地域雑誌「谷中 根津 千駄木」5号 / 1985年9月15日(日曜日)発行  250円
森さんのおじさんと散歩しよ!
5号 森さんのおじさんと散歩しよ! 谷根千5号

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 5号
其の5 1985.09.15
森鷗外特集(32P) 
表紙/石田良介「暗闇坂」
日暮里・経王寺−スケッチ/川原史敬
鷗外の愛した街・谷根千−森さんのおじさんと散歩しよ!
 鷗外が歩く
 花園町と赤松登志子
 千朶山房と猫の家
 観潮楼と荒木しげ
 散歩する鷗外
 鷗外みかけたことがありますか
 荷風と鷗外
 年譜(「鷗外のみちしるべ」より)
「東大ケチョンケチョン」前説−根津の谷から−石飛仁
坂のある風景−千駄木・狸坂−エッチング/棚谷勲
この街にこんな人(本駒込)−コミュニティ・ワーカー・平井雷太さん
ご近所調査報告−日展−千駄木の桂離宮
谷根千マップ
手仕事を訪ねて3−不忍通りの金物屋さん
 小野塚刃物店、横川金物店、三金金物店三河屋、菅谷金物店、山崎刃物店、塩野金物株 式会社、大吉大貫商店、みねや金物店、植田屋吉田金物店
郷土史発掘−棲み家としての町へ−藤原恵洋
著者自筆広告3−吉村昭「東京の下町」文藝春秋社
味のグランプリ−ギョウザ・桐生屋(動坂ストア)
銭湯補遺−太郎湯(田端)
おたより
情報トピックス
よみがえれ!パイプオルガン
編集後記
お知らせ
文化ガイド

参考文献(文献検索)
「青年」 1978 森鷗外 新潮社(新潮文庫)

2頁
鷗外の愛した街・谷根千
森さんのおじさんと散歩しよ!

 明治の人はよく歩く。
 なかでも鷗外はよく歩いた。
 団子坂まで市電が通ったのがようやく大正六年であるから、
 歩くほかないのである。
 また晩年の鷗外の勤め先が、歩いたほうが早い
 上野の帝室博物館であった。
 しかし、
 鷗外は歩くことそのものを愛していたようだ。
 そしてこの街も。
 街の人は歩く鷗外を見かけ、親しんだ。
見る鷗外と見られる鷗外。
 この特集は「鷗外を歩く」ではなく、
 「鷗外が歩く」である。

 夕近し沙羅の木かげに水うてと
  先生呼ばす 馬を下りつつ   北原白秋

 鷗外の作品中、最も谷根千の街々に詳しいのは明治四十三年の『青年』。鷗外「豊熟の時代」の作品で、前年の漱石『三四郎』に刺激を受けて書かれた。物語は青年小泉純一が憧れの作家大石路花を訪ねるところから始まる。

壱 本郷から根津へ
 芝日陰町の宿屋を出た純一は、東京方眼図を片手に、新橋停留場から須田町乗換で本郷三丁目に到着する。この方眼図は鷗外が考案して、明治三十八年に発売されたもの。
 「追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった」。この通 りに歩いてみる。本郷通りから東大の塀の切れる辺を右折し、西教寺の白壁について左折すると、右が農学部グランドと地震研。当時はここが一高で、有名な寮 歌「ああ玉杯に花受けて」にも「向ヶ丘にそそり立つ、五寮の健児意気高し」とある。弊衣破帽のバンカラで鳴る学生たちがこの辺りを荒らし回った。
 この道は鷗外の散歩コースだったらしい。西教寺の隣りに願行寺があるが、この寺を鷗外は何度か尋ね、江戸の粋人細木香以の墓を探し史伝を書いている。寛 政九年建築という古い本堂と庫裏は深い木立ちと蝉の声に包まれている。東京の寺とは思えないですね、と言うと、「あまり開発されないのも東大のお陰です」 と寺の方が仰言った。
 さて表坂上の路花の下宿袖浦館のあったはずの場所に、いま「春養館」という下宿が建っている。小説では、袖浦館は支那やインドの留学生をあてにして建て た「木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造」の建物である。洋画家青木繁がいたこともある実在の下宿らしい。その後、春養館に変わったのだろ うか。
 純一青年は路花に取次を乞うが、夜ふかしでまだ起きてこない。しかたなく散歩して時間をつぶすことにする。ブラブラ坂の方へ行くと、「角が出来たばかり の会堂で、その傍らの小屋のような家から車夫が声を掛けて車を勧めた」という。牧師さんのお話で、まさに『青年』の書かれた年には「出来たばかり」なこ と、ウェルボーン師は敷地の拡張にあたって角の車屋がなかなか立ち退かず苦労したことがわかり、『青年』中の車屋の実在も確かめられた。ついでに、この聖 テモテ教会には、戦前は、昭和七年、ヤマハが国産第一号で完成させたパイプオルガンがあり人々の憧れであった。
 そこを過ぎると「土塀や生垣を繞らした屋敷ばかり」と書かれている通り、今も岩波ホールの高野悦子さんや渋谷(しぶたに)さんの邸が続く。根津神社を見下す景勝地に立つ明るい洋館は、数少ない明治の洋館として貴重である。
 鷗外は表坂を「割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている」と表現している。いつの間にか、『青年』を読んだ一高生が広め たのか、この坂をS字坂、S坂と呼ぶようになった。明治以降に出来たから新坂ともいい、権現坂ともいう。坂の途中にある西洋風の建物がむしろ袖浦館をしの ばせ、今だに静かで趣きのある坂だが、例の環状三号線が通ると、この辺りの景観はすっかり破壊されるだろう。
この坂を降りて純一は、「左側の鳥居を這入る。花崗岩を敷いてある道を根津神社の方へ行く。下駄の磬(けい)のように鳴るのが、好い心持である。剥げた木造の据えてある随身門から内を、古風な瑞籬(たまがき)で囲んである」。
 ちっとも昔と変わらない。赤と緑の権現造りの垣の左手前方に、「文豪憩いの石」の立札を見つける。鷗外、漱石らが散歩の途中、腰を下ろしては文想を練っ たという。またその後方の水道の台の裏側に「戦利砲弾奉納 陸軍軍医監森林太郎、少将中村愛三」と彫ってある。明治三十九年、日露戦争の時のものだが、改 めて鷗外もこの社の氏子だったのだと思う。「溝のような池があって、向うの小高い処には常磐木の間に葉の黄ばんだ木の雑(まじ)った木立ちがある」という のは、駒込、乙女両稲荷あたりの丘で、今はつつじの名所も、以前は蛇の出る雑木林だったのである。

弐 藪下道から観潮楼まで
 根津裏門坂。今では日医大の繁盛で表門坂より賑やか。江戸時代、ここにお江戸の府内と府外の境界である朱引きが引かれ、これより先は駒込村となる。裏門 の真前にある道が通称「藪下」。本郷台の稜線を行く、古い踏みわけ道である。「多くは格子戸の嵌っている小さい家」が続く先に、純一は色川国士別邸という どこかの議員の冠木(かぶき)門を見つける。モデルとしては大蔵政務卿を勤めた井上範氏あたりか。その先にあった植木屋とは、「清大園」の清水さんに間違 いない。清水家には「武蔵国北豊島郡下駒込村第九五番字藪下」という明治十二年の書付がある。当時畑五畝七歩が十円三銭だったという。
 左側の丘を純一は「手入れの悪い大きい屋敷の裏手だな」と通りすぎたところが、上総松尾城主太田家の下屋敷跡で、今もご子孫が住んでおられる。太田の原 は広く、明治二十七から八年戦役では軍馬の調教場となっていたという。右側が煉瓦塀、左が石垣で樹の多い落ちついた坂だが、子供の頃の私には坂上に立つ と、不思議な奈落に思えた。
 「爪先上がりの道を平になる処まで登ると、又右側が崖になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀のある家を見ると、毛利某 という門札が目に附く」。毛利鷗村が森鷗外で、すでにこの年、有名な作家である。鷗外は自嘲の評を自身に与え、「今時分は苦虫を咬み潰したような顔して起 きて出て、台所で炭薪の小言でも言っているだろう」と純一に想像させている。
 さて、この崖の上が通称「見晴し」である。鷗外も「今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立ちの上を走る品川沖の白帆が見える」(『細木香以』)と書 き、楼を観潮楼と名付けたのであるが、本当に海が見えたのかしら。いくら空気のきれいな頃とはいえ、よほど見馴れぬと分からなかったようで、「どうしても 私には見えません」という妻しげを鷗外は「お前は正直だ」と誉めている。いずれにせよ、今では八中の体育館にさえぎられ、「見晴し」の眺望はまったくな い。
 団子坂の中途に、「見晴しの湯」という当時としては珍しいビルの銭湯があったことを二号に書いた。これについては窪川鶴次郎『東京の散歩道』にも詳しい が、この見晴しの湯で鷗外夫人や令嬢茉莉さんに会い「すらりとした美しい人」の印象を刻んでいる方がいる。鷗外邸の見取図には内風呂もあるが、鷗外本人は 風呂に入らず畳の上のたらいで身じまいをする人で、『金毘羅』という作品に、「今時分は細君が六つになる姉娘を連れて、弟の赤ン坊を女中に抱かせて、湯屋 から帰って来る頃だなと思ったのである」とあることからも、この記憶は確かなものと思われるのである。

