地域雑誌「谷中 根津 千駄木」3号 / 1985年3月15日(金曜日)発行  250円
藍染川すとりーと・らいふ
3号 藍染川すとりーと・らいふ 地域雑誌 谷中根津千駄木 其の三 一九八五・春

目次 
特集 藍染川を憶えていますか?
    街の人々に聞いて歩きました…
 この道、ずいぶん曲ってるね―4 
  藍染川すとりーと・らいふ 

手仕事を訪ねて2
丁子屋/中小路染物店―12
自由民権と谷中墓地 判佞稜妃后匹砲茲擦
川上音二郎と劇界―2
この街にこんな人
《谷中》旧い町の国際人
 萩原忠三さん―15
《千駄木》いよよ華やぐ踊りの名手
 竹中初子さん―21
古来つつじの名所であった
根津神社―18
郷土史発掘
日暮里の岡はなぜ消えたか―平塚春造―22
エッセイ 谷中の好きな芸大生―山浦正宏―26
味のグランプリ トレアドール―28
ひろみの一日入門 今日はししゃもが安いよ―30

谷根千マップ―16 情報トピックス―29
お便り―27 編集後記―32 文化ガイド―33

題字=本郷松しん タイトル文字=岡本明子・草野権和 写真=千葉安明ほか
イラスト=つるみよしこ 地図制作=柳則子 写植=今野早苗 印刷・製本=蟷粟梗

(2〜3ページ)
春の波濤によせて―自由民権と谷中墓地
川上音二郎と劇界
 春の風に誘われて谷中の桜はまだかいな。江戸のころより並木桜で有名なここ谷中墓地、天王寺の境内を拓いて公立霊園となったのが明治七年。幕末から明治 の日本を作った政治家も実業家も学者も芸能人も、さながら呉越同舟で眠っておりますが、今年のNHK大河ドラマ「春の波濤」にはよほど縁が深い。
 おっとその前に、ドラマの原作者杉本苑子さんも谷中由縁の方。母堂は谷中小学校を卒業し、ご自身も小学生のころ、一時谷中に住み、従弟の窪田秀雄さんが言問通りの坂上で書店「かるであ文庫」を開いていらっしゃいます。
 さて、ヒロインは松坂慶子演じます川上貞奴。葭町の名妓から伊藤博文の愛人、のちに近代日本初の女優となる。彼女が、浜田屋の養女になる前に厄介になっていた彫金家、明治の名匠加納夏雄の墓が、谷中墓地にあります。
 そしてヒーロー、中村雅俊の大らかな演技で得をしております川上音二郎、こちらの墓は九州博多の承天寺ですが、谷中墓地には霊園事務所の前に碑があります。
 彼は福沢諭吉の学僕上り、折しも自由民権の嵐の中、十八歳位から自由童子を名乗り、各地で演説しております。
 「一つとせ、人のこの世に生まるるや、民権自由のあればこそ、コノあればこそ。二つとせ、不自由極まる世の中も、これも官ちゃんがなす業よ、コノにくらしや」
 当時、お上にたてつくことの難しさは今の比ではない。この「民権数え唄」の民尊官卑の思想、当時の民衆に受けました。その影響で時の人気講談師、松林伯 円(しょうりんはくえん)なども講談より政談の方が入りがいいというのであわて、「東洋民権百家伝」を高座にかけておあります。この二代伯円のお墓は日暮 里南泉寺。
 この民権の波も秩父事件弾圧を最後に下火に向い、伊藤博文らはプロシア憲法に範をとる絶対天皇制の憲法と国会開設で民衆の突き上げをかわします。この時、伊藤博文の片腕として憲法を起草した井上毅の墓は谷中瑞林寺にあります。
 さて、明治二十年代に入り、大阪の角藤(すどう)定憲の旗揚げにつづき、川上音二郎は「経国美談」「板垣君遭難実記」そして幕間の「オッペケペ節」で登場いたします。これが世にいう壮士劇。
「権利幸福嫌いな人に自由湯をば飲ませたい…心に自由の種をまけ、オッペケペッポペッポッポ」
 これは言論弾圧の目を盗んで、滑稽芝居の形で大いにアジろうというわけ。
 音二郎はスタンドプレー、マスコミ操作が、実にうまい。劇そのものは下手もいいとこのドタバタ劇。でも歌舞伎の様式美に飽きていた観客は、リアルで生き がいいと大喜び。あまりの評判に、歌舞伎界の人気を二分した団十郎も来る、菊五郎も来る。芸妓のきれいどころも熱を上げる。その一人が貞奴。二人は恋の火 花を散らします。
 これ以前、旧劇歌舞伎の沈滞で劇界はいきづまっております。これをいかにせんと伊藤博文の女婿末松謙澄を中心に、明治十九年演劇改良会を組織。貞奴も蛎 殻町の「友楽館」の芸者芝居に出る。実業家渋沢栄一や東京日日新聞社長で歌舞伎座を建てた福地桜痴も加わってますが、二人の墓も谷中墓地にあります。
 灼熱の恋の貞奴と音二郎、二十七年に正式に結婚して川上一座を組み、欧米を巡業。ここで貞奴は日本の名優「マダム・サダヤッコ」として大人気を博します。ロダンやジイド、ピカソが彼女の姿を描いているほか社交界では「貞奴まげ」が流行すほど。
 帰国して江見水陰(の墓もあります)に千円の脚本料で「オセロ」を書いてもらい、もちろんオセロは音二郎、デズデモーナは貞奴、イヤーゴは高田実という 配役(彼の墓は谷中金嶺寺)で大当たりをとります。坪内逍遥や森鷗外が絶賛、佐佐木信綱、上田敏も見に来ます。このほか依田学海や長田秋涛も川上一座のた めに脚本を書いています。
 シェークスピア劇の紹介、帝劇、女優養成所の開設、芝居茶屋の廃止、装置照明の改良、児童劇など、自由民権の生んだ一代の風雲児音二郎は、明治の劇界に多くのものを残して駆け抜け、四十八歳で逝ってしまいます。
 そして音二郎の碑に名を連ねている藤沢浅二郎、高田実、井伊蓉峰らが跡をついで新派を大成してゆくのです。
 次号では「自由民権」を思想的に鼓舞した啓蒙家のお墓をご案内しましょう。
 乞ご期待!

(4〜14ページ)

藍染川すとりーと・らいふ
この道ずいぶん曲がってるね

とある日娘がいいました。
三崎坂下から言問通りに抜ける道。
ホントだ、
表の不忍通りを歩くより二倍時間がかかっちゃう。
なぜ曲っているんだろう。
なぜこんな細い道が区境なんだろう。
ふと調べたくなりました。

実はここに昔、川が流れていたのです。
古い古い川です、由緒正しき川です。
藍染川を覚えていますか?
―大勢の町の方に聞いてみました。

●ここらでは大溝(おおどぶ)と呼んでいた。夜投げ屋っていったっけ、どぶに入って中をザルでさらって、しんちゅうやアカガネや、ときには指輪も出てくる んだってさ。チョロチョロした流れだし、ガラスだの瀬戸物だので危いから中へ入って遊ぶていうような川じゃなかったわねえ。舗装されてないからドブドブ よ。(竹中初子さん、明44生)

●三崎坂の入口に牡丹燈篭の新幡随院法住寺ってお寺があったでしょう。だからこの辺じゃみんなバンズイ川って呼んでたと思うよ。(浅井惣太郎さん、菊人形植惣)

●この逢初稲荷社(三崎坂上りかけ左側の道奥)は土地の前の持主から、このお稲荷さんを大事にしてくれるなら譲るといわれて土地を買ったんです。 元禄十五年と書いてあるでしょ。川から上ったものらしいですよ。で、うちは大切にお守りして、今でも、毎年初午(2月12日)には皆さんお参りにみえる し、私どもではお赤飯を配るんですよ。入口の石は参道入口のお燈明なの。(内野せきさん)

