけるとワイシャツは干さずにそのままアイロンに直行。タオルケットなどは外に干す。

肩をピシッときめる。
 いよいよ私の一番関心のあったアイロンかけ。ワイシャツ一つにしても店によってやり方がいろいろ。人体(じんたい)といって人の形をしたものにワイシャ ツを着せ、シュワッと蒸気が出ておしまいという機械もあり、この方法は早いけど、ブラウスのようにフンワリ仕上がってしまうのが難点。
 この店には衿とカフスのアイロンを一度にガチャンとはさんで仕上げる機械と、袖を通すだけで乾かす機械があった。その後は昔ながらのアイロンかけ。
 ベテラン中田さんのアイロン使いと手さばきをとくと拝見。ワイシャツはのりづけしてあるので、アイロンのかかっている衿とカフスは、アイロン台の上です でにシャッチョコばっている。アイロン台は家で使うのよりずっと大きくアイロンも巾が広く重い。この二つが仕上がりを大きく左右しそう。
 袖山をつけるアイロンをかけ、カフス近くのタックをとる。ここら辺のていねいさが私には欠ける。その間にも霧吹きでシュッシュとしめらせる。
 次に後ろ身頃を平らに伸ばし、裏からアイロン。背中のダーツやタックもきれいにかける。
「肩のところをピシッと決めるのがコツ。ここがきちんとしていないと形が決まらない」
 前身頃を閉じ一番上と五番めのボタンをかけ、アイロンをギュッギュッと押すようにかける。
 そっと裏返し、袖、身頃をたたみ、半分に折って仕上がり。一時間で20枚くらいかなというから一枚何と3分ですか。
 とれたボタンをつけるのはサービス。これが多いと大変。
 お願いしてハンカチのアイロンかけを教えてもらう。まず、よく手で伸ばすのが肝心。アイロンをすぐ手にするのは素人。しわのばしや平らに置くという基本動作が、きれいに早く仕上がる一番の近道なのだ。干す時にしわを伸ばすのはもちろんのこと。
 仕上がった物は次の日に織内さんというおばさんの手によって名札を入れ、ビニール包装される。昔は今のような機械もなく、紙に包んで紙テープで結んだそうだ。

客にもマナーが必要
 最後に出す側の注意すべきこと。.櫂吋奪汎發療生 できれば丸めないで軽くたたんで出すのが礼儀。∋転紊ったものは、受けとったらすぐに点検。よご れ落ち、ベルト、ボタンなど見ること。ビニールに入っているからと安心していると、カビの原因になるから注意。仕上がりが気に入らない時はよく話し合う こと。すぐに別の店にもって行くのはいけない。
 以上に気をつけ、値段の安さだけを見ないで、アフターケアのしっかりした店を選ぶのが賢い。
 それから出したままで何年もとりに来ない人もいるとか。クリーニング屋さんは、あなたの洋服ダンスではありません。気をつけましょうね。

36頁 いいコーヒーは繁華街では飲めない
 ●私はこの店で失恋しました
La Gare(ラ・ゲール)
「ウッソー」と「ホントォ」しか語彙がないガキ相手の雑誌が喜ぶような喫茶店は紹介しない。大人には大人に合った落ち着く喫茶店が必要なのだよ。
 善光寺坂上言問通りから、上野芸大へ向う小路にある喫茶店「ラ・ゲール」はまさに人生の停車場(ラ・ゲール)。階下の山小屋風木造りも落ち着くが、私の 気に入りは二階。モノクロのスタジオみたいな部屋に、逆光でやわらかな日差しが入り、窓の外の大木の緑がみずみずしい。テーブルは広く、調べもの、書きも のもできる。
「芸大や日医大看護学校の学生さん、上野高校生なんか多いね。芸大バイオリン科の海野先生もよくみえてたけど、あの方学生に慕われていましたよ。何も奈良 や京都まで行くことはないんだよね。私の自宅は柏だけれど朝は谷中墓地を抜けて、夜は上野の杜を抜けて帰る。それだけでも楽しい」とご主人。
 芸大受験生の親には、ここで待っていると合格するというジンクスがある。
 谷中の野鳥のカラー写真がパネルになっている。BGMもラテン、ジャズピアノ、シャンソンなど落ちつくものをかけている。ラゲールライス(セット780円)がいい。

