地域雑誌「谷中 根津 千駄木」4号 / 1985年6月15日(土曜日)発行  250円
昔気質の和菓子屋さん
4号 昔気質の和菓子屋さん 地域雑誌 谷中・根津・千駄木 其の四

(表2)

口上

江戸の面影を残す寺町■谷中
かつては遊郭も栄えた職人の町■根津
鴎外、漱石ゆかりの■千駄木山
芸術家の卵を育てた■上野桜木
日の暮れるのも忘れる風雅の里■日暮里
帝大生の青春の町■弥生

私たちの街には東京には珍しい自然―樹々や鳥や風と、戦災・地震に耐えた建築物、史跡、そして形にはならない暮しぶり、手の芸、人情まだたっぷり残っております。
それを調査記録、紹介し、良い環境を大切に次代に手渡すてだてとして、「谷中・根津・千駄木」を発刊いたしました。
懐古趣味ではなく、古き良いものを生かしながら、暮らすのが楽しい、活きのいい町として発展するのに少しでもお役に立てたらと思っています。
まだ若く非力な私たちに街の皆々様のお力をお貸しくださいませ。

1頁
目次 「谷中・根津・千駄木」其の四  1985・夏

●特集●谷根千の甘ーい生活
昔気質の和菓子屋さん−4

●自由民権と谷中墓地2
明六社の知識人たち−2

●ノスタルジック・アルバム
大正荷馬車のころ《岸むめさん》−13

●この街にこんな人
《根津》根津に活気を、上松大雅堂の
上田松男さん−23

●円朝はわれらの同時代人(前編)
鉄舟と円朝−平井玄恭−18
付・円朝グラフィティ−18

●郷土史発掘
藍染川補遺−中澤伸弘+関根益次郎−14

●ご近所調査報告
さよなら水晶ローソク−26

●エッセイーゆっくり、おっとり谷中の町−上口等−22
●ひろみの一日入門− 今日はいい汗かきました−24
●谷根千味のグランプリ−「天米」−28

谷根千マップ−16  情報トピックス−29  お便り−27
編集後記−32 お知らせ−32 文化ガイド−33

題字/本郷松しん タイトル文字/岡本明子・草野権和
イラスト/つるみよしこ 地図制作/柳則子 編集協力/藤原かおり
写植/今野早苗 印刷・製本/(株)・三盛社


2ー3頁

自由民権と谷中墓地2
明六社の知識人たち

 前号の続き。
 大正三年、川上音二郎の碑の除幕式を当時小学生だった益田武三さんは三崎坂を駆け上って見に行きました。式は終わったあとで、像は「シルクハットに燕尾服の洋装だった」そうです。
 さて、今回は時を遡って、日本には歴史のなかった「自由」や「民権」の旗幟を輸入し、民権論争に加わった啓蒙家のお墓をご案内。
 たとえば明治十五年に福島事件を起こした河野広中は、馬上でミルの『自由之理』を読んで自由と権利を知り、思想上の革命を起こした。この「On Liberty」を訳したのが敬宇先生こと中村正直。
 リバティやフリーダム、それまでは「自主」「自在」「不覇」「寛弘」などとも訳されていたが、この本で「自由」の訳語が定着したといえます。
「問フ然ラバ人民自主(インデビジュアル・インディペンデント)の権と、政府管轄(ソシアルコントロール)の権と、コノ二者ノ間ニ如何なる処置ヲシテ、和調適当ナルヲ得ベキヤ」
 と書中にありますが、つくづく翻訳の困難が思われます。「権力」「権化」といった力を示す権は理解できても、自然法的な「本来人間のみに備わった侵すことのできない権利」は、当時の日本人にほとんど理解できなかったらしい。
 この中村正直のお墓は了ごん寺墓地の道に面したわかりやすい所。天保三年(1832)生まれ、昌平坂学問所で学び、イギリスに留学。幕臣から明治新政府 に出仕。のち東大教授、貴族院銀。クリスチャンでもあり、天皇に先例を進め、日本ではじめてクリスマス・イブを奪った人。スマイルズの「西国立志篇」も訳 し、青年の血潮を湧きたたせました。
 この中村や福沢諭吉、森有礼らは、明治六年、日本初の学会「明六社」を興して洋学者の交流、討議、講究を企てます。その「明六雑誌」は平均三千五百分位 売れたというから当時のインテリ必読雑誌。当初のメンバーは十人ですが、この錚々たる顔ぶれのうち、津田正道、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)のお墓が谷 中墓地にある。
 津田正道(1829−1903)は岡山津山藩士。江戸で蘭学を学び、幕末に榎本武揚、西周らとオランダはライデン大学で法学を学ぶ。帰国して開成所教授。
 明治になって進歩派の論客として、明六雑誌に二十四の論文を載せた。
「たとえ政府の命といえども無理なことは拒むべきで、力を尽くして人民自由自主の説を主張せよ」と述べ、民選議員推進派で、最初の議会に東京八区から立候補して当選、初代の副議長です。
 箕作秋坪(1825−1886)は明六社の二代目社長。津田と同じ津山藩の出で、大阪の緒方洪庵塾に入門。江戸で蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の箕作 阮甫(げんぽ)の門下となり、見込まれてその二女つねと結婚、箕作姓を名乗った。文久の遣欧使節に医者、通訳として随行。この箕作家は華麗なる学者一族 で、秋坪の息子は奎吾(とうご)、大麓(たいろく)、佳吉(かきち)、元八(げんぱち)、それぞれの分野で名をなした。箕作家の一族と縁戚には、やはり明 六社の社員箕作麟祥、呉秀三、美濃部達吉、鳩山秀夫、末広厳太郎、石川千代松、長岡半太郎がおります。元八の孫にあたる女性史家井手文子氏解説による『箕 作元八滞欧箙梅日記』(東大出版会刊)は初期の留学生の生活と気持ちがわかって断然おもしろい。
 この中で菊池大麓(1855-1917)は秋坪の実子ですが、父の生家菊池家を継いだ。この人は十一歳でイギリス留学、ケンブリッジ大を一番で卒業した 数学者。民権期には共存同衆などの結社で演説会活動にたずさわり、のち東大総長、文部大臣を歴任。菊池(=箕作)家のお墓は静かな木立の中です。
 また明六社に後から加わった朗廬(ろうろ)阪谷素(さかたにしらき)(1822−1881)の墓は天王寺公園の向かいにあります。
 さて明六社設立と同年、前参議板垣退助らは愛国公党を結成、「民選議院設立の建白」を左院に提出。当時の政府は有司専制、すなわち薩長の独裁で、一日も 早く民選議院を作るしか国を救う道はない、というのです。七人の建白者の一人で、これを起草したといわれる小室信夫(1839−1898)。尊攘の志士 で、新政府発足後、イギリス視察。のち土佐の立志社に呼応して徳山で自助社を起こします。のち財界で活躍。谷中墓地はいちょう横丁に面した大きな墓。
 この建白を受けて、国会の開設の是非、時期について新聞雑誌で論争。また演説会や結社、学習サークルが各地で組織されて行くことになります。
「よしや南海苦熱の地でも、粋な自由の風が吹く」――ファッションにすらなり得ていない運動はダメだ、とは最近のあるジャーナリストの弁ですが、まさに自由民権運動は、民衆に流行します。
 来号では、政治結社=演説家のお墓をご紹介。乞ご期待。



4ー12頁
谷根千の甘ーい生活
昔気質の和菓子屋さん

私たちの育ったのは高度成長期、舶来礼賛の時代でした。
ポパイに鉄腕アトム、マーブルチョコレート、東京オリンピック、
フリルのドレスでピアノのおさらい会、コーラにケーキ・・・・
アンコものなんて、てんで食べなかった。
ところが、子供を産んで三日目、
お乳が出るヨというので柏餅。悲しくなるほどおいしかった。
これがコペルニクス的転換の始まりで、
いまや子供が寝静まると、
戸棚の奥に最中やまんじゅうを探す私です。
幸か不幸かこの街、
やたらおいしい和菓子屋さんが目について・・・・。

二軒のひぐらし

日暮 
日暮里駅坂上通り 電話821−5611 第1、3月曜休
「信州でわさびの仲介をしていた父親が東京に出てきた。私は根津の藍染の生まれなんだが、低地で水がしょっちゅうでるんで日暮里の山に引越してきた」と語 る二代目、島田蔦雄さんは明治四十五年生まれ。初代蔦次郎さんが大正四年に店を始めた時はお汁粉屋。「最初は仕入れ菓子だったけど、銚子にいい職人がいる ので探しに行ったが、てんで話にのらない。何度も足を運ぶうちに、熱意に負けたって来てくれた」。当時、大卒の銀行員の初任給が三十円。名人の月給は七十 円だったという。「野口さんといってオヤジの死んだ後始末や、私の嫁さんまで、何から何まで世話になった」
 昔は、パン、牛乳、バラ菓子も売っていた。今は和菓子専門店。お寺や学校もご贔屓だ。田村俊子夫妻が住んでいた隣地を買って十年前にアンデルセンとな る。洋菓子と喫茶の店。「西日暮里駅ができる前は、朝夕、道が黒いように人が通っていたもんだ」。三代目政雄さん考案の“こぼれ梅”をご馳走になる。梅の 甘露煮が丸々一個、作るのが間に合わないほどの売れゆきだ。

谷中ひぐらし
三崎坂谷中小学校前 電話821−5008 休日不定
「今、求肥(ぎゅうひ)の菓子を作っているとこ」と説明してくれるのは二代目の田辺武さん。曲げたはり金で椿の花をかたどるのは初代武雄さん。指 先ひとつで菓子が形をかえる。「求肥はまず白玉をとかして鍋で煮る。それに砂糖を加えて練りあげる。こっちは白あん。『てぼ』という豆を煮てから皮をむ く。それを水にさらしてから砂糖と水あめを入れる。さらしが悪いと色が白く仕上がらない」。話を聞く間にも、抹茶で色づけした薄いようかんが、葉の形に抜 かれ、椿を飾る。
 お次はころ柿。求肥で黒あんを包み、ふるいにかけた桃山の皮をまぶす。二人がかりの仕事だ。
 日暮の島田さんが出した支店を、田辺さんが買いとって、谷中ひぐらしを始めたのは昭和九年。半世紀になる。

谷中から上野桜木へ

●墓地の桜はみごとでした。芸大へ抜ける道は散歩するのに飽きないが、あの車、車、どうにかして。 N・Y

荻堅
谷中三崎坂上 電話822−4605 日曜定休
「うーん、どうして和菓子屋になったのかね。東京にあこがれてたから、ちょうどあった東京の菓子屋に就職したんだ」荻野明さんは昭和十六年福島生まれ。上野の美術館の展覧会審査にはここの和菓子が登場。団子五十円、水ようかん七十円、安くて旨い庶民の店。