●すぐ溢れる川ですが、流れてましたから水はきれいでしたね。洗い場があって農家の人が野菜を洗ってましたものね。そこから駒込のヤッチャ場へ運ぶのですって。螢やトンボを取って遊びました。(鹿島次郎さん、田端文士村のパトロン鹿島建設の鹿島龍蔵氏子息)

●主人が根津製餡に勤めていたので、あんこの配達の荷車の後おしをして、浅草でもどこまでも行きました。坂が多いのでつらかった。藍染川といえば、一度、 生まれたばかりの赤ン坊が流れてきて大騒ぎになったことがあります。裸で、もちろん死んでました。皆で見に行ったけど、はァ、なんて酷(むご) い ことするもんだって胸がつぶれるようだったです。(石山はなさん、明34生)

●リボン工場では朝汽笛が鳴った。藍で川が青くなったとは聞かないね。今の西日暮里へ行く角に難波屋という氷屋があってうまくてよく行ったものだ。(浅井正夫さん、菊人形植梅)

 
 川を利用した仕事(小瀬健資氏調べ)
◆根津製餡所―明治42年創業。藍染町から谷中へ引っ越した。今また深川へ移転中。
◆丁子屋染物店―明治33年創業。
◆植田紅絹朱染工場―明治3年〜大正期。片町。赤津湯の前。
◆バンズイ(金魚屋、春日氏)−明治8年〜大正中頃。
◆瀬戸油シート店。母衣地ゴム引き雨覆工場。明治16年〜
◆漉返紙店、屋号不明。明治初年〜
◆太田屋扇子製作所、田中辰之助氏。明治初年〜大正中頃


●明治末まではあさりやしじみが採れ、小魚が釣れた。子供は泳いだり水浴びをした。・・・・大正五年八月、大雨が四、五日降り続いたが、川沿いに 二階家が少なく、天井裏に寝起きしたり素人作りの筏まで出た。そこで地元の衆議院議員秋虎太郎氏を動かして官庁に町ぐるみの請願を行ない、大正七年から排 水工事を始めて、千駄木地区は九年十月に暗渠化された。(野口福治さん(故人)「ふるさと千駄木」より、明41年生、茶舗野口園)

●聞いた話ですが、上流の方の畑でとれた谷中しょうがの売り物にならないのが流れてくる、それを拾って刻んでママゴトしたといいますね。(本光寺の金子さん)

●もう水が出てばかりで、二度も家を上げたわねえ。私はもうこのうち来たときは本郷の女子美へ通ってたから川では遊ばなかったけど、男の子は中でザリガニ とったりしてましたよ。この辺りも大島伯鶴さん一龍斎貞山さんと芸能関係の人、植木屋も多かった。( 森ともさん、明39生、北区中里)

●砺波の角はスズランというカフェが玉突き場になってました。この道は狭くてじゅくじゅくしてあんまり通る気がしなかったわね。向こう方が崖になってて楓の木がずっと植わってて秋はきれいでした。(飯塚はなさん、谷中小学校隣り)

●真島湯の向いで親父が米を入れる麻袋の改造をしてました。私も子供時分から手伝ってましたから、あまり遊んだ覚えはないなあ。秋の大雨のころは 川によく鯉やナマズが上がって捕っていた人もいたけど、アレ食べちゃったのかなあ。この辺では近くに画家が多くてキャンバスに使うからって麻袋売ってくれ と来ましたね、かじや、炭屋、古材やなどあり、また三軒ほど遊郭流れの茶屋があったように覚えています。(清水清太郎さん、真島町)

●この辺りの染物といえば初音四丁目三八番地にあったリボン工場(岩崎営業所、今の旭プロセス製版)、五八番地に山崎染工場(明治34設立)が あって、よく色水を川に流してたのは覚えてますね。色水を流さない日は川底の見える澄んだ水で、メダカや川エビを採りました。(佐藤龍蔵さん、明36生、 富永町)

●今とちがって川に物をむやみと捨てたりしない頃だから水はきれいだったと思いますよ。田んぼの畦道みたいなところで、れんげ草なんか咲いてい て、お友だちとメダカをしゃくいに行きました。それで田んぼの中へ落っこって泥んこになって帰ったこともありました。くれかかるころは蛙がゲロゲロ鳴いて 淋しい所でした。(清水静江さん、明34年生、植木初音園、谷中蛍沢)

●上野台と本郷台にはさまれた谷中・根津の低地は、東京でもすぐれた歴史性をもつ地域です。藍染川に沿って南北に、川を利用しながら、人々の暮らしや交通 が発達していった。天王寺の富くじ、根津遊郭、団子坂菊人形といった非日常性も混在していた。そして地形、寺、大名屋敷、公共用地といったものに阻まれて 東西方向の交通は大正まで開けず、低地は閉鎖的な文化圏を形成し、その意味では、藍染川は谷中根津千駄木という地域の母なる川といってよいでしょう。(藤 原恵洋さん、東大生産技術研)

●昔はそこら中にどぶ川が流れてた。その中でも大どぶ(藍染川)は深くて人がはまっているのも見ました。蚊が多くてね。蚊帳して寝てたけど、そのまわりを螢が飛ぶんですよ。(岸むめさん、岸材木店、明22生)

●さあて、ランプの頃の話だわねえ。私が養女に来たこの家は米屋で、とてもかあいがってもらったの。太田ヶ原から藍染川に流れる川でウナギがとれた。今の梅の湯とイーグルの間ね。バケツをさげてお父さんと採ってきて、割いて食べたの。
 子供時代は今みたいに機械がないからね。籾で仕入れてキッコンキッコン父親が脱穀するのを手伝った。配達のときも荷車で「トヨや押してくれるか」という んで「あいお父ちゃん押したげるよ」って坂の上まで押すと「ご苦労だったね」と行ってしまう。こんどは八百屋のおじさんがハアハアいって来るのを手伝って あげると「いい子だね」ってミカンをくれる。「だからお前のゲタの後ろは早く減っちゃうんだね」って母親がタメ息ついてたもの。
 お下げにゆって赤いリボンつけて根津学校へ行った。帰ったって冷ご飯におみそ汁かけたのがおやつよ。ふかしたおいもなんてすごい楽しみでしたよ。菊人形とか日清日露のときの提灯行列とか、思い出すこといろいろあるけど、大水が出てもやっぱりここが好きなのねえ。
(斎藤トヨさん、明32生、裏門坂下)

●雨が降ると、洪水にならなくても川面が道路スレスレまでせり上がってゴウゴウと流れて恐かったものです。川沿いの家はどの家も六尺位の厚い板を二枚、川 にわたして渡っていた。水が溢れるとその板もユラユラ流れてました。私の姉なんか、気に入らない客がくるとその人の下駄を川に投げ捨てて怒られた ものです。(小瀬健資さん、根津片町)

●雨が降るとバンズイって金魚屋(いまの藍染保育園のあたり)から金魚がいっぱい流れ出して子供たちは大喜び。しゃくって遊んだもんです。不忍池の方から鯉や鮒が上ってくることもあった。( 槍新さん、藍染町)

●私は団子坂の上の方で生まれましたけどネ、お盆のとき、おひょろさま(お精霊様)といって果物とか野菜とか藍染川に流しましたネ。それでずうっと川沿いにどこまでもどこまでも見えなくなるまで追いかけました。(中小路静いさん、明44生)

●私は三代目で親父までは大工で根津の不忍通り沿いにいました。七〜八つのころ、やっと買ってもらったゼブラの自転車に、これも特注のうちの半天 着て得意で乗ってたらね、橋渡るところでつまづいて川に落ちてドロドロ。いやあ叱られた、その時は泣いた泣いた。根津の藍染橋ね、あれ壊したときもウチが やって、朱塗りに黒で「あいそめ橋」と書いた欄干がこの前まであったんだけど、家の建て替えで古材屋が持ってっちゃった。(田原光太郎さん、三崎町会長)