参 団子坂から再び根津へ
 鷗外の思い出が未だに街に漂っているような観潮楼周辺から、再び『青年』の純一とともに散歩を続けよう。見晴しから団子坂へ。「四辻を右へ坂を降りると 右も左も菊細工の小屋である。国の芝居の木戸番のように高い台の上に胡坐(あぐら)をかいた、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、手に手 に絵番付のようなものを持っているのを、往来の人に押し附けるようにして、うるさく見物を勧める」。
 明治四十四年は菊人形も最末期である。十月二十八日の朝。ここを通り抜け、純一は「右手の広い町へ曲った」。この時点では不忍通りはまだ団子坂下までし か出来ていなく、坂下の方は谷田田圃だったので、右に曲がるしかない。この右の道もできたばかりの新道である。さらに「好い加減な横町を、上野の山の方へ 曲った。狭い町の両側は穢(きた)ない長屋で、塩煎餅を焼いている店や、小さい荒物屋がある。……血色の悪い、痩せこけた子供がうろうろしている」。
 さらに純一は「曲がりくねって行く」ので、これは例の藍染川沿いのへび道に違いない。「小川に掛けた板橋を渡って」とも記されている。当時このあたりは 「田圃が半分町になり掛かって」いるところで、新しい家が疎に立っていた。「ふいと墓地の横手を谷中の方から降りる、田舎道のような坂の下に出た」。これ は臨江寺の脇の三浦坂に間違いない。ここで純一は中学時代の友人で美校に通う瀬戸にあう。彼の下宿は動坂である。「二人は又狭い横町を抜けて、幅の広い寂 しい通を横切って、純一の一度渡った、小川に掛けた生木の橋を渡って、千駄木下の大通に出た」。このコースは斎田質店などのある細い通りを抜け藍染大通り から不忍通りに出たものかと思う。「菊見に行くらしい車が、大分続いて藍染橋の方から来る」。そこから二人は西側の横町に入るのだが、その入口に「ペンキ 塗の杙(くい)にゐで井病院と仮名違に書いて立ててある」と記されている。そんな医院が本当にあったのかな。すると「確かにありました。出井さんのお子さ んが根津学校の私の一級上です。場所は今の富士銀行の横を入ったところです」と上原文具店の捷治さんが即座に言われたので驚く。純一はこの角を曲り、瀬戸 とわかれて大石路花の袖浦館を再訪する。

四 谷中・初音町の家
 路花を訪ねた翌日、純一は静かな家に間借りすることを考えた。
「足が自然に谷中の方へ向いた。美術学校の角を曲って、桜木町から天王寺の墓地へ出た」。そこから銀杏の落葉の敷石を踏んでブラブラと初音町に出た、とい うのは長安寺前あたりで右折したのか。純一はそこに植木屋植長が大家の小さな貸家を見つけて気に入る。前の借人が「油画をかく人」というのが美校に近いこ の町にふさわしい。「東の窓の外は狭い庭を隔てて、直ぐに広い往来になっている」とすると、寺の並ぶ側である。ここらに植木屋はなかったか、と明治三十五 年にここで生れた高橋くらさんに聞くと「今の米屋の北町販売所のところにたしか藤田さんて植木屋があったよ」とのこと。だが初音町ならばもう少し日暮里駅 寄りのはず。
 鷗外は植長の嫁、安(やす)を好意をもって書いている。安は銚子の出で、「黒繻子の領(えり)の掛かったねんねこ絆纏を着て、頭を櫛巻にし」ているが、 忠実で甲斐がいしくきりっとして、純一は、芸者のような拵物でない表情に、「女という自然」を見出す。この安のモデルは、観潮楼に同名の銚子出身の女中が いたことがあり、鷗外は気に入っていたようだ。
 一方、安がかつて仕えた近くの別荘のお嬢さん雪は、中沢という銀行頭取の娘である。この中沢のモデルとしては、真島町一帯に広壮な邸宅を構えていたあか ぢ銀行の渡邊治右衛門が思い浮ぶ。そして彼が鷗外の二度目の妻しげの前夫であることを知り、俄然興味が湧いた。鷗外が上野の帰り、この邸の所在と妻との関 連を知っていたらしいことは次女の杏奴さんの「晩年の父」に書かれている。
 この初音町の家から、純一は平田拊石(夏目漱石)の講演を聞きに行き、西片町に住む大村荘之助に兄事したり、有楽座のイプセン劇を観て妖しい目をした坂 井夫人に出会う。そして根岸に住む夫人を尋ね性欲に負ける件が、この小説のクライマックスだが、根岸の町の描写は精彩を欠く。根津や千駄木ほど歩き馴れぬ せいだろう。
 さて、当時谷中初音町あたりは上野広小路あたりと比べるとかなりの田舎だったらしい。歳末の夜中、上野から人力車に乗り、「天王寺の前から曲れば、この 三崎北町あたりもまだ店が締めずにある。公園一つを中に隔てて、都鄙それぞれの歳暮の賑いが見える」という。公園とはもちろん上野公園。こうして今の地理 に重ねて明治の東京がだんだん読めてくる。さらに新年を迎え、三崎坂を純一と大村は下ってゆく。
「門ごとに立てた竹に松の枝を結び添えて、横に一筋の注連縄が引いてある。酒屋や青物屋の賑やかな店に交って、商売柄でか、綺麗に障子を張った表具屋の、 ひっそりした家もある」。これは九代目三百年近く続く伊瀬五酒店や寺内表具店だろうか。二人は「山岡鉄舟の建てた全生庵の鐘楼」の前を通り、団子坂を上っ て世尊院の前から肴町の通りへ曲がる。「大村を、純一は暫く見送って、夕(ゆうべ)の薄衣に次第に包まれて行く街を、追分の方へ出た。点燈会社の人足が、 踏台を片手に提げて駈足で摩(す)れ違った」
 昔は本郷通りにガス燈がついていたのか、と思いつつ、私も夕暮の街を歩いてゆく。『青年』散歩の起点であった願行寺へ入る横町ももうすぐだ。(一九八五・八・二七)

8頁上段
さて『青年』からはずれて、街の方々に「私の見た鷗外」を聞いてみた。

 団子坂上に住んでいた中小路静いさん。
「立派な軍服でお出かけのところなど見ると、近所の子たちが、あ!森さんのおじさんだって騒いだものでした。私の伯母が森さんの髪結いをしてましたが、『森さんは面喰いだよ』、と言ってました。嫁貰うなら親見て貰え、年とったときの顔がわかるからと仰言ったのですって」
 団子坂下に住んでいた益田武三さん。
「鷗外さんは数冊の本をふろしきに包んで小脇にかかえ、例のヒゲよろしく、団子坂に面した通用口から東大に通ってました。年に一度、近所の子らにご飯をふるまってくれて、行くと正面に腕を組んで坐っている。偉い先生だから、僕らもご馳走になるとサッと失礼してきました」
 鷗外邸に接する野村屋酒店、四代目の関原顕太郎氏(明治38年生)。
「味噌や醤油は届けましたが、口なんて聞いたことはない。うちの手洗いから先生の庭が見えるが、とにかく声の大きな人でした。『別当!』って呼ぶ。この馬丁が酒好きで、うちで飲んでは、たまった飲み代に馬のエサの麦を持ってきた」
 明治二十七年から「魚岩」を開く星谷さんの大奥さま。
「鷗外さんはヒゲがいかめしく、考え深そうな顔で馬に乗る姿に憧れました」
 今カメラ店の関根キンさん(96歳)の母スミさんは仕立て物の腕がよく、鷗外もスミさんでなければ、というほど。
「やっと先生のができました、とお届けすると『そりゃよかった。どうも有難う』と仰言る様子は、きりっとして、見るからに頭が下がる風格の方でした。そん な根をつめる仕事ばかりしてちゃいけない、菊が咲いたから見においで、と仰言って、伺うと奥様が『よくおいでになりました。ゆっくり遊んでいらして』、と お寿司をとって下さいました。『お母さんは名人だから、よく教わっておおき』と先生はニコニコ仰言っていました」
 というキンさんは美術運送店を開き、朝倉文夫や北村西望の信任も厚かった。
 楠山正雄区議の父上正之助さん(明治24生)は晩年の鷗外の服を縫っていた。
「森さんの奥さんは気っぷのいい人でね、綻ぶと親方!直してって持ってきたらしい。機嫌の悪い時は大変、ご用聞きの小僧なんか、森のヒステリー婆なんて壁に落書きしてたんだって」
 しげ夫人を悪妻と見る見方は一般的だが、取材した範囲では、江戸前の勝気で正直で美しい女性が浮かぶ。鷗外の母は、田舎の武家育ちの賢夫人だから、この二人のソリが合わないのは当然。どちらが悪いというものではないだろう。
 「茂子奥様御興入の時は、お綺麗な噂が町に拡がっていましたので、大変な人垣で商家の主婦や、私の父も店を休んでお迎えしたそうです」と、鷗外邸門前でヒコ床を営んだ矢崎登吉さんも書いている。むしろしげ夫人は町場の人と気が合ったのではないか。
 また竹内畳店は以前道の反対側にいたが、森家から直々に土地を買ったという。
「お子さんがフランスに行く費用の工面に、安く土地を譲ってもらいました。うちは上野の戦争の時分からの四代つづく畳屋ですが、鷗外先生に出入りしていた のは祖父の常蔵で、父勇蔵が先生んとこの坊ちゃんの類さんをいじめるとかで、出入りを差し止めるといわれたこともあったそうです。
 先生は馬に乗るのがお上手でなく、しがみついてるみたいだったとか」
 白山上で鷗外の乗った馬が暴れだしたこともあった。そこで「鷗外落馬説」も町に流れたが、決してそんなことはなかったという。いまの小椋ビルの所が馬小屋で、中二階に馬丁の寝場所があった。

 街のおじさん鷗外はいよいよ身近な人に思えてきた。

 晩年の鷗外は、日常のなんでもないことを愉しんでいた。『青年』中に、「現在は過去と未来との間に画した一線である。此線の上に生活がなくては、生活は どこにもないのである」と記している。これこそ、家名と国家を背負ってひたすら人生を駆け抜けてしまった鷗外の一点の痛恨を示す言葉ではないか。そして、 散歩は鷗外にとって、何者にも追い立てられない、自由な時の過ごし方であった。

3頁下段
花園町の家と赤松登志子
 明治二十二年秋、鷗外は根岸御隠殿坂下の家から上野花園町十一番地に移った。同年三月に、西周の媒酌で海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、赤松家の家作に移ったのである。
弟二人、(篤次郎、潤三郎)と妻の妹二人(克子、曽代子)それに女中も同居した。
 この秋、鷗外は訳詩集『於母影』を発表、民友社から当時としては破格の五十円の原稿料を受けとり、これで評論誌「しがらみ草子」を発刊。幸田露伴や内田魯庵をはじめ文士たちが多く出入りし深夜まで談笑した。『舞姫』『うたかたの記』もこの地で書かれた。
 しかし家風の違いその他から最初の結婚は壊れ、長男於莬(おと)が生まれた直後、離婚している。
登志子はのち法学士宮下某と再婚して一男一女をもうけたが明治三十三年死亡。死を知った鷗外は日記に「嗚呼是れ我が旧妻なり。於莬の母なり。赤松登志子は眉目*好ならずと雖、色白く丈高き女子なりき」としのんだ。
 現在鷗外旧居は水月ホテル鷗外荘が管理し、旧居は見学でき、宴会にも用いられている。