谷中岡埜栄泉
谷中少年保護センター前 電話828−5711 休日不定
 明治三十三年創業。谷中で最も古く現在は三代目。この店で珍しいのが生姜入りの菓子、“浮草”と“三日月”。「浮草って菓子は昔からあったけど、 もっと大きかった。それに生姜を入れることを考えた。生姜は昔谷中でとれて、いわば谷中の名物だからね」と話す新島賢吉さんは、今年喜寿を迎えて悠々自 適。昔、上野の山には十四軒の茶店があり、すべてに桜餅を届けていた。大正博覧会の時、なんと、一日三万五千個の桜餅が、一軒の茶店で売れたとか。
「お彼岸やお盆は忙しくて、私もスクーターで運ぶの」といかにも活動的な若奥さんはとっても美人。

桃林堂
上野桜木芸大北側 電話828−9826 月曜定休
 昭和初年に創業の桃林堂は、店の前に佇むだけでしっとりした気分になる。本店は大阪。水ようかんなどの生菓子以外は毎朝急行トラックで運ばれる。「世を あげて、甘くないもの、淡白なものが流行るけどどうかな。たとえば小豆。さらしにさらしたものが上等といわれるが、小豆にあるアクを残して、その中 にある風味を大事にしたい」。材料をいじくらず、その持ち味を生かす。
 河内に陌草園という独自の菜園を持つ。そこで育った野菜たちが菓子になった“五智菓”。蜜で七、八回煮込みグラニュー糖をまぶす。口に入れると、セロリ、ゴボウ、人参……。
個性ある味が大自然を感じさせる。“志そまん”も“水ようかん”も桃林堂の菓子には主張がある。店内では抹茶、冬にはお汁粉も楽しめる。芸大生の作品展示も時々やっていて、さながら由緒あるお屋敷の応接室に通された心地。谷中のうちでも邸町、桜木ならではの店。

根津かいわい

●私が子供の頃根津にあった菓子屋といえば、『好月堂』。前は『喜月堂』といったし、根津の角には『文明軒』、宮永眼科の場所には『三河屋』、ここは大学 芋を創始した店で、大繁盛。夏はアズキのアイスクリームが旨くてね。八重垣食堂前の文具店も昔、ガス燈をつけた餅菓子屋だった。 小瀬健資

藤家
根津一丁目不忍通り 電話821ー6862 無休
「おととしのTVの東芝日曜劇場にうちの“くず桜”が出たんだ」と遠藤正幸さん。三十年に根津へ来るまで福島県庁勤務という脱サラ派。店の自慢はでっかい“最中”。

大黒屋
根津二丁目不忍通り 電話821−8577 休日不定
「関東大震災の時には、ここで店をやっていたのよ」と奥さん。店内を改装したばかりの甘味屋さん。草餅がおいしいと評判、昔からのなじみ客が多い店。

日増や
池の端二丁目 電話821−3221 日曜定休
 餅菓子とラーメンというすごい取り合わせの店。不忍通りを上野方向にズンズン歩くと、ふと足を止める珍しい建物。その昔アサヒグラフにも掲載された名物 建築。元は大島の椿油を精製する油屋だった。白石と黒石の洗い出し。柱、廊下はすべて桧。入口には柱の上に銅(あかがね)が張られていたという。菓子屋の 方は明治二十年代に、今の根津駅(池の端口)横にすし屋として創業。地下鉄開通後現在地へ。今、建物は残念ながら、新建材が張られ、外側にはからし 色のペンキが吹き付けてある。

笹屋
根津交差点赤札堂前 電話821−7338 休日

柳月
根津一丁目不忍通り 電話828−1253 水曜定休

秋田屋
 不忍通り根津駅近く 電話21−9396 火曜定休、甘味
戦前池之端にあった『空也』は銀座へ移った。“空也のもなか”は懐かしい―川上宗雪


一炉庵 向丘日本医大隣 電話823−1365 火曜定休
 一炉庵は明治二十六年創業。元当主池田暉さんが三代目。初代は京都の呉服屋から、のち本郷の老舗藤村で修業して菓子職人となりここに店を持った。
「だからうちの菓子は京都系なんです。例えば六月には“水無月”というわらび粉の水菓子を作りますが、これも京都のもの。平安朝の頃から、六月三十日にな ると、宮中で氷室を開いて氷をいただく「水無月の祓い」という儀式があり、それにちなんだものです。東京ではうちの店が最初ですが、最近あれを四角に切っ て一年中売る店がある。本来、氷をかたどったものですから三角形で、六月のお菓子です」
 夏目漱石がこちらのお菓子を食べ過ぎて胃を悪くしたなんて噂を聞きますが。
「店を開く前、ここは車宿だったそうで、それが『吾輩は猫である』に出てくる例の車宿ではないか、と。漱石さんもお隣ですし、鴎外さんも、よくこの道を通って願行寺にお詣りされたようですから、お二人とも多分、うちのお菓子を召し上がったと思います」
 願行寺には鴎外作品のモデル細木香以の墓がある。きき菓子会では、一炉庵の“みそまんじゅう”が大評判でした。
「あれは初代から続いています。昔の庶民には、お砂糖を使った上生は口に入らなかった。塩あんの菓子を食べていたんです。その郷愁をねらったものでしょう。みそを入れた皮の塩辛さが中のあんの甘さと合うとと評判を聞いています」
 老舗の味を守るのは大変ですね。
「傲慢なようですが、あまり宣伝してお客様がどっと買いに見えても困るんですね。和菓子は洋菓子と違い、素材の吟味から始まり、全部その店の特色が出る。 半製品は使いません。その一段会一段階を手抜きせずに作るということでしょう。だから支店やデパートには出せない。そうするとパートのおばさんが作るよう なことになる」
 昔は黒塗りのお重に上生を並べて千駄木、西片や大和村のお邸を注文取りに回ったものという。季節に合せた菓子は年間百種を越す。

喜久月 上野桜木善光寺坂上 電話821−4192 火曜定休
 谷中善光寺坂上の喜久月は、見過ごすほどのめだたない構えだが、東京の菓子好きなら誰でも知っている老舗。大正六年、今の場所に創業。言問通りの幅がずっと狭かった頃のこと。現在の二代目青山信雄さんは坂町町会長でもある。
「私は大正十一年生れで、十三歳からこの道に入りました。兄弟には歯医者や建築かもいますが、菓子職人だけは大学で手からじゃダメなんです。頭ではなく肌 で覚える人ですからね。十代なら五年で一人前になるところ、二十代なら倍の十年かかってしまう。私たちの世代で、体で覚えた職人もいなくなるでしょうな。
 最初の給料が六十円でした。これはたいしたもので、大学での銀行員の初任給が二十三円でしたからね。腕さえよければ職人は金が取れるってことですよ」
 昔、TBSで放映された木下恵介アワー「明日からの恋」のドラマは青山さんがモデル。頑固オヤジの話である。
 上生菓子には「卯の花」「きみしぐれ」「岩つつじ」「撫子」「小倉山」など爽やかな名前。口に入れるのは勿体ない美しさ。昭和二十九年にご主人が考案した「おを梅」は、みそあんを求肥で包み、菓子通の絶賛する味。

 豊後ぞと実梅は太し菓子ほどに 汀女


羽二重団子 日暮里駅芋坂 電話891−2924 火曜定休
 芋坂の名物羽二重団子の創業は文政二年(1819)。以来、生じょうゆのさっぱりした焼き団子とあんで包んだ二色の団子ひと筋。
「昔は神仏へのお供え、月見、冠婚葬祭、なんでも団子。『東海道中膝栗毛』にも団子を食べてイシイシ(うまい)という件がある。団子は和菓子の原型で庶民の食物。だから寺社の門前の茶屋でも商っていたわけ」と六代目澤野庄五郎さん。
 笠森おせんの手まり唄にも「米の団子か土の団子か」と出てきますね。
「そう。ウチの場合は根岸善性寺、谷中天王寺の中間でやはり参詣路ですね。里芋畑が広がる坂で芋坂。うちの前には音無川。初代が店開きしたときは『藤の木茶屋』といいました」
 参詣の人々は茶屋に立ち寄り団子で一杯。酒のつまみだったのだ。
 歯ぬかりせず羽二重のようになめらか、との評判を呼ぶ。明治期には泉鏡花、正岡子規、田山花袋も来た。漱石は人力で、鴎外は馬で芋坂を下って来たという。
「あ そこに花袋が中気に病む手で書いてくれた『羽二重団子』の額がかけてあるでしょう。もっと遡って、上野の戦争では芋坂側の退路は断ってなかったんで、彰義 隊士がウチにも逃げ込み、刀を置き、野良着に着かえて板橋から奥羽の方へ落ちていった。生き延びた隊士でご一新のあと、うちの常連になったのもいる。」
 その一人が描いた当時の店の風景も額になっている。お忙しいご主人だが歴史を語って留まるところを知らず3時間。団子の話に戻せば、ナゼ平たい形なんですか。
「団子の焼きは弱火でジクジクやる。櫟(くぬぎ)の消し炭を使うのも、固くてゆっくり燃えるから。それで中まで火がよく通るように昔からああいう形なの」
 お店でいただくのが最高。時間がたつと固くなるのは材料が純正だから?
「それがわかるアンタは偉い。朝四時から作り始めて、売切れたら店じまいだ」
 頑固さが本物を残す。もちろん支店はない。


谷中銀座とその周辺

千両最中 谷中銀座商店街 電話828−0823 火曜定休
「開店した頃のこのとオリといったらすごい人ごみ。3時4時なんて身動きできなかった。このところ家内工業の工場がどんどん郊外に移っちゃうから、人がま すます少なくなって寂しいわよ」昭和三十二年創業。“巾着もなか”という菓子が当時1個5円。材料をおとさず利益を薄く、薄利多売がモットー。