●ところどころに水が湧き、流れていたのできれいでした。下が砂利で立つと足が見えましたから。幅が二メートル、深さが二十センチくらい。夏の暑 い日や風が強くて埃っぽい日には、川端の家の人が長い柄の柄杓で川の水を汲み道路へまいてました。夕暮れになると蝙蝠が道スレスレに飛ぶのを追いかけまし た。
 私は川ぞいから一本入ったところの奥の二階家で、一軒おいた裏に俳優の金子信雄さんの父上が歯医者をしていらした。表通りには丁子屋さんの隣り が下宿屋さん。その前に柳の木が一本あった。その隣りがいまパーキングの益池さん、木下さん。向かいあって侍医の広瀬さんのお邸がありました。
 谷中はめったに火事がないんですが、それでも、火事のとき、川が役立った記憶があります。谷中の消防署から最新式の蒸気ポンプ車を馬二頭で引い て駆けつけてきたんですが、距離が近すぎてね、、蒸気が出るまでいかない。ピカピカの最新式でもイザというとき役に立たないと評判でした。(北浜健一さ ん、真島町)  

川沿いのお寺
臨江寺/臨済宗京都大徳寺末。寛永七年不忍池南岸で臨江庵と称す。寛文七年現地に移転古文書の鑑定家古筆了仲Dや蒲生君平の墓がある。境内は武蔵野の面影をよく残す。門前の長屋は明治末の珍しいもの。
瑞松院/臨済宗京都妙心寺末。承応元年本郷湯島大根畑に創立。寛文四年、現地に移転。
本寿寺/日蓮宗京都本国寺末。慶長十九年神田寺町に創建、慶安三年現地へ移転。俗に川端のお祖師さまといわれ江戸十祖師の一つ。とりわけ女性の参拝客が多 かった。勧進帳の作者三代杵屋六三郎、俳優岩井粂三郎、芸妓美代吉(尾花屋おみの、河竹黙阿弥の劇「八幡祭小望月賑(よみやのにぎわい)」無理心中のヒロ イン)の墓がある。

 

お聞きした話のほんの少ししか紹介できず残念です。震災の頃までは確かに川があった。橋を渡って逃げたのだから確かだ、といいます。そして、暗渠化される工事で、根津の町は半年ほど商売にならなかったとか。子供たちは出来たての土管に入って遊びました。
 人間は誰しも水が恋しい。それはかつて母親の胎内にいた羊水の記憶かもしれません。水と結びついた町の成立、発展、町のくらしがおぼろげながら見えてきた気がします。


雑学 藍染川

へび道
川の流れに沿って道が曲がっているための俗称。または千駄木の七曲りとも。和可奈寿司の刑部正太郎さんが実際に数えたところでは十五曲がり。

区境
不忍通りが開通したのはようやく明治の中頃、それまでは藍染川ルートはまだ主要道だった。谷中と駒込をはじめ、各土地の間を流れるので境川(さかいがわ)ともいう。ここが本郷区と下谷区の区境になったのは明治二年。

大昔
川になる前、この根津、谷中の低地は東京湾の奥深い入江。上野台や本郷台は半島だった。のちに海水が後退して一筋の流れとして残った川が藍染川なのだ。

名の由来
上流に紺屋など藍染を業とする者が多かったとの説。水源が染井だからとの説。二つの川が合流するので逢初川とする説。これは遊郭のあった根津にはピッタリの粋な名です。

他称
道灌山下より上流では谷田川、谷戸川、境川、また近所の人は蜆川、螢川。谷中の萩寺宗林寺から川べりまでを昔、螢沢といった。
草の葉を落るより飛ぶ螢かな 芭蕉

水源
これが難しい。『新編武蔵風土記稿』は染井の長池、『御府内備考』は渋江長伯が預かりの巣鴨の御薬園より出ずという。これは今の外語大のグラウンドあたり。
赤土である関東ローム層の表土は非常によく雨水を通す。従ってその下の何層かの武蔵野礫層は巨大なプールのような滞水層になっている。そこで台地の切れ目の礫層が露出した部分から自然の湧水が出る。染井あたりの湧水を集めたのが藍染川というわけだ。
そういえば根津権現の裏山や、赤土山(あかぢやま)も赤土で、大名時計博物館の上口等氏の父上、愚郎氏はこの土で焼物を焼いていたのです。
ところで、宮永町の佐藤龍蔵さんや鈴木理生『江戸の川・東京の川』によれば、藍染川(谷田川)は石神井川とつながっており、鈴木氏はむしろ谷田川が石神井川本流で、中世に王子の谷を切って、石神井川を隅田川の方へ流した工事の跡が見えるという。

支流
前述したように台地の突端部からの湧水が支流となって川に注いでいた。有名なのは太田備中守邸、太田ヶ原からの支流。また三崎坂入口乃池寿司店裏を探検すると古い川の跡が見つかる。

上流探検
自転車でさかのぼってみる。よみせ通りを抜け、谷田川通りを抜け、道はゆるやかだが上がりぎみに曲がって続く。松本屋という古い染物店、水神稲荷もある。
田端銀座を横切り、駒込駅裏口のガードをくぐり、駒込銀座、霜降銀座、染井銀座となる。霜降銀座で道を聞いた池田蒲鉾店のおじさんは、偶然にも千駄木の池田蒲鉾店のご親戚。
これだけ賑やかな商店街がエンエンと続くことからみても、川のもつ商業的な重要さがわかる。ついに左に切れ下瀬(しもせ)坂を上る。この坂の看板に外大グラウンドが昔池で、谷田川の水源だったことが記されていた。

下流
五人の侍(森宗兵衛、岡田将監、内藤加賀守、松平藤九郎、秋之但馬守)が住んでいた通称五人堀を抜け、一つは不忍池へそのまま注ぎ、あと東流、西流の二つ の流れが池の周りを流れ、また合流する。この合流点を「どんどん」という。そして三橋をくぐり、忍川となって三味線堀(昔姫ヶ池)へ、また鳥越川となって 隅田川へ注ぐ。

他の藍染川
佐藤龍蔵さんによれば、
(1)内神田の白壁町と紺屋川の間を東流。
(2)浅草花川戸町から材木町を通り隅田川へ注ぐ溝。
(3)本所竹町を縫って宮戸川へ流れ入る。
の三流あるが、根津藍染川がもっとも長命であったという。
『角川地名大辞典』をひもとくと、(1)神田鍛冶町の通を横切りて東の方へ流るる溝。明治十八年頃に埋め立てられる。(2)明治三十年浅草区全図には藍染川溝渠を記載、埋没年代未詳。とある。東京中の川が埋め立てられるさまが浮ぶ。

彰義隊
かの上野戦争は慶応四年、五月十五日のこと。大雨であった。谷中では天王寺、養福寺、浄光寺に分屯した彰義隊を、本郷から官軍が攻める。三崎坂を谷中口と いったが、ここは坂で道も狭い上に、折からの豪雨で藍染川が氾らん。進むも退くもままならず撃たれた官軍数を知らずという(『東叡山戦争始末』より)。

藍染町
藍染川に沿うところから明治五年二月に生れた。昭和三十九年の町名変更で根津二丁目の内に入ったが、藍染町会(服部真一会長)は健在。

暗渠化
とにかく夏から秋の雨のたびに大水、ときには舟も出るほどで住民はウンザリ。陳情が実り、大正中ごろから昭和初期にかけて藍染川は暗渠になった。
 人呼んで下水博士の栗原茂さんによると「ほうぼうで違う時期に手をつけているから、暗渠化された年代は確定できないネ。いまだに溢れるのは、谷田川の方 は東京府の工事で土管が太いのに、下流の藍染川の方は東京市の工事で土管が細いせいもある。ここ(道灌山下)が市と府の境だからネ。そこで何ヶ所か分流し て三河島処理場へ行ってる。一部は昔通り、千駄木、根津、不忍池から万世橋に出て神田川へ落ちる。これが千駄木真島町幹線。このほか、不忍通りの地下鉄の 上も何本も太い管が通ってるんだ。わかったかね。」
 はァ、土中の話は複雑で、もう少し勉強しませんと。