千朶山房と猫の家

 離婚後、鷗外は本郷駒込千駄木町五十七番地、通称太田ヶ原の貸家に弟二人と転居し、千朶山房と号して約二年住んだ。この家はもともと牛込の商人中島吉利 が息子襄吉(医学生)の開業するために建てたもの。襄吉は卒業後帝大病院、根津真泉病院に勤務し、産婦人科の大家となり、開業はしなかった。
 鷗外が出たあとこの家を買い取ったのが英文学者の斉藤阿具(あぐ)だが、仙台二高に赴任するので、その留守宅を菅原通敬(のち貴族院議員)、片山貞二郎 (のち日銀理事)、矢作栄蔵(農学者)に貸したあと英国帰りの夏目漱石に貸した。ちなみに片山氏の妻がアイルランド文学の翻訳家として上流サロンに君臨し た片山広子(松村みね子)である。
 漱石はこの家から一高、東大に通って講義をし、「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」を書いたが、明治三十六年西片町に越した。
 両文豪の住んだ家は解体して明治村に運ばれ今はない。日医大同窓会館の門前に「猫の家」の石碑だけ残っているのが空しい。

観潮楼と荒木しげ
 明治二十五年、鷗外三十歳の一月三十一日、前居からほど近い団子坂上の千駄木十九及び二十一番地に転居した。この土地は鷗外の父母が長男林太郎のために 探しておいたところ。昔は世尊院の境内で、以前細木香以の取巻の質商小倉氏が住み、質草を入れておく土蔵はそのまま鷗外の書庫となった。
 夏に二階建ての書斎を建て増しして汐見坂にちなんで観潮楼と名付け、両親、祖母、弟たちも同居した。十年ののち、大審院判事荒木博臣の長女しげと結婚 し、「少しは美術品らしき妻」(鷗外の手紙)を得た喜びも束の間、しっかり者の母と率直だが我ままな妻との間で鷗外は一方ならぬ苦労をしたようだ。鷗外は 母に孝行を尽くし、妻に気をつかいながら、官吏としての勤めのあと、夜半から机に向いあの膨大な作品を完成させた。そして死ぬまでこの土地を愛し、付近の 散歩を楽しんだ。
 鷗外死後の昭和十二年、借家人の不注意で観潮楼は焼け、戦災で全焼。文京区は昭和三十八年、鷗外記念本郷図書館を開いた。

散歩する鷗外
 父は散歩の時疲れるか或は少しその辺りを眺めようとすると、いつでも道ばたに蹲(しゃが)みこむ。御ていねいの場合は両方の下駄をぬいで二尺ほど離して 平行にならべ、一方に腰を下ろし、他の一つの方に膝をかがめた両足をのせ、片手でステッキをついて身を支える。どうもその恰好がいざりのやうで私はみっと もなくてたまらない。「お父さん、早く行こうよ」といっても父は平気である。にこにこ笑ってわざとゆっくり葉巻の烟をはきだす。私も仕方なくその真似をし て「親子いざり」が白山の坂上などで、その頃はネオンサインもない薄暗い街を見おろしながら夏の夜風に吹かれていた。(長男於莵氏)

 夕方散歩の度に私と弟でアイスクリムを強請(ねだ)るのには父は大いに弱っていた。
「家に帰ればお母ちゃんがシトロンを氷で冷して待っているよ」といっても、言うことを聞かないで困ったと、よく母にこぼしたそうである。(二女杏奴さん)

 当時、先生は宮内省図書頭兼帝室博物館総長の官職にあられた。・・・何かの話から健康の話になった時、「長年勤めを持っていた人間が、職を退くと、その まま外出しなくなる、。それが一番イケない。だから、陸軍省をやめてからも、僕は毎日欠かさず散歩をしている」そんなことを言っていられた。(小島政二郎 「鷗外荷風万太郎」より)

明治41・10・18/午前茉莉を伴ひて、妻と展覧会に往き、帰途動物園に立寄る。
42・10・24/母と於菟と国技館の菊を看に行く。妻と茉莉と連れ立ちて出で、団子坂の菊を看、それより上野の展覧会にゆく。
大正2・4・2/桜花盛んに開く。・・・午後上野天王寺に往きて、石本中将新六の墓を拝す。
3・5・26/予、類を伴ひて諏訪神社に往く。
5・7・17/夜根津を歩す。8・24/本郷を歩して森江書店に立ち寄る。9・19/妻と白山を歩す。
6・1・9/午後谷中根津を歩す。2・13/北風、午前類と根津を歩し、午後独り動坂を歩す。
 (鷗外の日記より)

荷風と鷗外
 永井荷風(明治12〜昭和34)もまた谷根千の街を愛した一人である。江戸切絵図を懐にしての散策記「日和下駄」中に、藪下道を、「私は東京中の往来の 中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼猶暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗 (のぞ)くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば向は一面に遮(さえぎ)るものなき大空限りもな く広々として、自由に浮雲の定めなき行衛(ゆくえ)をも見極められる。左手には上野谷中に連(つらな)る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一 目に見晴され其処より起る雑然たる巷の物音距離の為めに柔げられて、かのヴェルレエヌが詩に、
 かの平和なる物のひびきは街より来る・・・
と云ったような心持を起させる」
 こう書いた荷風はすでに二十四歳で鷗外に出会い洋行後、鷗外と上田敏の推薦で慶應の文科教授となった。荷風は私淑する鷗外邸をしばしば訪れた。ある初秋の夕暮、観潮楼に主人を待つ家風に上野の鐘が聞こえる。
 「私は振返って音のする方を眺めた。千駄木の崖上から見る彼の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄(ぼあい)に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏の微光をば夢のやうに残していた」

年譜―「鷗外みちしるべ」より(文京区立鷗外記念本郷図書館発行)
文久2年〜明治6年(〜11歳)
 文久2年1月19日石見国鹿足郡津和野町(いわみのくにかのあしぐん)に、津和野藩主亀井家の13代続いた典医森静泰(せいたい)と妻ミ子(みね)(通 称峰子)の長男として生まれる。幼児より秀才の誉れ高く、漢籍・オランダ語を学ぶ。藩校養老館には3年間学んだ。明治5年に上京し、西周(にしあまね)邸 より進文学社に通いドイツ語を学ぶ。

明治7年〜明治16年(東大時代・〜21歳)
 万延元年生れと年齢を偽り、満12歳で東京医学校予科(のちの東大医学部)に入学。学校始まって以来の若さ・19歳で卒業。終生の友となる賀古鶴所(かこつるど)は、東大の同期生である。卒業後の12月、陸軍軍医として勤務。

明治17年〜明治21年(ドイツ留学時代・〜26歳)
 衛生学研究及び衛生制度調査のためドイツ留学を命じられる。ベルリンに到着するまでのことは、漢文体の『航西日記』に記されている。帰国するまでの4年 間ライプチヒ・ドレスデン・ミュンヘン・ベルリンで研究生活をおくる。一方、西欧文学・哲学・美学にも心を傾けた。明治21年9月帰国。陸軍軍医学舎教官 となり、医学論文を次々と発表。

明治22年〜明治31年(啓蒙時代・〜36歳)
 西周の媒酌で海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、上野花園町に住む。雑誌「国民之友」に訳詩集『於母影』(おもかげ)を発表、更に「しがらみ草子」 を創刊し、華々しい文学への活動を開始する。ドイツ三部作といわれる『舞姫』・『うたかたの記』・『文づかひ』の発表や、明治文学史上の大きな論争となる 坪内逍遥(しょうよう)との「没理想論争」などの諸論争を行なう。明治27年の日清戦争出征後、明治29年雑誌「目不酔草」(めざましぐさ)を創刊し、鷗 外・幸田露伴・斉藤緑雨(りょくう)の合評による新作批評「三人冗語」(さんにんじょうご)を載せた。一方、私生活においては、長男於菟(おと)の誕生と 同時に登志子と離婚し、本郷駒込千駄木町57番地に移る(のちに夏目漱石も住み、通称「猫の家」と呼ばれる)。やがて、千駄木町21番地へ移転。父母およ び祖母を迎え同居。この家の2階を増築し観潮楼と名付ける。

明治32年〜明治35年(小倉時代・〜40歳)
 軍医監となり小倉の第十二師団軍医部長に任命される。鷗外はこれを左遷と考え軍職を辞そうとする。この小倉時代の体験が、のちの鷗外の人生観(レジグナ ティオン=諦観)を形づくった。明治35年、大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚。第一師団軍医部長に任命され、上京する。

明治35年〜明治41年(日露戦争前後・〜46歳)
 帰京すると『即興詩人』・戯曲「弾篋両浦島」(たまくしげふたりうらしま)を発表し文壇に復帰する。明治37年日露戦争に従軍し、戦陣中の詩歌集「うた日記」を作る。40年与謝野寛・伊藤左千夫・佐佐木信綱らと観潮楼歌会を開催。同年軍医総監となり陸軍医務局長となる。

明治42年〜大正4年(豊熟時代・〜53歳)
 旺盛な文学活動を展開し、以後の10年間に創作のほとんどを書き尽くす。石川啄木・木下杢太郎・吉井勇等を同人とする。「スバル」創刊。ここに「青 年」・「雁」・「灰燼」(かいじん)(未完)・「ヰタ・セクスアリス」(発禁)・「半日」などを発表。明治45年、乃木大将の殉死に衝撃を受け、「興津弥 五右衛門の遺書」(おきつやごえもん)を書き上げる。これはその後一連の歴史小説の第一作。