懸賞だんご 谷中銀座商店街 電話823−7131 休日不定
 この不思議な屋号はいつも気にかかる。シャッターには「三十本食べたらタダ、百本食べれば一万円進呈」と大書。昭和四十五年に店を始めた。「開店して三 年くらい懸賞付きをしてたかしら。三十本食べる人はたくさんいたけど、百本食べたのは二人。お相撲さんと1十八歳の女の子よ」「へーッ、体格のいい人?」 「ううん、細くてキレイな人」。懸賞付きに誘われて客が増え、てんてこまい。人手不足でやむなくやめた。当時高校生だった町のおじさんたちも、イエ、私た ちだって、月に一度でいいから“甦れ、懸賞だんご”と願っている。
 谷中銀座には少し前まであと二軒の菓子屋があった。一軒は現在パン屋の『マロンドール』。いまだに『梅月』の名で呼ぶ客も多い。昭和二十五年、宮下節子 さんが職人を入れて店を出した。「和菓子ってきれいでしょう。女の仕事だなあって思って、本当にズブのしろうとだった」。女手ひとつで店を始めるのは大変 なこと。読売新聞が取材にきたことがある。今はフランスで修業した息子さんを中心に洋菓子とパンを売る。もう一軒『たつみや』。カメラ店『ボン・フォト』 の場所にあった。店の人も、もうここにはいない。 M・M

むさしや 千三商店街 電話822−1505 水曜定休
「戦後父親が山谷の泪橋あたりで、仕入れた大福を売って歩いたのが始めだった。その前は浅草で床屋をやっていたけど、病気をしたりでダメになっちゃっ て」。実家は根岸の『むさしや』、お父様の弟子だったご主人と結婚して店を出したのが昭和三十八年。季節の生菓子が並ぶ品のよい店だ。柏餅と桜餅はあっさ りしておいしいし、内祝いなどのお赤飯の評判も高い。目立たない場所にあるのに繁盛しているのは、開店当時からのお得意さんが多いから。「長いつき合いだ から話が尽きなくて、ついつい長話する」八重子さんは大学生の子供がいるとは思えない若々しさ。

尾張屋 よみせ通り商店街 電話821−7579 月曜定休
 餅菓子のほかに、店内で甘味や中華そばも食べられる。具がキャベツだけみたいな焼きそばは郷愁の味。ウチの亭主は、ここの切り餅を焼かずに食べる。

花家 日暮里駅坂上通り 電話821−3293 火曜定休、甘味軽食

あづま家 日暮里駅坂上通り 電話821−4946 木曜定休 甘味軽食

団子坂を上って
●団子坂の名は付近に団子屋があったともいうけれど本当は団子のように転がるほどの急な坂・・・が真説?  H・O

鮹松月 千駄木団子坂上 電話821−1959 火曜定休
 本店は浅草、創業が明治の初めという老舗。大正七年生れの熊沢半蔵さんは昭和三十七年にのれん分けして、ここに来た。“鮹もなか、鮹まん、栗もなか、茶 つう、とうまん”と売り物は五種類のみ。味も形も昔どおり。鮹もなかの白えんどうのつぶしあんと、鮹まんの青えんどうのこしあんにはファンが多く、若い男 性も買いにくる。「うちの人は映画を撮る合間に仕事をするのよ」と奥さん。熊沢さんの趣味はアニメ作り。今までに撮った作品は三十数本。毎年6月に行なわ れるアマチュアアニメの映画祭にも出品。今年の作品は『奇術小屋』。店には戦前のカメラ も並ぶ。(谷根千では熊沢さんの作品上映会を計画中)

山びこ 千駄木団子坂上 電話821−2882 第1,2,4木曜休
 濡つばめ、流れざくら、雨あがり・・・名を聞くだに楽しい上生菓子と鴎外に因む鴎外まんじゅうが並ぶ。「ここへ来たのは昭和二十四年。その前は北京で菓 子屋をしてました。戦争中、日本人が三十万人もいたかしら。内地は配給制でも、中国は砂糖も小豆も手に入った。兵隊さんが日本の家族に送るから、いくら 作っても間に合わない。柏の葉は中国になくて、反対に日本から送ってもらいました。軍にも納めていたけど、あれは偉い人が食べるのね」。団子坂の大観音通 りは、今、人出が少ない。観音様のあった頃が嘘のようだ。ビルなどまだない
頃、店先に縁台を出すと、両国の花火が見えたという。

動坂を田端へ向う
おわりや 動坂下本駒込四丁目 電話821−4785 休日不定
 ウインドーに「大福あります」の札。遠くの客から「大福とっといて!」と電話がかかる。評判の高いこの大福、まだあると思って買い物の帰りによると売り 切れてたりして要注意。「作った日に食べないとね。でも次の日に焼き大福にしたら旨いってお客さんもいる」。冬は鯛焼きがベストセラー。(手書き・昔はお 雑煮がおいしかった!)

西東屋 動坂下千駄木四丁目 電話821−2969 日曜定休
 大正初め創業の二代目。「西日暮里駅ができ、都電も消えた。この辺りも寂しくなった」とご主人。動坂の角で世の移り変わりを見て来た。柏餅が自慢。

土佐屋 田端駅動坂方向右入 電話821−4913 休日不定
 田端東覚寺の先にある土佐屋は、ようかん専門の店。秋、さつま芋の収穫が始まると、芋洋館の季節。翌年の四月には水ようかんに衣がえ。大正十二年の創業 からようかん一筋。昔の住民が三十〜四十年ぶりに芋ようかんを買いにくる。奥をのぞくと、旧式の洗濯機にお釜をかぶせたような物体。芋の攪拌機だという。

松仙堂 向丘1丁目バス停前 電話821−1127 水曜定休、和・洋菓子

甲州屋 田端2丁目 電話821−4849 月曜定休 甘味

 20年ほど前、動坂上にあった『地蔵まんじゅう』を覚えてますか? 目赤不動の縁日が賑わった頃のこと。一方坂下には『しまだ』が大繁盛。近所の子供たちはここのパウンドケーキに唾をのんだのです。―多田正明


ザ・リポート「きき菓子の会」
「谷根千の生活を記録する会」は、5月18日汐見会館できき酒ならぬ「きき菓子の会」を開催。出席20名。当日の朝、スタッフ3名が担当の店を自転車で走りまわり、集めましたは13軒50種あまり。
  店の説明や菓子の由来など話しながら、一つをいくつかに切っての賞味。「元の形を見せて」の声に、一つは原形をとどめて皆に回すことにする。きき菓子の対 象となったものは、まんじゅうが多く、日暮のきんかんが丸々一個入ったそばまんじゅうは、質素な名の割りに味に色取りのあるもので、新鮮な感覚をまんじゅ う界に吹き込んだといえる。男性陣に人気のあったのは、桃林堂の五智果。ごぼうやセロリ、人参を蜜で煮て砂糖をまぶしてある。「あ、ホント。人参の味がす る」というこえがあちこちから。一炉庵のみそまんは塩味の皮が庶民的、「おいしい」の声に「どれ、私も」とついつい食べすぎてしまう。喜久月のあを梅じゃ みそあん。食通の人に「やっぱりこれが一番」と言わせるだけの価値がある。荻野のあじさいは中に抹茶が入っていて、七十円というお値うち品。岡埜栄泉、谷 中名物の生姜入り浮草は、砂糖衣のかかった個性派。生姜の味があんによくマッチ。鮹松月の鮹まん。淡い緑色をした青えんどうのこしあんの上品な味は忘れが たい。
 これだけ食べると、さすがの甘党もちょっと辛いものが欲しくなる。「そう思って買ってきたの」と出席者の長坂さん持参の菊見せんべいが、飛入り参加。一同ホッとひと息。
 鴎外にちなんでの山びこの鴎外まんじゅうもやはりあんがおいしい。我が町土産としての活躍が期待される。羽二重団子は店で食べるのがベストだが、買って 一時間以内とよいコンディションで臨めた。小さく切られた団子は憐れであったが、それでもなお老舗の風格をただよわせていたのは流石(さすが)。ひぐらし のオリジナルのころ柿は、むっちりした求肥が桃山の皮のそぼろで化粧した菓子。
 というわけで、たくさん食べました。お茶もがぶがぶ飲みました。地域内の菓子が一同に会する事はまれなことで、いろいろ意見が飛びかった。
 上生菓子は、季節がら、紫陽花、鈴蘭、岩根つつじ、濡つばめなどという美しい名前がずらりと並んだ。切り分けてしまうのはあまりにも惜しく、一つずつ好 きなのを選び、美しさと味を堪能した。そして、これからの夏はむさしやの水羊羹。冬には庶民の味、土佐屋のいも羊羹が楽しみだ。

ザ・インタビュー
川上宗雪さん (江戸千家家元)
 茶道の菓子といっても特別なものではありません。抹茶に合えば何でも使います。柏餅でもね。人間の味覚は発達していますから、何に何が合うかは舌がよく知ってますよ。ただ、せんべいは抹茶には合いませんね。番茶の方がおいしいでしょう。
 あんの材料の豆類でできた菓子は豆ものといいますが、アジアの農耕民族をたどってみると、不思議とどこでもティーと豆はつながっているんですよ。
 洋菓子に比べて、季節感があるのは、日本人の血の中に自然や風土を求める感覚があるからでしょう。そして江戸っ子はせっかちだから、早め早めに旬を追いかけるんですね。
 とにかく、楽しいときを過ごすためにお茶を飲むわけですから、まずいお菓子じゃ困りますが、お菓子ばかりがでしゃばってもいけませんね。(昔、不忍池がまじかに望めた茶室。一円庵でのお茶のお供は、喜久月のあを梅でした)

和菓子むかし話
 古代の日本人が「菓子」というとき、はじめはナシ、モモ、クリ、クルミなどの果実を指したらしい。『古事記』には垂仁天皇の命を受け、帰化人田道間守(たじまもり)が非時香具菓(ときじくのかぐのこのみ)を探しに常世の国へ向う話がある。これは橘の実。

 砂糖は754年、鑑真が来日して黒糖の固まりを献上し珍重されたという。せんべいも一説によれば804年、空海によって伝えられたものとか。今のような菓子は奈良時代に伝えられ、唐菓子として平安時代に定着。朝夕二食の頃で、間食に食べていたようだ。

 鎌倉時代になると三食となり、昼と夜の間に菓子を食べる習慣ができる。1191、栄西は『喫茶養生記』を書き、おおいに飲茶を広める。茶道とともに御茶受けの「点心」も隆盛に向う。
 点心には麺や羹(あつもの)が用いられた。羹といっても何十種類もあり、元来中国では鳥獣の肉や肝を使った甘くないもの。江戸期に寒天が発明され、今の形になった。これが羊羹。
 まんじゅうも元は饅頭(まんじゅう)という肉まん野菜まんが伝来したもの。1341年、帰化人の林浄因が工夫して「奈良まんじゅう」のあんまんを作り、 これが江戸に出て「塩瀬まんじゅう」として風靡。いまも赤坂で健在。同じころ博多が発祥の「虎屋」。これものち京都、大阪に進出して評判。大阪虎屋の後身 が「鶴屋八幡」。