最近の水害
昭和56年7月22日、80ミリ、10月14日、根津で浸水960世帯。10月22日根津、千駄木浸水1400世帯、災害救助法適用。
 昭和57年6月20日、根津、千駄木床上浸水700世帯。8月1日の台風10号、11月30日にも多くの家が浸水。
 昭和58年6月10日、25分で63ミリ。

水害対策
この地域の下水処理能力は毎時50ミリまでは大丈夫といわれてきた。が都心化が進み、露出地面が少なくなると水が土中に吸い込まれない。それだけ下水に流入し、溢れることになる。つまり庭がなくなりビルが建つほど危険は高まるわけ。緑地、空地、墓地を大切にしたいものだ。
 対策としては従来の下水道清掃設備や雨水浸透枡を作る。崖や坂の途中にU字溝を作って時差排水するなどの手のほか、いま谷中幹線、第二地茂堀幹線などで、上野台の下を抜けて直接三河島処理場へ流す工事が進行中。

最後に粋にしめましょう。
 藍染川の雪
     小野金次郎作詞/杵屋鎖佐登代作曲
♪せかれては 藍染川の中絶えて
            末日雪の通い路に
  いつ水ぬるむ 緑じゃやら
       春くるまでの気のもつれ

三四郎の逢引路(デートコース)―文学に現われた藍染川
 団子坂菊人形を見て気分を悪くした美禰子と三四郎は小屋を出て坂を降りる。「谷中と千駄木が谷で出逢ふと、一番低い所に小川(※藍染川)が流れている。 河は真直に北へ通っている。此小川を沿ふて、町を左へきれるとすぐ野に出る(※夜店通り)。三四郎は東京へ着てから何遍此川の向側を歩いて、何遍此方側を 歩いたか善く覚えてゐる。美禰子の立ってゐる所は、此小川が丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋(※枇杷橋)の傍である」
それを渡り左折する。
「しばらく河の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。三四郎は此静かな秋のなかへ出たら、急に饒舌り出した(※谷田田圃の辺りか)」
 また一丁ほど行って橋を渡ると藁屋根の下に唐辛子を干した農家。二人は草の土手に腰を下ろす。足下には川。
「秋になって水が落ちたから浅い。角の石の上に鶺鴒(せきれい)が一羽とまった位である」向うは広い畠、その先は森。(※諏方神社か)百姓が大根を洗っている。空の色が変わる。そして美禰子が謎めいたストレイ・シープをつぶやく件り。この美禰子のモデルは平塚雷鳥とか。
(夏目漱石『三四郎』明治41)
「友人は……評判の胴着をぐんぐんと丸めて、散歩に出た序(ついで)に、根津の大きな泥溝の中へ捨ててしまひました」(漱石『こころ』大正3)
「岡田の日々は散歩は大抵道筋が極まってゐた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のやうな水の流れ込む不忍の池の北側を廻って上野の山をぶらつく」(森鷗外『雁』明治44)
「僕は古賀の跡に附いて、始て藍染橋を渡った。古賀は西側の小さい家に這入って、店の者と話をする。僕は間際に立ってゐる。此家は引手茶屋である」(鷗外『ヰタ・セクスアリス』明治42)
根津遊郭八幡楼の女郎に入れあげて学科を全廃した友人の事を聞き込む。
「藍染川の流れについて、少し折れ曲つて行つたところに、菅の下宿がある。車はその黒板塀の外で停つた」(島崎藤村『春』明治41)
 菅のモデルは戸川秋骨。彼の池の端七軒町の下宿に藤村、平田禿木、馬場孤蝶ら「文学界」の同人がよく集まった。
「其の溝川といふのは、末は不忍の池にはいる逢初川の流れで、昔は静かな田川であったらしい。其の生垣続きの家々の裏には、ほかにも幾つかの土橋が架つて居て、溝の両側にいま少し樹でも思出させさうな、東京としては変つた景色であつた」(岩本素白『山居俗情』昭和12)
 町なかを瀬をなし流れゆく水の
      さざ波きよき波のうへかも
            (釈超空=折口信夫)

橋づくし―上流から
谷田橋/田端駅へ向う道路との交差点。石橋。今は谷田橋薬局に名を残す。
あかぢ橋/西日暮里駅へ向う道との交差点。日暮里渡辺町を開いたあかぢ銀行頭取渡辺治右衛門との関連か。
枇杷橋/合染橋とも。三崎坂下へび道入口の石の橋。長さ二間、幅八尺。
旭橋、不明門橋/あかぢ坂下。甲府宰相の根津元屋敷の不明(あかず)の門の跡。このあとを俗にあかずという。今はなき赤津湯の名もそれから? 幅七尺、長二間。
見返り橋/三浦坂下、谷中の僧が遊郭の帰り名残りを惜んで振り返ったから?
手取橋/言問通りとの交差地点。はじめ丸太の小橋で手を取らないと渡れなかったから。イヤ遊郭にちなむものとも。のちに石橋。二間×三間。
花見橋/善光寺坂下。寛永年間からの古い橋だが明治に入ってこの名に。幅五間、長さ二間の土橋。
逢初橋/根津遊郭東隅の大橋。二間×幅四間の土橋。仮名垣魯文の命名とか。かつて都電の停留所に名を残していた。
黄昏橋/旧谷中道ぞい。手取橋より二分した南の藍染川に架る小橋。
曙橋/黄昏橋の東。根津を昔、曙の里といったから。
紅葉橋/根津神社の紅葉が有名だったから。ヒョットコ橋とも。近くの茅町へ行く道にオカメそばの元祖「太田庵」があったから対の名。
雪見橋/弥生坂下の流れに架る橋。

かつて『住所』というものがなかった頃は、坂や橋などは重要な目印としての役目があり、人々は必ずこれらに名前をつけたのです。



(12〜13ページ)
手仕事を訪ねて◆|子屋 根津2−32−8 筺Γ械牽横院檻苅娃僑

 紺ののれんが風に吹かれている。明治二十八の創業。現在の主人村田庄司さんは四代目。屋号は家紋の「丁子巴」から。以来九十年、着物の染め、洗いを業いとしてきた。
 「桶のたまり水で洗うと、どうしてもあくで白場(生地の白い所)が汚れるからね。絶えず流れている川がすすぐのによかったんでしょうね。」
 昔と変わらぬ仕事の手順。汚れて持ち込まれた着物をまず全部ほどく。もちろん絹物だ。水洗いをし、端縫いをしてすっかりもとと同じ一反の姿にしてから、中性洗剤で汚れをとり竹ひごの伸子張り。これで布のタテの目がすっと伸びる。乾くとアイロンをかける。
 そんな大変な仕事でおいくらですか。
「物によって違うけど、ごく普通の訪問着で八〜九千円くらいかな」
ほかに色抜きもするけれど、それは汚れを落として薬品で煮る。
 濃いエンジの着物を色抜きして、目もさめるような美しいピンクに染め替えたのを見せて頂いた。染め、仕立て直し、紋つけなどは他所へ出す。着付けないもので、手入れの仕方もわからなくて。
 「昔は虫干しをしたから風が通ったけど、今はマンションが湿気て、ほら、こんないい着物がカビ生えちゃう。ハンガーにつるすだけでもいいのにね。これを 素人が水につけてこすり取ると、またもっとひどいカビが生える。汗じみとか泥はねとか、大事な着物は専門家に相談したらいいと思うよ」
 ちょっと素敵すぎる門構えなので、私など入りにくい気もするが、ご主人もお母様も気さくで話し好きの方だ。建物は創業時のもので、中の障子の桟や古いタンス、入口の上下に動かす木戸などいつまでも見飽きない。
「着物を流行がないし、染めかえて孫子の代まで着られます。わからないことがあったらいつでも相談にのりますよ」といって下さった。