●裏通りはぐっと静かです
茶房 庵
 東天紅の裏あたり、不忍通りの裏道にポツンとある。店内にはドリップでいれるコーヒーの香り。「あちこち行くけど、庵のコーヒーが一番旨い」とは常連の柳さん。毎日二度は愛犬マリーちゃんをお供に立ち寄る。
「私の席はいつもここと決まってる」と、カウンターの端を陣取る天田さん。
 女主人の高瀬貴美子さんは孤軍奮闘。小四の女の子のお母さんとは信じ難い、美人のお姉さん。
 お昼には500円のランチがあるので、近くのOLやサラリーマン、東大生がやってくる。このランチタイムを避けると、まこと、この店は静かである。
「待ち合わせにも適さないし、シャレた店でもないし…」というけど、ここには家庭的な温かさがある。私など、赤ン坊を背負ってきては、高瀬さんに抱いてもらって、おいしいコーヒーをゆっくり飲む。ホント大感謝。妊婦時代には、和菓子付きのこんぶ茶が嬉しいメニューだった。
 無縁坂にほど近き場所の、なんともゆったりした佇い。鷗外散策の帰り道、不忍池でのひなたぼっこの後など、なごんだ気分をそのままにできる不思議な喫茶店。

37頁
谷根千情報トピックス

●十一月二十二日よりNTT第一回全国タウン誌フェスティバルが行なわれ、四〇八誌の参加の中から、「谷中・根津・千駄木」が他の九誌と共に「大賞」を頂いた。
 いままで「谷根千」をタウン誌といわず、地域雑誌と自称してきた。それは町の雰囲気が横文字に馴染まないこと、またタウン誌といえば、加盟店を募り広告を多く乗せる営利的PR誌のイメージが強いのが嫌だったからだ。
 しかし今回のフェスティバルには実に多様なすてきなタウン誌が多く集まった。中でも本当に街を愛し、手間をいとわず作っているタウン誌を、限りない同志愛を込めて、以下五誌ご紹介したい。
 月刊土佐(高知)
 津のほん(津市)
 月刊矢作川(豊田市)
 こんにちわ小金井(小金井市)
 月刊本の街(東京)
 タウン誌はミニコミとには違い、一定の区域内に住む多くの人々に愛され、その情報源となり、安らぎともなり、街の歴史を記録しつづけなければ意味がないと思った。
 谷根千は秘やかに、トボトボとでも続けることを大事にしたい。「揃えています」の声が本当にうれしい私たちです。

●よみせ通りのお地蔵様の近くにリサイクル・ショップ「りぼん」開店。自分で値をつけ、売り値の二十パーセントを手数料として払う方式。

●谷中銀座の「鈴木精肉店」では、今日つぶした牛のタン(舌)レバー(肝臓)を売っている。新鮮なのでニンニク、ショウガじょうゆで刺身に。塩バタ焼きもいける。

●根津銀座と観音通りの「鳥勘」では、今年も鴨を売出し中。100グラム370円。鴨なべ、鴨ローストがおいしい。鴨は本当にコクのある味。

●十一月二十三日の勤労感謝の日、谷中銀座は恒例の「お客様感謝、帝国ホテルバイキングご招待」。スタンプ500帳四冊を引きかえにご馳走にあずかる。 ローストビーフ、キャビアからアイスクリーム、ケーキまでさすがの味で食べ放題。隣の席の奥さんの意見。「谷中銀座は安くてモノがいい。店主と仲よくなる と話が楽しい。魚も肉もスーパーで買う気がしないわ」 。

●根津神社境内のポプラの大木が「音もなくスッと倒れた」のは、9月22日夕方。まさに祭礼の日。  樹高16〜17m。直径75センチ、樹齢およそ60年。ここらでは一番大きなポプラ。宮司の内海さんも「驚きました。倒れたのが池側だったのでまだしも」と残念そうだ。

●ついに千駄木二丁目の秋さんの大邸宅が三井不動産のマンションになるらしい。寝耳に水の周辺住民は反対運動を始めている。区の保護指定も受けた緑なす樹木と、大正二年造の洋館建築は何としても惜しい。公園として区に買い上げて欲しいとの声も上がるが難航が予想される。

●大晦日のお勧め=諏方神社焚火→養福寺の甘酒→全生庵鐘撞→根津神社もちつき

38〜39頁
おたより

 団子坂周辺の記事、おたよりを懐かしく拝読しました。坂の両側の風景、たたずまいは、年年歳歳に変わりつつありますが、上り下りの春秋に、ふと、往時を 想えば懐旧の念ひとしおです。区内に住んでいても町の隅々までは分からないものです。その知らない街と人と歴史と情緒を親しく語り、写し出して くださるよう切望する次第です。(千駄木 齋藤信吉様)
・菊まつりのスナップ写真、ありがとうございました。また来年、谷中大円寺でお会いできるのを楽しみにしています。