大正5年〜大正11年(栄光の晩年)
 大正5年、「高瀬舟」・「寒山拾得」(かんざんじっとく)を発表。「渋江抽斎」(ちゅうさい)の連載を始める。
 大正6年軍医総監・医務局長を辞し陸軍から退き、帝室博物館総長(現在の国立博物館長)・宮内省図書頭(ずしょのかみ)に就任する。大正11年7月9 日、観潮楼で死去。60歳。死因は萎縮腎(いしゅくじん)、また結核であったと云われる。向島弘福寺に埋葬。(のち震災のため三鷹市禅林寺に改葬)
 遺言「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」は、賀古鶴所に託された。墓標は「森林太郎墓」の五文字で、中村不折(ふせつ)の筆による。

3頁囲み
『青年』―あらすじ
 Y県(山口県)の資産家の一人息子小泉純一は、作家をめざして上京し、自然主義の旗手大石路花(正宗白鳥か徳富蘆花)を訪ねるが失望、平田拊石(夏目漱 石)のイプセン論の講演に魅かれる。有楽座で謎の目をした坂井未亡人に誘惑され、初めて性体験を持つ。本能と克己心の間で悩む純一は、ついに都会の孤独に 耐えかね、箱根滞在中の坂井夫人を追うが、
夫人と画家岡村との関係を知り、帰京して本格的に小説を書こうと決心する。

5頁囲み
鷗外が歩く―証言1
 鷗外さんはよく史伝執筆のためあちこちの寺の墓地を探索して歩かれたようです。当時、墓地で自殺する人が多かったので、うちでは立派な紳士(鷗外)が白絣の着物のパリッとした姿で来たので、すわ自殺か、とそれとなく気をつけてたようです。(願行寺・羽田修果住職)

 さあ袖浦館ねえ、聞きませんねえ。でもこの囲りは一高が近くて、路地奥まで全部下宿屋だったんですよ。うちは昭和五年くらいからやっていますが、戦争で焼けました。戦前は和風の建物でした。(春養館・西脇照子さん)

 「布教はまずオピニオンリーダーからということで東大の周辺には次々教会ができ、明治三十六年、アメリカ人司祭J・A・ウェルボーンが東大弥生門の前に聖テモテ教会を開きました。会堂が建ったのは明治四十二年の十月です」(沢邦介牧師)

6頁囲み 鷗外が歩く―証言2
 呉服屋をしていました祖父が明治初年、この地を求めた時は坂はなくって崖で狸が出るようなところだったとか。この洋館は明治三十七年に建てて根津嘉一郎さんのところを真似したらしいですね。今も静かで家に帰るとホッとします。(渋谷悦子さん)

7頁囲み 鷗外が歩く―証言3
 この辺は藪ばかりで、ふくろうや狸がいて淋しいところでした。裏は太田道灌の子孫の太田様の屋敷で、垣の所々が破れていて、中に入り込んで遊びましたがなんだか恐かった。(清大園・清水喜代さん)

10頁囲み 鷗外が歩く―証言4
 団子坂の下は、こういっては悪いが、昔は貧民窟みたいになっていた。団子坂の上の岡本銀行の邸の裏に、こうした貧しい家の子供が通うタダ学校といって、教材も何もタダでくれる学校があった。(益田武三さん)

13頁
『東大ケチョンケチョン』前説 ―根津の谷から― 
石飛 仁(根津在住・フリーライター)
日本人の心の中には、上下、山と谷、高い所と低い所といった自然観がしみるように内在しているようだ。それは生態系を心の中に繰りかえし確認している結果でもある。
 だが、うちつづく近代合理化は、この生態系の営みをめくらまして、人の心の中にバランスよくしみついた自然観をじょじょに追放し、人為的に歪めてきた。根津、千駄木、谷中の山と谷と川の変容は、その表出である。
 千駄木の団子坂を上った崖っぷちに建つマンションから根津の街中のアパートに移り住んだのが2年前。ギラギラと欲望みなぎる新興の街には、もうみかける ことのない「町の営み」というものがここにはある。それは、山と谷の姿がぼんやりとではあるが、まだ人々の心の中に棲んでいるからではないだろうか。
ある日曜日のこと、私は愛犬ラブを連れ、自宅のある根津の谷から本郷1丁目の事務所へと向って、東大構内の樹林の中を散歩していた。野生をふんだんにもつ 紀州犬の血を引くわが雑種ラブは、草いきれの中を歓声を挙げて走り廻っていた。草と木と土の匂いがうれしいのである。と、その時である。自転車に乗った守 衛がやってきて、犬の散歩をさせるなという。私は息がつまった。そしてすぐ思った。われら地域住民にとって東大とは何か―と。近代合理主義の先兵として、 生態系の破壊を急いできた、旧帝国大学東大について、私は書くことにした。

14頁 この街にこんな人
《本駒込》のコミュニティ・ワーカー 平井雷太さん
本駒込の平井雷太さんから谷根千あてに「本駒込の方までカバーして下さい」との葉書が舞い込んだ。それがきっかけで、多彩な地域活動で噂の平井さんに会いに行った。
想像していたよりずっと"やさしいお兄さん"。「スペースらくだ」を主宰して近所の子供たちと遊んだり勉強しているが、本当にらくだみたいなかわいい目をしてました。
昭和二十四年長崎生まれ、早稲田の学生時代からノルウェーやトルコで働いたことがある。このときルソーの「エミール」に出会い、"教育"に目覚める。その後、山岸会、水道方式、公文式など転々とするなかで、地域に根ざした教育活動に平井さんの足場が固まっていった。
「だいたい今の教育評論家は子どものほうを向いてるんじゃなくて、自分の名誉やカネのために書くネタを探している感じ。子供と接する現場を離れちゃダメなんだ」
 と平井さんはあくまで街を陣地に考える。連れ合いの幾島幸子さん(翻訳家)との間に二児有太君(小四)と慧太君(二歳)がいるが、育てながら保育園や学童保育の場で活動。地域の子を集めて塾を開き、「ほんこま遊ぼう会」を作って今は六義園で毎朝一輪車に乗る。
「うちの塾は別に教えないの。どうしたらいいか相談して、あとは子供が自分で勉強する。でも教材や指導法を工夫しているから、確実に力はつくよ。子供ってモトモト勉強したがりなんだ」
学齢期の子を持つ親だけでなく、地域に住んでる人間が皆、子供たちの現在、学校教育を真剣に悩んでやらなくちゃ、という平井さん、九月末には「ほんこま教育文化セミナー」も企画している。誘いあわせて参りましょう。
第一回ほんこま教育文化セミナー
 「母と子のことば」榊原陽(言語教育者)松岡正剛(エディトリアルディレクター)
  日時九月二十八日(土)PM2時〜4時30分 本駒込図書館集会室 入場無料 


15 頁
■ご近所調査報告−日展
 千駄木駅を降り、須藤公園の緑の中を高台へ抜けると、社団法人日展の三階建の事務所がある。中に入ると赤いじゅうたんが眼にまぶしい。が、それよりも何よりも、ここにはみなさんにお知らせしたい、ステキなものがあるのです。

 日展は明治時代に文展として始まった。川合玉堂、朝倉文夫など多くの画家や彫刻家が巣立った、わが国最大の美術展。その事務所が千駄木の邸町にあるには ワケがある。以前、上野の美術館内にあったのが手狭になった。そんな折、日展の常任理事で昭和四十六年に亡くなった、日本画家の児玉希望画伯(不忍池の弁 天堂の龍の絵は有名)の旧宅の一部を譲り受けて移転し た。画室と庭をそのままの形で保存するということで…。
 その庭と、画伯の仕事部屋に案内してもらった。すごい! 三十畳近くある広々とした和室もさることながら、部屋を囲む濡れ縁、母屋とを繋ぐ渡 り廊下、下に広がる池には鯉や亀が悠々と泳ぐ。この池と廊下は、京都の桂離宮を真似て造られている。「人を見るとエサをもらえると思って寄って来ますよ」 と職員の大西さん。
 池のまわりには木が生い茂り、飛び石のさきに東屋がある。塀際からひょいと下を見ると、なんといつも自転車で通る道。塀一枚で仕切られた中に、想像もしない世界があった。
 春はしだれ桜に始まり、つつじ、藤、初夏には睡蓮(すいれん)が池一杯に開き、秋は紅葉。しかし冬の雪景色が最高という。四季折々の庭が、そのまま画伯 の画 材になったに違いない。晴れた日、大西さんたちはここでお弁当を食べることもあるというから、うらやましい。普段は審査員の先生方の会議などに使われる。
 さて、この千駄木にある桂離宮の庭、日展に連絡すれば、都合のよい日は見せてくれる。
 そろそろ日展の季節。展覧会は、じっくり見ると二日はかかる。A・B券ワンセット800円。この秋、上野で美に酔う一日はいかがだろう。

*補遺
日展はその後千駄木から移転、現在、台東区上野桜木2-4-1にあります。
児玉希望旧宅の庭は分譲、開発されています。
日展は今年(2006年)38回を迎え、東京都美術館において11月上旬〜より開催されます。現在入場料は一般1,000円です。


18頁
■手仕事を訪ねて 3−不忍通りの金物屋さん
ノコギリ目立て 小野塚刃物店 千駄木4-16-1 

 若いが珍しい仕事をしている人がいるとの情報で参上。動坂ストアの隣の小野塚さん。入口の方では日曜大工用のペンキやラワン材を売っているが、奥でご主人小野塚晴之さん(昭和17年生れ)がやっているのは「刃の目立て」という仕事。
「私 の父の栄松(明治30年生れ)は新潟出身で、浅草で焼け出され、根津のむら八の前に移り、また現地(ここ)に移ったのが昭和二十三年。このあたり は昔から大工の多い町ですね。アパートたって一軒に一人は大工がいた。それでこの界隈は私らの仲間じゃ金物通りというくらい金物屋が多い」