中小路染物店 千駄木2−34−2  筺Γ械牽横院檻隠隠沓
 「藍は生きてるんだ、今日の機嫌はどうかな」と中小路清次郎さん(明治四十年生)は下駄ばきで藍がめをのぞき込む。泡が立つのは生きのいい証拠。弱った藍は長い棒で少しかき回す。
 日本橋で呉服商をしていたが、大正十三年、震災後に今の不忍通りへとへび道の間に引っ越して、紺屋もはじめた。以来六十余年。
 伴天(はんてん)、暖簾(のれん)、幟り(のぼり)、幕をあつらえで染める。近所では昔から「旗屋さん」と親しまれていた。たとえば三崎坂の乃池寿司店とこの幟りや暖簾も中小路製。
「あれで二万くらいかね。息子や他の連中も仕事するけど、こりゃ字がうまくないとね。込み入った模様は渋紙の型紙を使う。そして布の白く浮き立たせたいところに糊をつけるわけ」
 と糊を保護するオガクズを模様の上にポンポンとふりかける。それから藍瓶につけて染める。昔は藍玉を使っていたがいまは粉末の藍染粉。そして糊を洗い落とし、伸子張りに干せばでき上り。
「紺屋のあさってというでしょう。三日天気がつづかないとね。お天道さまじゃなきゃダメなんだ。こんな昔風のやり方のところ、今どきないよ」
 夏は白地の麻、秋から木綿の紺、といってもいろいろありまして、薄い色から濃い色まで。
「昔は伴天が多かったよ。今はお祭り用くらいだネ」
 この町の棟梁の奥さんに聞くと、
「昔は出入りのうちで毎年、名入りの伴天を下さるとこがずい分ありましたもの。お正月の挨拶や冠婚葬祭には,頂いただけ何枚も重ねていくんです」
 それでも根津辺りいまだに伴天が似合う町である。いいなァ。私も着てみようっと。

(15ページ)
◆この街にこんな人(谷中七丁目)
旧い町の国際人 萩原忠三さん

 昨年までお世話になった我が懐かしの大家さん、萩原忠三さんに久しぶりにお目にかかった。古いレインコートを作業服にして庭のヒマラヤ杉に登り、枝払い をしたり、無花果(いちじく)が実ると下さったりしたやさしいおじいちゃまと思っていたら、実は知る人ぞ知る国際的ジャーナリストだったのだ。
 萩原さんは、一九〇一年(明治三十四年)、今世紀の幕開けとともに、栃木県上三川の大黒屋という大きな呉服屋の次男に生まれた。子供の頃は病弱で、家の 手伝いくらいならできるだろうと、商業学校を選んだ。そして卒業して二年間、店で働く。そう言われると、着物に前掛けでソロバンをはじく姿も似合いそう だ。
 ところが、成績があまりに優秀だったので、校長先生に上の学校を勧められ、商科大学へ(卒業時には、一橋大学)。そこで、初めて学問を知る。「そしたら 楽しくなっちゃって。青春の燃焼ですね。大正時代の学生というのは『哲学する時代』といって、なんだか偉くなったような気がしましたよ」
 その大学時代に関東大震災。「やっと買った大英百科全書を学校なら安全だろうと下宿から運び込んだんです。ところが火の手が廻って燃えちゃった。皇居の 石垣の松に腰掛けて学校が燃えるのを見てると悔しくてね。これから住むのだったら公園か墓地のそばにしようと考えたんですよ」
 だから結婚して新居を決める時、上野公園と墓地に近い谷中近辺ばかりを探したという。
 共同通信社の前身である電通に長らく勤め、ジュネーブ、パリ、ロンドンと海外駐在記者、戦争直前には、ニューヨーク局長で、海外から打電。戦争は最初か ら負けると思っていましたという。日本に帰ってくれば谷中に落ちつく。今までに三度、谷中で引越しをした。二度目の住いは、彫塑家・朝倉文夫の隣の家。
「やさしい方でしたね。戦後、お酒が自由にならない時分、珍しいお酒が手に入ると、『ちょっとわからない銘柄があるから、封を切るのでいらっしゃい』なんてね。」
 現在は、日暮里駅のすぐ近くにお住い。庭にはB29の空襲の時、バケツリレーで町を守った井戸が新幹線工事にも枯れずにある。
 八十三歳の今も、ボーン・上田記念国際記者賞の常任幹事・事務局長や、全国人権擁護委員など、いつもお忙しい御様子だが、私にとってはやっぱり、あのヒマラヤ杉の上のやさしいおじいちゃまだ。

*ボーン・上田国際記者賞は、日米協力による自主的な世界ニュース通信網の確立に献身した、ボーンUPI副社長と上田電通社長とが、一九四九年東京湾の船上の突風で他界したのを惜しむ日本マスコミ界有志が記念事業として始めた。
「真友の碑」が不忍池弁天堂脇に立っている。本多勝一、大森実、磯村尚徳氏等が受賞。今年は、NHK解説委員・柳田邦男氏に決定。(O)

(18〜20ページ )
根津神社
   
   ――つつじ祭りの由来
 今年も四月二十一日から、文京つつじ祭りが根津神社で盛大に行われます。
 日程を伺いに宮司の内海元さんを尋ねたその日、植木職人が忙しそうにつつじ苑で働いていました。
 根津神社とつつじとの歴史は江戸時代にさかのぼります。寛文元年(一六六一)徳川四代将軍家綱は、兄弟である三男綱重を甲府に、四男綱吉を館林に封じました。甲府侯となった綱重は、その下屋敷を今の根津神社の地に構えたのです。
 当時この辺りはまだ根津と呼ばず、屋敷は谷中邸とも池之端邸ともいったそうです。湿地帯で草ぼうぼう、寂しいところだったんでしょう。そこで居を構えるに際に、弟綱吉のいる館林よりつつじを移植しました。
 綱吉はのちの五代将軍ですが、長男家綱が将軍職にあった時代は兄弟といえども将軍の臣下であり権力から疎外された者同士、仲が良かったのかも知れませ ん。子どものいない家綱の死後、その前々年に死んだ綱重にかわり綱吉が将軍となるわけです。この綱吉も子宝に恵まれない。そして綱重の子、綱豊が六代将軍 家宣になるのですから歴史は複雑なものです。
 館林から移植されたつつじは見事だったそうでそれ以来、いまの神社の西岡のところは“つつじが岡”として有名になります。根津神社の社地となった宝永三年以後は、桜、もみじも含め、四季折々の草木を楽しめたといいます。
 それが維新のあと何時頃か、花々は勢いをなくし、名所もすたれます。「明治三十年頃まではすばらしかったらしいけど…」の声も聞かれました。つつじは人の手を必要とします。きっと世話をするものがいなかったのでしょう。
 時は過ぎて昭和三十年代。昔、みごとに咲きほこったつつじを懐かしく想う心は、消えることなく受け継がれました。そして根津の人々の間に、再び境内につつじを植えようという機運が高まったのです。
 その頃、“つつじが岡”のあたりは雑木林となり“蛇山”と呼ばれ、やまかがしという一メートルほどもある蛇が住んでいたそうです。
 最初は雑木林を切るところから始まりました。そして当時一株二、三百円のつつじを、地元婦人部などが無料奉仕で植えていったのです。神社の脇で 苗を育てることもしました。池のまわりにつつじが植えられ、年々整備され、つつじ苑には石段もでき、“つつじ祭り”と銘打ったのが昭和四十四年。それから 毎年五月皆様がほら、こんなにたくさん、つつじの花を楽しみに神社へいらっしゃいます。