「1549(いごよく)見かけるキリスト教」なんて歴史の年代を暗記したものだが、宣教師が南蛮菓子を伝えた。かすていら、ぼうろ、かるめら、有平糖、金平糖、パン、ビスカウトなどの語源は主にポルトガル語。

 家康の江戸入府のお供をしてきた大久保藤五郎、命を受けて神田上水を引き、主水(もんど)の名を給わった。彼は器用な人で自分で菓子をこしらえ献上。家康が「うまいッ」とほめて、以後代々江戸城御用の菓子司となった。

 加賀百万石の城下町金沢の茶人、浅香忠左衛門は絶妙なる煉羊羹を発明、宝暦の頃、藩主に従って出府、本郷の加賀屋敷の近くに店を開いた。これが今に続く老舗「藤村」である。

 享保の頃、向島堤の長命寺の門番山本新大が考案した「桜餅」が有名だが、文政の頃、下谷池の端の桜餅も不忍池散策の足を止めた。1コ四文。ほかにも柏餅、きんつば、大福餅は庶民の味。吉原の俚謡に
  年期増しても食べたいものは
     土手のきんつば さつま芋

ワタシのすすめる庶民の味
 柳屋(根津)の鯛焼―なんといっても元気なおじさんと、妹みたいな奥さんがいい。あんこがびっしり。(天野真知子さん)
 芋甚(根津)のアイス―大正ロマンを偲ばせる店構え。しゃりっとした舌ざわり。一日三度通れば三度食べたい店。(山崎一夫氏)
 愛玉子(谷中)のオーギョーチー―台湾産の木の実からとった不思議なみつまめみたいな食べ物。昔は芸大生のたまり場。(古山茂雄氏)
 後藤の飴(谷中銀座)―本当の手作りで、しょうが、きなこ、黒みつなど体にもいいアメです。(石田良介氏)


13頁
 大正荷馬車のころ−岸むめさん(千駄木三丁目)
        撮影・小瀬光平 古写真複写・千葉安明

 生家は大宮で足袋屋をしていました。私は明治二十二年に生れ、六歳の時、母が目を患い、東京は本郷曙町で鍼の仕事をしていたので、母を追って二十歳で上 京しました。その時分、まだ団子坂で菊人形をやっていましたねえ。私も学校に一年行って産婆の資格をとりました。今でも免状は持っています。三十人くらい とり上げたでしょうか。許婚(いいなずけ)が本郷の材木屋に奉公してまして、独立して店を持つ時に一緒になる約束で、六年間も待っていました。
 やっと大正三年にこの不忍通りに所帯を持ったときは、うちと前に土管屋さんが一軒だけ、あとはずうっとみわたせた。夜の八時ごろでも人っこ一人通らないので、主人の帰りが遅いときはとても恐い思いをしました。
 ここら辺一帯は、野沢さんという方が谷田たんぼを開墾してガスや水道を引いたので、夜はマントル(ガス燈)で家の中は明るかったし、水道のおかげで井戸もあまり使わなかったですね。
 材木屋は広い場所が必要で九十坪の借地を毎月十六円五十銭で借りてたのを覚えていますが、新所帯にとっては大変な出費でした。
 そのうち次々に子供を産んで、女中に子守に使用人が五人と大所帯になりました。買物は御用聞きが来てくれるし、ほとんど外へは出ませんでした。女は結婚すると「留守居を買った」と呼ばれるくらいですからね。
 新宿(高層ビルの立つあの新宿)の方に杉の山を買って、木材を取りに行った時は、すぐそこの馬車屋さんに頼んで来てもらったのですが、家の前に馬力が八 台みごとに並びましたね。仕事を終えて馬方にお酒を飲まして帰すのですが、馬方が酔いつぶれても、馬は自分の家を知っていて、スタスタと帰っていくんで す。のどかな時代だったんですねえ。

●写真キャプション 
・月に三度は謡のけいこ。能と歌舞伎の鑑賞は毎月かかさない。最近襲名の団十郎も、すでに二度観た。スケジュールがつまって大忙しの九十六歳。
・五人の子どもに囲まれて。
・当時の店の若い衆・避病院建設反対運動成功!不忍通りで記念撮影。


14頁
■郷土史発掘
 藍染川補遺
 三号の藍染川特集に沢山の反響が寄せられました。今さらながら、川に対する街の人々の想いの深さに驚きます。そのなかより二通、ご紹介いたします。

●支流   中澤伸弘(谷中三丁目 都立葛西高校教諭)
 谷根千三号7頁の下段「支流」のところで、乃池寿司店の裏にある支流跡は宗林寺(螢沢)から流れ出た細流です。宗林寺はその庭先が湿地で、螢の名所でも ありました。その水を集めた細流ですが、今も、金吉園と野中ストアの間の道にその名残があって、そこいらから、今の初音湯の所を通り南下し、昔の三崎町と 初音町四丁目の町界を流れて、大島屋(そば店)の裏手で藍染川に注いでいました。ゆえに大島屋は旧三崎町内で、北側の隣家は初音四丁目内なのです。
 しかもその細流(螢沢川とでも申しましょうか)は明治二十二年以前、下駒込村と谷中村(町屋は町であり村扱いではなかったが)の境であった。すなわち今 の谷中三丁目の西南部は下駒込村字東谷田、北部は同村字西谷田と申しました。当時、谷中初音町四丁目は既にあったが、一から二二番地までしかありませんで した(図参照)。
 ところが明治二十二年、市町村制により下駒込村が廃され、藍染川を境に東を下谷区、西を本郷区として分割併合されたので、字西谷田、東谷田は下谷区谷中 初音町四丁目に編入しました。ですから旧番地の二三番以降と、二二番地とは、離れた場所だったのです。つまり、今の谷中三丁目の北部と西南部は、明治二十 二年までは下駒込村の一部でした。ついでに、今の千駄木三丁目南東部は昔、同じく下駒込村字「根津下」(図)といいました。三号にも(19頁)書いてある ように、根津神社はもとこの上の台地にあったのです。その台地を古くは素盞鳴山と書いてイルサヤマと呼んだそうです。祭神素盞鳴尊にちなんだものでしょう か。戸田茂睡翁の「紫の一本」には不寝権現となっています。
 また、谷中コミュニティセンターや天心公園が面した道は「六アミダ道」といって古くは六阿弥陀詣りの参詣路ですが、ここを歩いてみると、北へ(田端方 向)歩くと、左手が一段低くなっていることに気がつくでしょう。すなわち、六アミダ道は田の辺の道で、北へ向って右手は畑、左手は谷田田んぼであったわけ です。
 最後にゴンベンのない諏方社の件(22頁)ですが、すはとは、もともと信州のあの湖(諏訪湖)のほとりの波のよせるところ、すなわち洲波から来ていま す。全国的に諏訪、諏方、周方、洲波と記す神社は多いのですが、延喜式の神名帳には「信濃国諏方郡」とあり、古くはすべて諏方であったようです。それがい つの頃から、言偏(ゴンベン)が付くのが普通のように思われだしたかは定かではありません。日暮里のお諏方様は古字を守っているだけです。
 日暮里のお諏方様は、天保年間に記された社蔵の軸に「諏方」とあるとのこと。神社の鳥居前の明治三十八年の社号標は「諏訪」となっているが、これは書家 にお願いしたらそのように書いてきてしまって、そのまま建てたもの。また神社入口の、昭和初年の大東京八名勝に選ばれた時の社号標は、神社側の事前の申し 入れがかなって「方」の字になっております。しかし氏子でもこれは統一されていないようで、八月末の神社大祭の神酒所の軸は「訪」「方」まちまちです。
 東京では「方」のスハ神社は一社しかなく、なんとか「方」の方が古儀であることをPRしたく思います。

●水源
   関根益次郎
 藍染川(上流で谷端川)の水源は谷根千三号にあるように、「渋江長伯が預りの巣鴨御薬園」(『御府内備考』)より出たのは確かです。しかしそれは今の外 語大グラウンド辺ではなく、豊島区青果市場の崖下辺の谷頭からの湧水です。それと染井の池や外語大辺の湧水もあわせて川となったものと思われます。
 また石神井川と藍染川がつながっていたということは中世、近世では考えられず、もしつながっていたとしても、地形的にみて五千年以上前、縄文時代前のことと考えられます。
(関根さんは『北区史』や史跡案内板などあまりに誤りが多いので、何代も続く地付の方々と、正しい郷土の歴史を記録しようと地誌「滝野川」を編集中。六月頃「水清き谷田川物語」の記事を含む第四号が発行される。
 お二人の方、ご親切で貴重なご教示ありがとうございます。私どもも、「谷根千」は郷土の歴史をより真実に近い形で伝えるための叩き台と思っております。誤りや不足の点はどうか皆様、ご教示下さいませ。なお、藍染川のお話しは次号にも続きます。)


【剪画】旅館 上海楼  
 根津の街にはいつも風がそよいでいる。その風にふかれながら路地を歩くのが良い。
 戦後、中華料理店として繁盛し、今は旅館となり、終日修学旅行の生徒たちで賑わっている。木と花と人の温もりが都会にもまだある事を子供たちに教えてくれる。


18ー21頁
鉄舟と円朝
       全生庵住職 平井 玄恭

 ここ普門山全生庵(ぜんしょうあん)は、明治十六年、山岡鉄舟が開基した寺です。彼は維新の際国事に殉じした人々の霊を、慰める寺を建てたいと思ってい たが、明治維新で神道は隆盛、仏教は衰退と寺の受難の時代でとても新しく寺など建てられない。しかし、越中富山の禅寺国泰寺の名僧、越叟和尚の導きで、ど うにか谷中にあった三十坪ばかりの小さな末寺、泰元院を復興することにしたわけです。
 それに先だつ明治七年、鉄舟が淀橋あたりを歩きますと、角谷(つのや)という小さな餅菓子屋の店先に「全生庵」という立派な額がかかっておった。その字 の立派さに驚いた鉄舟が尋ねますと、店主は、どんないわれか知らないが、先祖伝来のもので、これを持つに値する方が現われたら差し上げるつもりでいた、と 鉄舟にこの額をくれた。額はその後、鉄舟の書斎にずっと掲げてあった。
 さて、明治十五年、泰元院を復興するのに隣地を買い足しますと、その土地も昔から寺であったことがわかった。
 のちに鎌倉建長寺を開山した名僧蘭渓道隆が、寛元のころ(1243−46)、中国から幕府に招かれて来まして、途上東京湾上で難破。そして吹き上げられ たのが、ここ谷中三崎坂。七百年前には根津の谷は入江だったと看えます。九死に一生を得た蘭渓師はここに「全生庵」という庵を結んだ。その時、角谷という この地の豪族が、よく師の世話をしたというので、鎌倉を去るにあたり、庵にかかっていた額をくれた。奇しくもその額を、鉄舟が角谷家の子孫から再び手に入 れたという、不思議なめぐり合わせとなるのです。