 毎日新聞くりくり記者松沼君より「谷根千」をいただき、感謝しながら熟読いたしました。さっそく本を片手に友達と谷中に出かけました。リヤカーを引くお 年寄りと顔が合えば、思わずにっこり。道を聞いても親切な人ばかり。この街の人は皆、おっとりとして優しい方なのですね。
 中野屋で佃煮を買い、ついでに貴誌の其の五も手に入れました。再び墓地をめぐり、懸賞だんご店でお土産を買って花家さんでひと休みして帰途につきましたが、何ともいえぬ心地よい一日でした。(横浜市鶴見区 山岡芳子様)
・くりくりプレゼント当選おめでとう! またひとつ出会いがあったことを心から喜んでいます。

 今年はもう上京の予定もありませんので、谷根千を読みながら歩いたつもりになっています。ギョーザとシューマイのお店に行ってみたいですし、銭湯の太郎湯さんの記事も面白いですね。文子おばあちゃまとお妹さん、美人姉妹の方たちだったのですね。(函館市 中川静子様)

 もうお人様に忘れられてる太郎を書いていただいて、とてもありがたく嬉しゅうございました。とりとめのない老いぼれの話をよくおまとめ下しました。写真もいぢわるばあさんのようでなく、よく写して頂いて厚く御礼申し上げます。(田端 太郎湯の塚本文子様)

 鴎外の特集なかなかお骨折りだったろうとお察し申し上げます。そうした努力の積み重ねが、必ず将来の役に立つものと思います。(本郷 渡辺得治郎様)

 原稿がていねいで味わいがあり、御執筆は無署名ながら、皆さんの地域と雑誌への深い思いがそくそくと伝わって参ります。ご同業の端くれ、大いに発奮しました。
 南泉寺に伯円の墓があることがあっさりと書いてありますが、このことは、講談界の人々もずっと知らずにいて、数年前に“発見!”というわけで、「谷根千」が早く出ていたら苦労はなかったでしょう。(講談社文芸局 駒井皓二様)

 今年の四月九日、どうしても徳川慶喜公と鉄舟さんのお墓にお参りしたくて、所用で神田に出た帰り、初めて谷中を訪れました。あまりにも広い墓地に驚き、 さまよい歩いた時はもう夕闇が迫りつつある頃でした。谷中の桜があれほど素晴らしいとは・・・初めて知ったおのぼりさんです。急いで全生庵にもお参りし、 この時は時間もなくてそのまま帰りました。以後、慶喜公のお墓に四回、鉄舟さんに五回お参りし、その都度、谷中の町を歩きましたが、何ともいえない親しみ を感じて忘れられない町になりました。(横浜市 山岡康乃様)

 再開発の問題を取り上げるとのこと。できれば細く長くやれたらと思います。こういう問題は短期的には結論も出ないし、解決もできないと思いま す。住民たちが自分の街に対し、どう考え、どうあってほしいのかを知る、いい企画だと思います。孫を連れて散歩するおじいちゃん、庭木の手入れをするおば あちゃん、魚屋の若だんな、乾物屋のおかみさん、停年退職したサラリーマンのお父さん、大声で子供をしかっているお母さん。
 そんな多くの人たちの庶民感覚、庶民感情によるいろいろな意見がたくさん出ると良いですね。「谷根千」がその窓口であり、語り合える場であって欲しいと思います。では“有閑マダム”編集部諸姉のご健闘をお祈りしております。(谷中 金子雅彦様)

 昭和五年生まれの私は、戦後のお風呂屋さんの少ない時、すごく混んだ人参湯で、今では想像できませんが、湯ぶねにつかるのに片足だけ突っ込んで入るのを 待ちました。まだ戦後のこととて、あるお風呂屋さんでは、カゴに入れた衣類をそっくりとられ、母に着るものをとってきてもらったこともありました。六竜鉱 泉は、当時中将湯の様な色をしたお湯がやかんに入れてあって、湯上りに自由に飲めた記憶があります。(調布市 永野照子様)