   ――古へをたずねて
 でもこの根津神社には、江戸時代をはるかにさかのぼる長い歴史があるのです。
 昔々、第十二代景行天皇は皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を東国討伐に遣わしました。道中、尊は千駄木山の地に立ち寄り、八岐大蛇(や またのおろち)を退治した素戔鳴尊(すさのうのみこと)の武勇を慕って、小社を奉納したそうです。千六百年も昔、東国が野蛮人(夷 えびす)の住む未開地 と恐れられていた時代です。
 その後長い間、お社は「元根津の宮」と呼ばれ、村人の土地の神として崇められ、祭礼も毎年行われていたようです(『御府内備考』)。場所は、今の神社と違い団子坂を上って右側の山上にありました。
 江戸時代中期、この地に甲府侯の下屋敷が置かれ、徳川綱重はその子綱豊を抱いて、この元根津の宮にお宮参りしたといいます。つまり、この宮が綱豊の産土(うぶすな)神となりました。今も境内には綱豊の胞衣(えな)塚が残っています。
 ところが五代綱吉に子がなかったために、この綱豊が養子となり家宣と改名し、六代将軍を継ぐことになりました。大変小さなお宮が、天下の将軍様の産土神と、格式がぐんと上がったわけです。
 五代綱吉の養子となったのが宝永元年、この年に甲府侯の屋敷の地を根津神社に賜り、宝永三年、千駄木団子坂の旧地より本祠を移し、立派な社殿を造営しました。いまの建物はこと時のものです。
 といっても、家宣が将軍職についたのは四十八歳、人生五十年時代のことですから、在職四年で没してしまいます。が、彼の即位の当日、稀代の悪法「生類憐れみの令」を廃止するなど、善政を敷き、民衆には慕われたようです。
  鶴はとび亀は子を産む世の中に
    甲府(家宣)万年民は悦ぶ
 歴史にもし…は禁句ですが、家宣が将軍にならなければ、根津神社は道端の小社で終わったにちがいありません。
 それからの根津の地の繁栄は目を見張るものがあります。町屋が開かれ、岡場所は明治になって遊郭として栄えました。大通り(今の不忍通り)には 桜を植え、雪洞(ぼんぼり)をともし、大いに賑わったそうです。しかし近くに東京帝国大学ができたため、学生たちが遊郭で遊んでばかりでちっとも勉強しな いというので、明治二十一年洲崎に移転しています。
 その後、不忍通りが開通し、都電が通り、根津は商業の町、職人の町として繁栄し今日にいたっています。

―根津の飴売り
●語り/渡辺昇さん(根津・華扇主人、大将六年生まれ)
 昔は飴のことを衛生糖と呼んでいたそうな。エーセートーの響きは当時のこどもたちの甘い夢。欲しくても欲しくてもなかなか買えない。その飴売りが、毎月 六日と二十一日の根津神社の縁日には必ずやって来た。縦縞の着物に前掛と赤、白、緑のたすき掛け。四、五人の飴売りの男たちが、はちまきも勇ましく拍子木 を打ち鳴らす。
 ご本の指の間に袋を持って、唄に合わせて体をひねり、見事な手さばきで飴を袋につめてゆく。あるものは唄い、あるものは踊り……。
 根津神社南側S字坂の上り口、大人は大道芸人を囲み、こどもは芸人の後に回って日の暮れるのを忘れて見ている。毎月毎月、飴売りの後にたたずんで、いつしかすっかり覚えてしまった。
♪さぁさぁ お客さんの五贔屓で
 またまぁた 売れました
 はい、日本勉強衛生糖
 久留米梅林堂の東京出張販売店
 ほら、見いなんせー 買いなんせー
  買い遅れのないように
 最初に入れます物産は
 備前の名産水蜜桃
 紀州じゃ有田のみかん入り
 青森県ではりんご入り
 信州松本名産胡麻とはっかの擦り合せ
 台湾名代のバナナ入り
 色合いが変われば味わいも変わります
 大阪市岡新田種まで真赤らけの西瓜入り
 東京は谷中で生姜入り
 日立は西山杏入り
 おしまいにまけますのが
  甲州名産絞りの手拭い頬被り
  絞り上げたる葡萄入り
 はい、まけとけ副えとけ
  おまけはどっさり お副えもどっさり

根津町名の由来諸説
『東京地理沿革志』によりますと、はっきり根津神社から起こったとあります。では、根津神社の根津はどこから来たのでしょう。
『江戸名所記』は、根津権現は不寝権現であり、諸神の寝ずの番衆であろうと記しています。又、鼠のいわれではなかろうかというのは『神社略記』。
 下りまして『東京名所図会』によれば、根津とは忍が岡、向ヶ岡の根にあたり、舟のとまるところの意味であり、津は、江戸の戸と同じく河や海にゆかりある語と記してあります。
 ほうぼうで開かれる、根津宇右衛門伝説はおもしろく、綱重の暴飲、暴政をみずからの死をもって戒めた侍臣根津右衛門の霊を、後に綱重が悔悟しこの地に祠ったというお話です。


剪画・文 石田良介
 「洋子ちゃんは、いっつも女の子らしいものを付けてるねぇ」と胸のブローチを指さした。小春を思わせる暖かい日差しが教会を包みこみ、教会に面した路地で、二人の女の子が片足でピョンピョンしながら話していた。
 鐘の音が聞こえてきそうで、ヨーロッパのどこかの街角に居る様な、根津にはやさしい街の風景が残っていた。

(21ページ)
◆この街にこんな人(千駄木二丁目)
いよよ華やぐ踊りの名手 竹中初子さん

 千駄木二丁目の竹中さんちを通りかかるといつも賑やか。「先生先生」と呼んで笑いざわめく女たちの声が聞こえる。
 ここの主、踊りのおっ師匠さんの竹中初子さんは江戸ッ子そのままのおばあちゃん。だって明治四十四年の京橋生れ。
「石川島重工の正門前、いまの新佃島で生れたんだ。おっとさんて人は印刷屋で大震災で焼けてこっちに越してきたの。そのうち料理屋を始めたんだけどさ、私しゃこれでも小町娘だったんだよ」
 そうでしょうそうでしょう。鼻筋がピーンと通った瓜ざね顔ですもん。
「それでうちの主人がさ、そのころ根津の源坊と呼ばれた板金の職人だったんだけど、それがうちに飲みにきてて、すっかり大恋愛しちまってさ。それをお父さ んがうすうす気がついてネ。うちのが二階で飲んでたんだけど、私しゃどうしても家を出るって言ったの。それじゃ荷物少しはもってこうというんで、主人と友 達と二人で長襦袢からいっぱい着こんで、二階の物干から伝って降りようってわけ。
 ところでバカだね。あたしは。黒襦子の衿の汚れをとる揮発油を荷物の中に入れたら、それがガッシャンと二階から落っこってオヤジさんにめっかった」
 ひゃあ、駆落ちってワケですね。そんな小町娘が惚れこむくらいだから、ご主人は
さぞかしいい男だったんでしょ。
 「ものすごいんだよ、いくていくて。好男子だ。若い頃は八重垣町で不良少年でならしたぐらいだからね。こうサラシをきりっと巻いてドスの頭かなんかちらつかせて、私はこういうおテンキだからそれがかっこいいって夢中になったのさ。
 これに手に職はあるし、私が惚れて、この男叩き直してやろうなんて思っちゃって」
 甲斐性あるわあ。
「それで、けっこう職人を五十人、百人て使って景気よかったよ。このウチの裏を飯場にしてさ。昭和十三年からは四年がかりで北海道の室蘭の製鋼所や輪西の製鉄所とか全部うちのがやったんだから。
 私しゃ七人子供生んで一人も欠けずに育ったけど、大きいのはうちの母に預けて小ちゃいのかかえて、北海道まで何十回往復したかわかんない。飯場じゃネエ さんネエさんていわれてさ、酒飲んで喧嘩して頭かち割った職人を消毒して包帯巻いてやって。でも当時職人に二円くらい小遣いやると子守してくれたからね。 それでダンナと二人で飲みにもいったし。
 根津映画(芙蓉館あと)に片岡千恵蔵や歌右衛門や月形竜之介なんか来るとお寿司さし入れてキャアキャアいってたわ」
 清水建設、大林組といった大手の建設会社と組んで東京オリンピックの競技場や皇居新宮殿の屋根もなさったとか。板金の中でも「長尺」ものを手がけたご主 人は十三年前になく、女三人男四人の子供は巣立ち、孫が十三人。小さな頃から踊りを習い、いまは狩野流の名手。こたつの中からお弟子さんを見つめる初子さ んの姿はいよいよ華やかである。
                                   M