  江戸、無血開城に功績

 鉄舟という人は、お玉ケ池の千葉道場の先生をしていたくらいの剣の達人、そして禅の修行もつんだ方ですから、「あなたのような悟った方が、全生とは、生 きることに恋々としているようでおかしいではないか」と言う者もいた。しかし鉄舟は「生きるべきときに生き、死ぬべきときに死す、これを全生という」と答 えたのです。

 この山岡鉄舟という人、勝海舟、高橋泥舟と並んで幕末の三舟の一人です。
 天保七年(1836)、旗本六百石小野朝右衛門の五男として江戸に生まれました。父の任地飛騨高山で長じ、書を極めたが、十六、七で父母を亡くして江戸 に帰った。そして山岡静山に槍を学び、静山が若死にしたので、その妹英(ひで)をめとって山岡家の養子に入った。高橋家の養子になっていた泥舟は静山の弟 で、鉄舟と泥舟は義兄弟となったのです。江戸を戦火から救ったのはこの三舟であったといわれております。
 慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、江戸に逃げ帰り、上野寛永寺に謹慎します。官軍はなおも江戸に向かって進撃。慶喜は側近であった高橋 泥舟に西郷隆盛との交渉を命じた。しかし、将軍の側を離れることを危険と感じた泥舟は、その役を義弟鉄舟にと進言したのです。
 三月七日、出発した鉄舟が、多摩川を渡りますと、すでに官軍が宿営している。その中を、鉄舟は「朝敵徳川慶喜家臣、山岡鉄太郎、大総督府に罷り通る!」と大音響で怒鳴りつけ、敵中をどんどん突き進む。ついに静岡の大本営に到着、西郷に必至の説得を致します。
 ようやく江戸城の無血開城までこぎつけたが、西郷は「慶喜の池田家お預け」の一条をゆずらない。これはいってみれば終戦の時「天皇をソ連に預けよ」とい うのと同じです。そこで鉄舟は、「自分の主人を敵方に渡すことは、武士の情として断じてできぬ」と食い下がり、ついに西郷を口説きおとす。
 後日、西郷は「山岡鉄舟は、金もいらぬ、名もいらぬ、命もいらぬ男である。鉄舟のような人間を一人持っていただけでも、徳川家はさすがにえらいもんだ」 と語ったそうです。おかげで徳川家は滅亡せず、慶喜は静岡七十万石の大名として移住、天寿を全うして、谷中墓地に眠っております。
 維新後鉄舟は、明治新政府に請われて、天皇の侍従として熱い信頼を得ます。そして国事に殉じたものたちの霊を慰める寺の建立を考えたのです。

  円朝、鉄舟と出会う

 さて円朝は鉄舟より一−二歳若い。二十代で「累ヶ淵」や「牡丹燈籠」を完成させ、三十代でははや名人といわれた。高橋泥舟は円朝と親しかったのですが、 その高座を聞くに、何か一つ物足りない。何が足らんのだろうと思った。そこで義弟の鉄舟に、円朝の相談にのってやってくれと頼んだのです。
 円朝が鉄舟に会いますと、近所の子供が遊んでまして、「ひとつ、あの子らに桃太郎の話をしてやってくれ」という。円朝は名をなした噺家ですから、ムッと しましたが、こらえて腕によりをかけて桃太郎をやる。すると「おまえの話はうまい、うまいが話が死んでおる」と鉄舟に一喝された。「わたしは三つのころか ら桃太郎の話を毎晩、母から聞いて育った。が、毎晩聞いても飽きなかったのは話が生きておったからだ」という。
 円朝は悔しがって、それから二年、鉄舟について禅を学び自分で桃太郎の話も新作して練習した。二年してやっと鉄舟が、「今日の話は生きておるぞ」というところまでこぎつけた。
 世人が喝采すればすぐ名人気どりになるのではいけない。自分の芸を自分の本心に問うて修業しなければならない。役者は体をなくしてはじめて名人という、噺家は舌をなくしてはじめて名人という。これが円朝の悟りです。そこで円朝の戒名は「無舌居士」という。
 この鉄舟は五十三歳、明治二十一年七月十九日、胃ガンで亡くなります。病重くなり円朝もその枕もとへ駆けつけますと、もう勝海舟など二百人ほどが集まっ ている。すると鉄舟が、「まあ、わしはそう簡単に死なんから、一席皆にしてやってくれ」という。ほかならぬ師の最期の頼み、円朝は演りますが、このときば かりはさすがの円朝も、「火事場の落語」といいますか、死にかけている師匠の前で演るので、涙は出るわ、声は震えるわ、生きた心地もなかったそうです。客 も泣きじゃくるなか、鉄舟ひとりが終始、微笑をたたえていた。そして、
  腹はって 苦しきなかに 明烏 
 の一句を残し、鉄舟は座禅を組んだまま微笑を含んで入寂しました。鉄舟の四谷の邸から全生庵まで、葬列を五千人の市民が見送る。宮城前では、明治天皇が 「山岡の棺を送りたい」というので葬列が十分間止まり、陛下は雨の中、高殿から鉄舟に別れを告げられました。円朝はこの後十二年永らえ、円朝の葬列もま た、数千人の市民に見送られ、師の眠るここ全生庵に到着したのです。  (談)

*谷中全生庵には、鉄舟、円朝の墓のほか、円朝が収集した幽霊の画幅が四十幅所蔵されています。八月初、三崎坂商店街と共催で「円朝まつり」を企画中。詳しくは七月中頃に谷根千工房にお問合せを。

円朝グラフィティ
出生
三遊亭円朝は本名を出淵次郎吉(いずぶちじろきち)といい天保十年(1839)、江戸は湯島切通し、俗に根性院横町に生れた。旧岩崎邸跡の辺りである。
 父は音曲師橘家円太郎、本名長蔵。祖父は大五郎。加賀大聖寺藩の武家の妾腹に生れた長蔵こそは武士にしようと本家に預けたが、武家の生活を嫌って出奔。左官から二代目三遊亭円生門下の芸人となる。

母と兄
 母すみは葛飾青戸村の出で、夫(「敵討札所霊験」の藤屋七兵衛のモデル)に死なれ、寡婦となって谷中三崎辺で近所の寺院の洗濯女(藍染川で洗っていたのかナ)をしながら、一子徳太郎を育てた。この徳太郎はのちに、玄昌(げんしょう)と改名、谷中長安寺の住職となる。
 すみは長蔵と再婚し、二人の間に次郎吉(のちの円朝)が生れた。玄昌と次郎吉は異父兄弟であり、玄昌はつねに次郎吉に愛情をよせ、進路を気づかった。

初高座
 次郎吉は父に従い、七歳で初高座。名を橘家小円太といった。チビッ子芸人のもの珍しさも手伝って喝采を博す。しかし母や兄は反対し、八歳のころには高座 を退き、池の端茅町の「山口」という寺子屋に通う。この寺子屋は明治になって「青海学校」と名を改め、樋口一葉が通ったという。

転々
 小円太は九歳で円生の内弟子となり、本格的な落語家をめざす。しかし母と兄はまた心配して、十二歳の頃に小円太を引き取り、池の端仲町の紙商・両替問屋「葛西屋」に奉公に出す。が、承認は小円太の肌に合わない。
そこで絵の才能を見込んだ母と兄は玄冶店に住む絵師歌川国芳の内弟子として住み込ませた。ここでの同門に、のちに円朝作品の挿絵画家月岡芳年や落合芳幾が いる。この時の絵画修業が、後年芝居噺の道具背景を自作するのに役立ちそれで評判をとる。転々の人生がのちの円朝の芸を豊かにしたといえる。

長安寺住い
 父円太郎は放縦で、いつも旅に出たり、他の女性と暮らしたり。小円太母子の貧苦を見かねた兄玄昌は、嘉永六年(1852)、自分が住職である谷中長安寺の門番小屋に二人を住まわせた。
 小円他は寺男の雑用をこなしながら、本堂で稽古し、高座に出勤。この修業ぶりをみて、母と兄も「あっぱれの芸人になれ」とその道を認める。芸人円朝が怠惰な生活に流れなかったのは、この谷中寺住時代が大きい。

真打誕生
 十七歳(安政二年)。初代円生の墓前で、衰退した三遊派の再興を誓い、円朝を名乗る。二人の内弟子を取り、池の端七軒町の裏長屋に住む。三人の男所帯 で、弟子は遅く起き、早朝から手拭いかむりで炊事する円朝を、近所の人は女房と思っていたとか。夏、真打となり、駒込炮碌地蔵(東片町大円寺)前と下谷広 徳寺前の寄席ではじめて真を打つが不入り。

創作のきっかけ
 安政の大地震を経て、池の端のこんどは表店(おもてだな)に父母を住まわせ、円朝は浅草へ。役者の声色や鳴物入りの芝居噺で好評を得る。
 二十一歳の春、中入り前に師円生の助演を請い下谷の「吹ぬき」で真を打つが、円朝の演目がわかると師匠が先に演じてしまうのに弱って、オリジナル「累ヶ 淵後日怪談」を創作。これがのちの名作「真景累ヶ淵」の原型となる。この頃わけあって師円生と義絶、一時は人気講談師二代目松林伯円(泥棒伯円。お墓は日 暮里南泉寺にあり)門下に入ろうかと思うが、思いとどまる。

江戸の人気者
 文久二年(1862)師二代目円生死す。池の端七軒町大正寺に葬り、遺児三人を引きとり養育。義兄玄昌も三十三歳で死す。
 当時の円朝は美男で派手な芸風で、赤い襦袢の袖などひらつかせ、女性ファンをキャアキャアいわせていたとか。「円朝髷」もファッションとなる。

妻と子
 慶応から明治に変わった年、下谷御徒町の同朋衆倉岡元庵の娘お里との間に、のちに悩みの種となる朝太郎が生れる。このお里は、大酒のみで放縦だったとい う。ほどなく円朝とは切れて吉原のおいらんから幇間松廼家露八(まつのやろはち)の女房となる。(幕府の隠密から、吉原の太鼓餅となった露八の生涯も興味 深い。)
 よく明治二年、円朝は柳橋の芸者お幸と結婚。こちらは才色兼備で料理もうまかったが、しっかり者すぎて円朝の弟子には金離れが悪いとあまり評判がよくなかった。