――ほかに目立て屋さんは?
「東京中には何十軒とあるでしょうが、この辺では天王寺の銀杏横丁と根津の方に一軒ずつあったが、今はない。以前、大工は町場で増築、建て直しと か仕事がいくらでもあったけど、今は大企業がマンション建てても、他所(よそ)から大工を連れてくる。工法も違うしね。何か壊れたってマンション会社に苦 情いっ て、そっちでアフタケアしちゃう。町の大工に仕事落ちないんですね。
 だから大工も五分の三くらいは減った。大工の掘っ立てというけど、自分のウチなんかこんな地価の高いとこには建たない。みんな浦和とか蕨とか行っちゃうしね。ウチの仕事もずいぶん減りました」
 ノコギリ自体は新潟の三条とか与板あたりが産地。柄は昔は籐を職人自身が巻いたが、今はそれもビニール製。
「自分で巻いたから暗いところでひっつかんでも自分のが分ったといいます。昔の大工は本当に道具を大事にした。かんなだって荒がんな、中仕上げ、 仕上げと三種類、それもひのき、杉と材質で分けて十枚は持っていた。鋸だって十丁はね。徒弟に入って五年が年季、一年のお礼奉公が終わって、二日働く工賃 で鋸一丁買えた。いまは本職の使うので一万三〜五千円てとこかなあ」

――目立てとはどんな仕事ですか。
「まず、鋸の目が減ったのをヤスリで研いで切れるようにする。クセで曲がったのを直す。それとアサリといって目を少し両側に出すんです。すると切 り込んでも木離れがよくなる。アサリがないと刃が木の間にはさまって動かなくなるわけ。新品でもうちでは一応、手を入れてから売ってます」
 鋸の刃はよく見ると表、裏、表と並んでいる。これを小さなヤスリを間にはさむようにして研ぎ上げていく。
「見ればどのくらい使ったものか、わかりますね。小さいころから親父のやるのを見よう見まねで覚えたものですからね。今でも一番古くからのおつき あいというと、日暮里の中村工務店さんなどで私の生まれる前からです。昔は大工に『バカやろ、こんな仕事で金取んな』なんてパカーンと鋸の柄で叩かれたも んだが、最近そんなこという人はいない。
 工法が日進月歩でね、昔なら木造の家を数カ月かけて建てたが、いまは人件費が大変だ。ホチキスみたいので止めちゃってあっという間に建てる。 それだけ早くなったけど、腕は確実に落ちていっている。本郷保健所の通りに北海道の寮があるでしょ。あそこ建て直す時、見に行ったが、縁の下なんかきっち り木が組んであって、さすがに明治の大工は違うって一緒にいった棟梁がびっくりしてた」
 仕事の終わった鋸が十数丁もきれいに新聞紙にくるまれている。上に手間賃が千七百円、二千二百円などとマジック書き。山の手の方じゃもっとするけど、この辺じゃ、基準表通りには頂けませんね、という。


横川金物店●本駒込
 上州太田生れの横川富士作さんが本郷の金物店に奉公し、上州屋の屋号で開店以来六十年余。現主人富造さんが二代目。「すぐ反対側に刃物屋の柿沢さん。谷田橋近くに家庭金物の山崎さんと昔はもっと金物屋があった」

三金金物店三河屋●動坂交差点
 今の神山和夫さんで三代目。初代は東大の近くの金物屋で修業。ナベ、カマ、刃物、クギ、とっ手、蛇口、犬の鎖、ネズミとりまで。

菅谷金物店●道灌山下
 今の菅谷義男さんの父啓一さんは日本橋で終戦まで金物卸をしていたが、戦後二十三年に現地で開店。「父は谷中清水町生れで藍染川で泳いだ話など よくしていた」という。左官屋、大工が使う専門道具も売るが、「なにせ住宅は構造不況だからネ。家庭用のもん売ってた方が景気に左右されないネ」。包丁を 自 分で研げない人はどうぞ。一丁千円止り。

山崎刃物店●団子坂下
 刃物専門。山崎弥太郎さんの父藤吉さんが戦後ここに店をかまえ、理容器具の輸出などもしていた。今でも理容ハサミ、バリカンなど探し探してここま でくる人がいる。ご主人は現在千駄木二丁目商店街の会長さん。千代田線開通時には千駄木駅を作るために奔走。「昔は町が良くなれば自分とこも良くなるっ て、一所懸命でしたよ」と当時を振り返る。

塩野金物株式会社●根津裏門坂下
 家具の引き金具などに強い。明治時代に塩野伝次郎さんが創業。

大吉大貫商店●根津交差点近く
 昭和五十五年、九十歳で亡くなった前主人大貫八百(やお)さんが宮永町で始め、終戦後現地へ。ノミでもカンナでもいい道具を売った先の大工が亡くなると 買い戻し、大工道具のコレクターとして知られた。元東大の村松貞次郎教授(建築史)などもよく八百さんを尋ね、所蔵品を『毎日グラフ』で連載。「オヤジの 持ってた物をどこかに陳列したいけど、刃物で危ないからね。根津に郷土資料館でもあれば良いのだが」と二代目大貫淳二さん。「アンタには分からないだろう けど」とプロの道具立てを見せて下さる。名人の作った道具はすっきりしていて気品がある。三味線作りの道具もここしかなく、全国から買いに来る。

みねや金物店●根津銀座中央
 吉原慶太郎さんが店主。創業五十年。

植田屋吉田金物店●根津駅ビル
 根津遊郭移転後の明治三十五年、神田明神近くの鋼材屋に丁稚奉公していた吉田斧次郎さんが、茗荷楼の跡地に開店。同じ鋼材を売って張り合っては 申し訳ないと火造(ひづくり)の和釘、つまり舟釘、合釘、竹釘、角釘のほかボールト、鎹(かすがい)、箱金物、屋根材、などを商った。現在二代目孝一郎さ んと三代目 祺一郎(きいちろう)さんを中心に、建築金物のほか門扉、ベランダ、ガレージなどのエクステリアにも力を入れる。


20〜25 頁
■郷土史発掘
棲み家としての町へ
藤原恵洋

−この町、谷中・根津・千駄木の生活環境はどのようにして形づくられてきたのか? 今、谷中に住む都市研究者が、丸一年を費やした調査研究ノートをふりかえる。愛着を抱いた町は、第二の故郷となったー

 序 漂泊者のひとりとして

 多くの都市構成員がそうであるように、私も流れつくままこの地に辿り着いた。しかし、かつて住んでいた中央線沿線からこの地への移住は、私に とって珍しく住生活への愛着を生み落とすことになった。因習を旨とする故郷熊本の「家」社会から離れ漂泊を始めて以来、初めて味わう土地への愛着である。
 因果はいくらでも考えられよう。とりわけ修士論文でこの地を都市形成史研究という観点から見つめ始めたことが契機となって、住み着くことを目論むに至ったのであり、すでにその時点で漂泊から定住へ向けての気持ちが宿っていたのである。

 1 調査研究の主旨

 ところで都市形成史研究を通して何を探究しようとしていたのか、まず最初にこの点を言挙する必要がある。
 東京を代表とする現代の複雑多岐な都市はいよいよ見えなくなってきた。言い換えれば混淆した都市の様相と大量の情報が町の表層を覆い隠し、自分の掌で触れることのできない疎遠な印象と記憶を残すだけになりつつある。
  しかしこうした現在の生活環境も、もともとその地の地理的背景や自然環境、時代の中の社会的・文化的・経済的条件などに強い影響を受けながら醸成されて きたものである。生活環境としての<場>が形成されてきた道程で、もう一度、現在の問題を把え直す必要を感じたのである。
 都市形成史研究の主眼は、この具体的な生活環境の形成過程を歴史的に理解することにある。ひるがえって生活環境としての<場>がもつ地域特性 を歴史的に知ることでもあろう。以上の視点から実際の調査対象地区として日本を代表する都市である東京を選び、さらにこの地域をケース・スタディとして選 択した。

 2 旧藍染川下流域とは?

 根津・谷中・池之端・千駄木などからなるこの一帯が、東京の中でもすぐれた歴史性を持つ地域であることは言うまでもない。が、それゆえに諸々の 観光地に見られる虚構的な性格に支配さてはいず、日常的な生活の<場>として把えることができる。またこの一帯は、本郷台地と上野台地、さらにこれらの台 地に挟まれた谷間部からなる独特な地勢をもつ。この地勢の特徴に基づき、一帯を台地部と谷間部の連続した地域ととらえることにした。この地勢こそ旧藍染側 を母なる川として育まれたものであり、この要因を抜きにしては形成過程や地域特性を知ることは
できない。そのためここでは調査研究の対象とした地域を旧藍染川下流域と称して、最大限、台東区池之端2・3・4丁目、谷中1・2・3・4・ 5・6・7丁目、上野桜木1・2丁目、文京区根津1・2丁目、弥生1・2丁目から千駄木、本郷地区へ及ぶ地域を駆け巡ることにした。

 3 調査内容

 具体的には次の4項目に代表される調査を昭和五十四年の師走から一年余に渡り施した。
(1)野外調査
 調査対象地域の地勢的特徴や景観構造を把握するために、四季を通して連続した観察を行なう。と同時に調査地域内に現存する建築遺構や景観遺構の所在調査を行なった。
(2)文献史料調査
 郷土史関係書、古地図・切絵図史料、古写真などの探索と、都市史研究関係書による関連事項の抽出を行なった。ここではとりわけ国会図書館、東京都公文書館、都立中央図書館東京室、台東区立三筋図書館郷土資料室がすぐれた史料の宝庫であった。
(3)家屋年齢調査
 調査対象地域の中から谷中・上野桜木・池ノ端の台東区域三地区に限定した上で、市街地を構成する建造物の建設年からの物理的な経過年数を家屋補 充課税台帳記載事項から読み取り、建物に関する歴史的評価を行なった。あいにく文京区域に関して戦災による戦前資料焼失のため調査不能であった。
(4)地籍図調査
 明治期・大正期・昭和初期における土地所有形態の歴史的変遷を各時代の地籍図資料の経年変化から調査した。ただし現存する地籍図は限られており、全域に渡り把握できたわけではない。さらには江戸時代の沽券資料に関しても一部を垣間見たに過ぎない。
 これらの調査にはこの地の多くの方々の御協力があった。とりわけ上三埼南町の故友枝清治さんはじめ古老からの聞き取りでは、その豊富な記憶の蓄 積に驚くばかりであった。例え断片的であろうとも現在こそ語部(かたりべ)として私たちに伝えていただかなければならないことは多いはずである。これこそ がもっとも貴 重な調査であったかもしれない。