(22〜25ページ )

■郷土史発掘
日暮里の岡はなぜ消えたか
平塚春造

江戸の頃より音に聞こえた風雅の里、日暮里の高台はかつて東西に裾をひくなだらかな岡であった。
それがいつ、なぜ切りたった崖になってしまったのか。
在住八十年の史家が語る。――

 私の住む家の前が、富士見坂のうちでも今では数少ない、本当に富士の見える富士見坂である。ひところ高度成長で隅田川も汚れ、空気も汚れた時分 には、富士山の見える日もほとんどなかった。私は長いこと日記に富士の見える日を記しているが、近頃は大分、印を付ける日も増えてきた。
 私の父は平塚駒次郎という鋳工である。高村光雲とコンビを組んで、宮城前の楠公、二重橋のガス燈(今は明治村にあり)、上野の西郷さんなど を、光雲が原型を作り、駒次郎が鋳造していた。東京美術学校(現芸大)の助手でもあった。最初は谷中の喜久月の後ろで鋳物研究所を開いていたが、大物を制 作するのに手狭なので、明治三十六年十一月に日暮里台へ引っ越した。私が数えで三歳の頃である。

  諏方神社と東側の崖

 この岡に最も古いのは諏方神社であろう。元亨年間(一三二一〜三)土地の豪族豊島左衛門尉経泰が勧請したもので、別当寺浄光寺(雪見寺)も同時代の創立 と考えてさしつかえない。この豊島氏は、頼朝が挙兵して武蔵国へ入ったとき馳せ参じた豊島平三郎清光を祖とし、鎌倉開府後、一時信濃の諏訪地方に 派遣されていた。このとき諏訪明神の広大な威徳を慕い、分体を故郷に勧請したものであろう。
 全国にゴンベンのつかない諏方社は、青森と関西とここと三つほどあると聞いている。のち太田道灌が社領五石を寄進し、新堀谷中の総鎮守となる。また祭礼のとき昔は御輿が神田芋洗橋の方まで巡輿したが、神田にもこの社の信者がいた証拠がある。
 かつて諏方神社前、今の富士見マンションの地には劇作家で、芥川龍之介とも親交のあった久保田万太郎が住み、次のように記している。
「わたしのうちは一足外へ出ると諏方神社である。つねに、だから、わたしのうちの玄関の戸は、その境内の木立の暗い影におされている。……ということは、春になると、その木立だの、欅だの、銀杏だののなかにまじった桜の木梢がしづかに彩りをみせる」
 私が子供の頃、諏方神社には樫や樅や杉の大木がいっぱいあって、どんぐりひろいが楽しみであった。
 ついでの思い出すのは、高台の道路から間の坂の降口の角に、吉沢登具(とく)という産婆がいて、西洋館に住み、当時珍らしい洋装でボンネットを かむり、婦人用の自転車に乗って大活躍だった。自転車も二代目で初代はゴムタイヤなどついておらず、表てに雨ざらしにしてあるのを、土地の若い衆が夕方集 まっては、乗り方をけいこしていたものである。
 さてこの日暮里の岡は江戸時代になると眺望絶佳の地として聞こえた。本行寺の句会で小林一茶が、
「利根の帆が寝ても見ゆるぞ 青田原」
 と詠んだままの景色である。そして丘陵とその林間に点在する各寺院が、競って庭園づくりに力を入れ、文人墨客の遊ぶ地として名を大いに高めた。 新堀村に「日暮里」という美しい字をあてたのは寛延のころ、つまり景色や草木を眺めあかして日が暮るるをしらず、というわけである。『江戸名所図会』は、
「この辺寺院の庭中、奇石を畳んで仮山を設け、四時草木の花絶えず、常に遊観に供ふ。就中二月の半ばよりは酒亭茶屋のしょうぎ所せく、貴賎袖をつどへて春の日の永きを覚えぬも、この里の名にしおへるものならん」
 とあるが、妙隆寺、修性院から青雲寺あたりにかけて、とりわけ花見寺として有名であった。
 ところが今日、日暮里台の東側も西側も切りたった崖となって、往時のなだらかな岡の気配はない。わずかに南泉寺だけが、武蔵野の面影を伝えている。
  まず諏方神社の東側の崖を見よう。こちらは明治十八年、鉄道の敷設のため岡が切られ崖になってしまった。たとえば浄光寺は雪見寺として有名で、三代家光 や八代吉宗も鷹狩りの帰りに立ち寄った寺であるが、この寺の平坦地にかけて大きな泉水を造り、音無川の水を引き入れていたことはまちがいない。そして斜面 を利用して曲がりくねった昇り道を作り、その間に種種の木石を配し見事な庭園を作っていた。
 それが鉄道敷設によって、低地と分断され、境内の真中を線路が通ることになった。のちこの低地の方は、安井さんという陸軍大佐が買いうけ、大 きな池には緋鯉が泳いでいたと記憶する。今の鉄道変電所のあたりである。また間の坂の踏切から城山(開成グランド)にかけては地付きの豪族冠氏の邸があ り、山あり濠ありの美しい邸宅であったが戦火で跡かたもない。また本行寺の崖上までは田宮惣右衛門邸で杉山があり、その下の方では清水が湧き、西日をさえ ぎるので、やわらかく甘味のある谷中しょうががすくすくと育っていた。螢も多く飛んでいた。