 ポストから出してパラパラと目を通しておりましたら、まァ何と私のつたない手紙をのせて頂いてあり、びっくりするやらうれしいやらで、家に駆け込み息子 の目の前に広げて見せました。ニヤニヤしながら見ていた息子に孫たちが「何?なに?」とのぞき込み、「あ、おばあちゃんの名前が書いてある」と大きな声 に、嫁が「どうしたのですか」と台所から出てくるさわぎでした。私が皆様の御苦労をいろいろ説明しますと、家内中感心するやら嫁は「ほんとによくなさいま すね」と首をふっておりました(この人もとても頑張っているのです。内外共に)(埼玉県
比企郡 松本さだ子様)
・谷根千が配達されて読まれるまでのミニミニドラマ、あまりの楽しさにまたのせてしまいました。

 小生根津片町二四番地で生まれ育ちました。いわば根津が故郷です。母、兄弟姉妹も全員根津尋常小学校の出身です。住んでいた家は現存していま す。二号に出てくる小瀬健資さんのすぐ近くで、小瀬さんの姉さんにはよく遊んでもらったものです。弥生坂を登るところに交番があり、交番の前が市電の終点 で、車掌がポールを紐で向きを変えるのを毎日見に行って、お巡りさんに叱られた想い出もあります。
 祖母は町内で髪結をして歩いておりました。また藍染町、片町の向い側の狭い道路に馬車屋があり、馬車置き場や馬小屋がかっこうの遊び場でし た。けんか(果し合い)をやる約束をすると、いつも新聞紙に包んだ馬糞を相手に投げるため、拾いにいったものです。駄菓子屋とか肉屋さん、特に赤津湯がな くなっていたには淋しい気がしました。赤津湯の初ちゃんも同級生だったのに、いまどこにいるのか。あの前に芋屋があって、小学校五年生のときそこで売って いる鯛焼きを買いに行って火傷した。その傷はまだ残っています。
 谷中のお寺の中は、立ち廻りをするのにもってこいでした。芙蓉館などは背が小さかったので、大人の後にくっついて、ただで何回も入ったり、出口から逆に入ったり、随分といたずらをしました。(練馬区 前田欽二郎様)

編集後記
◆菊まつり一日目の雨でひいた風邪がまだ抜けず冬に突入。柳屋さんの鯛焼きがカイロ替りの季節がまたやって来ました。皆様お元気ですか。谷根千も元気です。
◆酒屋さん特集はあまりに数が多く混乱。どこのお店でも「伊勢五」「吉田屋」「相模屋」さんの名が出るので、この三店に的をしぼりました。今回、吉田屋の番頭、松本武さんのお父様の遺した六十年前の配達メモが一番感激でした。几帳面で誠実な働く姿が目に見えるようです。
◆高橋くらさんは「ひっそり暮しているし決まりが悪い」とおっしゃるのに無理にご登場願いました。昔の写真でも美人ですが、今の方がますますおきれいです。あと半世紀たつとこんなに素敵になれるかしら、と思うと不安もあり、励まされる思いがいたします。
◆「谷根千・味のグランプリ」はいったん休載。一軒ご紹介したいお店がありましたが「うちは狭いし、お客様にご迷惑かけるから」と断わられました。でもそ の心のこもった味は、ムムム、誰かに教えたい。(熱心な読者にヒント。このお店は今号から谷根千を置いてくれてます。とても店名がユニーク)。
◆鷗外特集を読んだ東大生が、西教寺、願行寺からS字坂への通りを「鷗外の径(こみち)」と名付け、友人に広めて下さっているとか。私は西日暮里駅前から田端高台へのジョギングコースを「朝やけの崖」と名付けました。いい名前付けたら教えてね。
◆小野梓を調べに久しぶりに早稲田大学に行き、懐かしのレストラン高田牧舎で食事。変らぬランチの味に一昔前を思い出す。紫煙に霞む喫茶店、スタンダール みたいなアジ演説、とっくりのセーターの似あう人、やたらと上映されていた浦山桐郎映画……。この創業八十年のレストランも近く建て替え、早稲田茶房はす でにない。都内のあちこちで懐かしい建物が消えていきます。
◆と懐旧の情に耽り、わが身の無力を嘆いていても仕方がない。足掛け三年目を迎える来年はできるだけ地域の歴史的・自然的環境保護をすすめたいと思ってま す。そのきっかけとして、「谷根千生活を記録する会」納めの例会を開き、この町で今何が起っているのか、どんな可能性があるのか話し合いたいと思います。
 誰でも気軽にご参加ください。ユートピアではなく、ホープ(希望)を語りあいましょう。二十一世紀に私たちが後悔しないためにも。(森まゆみ)
ページトップへ