 4 生活環境の形成過程に関する史的考察

 さて以上の調査成果をもとに、旧藍染川下流域における生活環境の歴史的形成過程を考察した。ここでは次の五期に形成過程を分節し、各々の展開を見ていきたい。

第一期 自然発生及び自然形成期
 古代から徳川家康が江戸の地に入封されるまでとする。現在にいたる地形や地勢的特徴のほとんどがこの時代に準備されている。藍染川が脈々と流 れ、不忍池の河口は湿地帯が広がっていた。その中には部分的に田圃があり土着の農民により農業が営まれていたと考えられる。一方、本郷台地の湯島天神、上 野台地の感応寺(現在の天王寺)など少数の寺社が鎌倉着以降に成立したと伝えられる。

第二期 江戸時代前期における市街地形成過程(一五九〇年−一六五七年)
 徳川幕府による江戸の町づくりが始まり、中仙道と奥州裏街道にはさまれた地域として台地上に大名屋敷・武家屋敷が配置された。本郷台地には加賀 藩前田家の上屋敷が広大な敷地整備を伴って構築され、明治期に始まる東京大学の校地として受け継がれていく。一方、上野台地には既存の屋敷地に替わり、江 戸城裏鬼門鎮護の役割を与えられた寛永寺が配置された。一六二二(元和八)年から一六三九(寛永十六)年にかけて境内整備が行われており、周辺の西斜面か ら不忍池北岸にかけて三浦正次・松平信綱等の屋敷地も同じ頃整備された。
 また谷中地区には最初期の寺院群と門前町が形成されていく。感応寺(現在の天王寺)古門前町、惣持院門前町、観音寺門前町、玉林寺門前町の 四ヶ所に代表されよう。しかし、この時代の門前町は切絵図中の規模から見ると寺院に隷属している様子が強く、市街地としての賑わいや充実には欠けていたと 考えられる。しかし台地と低地が織りなす景観の妙味が卓抜した地としての名声は徐々に広がり、谷中から日暮しにかけては江戸の名所として数えられるように なる。

第三期 江戸時代後期における市街地形過程(一六五七年−一八六八年)
 一六五七(明暦三)年の明暦の大火が契機となり、江戸市中は町づくりの再編成を受ける。この江戸復興計画により多数の寺院が神田から谷中に移転 する。さらに一七〇六(宝永三)年には根津権現が健立され、寺社の影響を色濃く受けながら谷中・根津は門前町としての市街地形成が進んだ。
 さらに江戸後期になると感応寺の富くじ興業、団子坂の菊見花人形、諏方神社の雪見といった季節を通して多くの人々を集める非日常的な行楽地としての性格を強め、根津権現周囲の岡場所と合わせ、往来の激しい道路を骨格とした宿場町発生的な市街化への展開を見せた。
 一七四五(延享二)年、門前町の支配が寺社奉行から町奉行へと移管されたため、一帯の門前町は急速に町場化を進めることになる。低地部の門前町 には町家、長屋も発生していった。おおむね、道路割や土地所有形態の基本的なパターンはこの時期に整備され、現代にいたるまでその大半が連綿と受け継がれ ている。

第四期 近代前期における都市形成過程(一八六八年−一九二三年)
 上野彰義隊による一八六八(明治元)年の戊辰戦争は、この一帯にも流血の惨事であった。維新後、寺院は廃仏毀釈の波を受け、旧大名屋敷の没収、 桑畑化などの紆余曲折を経て、根津遊廓の公許を契機に町は繁栄を取り戻す。しかし、東京大学の本郷移転に伴い根津遊郭は風紀上の理由で洲崎ヘ移設。根津門 前地域はこれより先、市街地形成の核を変更せざるをえなくなる。
 町奉行支配が廃止されたため、一般住民の市街地は制約を免れ膨張していった。低地部から斜面地へも町屋が拡張すると同時に、空隙を埋めるよう に北側の雑木林であった千駄木方面へ進んでいく。これまでもっぱら公共施設の敷地として再利用された大名の屋敷跡地も侵蝕され、桜木町、千駄木町、林町、 弥生町など明治期から大正期への新興住宅地として開発された地区も少なくない。
 明治後半になるとすでに都市スプロール化(都市郊外に宅地が不規則に広がってゆく)現象により、都心部への近郊通勤圏としての性格をもつようになる。鷗外、漱石をはじめ多くの文化人たちが住み着いたり、荷風を筆頭に散策の地として愛好されるようになるのである。

第五期 近代後期における都市形成過程(一九二三−現在)
 一九二三(大正一二)年の関東大震災による直接の影響は低地部に著しかったものの、台地部では家屋倒壊の例がわずかに見られた程度に過ぎなかっ た。しかし、復興計画は台地部にも影響し、一帯の市街地の様相に新しい変化を与えた。このため、近代前期までに成立した有機的な生活環境が地域の歴史的な 形成とは無縁に近い都市計画道路の敷説や区画整理事業による再編成を受けた。つまり不忍通り・言問通りが新しく作られ、十字形都市軸が成立して、一部の町 割りに整合性が導入された。三崎坂上の改正道路もこの時期にできたものである。さらに藍染川が重なる氾濫を理由に暗渠化され、上蓋を公道及びよみせ通り商 店街として利用されることになった。
 ゆるやかな市街化を経て、第二次大戦による被害も少なく、戦前までの生活環境を良く残したまま戦後の変化を待つことになる。
 ことに高度成長期以降の急激な都市化現象の中にあっても、独特な地勢に囲まれていたため、様々な開発行為から取り残された。むしろ開発は昭和四 十年代の地下鉄千代田線開通と強く関わっている。都心部への交通至便地として単身者の移住が増加したため、生活環境との関連の希薄化や地域コミュニティと の疎遠化などが地域問題として顕在化しつつある。また、これまで高低差があるため開発の対象から除外されていた斜面地へのマンション建設や、このところの 大手資本による不忍通り沿いのマンションラッシュが重なり、歴史的な景観にも大幅な変化が訪れ ようとしている。


 5 <場>のもつ地域特性に関する史的考察

 江戸期後半になり門前町としての市街化形成を行なって以来、基本的な都市のストラクチュアは現代まで受け継がれている。さらに、台地部と低地部との織り なす独特な地勢的条件により近代都市計画の対象から免れてきたこと、関東大震災や第二次大戦による被災から免れたことが重なり、いままで急激な生活 環境の変容をみることが少なかった。したがって、土地所有形態の変遷や家屋の貸借関係にも極端な変化はみられず、地付の何代もつづく家も多い。都心部にお いて江戸時代以来の生活環境としての<場>を受け継いだ貴重な地域であると言えよう。

 6 棲み家としての町へ

 ここでは、こういった性格を歴史的アイデンティティと称することも可能である。おそらく旧藍染川下流域における生活環境を新たな時代の中で見つ めなおすためのもっとも重要なパラダイムのひとつとして挙げられよう。むろん、将来へ向けての開発行為を行なう場合、こうした歴史性を背景にした地域特性 を考慮する必要がある。そうでない限り、かつての自然系や水系と同様、歴史的アイデンティティにより醸成された生活環境としての<場>を再び生産すること など決してできはしない。
 今、必要なのは、この地に住む私たちが、日々の生活の中で環境に依存している事実を改めて認識することであろう。人が町をつくると同時に、町も人をつくってしまうのである。私たちが根を生やす棲み家としての町へ、今こそ小さな力を注ぎあう必要がある。

(ふじわら・けいよう 東京大学生産技術研究所第5部藤森研究室)

26頁
谷根千味のグランプリ 本当においしい店
動坂ストアー桐生屋
ギョーザやシューマイってなぜか時々食べたくなるけど、乳幼児を抱える身にはちと自前で作るのがつらい。だがスーパー、生協、小売店、どこのもイマイチ味がきまらない。
 その点、動坂ストア内の桐生屋さんのは、どれも安い上に真心がこもって丁寧に作ってある。餃子の皮も薄くて味に嫌味がなく、冷めてもおいしい。こういう餃子は近頃なかなかない。
 ご主人の桐生正義さん(大正15生)は藤原秀郷の末裔桐生氏の出。反骨の新聞人桐生悠々(岩波新書に評伝あり)などと同じ家系だ。父親が昭和初めに上 京、 今の本駒込富士ビルあたりでカフェ「サロンX(エクス)」を経営、その後昭和十一年、中華料理の珍々亭を開店。陳さんというコックが二人いたための名とい うが、これが全国の珍々亭の元祖という。桐生屋の餃子、焼売はここのコックさんに正義さんの奥さん美佐子さんが見よう見まね教わったもの。
 美佐子さん(昭和3生)は動坂の茶舗内田園が生家。当時は田端の切通しの道はなく、動坂下から今の京屋やビューティサロン静へ斜めに入る道がメイン ストリート。ここにあった内田園(当時英吉園)には芥川夫人文さん、小杉未醒(画家)も来店。「芥川さんは思い出しても色の白いきれいな方で、いつも黒い 着物を着てらした。息子(比呂志)さんが卒業論文を出してから戦地へ行きました、とほっとしてらした。一杯飲んできた男性が『生涯腹立て申さず 一雄』と いう色紙を書いていきましたが、今思うとあれは尾崎一雄さんなんですよね」
  焼売と肉団子が1つ25円、餃子は惜しくも原料高で最近値上げをして30円。我が家では20個買ってきて、あっという間に平らげてまた買い足しにいく。取材した日もお盆休み前で、百個単位で冷凍のを買っていく人がいる。
「冷凍っていっても何日も置いてません。この店を始めたとき、変な混ぜ物はせず、材料は家庭で作るのと同じように選んで同じように作って、ほんの 少し利益を頂く、そうすれば主婦が忙しいとき手助けになるんじゃないかと思ったんです。体にいいようにニラ、キャベツ、ニンニクのほか野菜をたっぷり入れ て、どうしたらビタミン類を破壊しないでできるかなといつも考えるんですよ」という。
 家庭でのおいしい焼き方は、厚手の鍋をよく熱し、油を入れ、餃子を並べ、ここで水を入れる。フタをして焼き、湯気が出なくなったら、少し火を弱めて焦げ目をつける。そうか私は逆やってたんだ。
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●銭湯特集補遺
太郎湯(田端)