素噺に転向
 明治四年、父円太郎死去。翌五年、芝居道具を一切弟子の五代目円生にゆずり、自分は扇子一本の素噺に戻る。そしていわゆる「おとし噺」に堕していた落語の中に、心理描写を盛り込んだ人情噺を大成した。


22頁
ゆっくり、おっとり谷中の町
    上口 等(大名時計博物館館長)

 和時計に用いられている不定時法の特徴は、自然と人間のからだのリズムに合っているということです。西洋の定時法では一日を機械的に二十四等分していま すが、和時計では日の出から日の入りの昼を六等分、日の入りから日の出を六等分して一刻という考え方です。当然、夏は昼の一刻が長く、夜は短い。冬はその 反対。これは日が昇ったら起きて仕事して、日が沈んだらもう働くのはやめて寝ようというリズムです。私もそういう暮らしをしてきました。
 日本の生活様式の良さを見直す時代じゃないですか。明治以降、欧米追随で洋服、椅子、ベッド、と何でもかんでも取り入れて、そのあげく消化不良を起こしている。布団をたためば茶の間にも、客間にもなる畳は、狭い日本に合っているし、疲れれば横になってくつろげる。
 同時に、追い付け追い越せで働いてきたけれど、どうしてそんなに急ぐのでしょう。急いで幸せになれるでしょうか。昔の日本人はもっとゆっくり暮らしていたと思います。
 谷中の良さって何でしょうと、ここへ来る方に聞くんです。
「谷中の人はのんびりしている」「人を押しのけて前に出ることがない」という答えが多い。谷中小学校のある先生は、着任当時「なんてやる気がない子供たち だろう」と思ったそうです。争って手をあげないし、なんとなく活気がなく見えた。「でも、素直でおっとりしているのだとわかりました」と言ってました。よ そに比べて親も、受験で騒いだりしないですね。
 そんな、どこかほっとする町だから、心のよりどころになる懐かしい町だから、このところ谷中に人が来るのだと思います。


23頁
この街にこんな人(根津)
根津に活気を、上松大雅堂の
      上田松男さん

 四月二十一日、快晴。第十七回文京つつじ祭りが始まった。遠藤区長、上野実行委員長とともに、文京つつじ会会長の上田松男さんは、今年も開苑式のテープを切る。
「遠くから大勢の人が来ますよ。祭りの間、私は毎日毎日神社へ様子を見に行くんです。今はつつじも立派になったけれど、まだ株の小さい時は、夏ちょっとし た日照りで枯れてしまう。朝に夕に家内と二人で池の水を汲んでは、つつじにかけたものです。神社の人も、私たちの姿を見つけると、上田さん悪いね、と言い ながら一緒にやりました。」
 根津神社は社殿も立派で境内も広いのに、ご利益信仰の特長もないせいか参拝者がいまひとつ。乗り物のない時代、上野まで歩いた人の姿もなくなり、都電も 廃止されて、地元商店街の活気もなくなってきた。何か人を呼べる特長を作らないといけない、そこで神社につつじを植えたのが二十年前、音頭をとった上田さ んは当時、根津地区の氏子総代。
「最初、池のところに百株植えて“八重垣町会奉納”と看板を建てた。そうすれば他の町会もだまってられない。氏子二十ヶ町、みなつつじを買うお金を寄付し ました。祭りを始めてから数年は参拝客にも株を買ってもらって、自分の手で植えて行く。すると株の成長を見に毎年来てくれますよ。」
 見事なアイディアだ。豊富な色どりを考え、四月下旬から五月上旬に花開く三十種を集めた。
 根津を歩き、根津の人と話をすると、必ず町の功労者として名前の出てくる上田さんが、不忍通りに画材店上松大雅堂の店を開いたのは昭和四年のこと。
「私は岐阜の農家の生まれです。昔は口べらしで皆奉公に出ましたがね、私も郷里で画材料の店に入った。絵絹(絵をかく布)は岐阜の特産品なんですよ。
 二十五の時に東京に出てきて、上野を中心に本郷や追分や団子坂付近、三日ぐらい探した。やっと根津でこの空家を見つけました。上野に美校があるから、こ の辺りに店を開けば客が来ると思ったんですがね。最初の二年はちっとも客が来ない。近所をまわっても、間に合ってるとか、決まった店があるとか断られた。 それこそ毎日、板橋や品川の方まで自転車でご用聞きにいきましたよ。」
 明治三十七年生まれ。三回の召集令状を受けて、中支、北支、満州へ十年。
「長いこと留守を守ってくれた妻には感謝しています。」
 その奥さんが戦争中に赤ん坊を背負い、オムツを抱えて入った防空壕は、根津神社のつつじが岡のところにあった。
 六十の手習いで上田さん自身も日本画を描く。日本画院展に五回入選。鈴木都知事宛に「四角の家ばかりじゃなくて、絵になるうちを作って下さい」と手紙を出した。旅が好きで、日本中を歩いては、今も絵筆をとる。


24ー25頁
ひろみの一日入門3 資源回収問屋「浜井商店」
今日はいい汗かきました。

 五月十三日、神出鬼没の一日入門。本日は資源回収問屋「浜井商店」である。病み上がりの体にむち打ってがんばらなくちゃ。

藍染へ急げ!

 とにかく朝九時の作業開始というので店に急げば、もう出た後。あわてて追いかける。いましたいました、あかぢ坂下、不忍通りに近い所にトラックは止まっていた。
 浜井商店は、「毎度おなじみ・・・」チリ紙交換車と違い、町の婦人部、青年部の活動で集めたものの回収や、区役所、図書館などで出る机、棚、本などをトラックを派遣して引き取ってくれるのが仕事。
 今日は、月例で根津藍染町会婦人部約三十人が、朝九時から古新聞、雑誌、ボロ布などを一ヶ所に集めているのだ。リヤカーや台車で集める人。ビンを仕分け して数える人、新聞をトラックへ運ぶ人と分担が決まっているらしく、手際よく働いている。集まったダンボールを他に持っていかれないように朝早くから番を しているおばあちゃんもいた。
 新聞と雑誌は分けてトラックへ。なぜ分けるのかというと、引き取り値がちがうからだ。新聞の束の中から漫画を抜き出すのもけっこう骨が折れる。これからはウチでも気をつけようね。
 次は多量のダンボール。十枚くらいずつ紐で束ねて古新聞の上へ積む。かさばって重いダンボールの束をエンヤコラと頭より上に持ち上げなくてはいけない。 こんなに汗をかいたのは、この前の引越し以来だ。汗をかいたら風邪も吹っ飛んで気分爽快。後で「ずいぶんいさましい姉さんが来た」と近くで見ていたおばあ さんに冷やかされましたけど。
 残った鉄クズ、自転車はリヤカーで運ぶ。浜井商店の並木さんがリヤカーを引いて帰る途中、お巡りさんに盗難品とまちがわれる。こんな真っ昼間リヤカーで盗むわけないじゃないの。

もったいないなあ本の山

 台計りに回収したものを積んだり下ろしたりして量る。目方分が、今日の婦人部の収益。全部手作業。チリ紙交換は目分量だが、そういうわけにはいかない。一時間で腰は痛くなるし、手はザラザラ。
 でも、本の中からヘソクリが出ないかという楽しみもある。以前にお金が出てきて本の持ち主にかえしたら、夫婦ゲンカの原因になっちゃったとか。
 本はほとんどマンガと週刊誌。中には油絵の本、書道講座、旅行ガイドも混ざっていて、製紙会社で再生紙にするなんてもったいないなあと思っていたら、 ちゃんと古本の山の中で一冊ずつ見て選んでいる古本屋のおじいさんがいる。できれば一度本になったものは本の形のまま長生きさせてやりたい。今、古紙市況 は暴落して、引き取り値はよくない。そういえば、チリ紙交換車もあまり見ない。すぐ焼芋屋さんに変身するらしい。

坪ン百万にガラクタの山

 さて午後は片付け。毎日、次から次へと運ばれてくるので、待ったは許されない。
 浜井商店では社長の浜井政次郎さんと若くて元気な息子さん、それに並木さんの三人が働いている。皆、力仕事の割に細身。しかし腕の筋肉はすごい。
 「店」は住居権事務所と倉庫の二つの他はガラーンと地面。その地面には、鉄とガラクタ(?)の二つの大きな山。敷地は全部で百五十坪。千駄木の一等地にですよ。地代と鉄の引き取り値を比べたくなるのは貧乏人の悲しい宿命。大きな藤棚の下でリッチな気分で作業をする。
 店に直接客が来る。伝染を持って来た人、銅線は割と高値。医療器具の成人用オマルを持ってきたお兄さん。逆に自転車のタイヤが欲しい奥さんは、帰り際に「三輪車はないのォ?」
 午後の一大作業はレントゲン。一つの機械に鉄、真鍮、鉛、アルミといろんな金属が使われているから、材料別に仕分けしなくてはいけない。おじさんは「ネ ジまわしなんかよりこっちの方がずっと早いんだ」とハンマーにタガネを持ちネジを叩き切り、あっという間にバラバラ。私、磁石でネジの破片を拾う。それで もだめな時は、一メートルもある大ハンマーでガチーンとやるわけ。恐怖!  一日で心も体もバラバラになりそう。
 五時半過ぎ、昨日三崎町で集めたダンボールの目方を量り、濡れないよう屋根の下へ入れて、本日の作業は終了。

地域にジワッと密着

 社長がおもしろいものを見せるからちょっとおいでという。倉庫の天井に根津神社のお祭りの山車の屋根が吊ってある。何年もかけて街の人が作り上げた労作だ。「こういう適当な場所があるから、夜みんな仕事が終わってから集まって大工に早がわり。楽しいですよ」
 汐見小学校の同窓会会長もしているので、工事中の学校から運動場の肋木も預かっている。昭和七年に初めて浜井さんで二代目だが、こういう仕事は文京区内 にもわずか五軒と減った。毎日忙しく区内を回る仕事はもちろん、浜井社長の生活すべてが、地域に密着しているのだった。

まゆみも一日入門

 ハイ。こちらは前日十二日、三崎町会青年部の廃品回収に行きました。トラックを浜井さんに借りて、青年部が自主的に回収するシステム。四月分の収益は、 37605円。昭和五十四年に回収を始め、この上りで今までにワタアメや焼きソバの機械を買うなど、有効利用。中心は青年部長の関さん。いかにも下町の キップのいいお兄さん。とおもったら中学生のお嬢さんゆうこちゃんが手伝いにきた。
 時計店の加瀬さん。岸さん、栗田さんのえみこちゃん。中西さんと西野さんの二人の美人ミセス。
「相場が暴落したからねえ、パートにでた方がお金になるわよ」といいつつ軍手でがんばる。自分の懐に何も入らなくても町のために休日をつぶす三崎青年(?)部の心意気に脱帽。仕事の後はビールで乾杯。いい日曜日でした。