自分のためには
汗を流し
人の為には
涙を流せ
皆さんの汗は
太郎湯で流す

 谷根千二号で取材した銭湯。田端一丁目でもう一軒発見。松竹梅に鶴亀という名が多い中で太郎湯とはちょっと変った名だ。
「戦後、銭湯が少なかった昭和二十三年、母塚本郁子が、人の為になる商売はないかと思いついて始めました。そして戦死した兄太郎の名をとってつけたのです」
とご主人の塚本悠策さん。兄の塚本太郎大尉は慶応の一年生のとき志願して学徒出陣。昭和二十年元旦、「はからずも二十三歳の春を迎え元気いっぱいです」の年賀状を留守宅に送った八日後、人間魚雷回天搭乗員としてラバウル北方ウルレー環礁内で戦死した。
「死んじゃうなんて……お兄ちゃん、バカだよ」と泣いた当時小学二年生の悠策さんも、「兄は本当に人間的に強い人だった」と語る。番台の上には太郎さんの 口ぐせであった「自分のためには汗を流せ、人の為には涙を流せ」のあとに「皆さんの汗は太郎湯で流す」と加えた額が掲げられている。
「開業当時は水が見えないくらい混んでいて盗難もしょっちゅう、子供のシャツが盗られると母は私のシャツなんかあげてました。銭湯は時間に制限 がないからゆっくりしていってもらいたい。風呂屋はご近所だけでなく、親子のコミュニケーションにも役立つんですよ。最近は設備がいいから、しまい湯でも 内風呂よりきれいですよ」
 さて、創業者の郁子さんはもう亡いが、その姉の塚本文子さんは、ついこの間まで番台に坐っていた。明治二十八年生まれの九十歳。「私は妹のお手伝い をしただけ。以前に甥が『田端文士村』を読んで、おばさんおかしいネ、芥川龍之介、塚本文子と結婚す、て書いてあるよ、というんで、おかしくなんかない よ、私は結婚して塚本文子になったんだからって笑ったの」近くに住んでいた芥川夫人文子さんとは、国防婦人会でいっしょに白いたすきをかけ、出征兵士を見 送ったという。 「甥の太郎が最後に会いにきた時、白いさざんかが満開だった。それが忘れられなくてまた植えたんですよ」それ以上、聞けなくなった。いまは一番下の妹さん や悠策夫人が番台を守る。家族がとてもいたわりあって生きているのを感じた。この日の風呂の一番乗りは外人女性だった。

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おたより

 私は昭和29年の生まれですが、なぜか40代以上の人と話があう、というクラシック(?)志向のせいか、最近の「若者が集まらないものは面白くない」「若者のエネルギーが町を活性化する」という考え方、風潮に抵抗を感じます。
新しいから面白く、古いから魅力がないのではなく、人をくつろがせ、人を動かす力のあるもの、「本物」なら、いつの時代にも通用するのではないか。人を大切にする「本物」を見きわめる価値観をもちたい、自分自身「本物」をめざしたいと思います。 (川崎市 山本紀子様)

 毎日新聞朝刊“風のうた”で拝読、10年前の若かった時代を思い出しました。当時、千駄木の富士銀行近くに住んでおりました。向いのお風呂屋さん、たば こ や、焼肉や、歯医者、そばやさん、こうしてペンを執り乍ら、主人と結婚する前、2人で歩いた懐かしい下町を思い出しています。           (い わき市 小塩綾子様)

 待望の本、届きました。有難うございました。さっそくイスラエルの友達に送って喜ばすつもりです。「ノスタルジィ」だけでなく、ワクワク読みました。ありがとう。
            (鹿児島市 小田原睦子様)

 近頃年を老ったせいか、生まれ故郷谷中の町並み、旧友のこと、安八百屋通りでの売り出し日のあちこちでやるチンドン屋の賑やかであったこと等思い出 し、ことの外懐かしくなりましたが、生存中はなかなか谷中には戻り住むことはかないませんので、せめて墓所だけでもと思い、都営谷中霊園に建てました。墓 参の都度、谷中に寄り散策ができ、生まれ故郷を偲べると思います。 (新宿区 谷川三郎様)

 父は今の東日暮里という所に戦争まで居りましたが、母が亡くなり、一人子の私が嫁に出て、父は一人暮らしですので、この本は退職後の彼を慰めてくれると思います。
 私も含めて東京の下町で育った者がそこに寄せる思いは、切ないもので、父もしきりに恋しがっています。それは単に懐かしさだけではなく、日に失われ消え ていく自分の子供の頃に対する哀しさが入り混ざって、地方の人の故郷に対する思いとは別物のような気がします。 (松戸市 林ひとみ様)

 特集の和菓子屋さん、今では何処でも似たようなお菓子しか食べられませんので興味深く拝見。 「きき菓子会」のリポート、本当においしそう。お菓子の種類が豊富というのは、その地の文化度が高いということに通じると思うのですが。(山形県 八鍬富子様) 
▼四葉のクローバー、包紐で作った栞が同封されていました。温かいお心遣いありがとうございました。

 小さい頃、父の親戚への土産はいつもいろはせんべいと中野屋の佃煮で、おじさん達はとても好きでした。菊の湯のそばのいろはせんべいなんです。おじいさ んとおばあさんがとっても仲よくニコニコしてとてもやさしそうでした。 あのおじいさん、おばあさん達者だといいんですが……。
小さい私と姉に1枚ずつおせんべを持たせてくれました。それをポリポリ食べながら日暮里の駅まで行ったのを覚えています。 これからは娘といっしょに谷中のあっちこっちと散歩にに行こうと思います。 (江戸川区 三橋京子様)  

 私は昔、谷中真島町から根津宮永町というところに小学5年までおりました。谷中小学校に通い根津権現の境内や団子坂の菊人形、池之端から上野公園 はもとより、谷中の墓地まで遊び場で、今になってもう行けないと思ふと一層懐かしく、1日何もせず、テレビも忘れて夜おそくまで読んでしまいました。その 四にある「大正荷馬車のころ」の岸むめ様のお話は感銘しました。96歳でお幸せな方ですね。 藍染川が氾濫して近くの金魚屋の大きな池から金魚があふれ出したり夢をついこの間までみました。 (千葉県君津郡 斎藤敏子様)

 都市本来のアイデンティテー(古い良い精神的存在意義)を持つにはどうすれば良いか。フランスのパリ、オーストリアのウィーンなどでは、古いよい ものは近代化のなかに残し位置づけてあります。子孫に何をどう伝えるかが大切だと思います。明治の欧風主義のせっかちの輸入の為、どんどん惜しいものを改 装し、木に竹をついだのが東京です。 (北区 中村芳三様)

 子供の頃に京橋で育ち、やはり下町が懐かしくて、その土地に住んだ者しかわからないよいところがいっぱいです。女学校時代、美人の先生が根津八重垣町にいらっしゃいました。みんな熱をあげて近所まで出かけたものでした。 (千葉県館山市 長島巳依様)

 美しい若草色の「谷根千」四号を拝受しました。今回の号も誠に奥ゆかしくて綺麗な表紙なので、感心しております。 さて32ページの編集後記にお記しの“マイタウン構想”とかいう変な横文字は。全くピンと来ない文句で、私もでえっきれえな言葉であります。(豊島区 大 場文雄様)

 どれを見てもあふれ出るような懐かしさで一気に目を通し細かくはあとでゆっくりと息子に見せましたら「貸して」と会社へ持って行ってしまい、その 後の私はぼんやりとしてひとり昔のことを思い出しておりました。日本橋で生まれた私は女学校2年生の時、姉が弱かったので上野の先なら空気がよいからとい うので千駄木町に引越してきました(昭和10年)が翌年藍染町22にうつり40年まで居りました。
 根津神社の祭礼、夜店、谷中の商店街、美校のさくら並木、動物園への近道など、その他あれもこれも頭の中でグルグルまわっていました。涙も流れました。
 御主人様、お子様を大切に頑張って下さいませ。(埼玉県比企郡 松本さだ子様)

 私も去る関東大震災後、大正13年頃より上野桜木町の住人となり約5年間居りました。殊に間近の池の端仲町(現在上野2丁目)に祖先以来私で五代 目、私の出生が明治35年で、故郷意識は充分消滅しません。惜しくも昭和39年現在の小日向へ引移りましたが、 上野を去る時、仲町町会の副会長をして居たので、有志の方に送別会を催して頂き、その時友人から送られた川柳は本当に私の心境を唄ってくれました。茗荷谷 から上野の鐘を懐かしみ 
 (文京区小日向 星野平次郎様) 

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情報トピックス

6・5 NHKおはようジャーナルどんどんズームイン谷中放映。
7・6 「上野、浅草、隅田川」(12チャンネル)で、谷根千の活動が紹介される。
7・9〜10 浅草ほおづき市。子供に浴衣を着せて行く。「ほら、ちっちゃいのが通るよォ」浅草の人々はとても親切だ。
7・17 不忍池の精霊流し。20日から納涼大会。池畔で「男はつらいよ」の撮影あり。樋口可南子と平田満の恋のシーン、スタート。
7・22 根津郷土史研究会。元気になられた小瀬会長を囲み、根津遊郭の話など。
7・27 銀座ソニービル角で、奏樂堂パイプオルガンを鳴らすためのキャンペーン。谷根千製作のパンフも売った。内山区長のアピール、菅原やすのり氏の歌など。
8・4 藍染大通り(根津)で町会青年部主催の子供お楽しみ会。すいかわりや金魚すくいが楽しい。
8・9 谷中全生庵で第1回円朝まつり。円朝寄席の券は早々に売り切れ200人以上の大盛況。平井玄恭住職のお話のあと町のはなし家、古今亭朝次、三遊亭好楽、桂円枝師匠らによる落語。柳通り、三崎坂、上三崎などの住民が大奮闘!
8・10 谷根千の生活を記録する会。5号の特集に向けて、鷗外の「青年」を歩く。
8・17 根津寄席。第一信用金庫で。あいかわらずの熱気。根津の人々の活気には脱帽です。
8・17〜19 千駄木小において子供盆踊り大会。人出は多いけれどウレタンマットの校庭を気にしてか、下駄はだめ、お菓子もなし、氷もなしではつまらない。
8・18〜19 田端八幡神社祭礼。文冶5年創建で今年は八百年祭。百貫みこしと言われる宮みこしも10年ぶりに繰り出した。田端駅を中心に広がる氏子町会をまわること10時間。110人余のお稚児さんの出迎えがカワイイ!!
 この頃各町会で盆踊り大会。谷中銀座では変形ひも状盆踊り。真島町ではのど自慢大会も、三崎町会など一律50円で楽しめるわたあめや金魚すくいに子供は大喜び。ぜひ須藤公園の盆踊りも復活して。
8・25~27 諏訪神社祭礼。通りいっぱいのお縁日。今年は裏のお祭りだけどすごい人出。谷根千スタッフの子供ひとりが迷子に・…「親が悪い」のお叱りごもっとも。
8・27〜9・1 田端文化座で宮澤賢治の作品より「イーハトーブの芝居小屋」親子で楽しめる舞台です。
◆建築史を勉強しているサンドさんは古い家を改造中。朝起きると家の前に家具やらクーラーやら木材やらが、そっと置いてあるので「谷中には妖精が住んでいるのでは」と不思議がっています。
◆7月19日午後、上野松坂屋前行きのバスの中。「千円札のくずれるお客さまいましたら…」ドライバーの声。料金箱の前には頭をかく青年。なめらかな発進、静かなブレーキ。運転手の遠藤亨さん。あなたのやさしさ忘れません。
◆このところ谷根千周辺では第3次ベビーブーム。お料理の先生古川恭子さんに6月5日待望の女の子一菜(かずな)ちゃん。世紀末を一汁一菜でサバ イバルしてほしい。地図製作の柳則子さんもめでたく7月20日佐江子ちゃん誕生。そしてついに発行人山崎範子に8月15日今が食べどきの旬くん生まれる。
 新しいいのちを大切に育む街の責任を感じます。
◆10月15・16の大円寺菊まつり、昨年を上回る規模で只今準備中。皆様、お誘い合わせてご来場を!!

●谷根千秋の催し物ガイド
9・20〜22 根津権現秋の大祭
10・5〜6 下谷、竜泉の菊まつり(飛不動)/本駒込、勤労会館フェスティバル
10・15〜16 谷中菊まつり(大円寺)
10月中旬 浅草まつり、ダウンタウンカーニバル、菊花展など
11・1〜30 湯島天神菊花展
11・23 一葉忌(本郷法真寺)
鷗外記念図書館講演会 6時〜7時半
11月下旬 島田雅彦 /12・8 畠山博 /12・12 童門冬二
10月・11月第3月曜2回連続 「鷗外歴史小説の世界」有光隆司
本駒込図書館映画会 土曜2時
11・19「ルードヴィヒ」
12・14「戦艦ポチョムキン」「ストライキ」


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よみがえれ! パイプオルガン

 奏楽堂をご存じですか。谷根千からほど近い上野の杜の東京芸大にあったものです。
 これは明治二十三年に建てられた、日本最古の 木造コンサートホールで、大正四年日比谷音楽堂ができるまでは、文字通り洋楽のメッカでした。ベートーヴェンの 運命や第九、シューベルトの未完成、チャイコフスキーの悲愴・・名曲のほとんどはここで初演された由緒あるホールです。東京樂堂、忍岡樂堂として地域住民 にも親しまれ、誰でも自由に入れるホールでした。
 このホールが老朽化のため壊される、というので、これを惜しむ芥川也寸志、黛敏郎氏ら音楽家や建築家が奏樂堂保存のために立ち上がり、ついに台東 区内山栄一区長らの努力が実って、奏樂堂は芸大からすぐの上野公園の都美術館跡地に、台東区の音楽ホールとして再建されることが決まりました。昭和六十二 年 三月の完成を目指し、いま工事が本格化しています。
 さてパイプオルガンです。旧奏樂堂にはホール正面に大きなパイプオルガンがあり、台東区では、当初、壁面の飾りとして残すだけの予定でした。しか しこのパイプオルガンは、美しい音色のロマンティックオルガンの名器であり、「オルガンも奏楽堂の一部だから、ぜひ音を復活させよう」という運動がいま起 きています。
 またこのオルガンは、調べているうちに、一八五一年のロンドン博覧会に出品された名工シュルツェの作になる、国宝級のオルガンだということもわかりました。
 いま音楽家や建築家を中心に、「奏樂堂のパイプオルガンをよみがえらせる会」が結成され、一口二五〇〇円の募金も募っています。私たち谷根千の三人も、会の発起人となって力を合わせています。文化財保護のため、ぜひとも募金をお願いします。
 一方、谷根千工房では、二五〇〇円は痛いが少額でも寄付したいという町の方々に、二五〇円の募金付パンフレット「よみがえれ! パイプオルガン」 (B5判24ページ頒価五〇〇円)を作りました。パンフレットは作った本人がいうのものも何ですが、専門家も驚く出来ばえです。奏楽堂及びパイプオルガン について、これほど詳しい印刷物は他にはありません。
執筆者、デザイナー、地図製作者もみんなボランティア、もちろん谷根千スタッフもボランティアで、製作原価以外はすべて募金にまわします。どこ ろか、郵便料金や交通費、活動費などを原価に見込まなかったため、いまのままでは、かなりの赤字になってしまいます。勝手なお願いですが、趣旨をご理解い ただいて、マージンなし、あるいは、1割(五〇円)でこのパンフレットの普及に協力してくださる方、商店、団体を探しています。また個人で購入ご希望の方 は近くの谷根千の置いてある店にご予約下さい。
 文化財は市民の手に担われて初めて生きます。みんなで身銭を切って文化財を支えましょう。

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編集後記
◆お諏方様の祭りがすむとめっきり秋の風。いよいよ根津神社大祭、谷中菊まつりと当分子供たちはワクワクの季節です。皆様、お元気にお暮らしのことと思います。
◆この間を振り返ると、四号で載せたローソク工場跡地ではひとしきりカエルの合唱、そのあと蝉。そして工事が始まると生物は消え、毎日ビル建設の工事音で 暑さはいや増した夏でした。谷中の金子雅彦さんより、編集部へ、「谷根千は地域再開発、ビル化をどう考えるのか」というお便りを頂戴しました。いつも考え ていることながら、明確な結論は出ていませんが、「街の運命は行政や企業が決めるのではなく、街の住民が決める」ものだと思います。次の号からは再開発に ついて討論したいと思います。
◆八月九日の圓朝寄席は大成功。蝉の声を聞きながらの寄席もよかったし、お化けの絵にはゾ−ッ。しばし夏の清涼を味わいました。来てくださった方、ありがとう。
◆「谷根千て有閑マダムが作っているんじゃない?」という嬉しい誤解がございますが、私たち平均二十九歳、○ビの乳幼児持ち。全員借家住まい。好 きが高じてやっておりますが、経費節減のためテープもくり返し使い、写真を撮るのも一件一〜二枚だけ。マスコミの取材を受けるとバシャバシャ写真を撮って 下さるので、ワァ勿体ない、と叫んでしまいます。
◆藍染川下流地域に関する研究を寄せられた藤原恵洋氏は谷中某寺の奥に間借しています。奥さんのかおりさんが旅人(たびひと)君(一歳)を連れて、いつもわが編集部の強力助っ人です。
◆毎日新聞くりくり記者松沼聡君(高二)に感激。高校生の松沼君は、谷中墓地辺の記事を書き、身銭を切って二冊谷根千を買って読者にプレゼントな さったのです。普通なら「PRしてあげるからプレゼント用に十冊送れ」というところ、二冊というのが誠に良い。しかもその後、松沼君の依頼で谷根千を送っ たら、折り返し、郵送料込みの誌代とお礼の手紙まで下さったのです。以来、私共は「近ごろの高校生」に対する認識を大いに改め、彼を密かに「名誉編集部 員」と呼んでいます 。
◆鷗外特集は七転八倒。消化しきれぬ部分は次回まわし。頁が伸びて「谷中墓地と自由民権」「一日入門」は休載。圓朝特集は来年夏号になります。次号は十二月十五日頃。酒屋さん特集と谷中五重塔のことなど、張り切ってみます。

お知らせ
●地域雑誌「谷中・根津・千駄木」は、地図上(p16)の「谷根千」のある店でお求めください。バックナンバーは主に地域内の書店、また郵送もいたします。一冊420円(送料170円含)、定期購読は五冊分で二千円(送料含)と百円お得です。
●奏楽堂パンフレットの売れ行きは今一つです。このままでは赤字必死。私たち三人ではこの運動を成功させるのは無理です。クラシックファンの方をはじめ、五部、十部と広げて下さる助っ人求む。オルガンを保存するチャンスは今しかありません(p31の記事参照)。
●石田良介さんの切り絵による「谷中・根津道中案内図」は好評売切れでご迷惑をかけましたが近々贈刷出来ます。棚谷勲さんの坂の銅版画も好評、額装して八千円(送料込)でお頒けしています。
●次はお願いですが、部数も委託点数も増え、すでにメンバーの自宅を事務所がわりにするのは限界に近づいています。が、残念ながら一等地「谷根 千」地区に事務所を借りる経済的なゆとりがありません。空家空室を安く貸していただければ助かります。お寺の門番小屋でもいいのです。丁寧に使います。
●以上、送金は郵便振替が便利です。連絡欄に必要なものを必ず明記して下さい。お送りするのに二週間くらいかかります。ご了承ください。
郵便振替 東京五ー一六二六三一 《谷根千工房宛》

〈訂正〉四号
P11上段 大正7年生れの熊沢半蔵さん→大正13年生れの熊沢半蔵さん
P14上段 都立葛西高校→都立葛西南高校
P26中段 寛三郎→寛次郎

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の五
一九八五年九月十五日発行
編集人/森まゆみ 発行人/山崎範子 事務局/仰木ひろみ
発行 谷根千工房(やねせんこうぼう)
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