26ー27頁
さよなら水晶ローソク

 ある日、突然工事が始った。自分の家の前のことだというのにうっかりしていた。あわててカメラを抱え飛んでいったが、そのときはもう、あの懐かしい工場は、すでに半分以上、なかった。私は数日後、創業者米岡家の仁恵夫人(千駄木四丁目在住)を訪ねた。

 水晶ローソクは私の義父米岡清一郎がその弟の宗一と大正の震災直後に、坂下の現住所で始め、当時は米岡商店といっておりました。米岡家は愛媛の内子町の出です。内子町はかつては木(もく)ろうの産地として有名でした。
 義父は大阪のろう問屋に奉公し、全国にろうの仕入れに行ったり、寺社に売りに行ったりして仕事を覚え、独立しました。最初御徒町、次に黒門町に移り、そ こで関東大震災にあって焼け出され、坂下に越して来た。そのときは今の道に面した部分は、新かべが塗られ建ったばかりの長屋で、震災の被害がなかった。そ の一部を借りてはじめました。
 私も内子町の出ですが、縁あって米岡にとついでまいりました時は、義父清一郎、義母春栄、夫寛三郎とその弟ほか、職人、女中さんも何人かおりました。当 時は、釜までパラフィンろうをとかして、糸しんを入れたパイプの型に流し込み、それをはずして切るなど、全部手作業でした。
 そのうち戦争がはげしくなり、ろうそくは統制品で配給の非常用ろうそくも作ってはおりましたものの、一人、二人、と使用人も応召し、夫も勤労動員に行き、生産はストップしました。そして忘れもしない二十年の三月四日がやってきました。
 その日の朝、夫は王子の造兵廠に夜勤でいっており、私は自分の妹と、主人の弟と四,五人でおりました。警戒警報がでて、家の内に半地下で土をもりあげ た、簡単な壕に入って、耳と鼻をふさいで口をあけてー爆風の圧力でおかしくなるからなぜか口はあけるように言われてました。するとすさまじい音がして土煙 がどーっとたって。しばらくすると「落ちた」とか「担架だ」という声がして、出てみますと、今のつしま八百屋さんとの路地なんか土がもり上って通れないん です。
 そこにはお風呂屋さんがあり大きな防空壕があったのですが、見ると池みたいにぽっかり穴があいて、少し水がたまっていました。ここで十九人の方がいっぺんに亡くなられたのです。角石をつみあげた壕の下敷きになった方もいました。

(*この犠牲者を弔う平和地蔵がつしま青果店脇の路地にある。これについては続報する)

 一緒に戦争中をのりきってきた隣組の方が亡くなり、本当に悲しいというかボーゼンとしてしまいました。戦争中末期で物もないので、本当にお互い助け合っ てきました。何もない頃でも毎月の寄り合いには、カボチャとアズキで工夫してぜんざいを作ったり、お正月には歌をうたったりして楽しみでしたのに。
 生と死が紙一枚の差みたいな時です。その日も、警戒警報くらいじゃ壕に入らない弟が、たまたま入って、しかも入口に厚い布団でフタをした。あとでみたら その布団にいっぱい爆風で吹き飛んだガラスのかけらが突きささっているのです。私は前夜、里芋をきれいに洗って台所のザルに干しておいたのですが、里芋に も針の山みたいにガラスがささっていた。それを見てゾーッとしました。
 私はその後すぐ妹と疎開しまして、三月九日夜の下町大空襲の報は名古屋駅の電車の中で聞き、残して来た人のことが心配でたまりませんでした。そういうわ けで、長屋の方々も、亡くなったり四散して、戦後、裏の長屋の方まで買いまして、水晶ローソクを再開したわけです。私は子供を二十二年に産み、夫は四十四 年に亡くなり、いろいろありましたが、去年五十九年の十二月まで、水晶ローソクに勤めて、帳簿つけだの何だの仕事をやってきました。つらいことも多くあり ましたが、やっぱり近所づきあい、工場の仕事、本当に楽しかったです。
 水晶ローソクは、ろうそく会社の中ではまあ大手といってよく、今は坂戸の方でやはり親戚筋の小西巧さんが社長でやっております。寺社用とか家庭用の需要 は前より少なくなりましたが、今はクリスマス用とか結婚式のキャンドルサービス用などの華やかなものがでています。長い間、本当に町の方々にはお世話にな り感謝の気持ちでいっぱいです。

  *    *

 ろうそく工場の始業のベルは朝八時になった。コの字型をした天井の高い古い町工場。私は洗濯物を干しながら、おばさんたちの働く工場を眺めては、うちの赤ン坊が少し大きくなったら、あの工場で働いてみたいなんて思っていたのに。
 工場跡には藤和グループの女子社員寮が五階建てで建つという。また一つ、町から古い建物が消え、また見える空が狭くなる。これを時代の趨勢というのか。 藤和不動産の人の話を聞いても、さすがに専門家、違法建築でもないし、応対も丁寧で住民にも気を使っているのがわかる。
 ある絵描きさんが面白いことをいった。
「四角いトーフみたいなビルは描きようがない。やっぱり建物でも曲線とか三角のところがないとね。」古い家並みが四角いビル街になる。それは私たちの視角環境がそれだけ貧しくなるということではないのか。
 きのう、廃棄処分寸前のろうそくを工事現場でもらった。一生クリスマスに使えるくらいはある。一年に一本、火をともして、娘や息子に、かつてこの町にあったろうそく工場のことを話してやろう。


28頁
谷根千味のグランプリ
道灌山 天ぷら 
天米  

 天ぷらを家で揚げると、食卓に着くことにはもう食べたくなくなってしまうのが主婦のホンネ。おいしいアツアツの天ぷらが食べられたらなーと、その一念で お財布と相談もせずに、道灌山下の「天米」ののれんをくぐってしまった。「昼ごはんに手ごろな値段のものを」というこちらの注文に「天丼の中(ちゅう)に しなさい」と助言してくれたのは奥さんのフサヱさん。手際よくお茶を出しながら「天ぷらの事はお父さんに聞いて。あたしは何もわからないから」という。と はいえダンナの五十嵐博さんは天ぷらを揚げることだけに熱中しているようだ。
 じっと待つこと7分。出てきた出てきた「中天丼」。思ったより色が濃いのは、ゴマ油で揚げるからだ。内容は、エビ二尾、白身魚、ナス、キヌサヤのかき揚 げで、ご飯の上にたっぷりのっている。定食に出される天ぷらが、一挙にご飯の上に乗っかってるといったほうが早い。最初の一口で、う、うまい!
 同行者の頼んだ「かき揚げ丼」はちょっと様子がちがう。見た目には単純なかき揚げ丼なのだが、小エビ、貝柱、イカの三種で一つのかき揚げを形成している。噛みしめるとそれぞれのウマミがジワッとしみ出て「福袋」のような楽しさだ。
「天つゆに秘密はないよ」と主人。つゆの調合は、ダシ4、しょうゆ1、みりん1に砂糖が少々で、最近やたら甘いだけのつゆが多い中では辛口の方かもしれないが、具の味が甘みで消えずに味わえる。
 昭和六年にダンナのお父さんが、神田の本店天米からのれん分けでここへ来た。戦時中は配給制で油や粉、魚も思うように手に入らず、しばらく店を休んでい たが、戦後二十二年に復活。昔のお客の話を聞くと、この近くに住んでいた多くの作家や画家の名前がポンポン出てくる。みんな天米のファン。高村光太郎も、 昭和十年ごろによく来たそうで、お店が混んでいる時などは、ウイスキーの小瓶を持って来て、ちびりちびりやりながら、一時間も待ってこの天丼を食べたそう だ。
 最後に、家でおいしい天ぷらを揚げるコツは、衣に使う水と粉はよく冷やしておく。揚げ油にはサラダ油にゴマ油を二割くらい入れると風味がよいとのこと。妻よ、夫を口説いて天米へ行こう。

おしながき 
  天丼 並750円 中1000円 上1400円
  かき揚げ天丼 1600円  えび天丼 1200円
  天ぷら 並750円 上1400円 えび天ぷら一人前 1100円 
  かき揚げ天ぷら一人前 1800円 野菜天ぷら 時価
  定食並 魚、えび、野菜、ご飯、おしんこ、赤だし 1400円
    上 魚、えび、野菜、かき揚げ、ご飯、おしんこ、赤だし 2000円
      その他お好みによりお揚げします。


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 じょーほートピックス

3.23 「本駒込図書館友の会」にて谷根千発行経緯、町づくり、郷土史研究などについて懇談。
4・6「奏楽堂パイプオルガンをよみがえらせる会」、新宿文化センターで発起人会総会を開く。
4・6 谷中墓地で「谷根千主催大花見大会」延べ40人参加。差し入れてくださった手打ラーメン玉川さん、乃池さんありがとう!
4・10 夜、「新内、岡本文弥の会」上野本牧亭で。文弥さんは新内の第一人者。谷中の路地裏住いの九十歳。「鶴女房」「次郎吉ざんげ」昔の男女の艶やかさに酔う。どうにか「夫婦」や「女房」の色っぽさに近づきたい私です。同日、谷中墓地では、花見をかねての雅楽の会。
4・19「谷根千第一回井戸端学校」この町の料理研究家古川恭子さんに手作り無添加おやつの作り方を教わり、子連れでおしゃべり。「密室の子育て」はやめて、地域でおおいにつながろうと意気軒昂。
4・22 根津郷土史研究会―「歌沢能六斎」と「サクマドロップの創業について」など。
4・21〜5・5 文京つつじ祭り。今年は花が遅いといわれたが、天気に恵まれ、次々開花。
4・24「江戸のある町会」見学会、根岸書道博物館と竜泉の一葉記念館をまわる。子規庵門のペンペン草にもホロリ。
4・28 第4回根津寄席、上海楼で。七軒町の宮本瑞夫先生(民俗学)のお話、今回は奇術、漫才もあってますます盛況。
5・6 「文学散歩の会」本郷法真寺住職伊川浩永氏の説明で、日暮里、谷中から根津を歩く。
5・16 須藤公園「弁天様のお祭り」毎月16日に行なっている。お参りに行くとゆで卵をくれるョ。
5・19「谷根千―生活を記録する会」四号特集に合わせ、汐見会館きき菓子会。この街の和菓子に舌鼓をうつ。

◇小田急線に乗って箱根に行こう!
 谷根千三号の配達もひと回りすんだ四月十九日、スタッフは子連れで箱根の文京区保養所強羅荘へ骨休めに行きました。
 新宿より小田急ロマンスカー、登山鉄道、ケーブルカーと乗りついで、公園下の駅から、目指す宿舎は三十秒。すごい! これが区の保養所とは! 豪華ホテルなみの建物、食事も食べ切れず、職員は親切、これで大人一人4500円じゃ、夢を見てるみたい。
 お風呂はもちろん温泉、テレビはただ、冷蔵庫のビールもほぼ原価。子連れ歓迎。唯一役所を感じたのは、宿の感想ノートに一件ずつに「処理済」のハンコ。 「今度は恋人を連れて来たい」−「処理済」だって。しかし、区役所でないと申し込めないのが不便。「出張所で申し込めるようにしてほしい」と頼んだら「オ ンラインでないから無理」といわれたが、電話一本かければすむことじゃないですか。

◇自宅が事務所、失礼はご容赦ください。現在スタッフの仰木宅が事務所がわり。傍らで赤ン坊が泣き、夜にはダンナ様も帰ります。お電話はナントカ9時〜5時で!!


30ー31頁
おたより

 東京へはしばしば歩きに行き、たまには銭湯で汗を流すこともあるので、この次には十五軒の中のどこかへ行ってみましょう。先月末には西日暮里から谷中を 歩き、中野屋さんの佃煮を沢山仕入れてきました(家中で大変人気があります)。「谷根千」のお蔭でその辺りを歩くのがますます楽しくなりそうです。(群馬 県太田市 竹川光一様)

 函館もやっと春らしくなってまいりました。一度に読んでしまうのが惜しくて、少しずつ大事に味わいながら読ませていただいております。マップを見なが ら、私の心はもう東京にいる気分です。根津は行ったことありませんが、この次は歩いてみようと思っております。(函館市 中川静子様)

 高崎のような地方都市でも、銭湯は一軒また一軒となくなっていますことを寂しく思っていたものですから羨ましいような思いがいたします。(高崎市 布瀬トミヨ様)

 ステキな雑誌ですね。友人たちにも大好評でした。読んだ後は近代史文庫に寄贈しておきます。見知らぬ土地ながら、“地域”としての東京の匂いが息づいて いるようで、親しみを感じます。私たちも「ここで生き、住み、働き、学び、たたかい」ながら、ここをかえるためにがんばります。(松山市 川又美子様)

 「川上音二郎が赤いタスキをかけて応召した話」過日偶然に聞いたのは、谷中墓地の茶店の奥さんからです。壮行会には貞奴も参列したとのことです。(埼玉県鳩ヶ谷市 鈴木武雄様)

 特に地図はよいですね。サンポには最高です。今まで何も知らないで歩いていましたが、地図を手に持って歩く楽しさはすばらしいです。主人に「谷中サン ポ」ばかりでなく「たまには銀座でも行ったら」といわれますが「ノウ」です。まだまだ横町歩いてみます。(本駒込 村田康子様)
*編集部では村田さんのご主人てやさしそう、と評判です。

 図書館で其の三を拝見しました。上野からの帰り自転車で時々通るクネクネ道が藍染川そのものの跡とは知りませんでした。その他大変ためになりました。(千石 山田信明様)

 昔の地名を知る人はほとんど居なくなりました。機能的な時代になりましても人間の心の温もり、つながりは残したいものであります。不忍通りも、電車が 通っていた頃は「逢初橋」「八重垣町」などなつかしい停留所がありましたが、なくなり淋しくなりました。(北区豊島 中村芳三様)

 私の子供時代は不忍通りに御影石の敷石、鈍く銀色に光ったレールが並び、市内電車が、早朝から神明町―須田町間を多くの乗客を運び、通りの商店も活気が ありました。芙蓉館前の大きなカーブで、よく架線が外れたり切れたり、脱線したり、大騒ぎで私たち子供には楽しみでした。
 映画館では「ノンキな父さん」や「正ちゃんの冒険」等、漫画映画が大変な人気でした。映画館の右前は、小倉電気店でラジオがまだ始まりで、よく立ち聞き しました。近くの交番には、大きなポプラの木があり、巡査の制服の移り変わりで季節の移り変わりを知ったものです。童心に帰り望郷の思いますます溢れてき ます。(荒川区東尾久 藤林誠一様)

祖父も父も西片町生れ、お寺が谷中のいちょう横町角の「了ごん寺」と申すところにありまして戦前の子供の頃から父、母に手を引かれて訪れておりました。な つかしき場所です。谷中には父方の親類に仕え嫁いだ「いろはせんべい」店があって墓参の帰り必ず立ち寄ったものです。あの界隈おせんべい屋さんもなぜか多 くあり、一度特集して欲しいものです。(浦和市 帷子弓男様)

 編集後記の「胸の痛み」をおぼえること、ほとんど少数民族の無言の恨みのごとくに私は思っていますので、若い世代にもおられることに、ある安心と気の毒 さもおぼえる次第。「懐旧の情におぼれることなく」に大賛成。ねがわくば「町の現在」が、いかにすてきか、生き生きと、のびのびとご記録ください。(豊島 区東池袋 小沢信男様)

 小生は大正二年、今の向丘一丁目一六、当時東片町で生れました。その古い二階家は現存のはずです。この春四月七日、谷中育ちで九十三歳の従兄と二人で、 谷中天王寺界隈の花見をして、花見寺から芋坂を下って羽二重団子で休みました。従兄が耳が遠いものですから、大声で「この団子屋は昔百姓家のかたわら、団 子を作っていてこれだけの商い店になったんだぞ」と語るのでハラハラしたものです。よく根津様の脇の風呂屋に若い家内と行きました。芙蓉館でよく見たチャ ンバラも懐かしい。(鎌倉市 立沢正雄様)

 今年七十六歳の母が子供の頃、根津に住んでおりました。その母が目を輝かせて「根津へ行って来たよ。」と申しました。五月五日につつじ祭りを見て来たの だそうです。昔は藍染橋の近くに住んでいたらしいのです。お巡りさんに尋ねたら昔の番地では解らなくて、町内会の役員さんが「村山さん」というお宅を教え てくださったそうです。その頃、母の仲良しだった「さくらちゃん、とよちゃん」はお嫁に行かれたと思いますが、「藤ちゃん」というお兄さんとその娘さんの 「ときちゃん」に逢えないかと、はかない望みを持っていた母も扉をたたく勇気もなく帰って来たようです。私は残念でたまりません。母はおそば屋もお風呂屋 もあったと喜んで満足しておりましたが。うちは一番はしで村山さんは五軒長屋の向うから二軒めだったといっております。母の名は「藍谷とり」です。私はま だ未練たっぷりで、今度は私が権現様参りに行こうかと思っております。(鎌倉市 相原好英様)
*「藤ちゃん」「ときちゃん」編集部にご一報を!

 地域文化再発見のために、皆で作り上げてゆく町、見つめなおす町、そのための機関誌、情報交換的役割を果たすなど、地域にとって多いに益あることだと思 われ、賛成いたします。また、この谷中地区は古い町並や、形のみならず心意気においてすら、まだまだ昔が残っていて幸です。誤ちはのちに訂正すればよいの ですから、誤ちを恐れずに、どんどん編集を続けて下さい。(谷中 中澤伸弘様)

 前号で、世田谷の宮坂務さんが伯父和地依行氏の消息を探していましたが、その方の娘さんと千駄木小で同級生だった大橋さんよりご連絡を頂き、消息がわかりました。今後とも、谷根千の誌面をお役立て下さいませ。

 ご紹介できなかったお手紙も多く、どれも編集部で泣いたり笑ったりしながら読ませていただきました。お手紙はそのまま資料になりますので助かります。またお待ちしています。


32頁
編集後記
◆谷中の桜並木は緑を濃くし、坂を自転車で駆け上ると汗、駆け降りると風。皆様お変わりないですか。三号雑誌で終らずにすんでホッとしています。過日、三 崎町会の廃品回収を手伝うと雑誌だけでトラック一杯。読みすて商品が多く、有限な資源の先行きが思われます。紙のムダみたいな雑誌にならぬよう気をつけま す。幸い廃品の山に谷根千は一冊もなくて本当にうれしかったです。
◆今日もまた、古い木造家屋が壊れていく。そしてビルに。憂うつです。とはいえ、このところ、古い家の再利用を考えている方、大切に住みこなしている方、 土地は決して売らない方とも出会え、「望みなきにしもあらず」と元気がでました。アメリカ人留学生のサンドさんも、古い家が見つかりただいま改造中。古い 家が町から消えそうな情報がありましたらおっとりカメラで駆けつけます。ご一報を。
◆先日、谷中銀座に見えた鈴木都知事に偶然お会いでき、谷根千を「マイタウン構想にあった企画だ」とおほめ頂きました。が私の心は複雑。コンクリと鉄でで きた町にはしたくないですものね。 「マイタウン」という横文字がピンとこない。「わがまち」「下町」「ふるさと」「いこい」みんな手垢にまみれた感じ。なんかいい言葉、ないでしょうか。私 は今のところ「町場」「界隈」「市井」なんてのが好き。
◆この町にないものって何だろう、と考えると、あった。高速道路と歩道橋。車より人間のペースを優先させている町なのです。だから谷根千もゆっくりまいります。月刊化を望む読者の声に感動しつつ、谷根千は忘れたころに発売です。次号は九月上旬、鴎外特集を予定。

お知らせ
●地域雑誌「谷中・根津・千駄木」は、地図上(P16)の「谷根千」のある店でお求め下さい。バックナンバーは地域内の書店にあります。遠方の方は、地域 外の書店、または郵送もいたします。一冊420円(送料170円含)、定期購読は5冊分で2000円(送料含)と百円お得です。
●石田良介さんの切り絵で「谷中・根津道中案内図」を作りました。地域内書店にあります。一部250円、郵送の場合は送料込370円。「地図要」と明記下さい。
●坂のある風景(P22)の棚谷勲さんの銅版画は、額装して8000円(送料含)でお頒けしています。
●以上、送金には郵便振替が便利です。連絡欄に必要なものを必ず明記してください。また、お送りするのに二週間くらいかかります。ご了承下さい。
郵便振替  東京5-162631〈谷根千工房〉宛

訂正 其の3
P7上段/大島八角→伯鶴 
P21下段/歌右衛門→右太衛門 
P30中段/大滝修治→秀治
 以上訂正します。

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の四
1985年6月15日発行
編集人/森まゆみ 発行人/山崎範子 事務局/仰木ひろみ
発行 谷根千工房(やねせんこうぼう)
〒113 東京都文京区千駄木3-1-1-102(仰木方)
電話 03-3822-7623 郵便振替 東京5-162631
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