  西側の岡も消えた

 西側の岡はなぜなくなったのだろうか。
 明治に入ると廃仏毀釈の運動が起こり、どこの寺も檀家を失い、経営が困難であった。寺だけでは食えず、学校の先生や美校の生徒の間借人を置い た。他の寺と住職を兼務していた寺もあり、入ってきた住職が宝物や土地を売り払い無一文となった寺もある。その典型が今はなき妙隆寺である。
 妙隆寺の開基は不明だが、由緒ある寺で今の東京製鋲あたりにあった。修性院に先がけて寛延元年、岡を利用してつつじを植え、立派な庭園を造っ た。エピソードとしては天保二年十月二十二日、不退道という人が、仙華紙一万二千枚をつなぎあわせて、縦二十六間、横十九間の「霽(はれ)」という字をか いたことがある。使った墨が七石三斗、江戸中から見物が出た。
 明治になってこの寺の住職大塚某は、寺の経営難に苦しんで、明治十七年頃から、この岡を掘り崩して売りはじめた。その土砂は、上野不忍池の外側を埋めるのに使われた。
 しかしこの境内地は元々、日暮里村の村有地であり、その土砂を掘って売るとは本来許されざることであったが、村人はなぜか黙認し、ただ彼を“土を食って生きる”というので、「みみず坊主」と仇名した。
 ちなみに富士見坂(当時は富士見坂と呼ばず)も今より北(西日暮里駅方向)に二十メートルの位置で、諏方神社入口直前に出ていたが、岡の掘り崩 しにより今の位置に移った。つまりかつての岡は坂と同様の傾斜をもっていたのである。しかもこの坂の移転は明治十八年、村費をもって行われている。
 掘り崩した土地は売り、あとにできた平らな土地には明治三十四〜五年に、木造二階建ての「女子音楽体操学校」(日本女子体育大学の前身)を創 立したが、経営がうまくいかず手放し、のち「花見座」という芝居小屋を経て、日活の前身の撮影所になった。ロケがあると村人がぞろぞろついて歩き、エキス トラに出て映画の入場券をもらったりしていた。他は分譲して住宅となった。映画俳優島田嘉七氏の父が買ったり、博文館(今の共同印刷)社長大橋新太郎の地 所となっていた。
 しかも今度はその坂道を支える斜面すらも奥へ奥へと切りくずし、崖にしてしまった。ここでは二度も崖くずれをおこし、そのつど人夫が一人ずつ 生き埋めになった。私はそれをこの目で見ている。この掘った土は、谷田田圃を埋めたて、不忍通りを作るのに使われた。不忍通りが団子坂から動坂まで出来上 がるのが明治四十三年夏のことである。
 ここに至り、ようやく村では掘削を禁止したが時すでに遅し、美しくなだらかな日暮里の岡はすでに姿を消していたというわけである。この寺は破産状態だっ たので、またもや村費で、坂の側壁や崖の土留をするはめになった。崖のほうは村の塵芥を投下し、中段を造り、側壁をもうけた。
 妙隆寺に限らず、他の寺でも多かれ少なかれそういうことはあった。青雲寺も、明治初期に崖を切り、高台に土地があったのを、加賀前田家の墓所 として売却した(今の西日暮里公園)。この一角に有名な「道灌舟繋ぎの松」という大木が、はるか荒川を上り下りする舟の目印となっていたというがこれも枯 死した。この前田家で法事があるときは、村人が道を整備し、むしろを敷いた。前田家は沿道の一軒ずつにまんじゅうなどを人数分配った。
 修性院も、宝暦六年(一七六五)ごろから庭造りの名人岡扇計の手に依って庭園が完成、明治半ばまで多くの遊客を集めた。掛茶屋酒があって酒や田楽、自然薯をあきない賑やかだった。
 延命院も昔は七面坂下に門があり、だらだら坂を上って七面さまにお参りしたものと思われる。この延命院の斜面も、同じく明治二十二年頃、上野不 忍池の埋め立てのため掘りくずされ、あとに百軒長屋が建てられた。延命院の天然記念物に指定された大椎の木は、かつては道路を覆うばかりで、反対側の経王 寺の樅の並木は亭々とそびえ、昼なお暗かった。
 こうして東西に裾をひくなだらかな岡であった日暮しの里は消え、ついたてのような崖と高地ばかりが残った。人々を集めた花見寺の姿もない。し かし開発のすすんだ今も絵のような変化のある富士を見るのは岡に住む幸せといっていよい。富士も筑波も木枯らしが吹きやんだ朝や夕が特に美しい。そしてた まに、北から西よりに雪の連山を見ることがある。日光か、秩父か、年に二、三回そんな事がある。  (ひらつか・はるぞう)
*平塚春造氏のお話をもとに編集いたしました。

(26ページ)
−谷中の好きな芸大生  山浦正宏(芸大・ファゴット吹き)

「学生の頃、ここにあった店のおかみさんには、よくしてもらったなあ」と、根津へ下る途中、芸大の大先輩が語ってくれました。お腹をすかせていくと、いつ もあまりものを安くどっさりたべさせてもらったり、このあたりの銭湯へもよく行ったそうです。ところが時代は移り変わり、こんな芸大生と地元の方とのおつ き合いもほとんど見られなくなりました。このことを思うと、あらためて淋しい気がします。
 この間、根津と谷中のあたりを歩いてみました。時代は変わったといっても、まだまだ昔ながらの人情味というか、温かさがどことなく漂っている感じがしました。変わってしまったのは、むしろ芸大生なんだ、とふと思いました。
 芸大に対するよくない評判もたまに耳にします。この地元で、そんな評判を聞くのは、僕達にとってとてもつらいことです。
 そこでなんとか、ありのままの僕達を知ってもらいたいと思い、墓地の角の「川しま」さんのお店で、小さなサロンコンサートを開きました。コンサートと いっても全然堅苦しくなく、最初はベートーベンで始まりましたが、盛り上がりを見せたのは演歌でした。地元の方たちと、本当に楽しいひと時を過ごせて感激 し、また芸大ではクラシックなどというなにやら難しそうなものをやっていますが、実は、カラオケの方がお手のものなのです。(コンサートは今後も続ける予 定)
 このような、地元の方との交流をこれからも大切にしてゆきたいです。芸大のあるこの町が、どことなく温かい故郷のような町であることを願ってやみません。


(27ページ)
おたより

 神明町生れの私と致しましても大へんなつかしく心あたたまる読み物です。止むを得ず四十年間も訪れることもなく、又数年後にはこの地を離れなければならない身にとりましては一木一草がただ感激です。(向丘 長坂希依子様)

 私は大正時代藍染川畔の谷中初音町に住んで谷中小学校を卒業しました。川向う千駄木の子等とよく千駄木山へ行き木登りやぶらんこなどで遊びました。〈中 略〉幼年時代の藍染川は大雨が降るとよく氾濫しましたが,普段はよく澄んだ流れで小魚も見かけました。私にとっては懐かしの故郷です。(北区 金井利男 様)

 2号を神田の露地裏の茶房「きゃんどる」で見ました。かわいらしく、抑制が利いていて美しい本です。ぜひがんばって下さい。(月刊本の街 中西隆紀様)

 戦時下の昭和13年春、旧本郷区坂下(道灌山下)に在住の伯父の家に名古屋から単身上京、近くの旧制開成中学へ通学いたして居りました。伯父達の消息が 未だに不明です。伯父は和地依行、推定八十六歳。長男は胖、推定五十二歳、当時道灌山下近くの谷田橋通りで浪花家という菓子屋をやっていた。(世田谷区  宮坂務様)
―消息をご存知の方は編集部まで

 御正月になって、ゆっくり見るつもりが、がまん出来なくすぐその日夜中に読ませていただき、もう四,五回くりかえし読みました。(本駒込 村田康子様)

 地域誌“谷根千”の発刊、お祝い申し上げると共に、私達住民にとって、大変有意義で、楽しみの多い活動と思いますので、是非一号一号充実発展される事を心から期待しております。(千駄木 中村幸男様)

 銭湯好きの父に連れられて、上野の白湯(現在の人参湯でしょうか)へよく行きました。戦後三十年代頃も何度かゆきました。先頃、知人と白湯の話が出て、行った事があるとのことで何だかうれしくなりました。(足立区 草場八重子様)

 私も一応は東京育ちなのですが、旧市外(杉並・中野・豊島)でしか暮らしたことがないため、そちらのような土地にお住いの皆さんには、ずっとコンプレックスを感じながら…。(豊島区 大場文雄様)
 
 震災にも戦災にも焼け残った谷中周辺には、私が住んでおりました頃にも、三階建ての木造アパートやひさしの低い格子のはまった窓のある酒屋さんやお米屋さんが残っておりましたが、最近は随分変わったようですね。(川崎市 御嶽美津子様)

 以前、駒込に住んで居り、今又お隣の足立区に越して参りましてからも谷中の街並が大好きな一人でございます。どうぞ今後共、古いこと新しいこと沢山におつたえ下さい。(足立区 渡久山光世様)

 元気な谷根千のご活躍をお祈りしますとともに旦那様方のご苦労の程をお察し申し上げます。(中野区 前野堯様)

 他にもたくさん頂きました。ご紹介できないで残念です。谷根千周辺地区について思いつくこと、想うこと、何でもお寄せ下さい。

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味のグランプリ 本当においしいお店
 スパゲティとサラダ 根津 トレアドール

 小銭しか持てない我ら編集部が、身銭を切ってお届けする味のグランプリ第二回。
 地下鉄千代田線根津駅より0分。弥生坂を東大方向に上りかけた左手三軒目にスパゲティとサラダの店「トレアドール」がある。
 確かここは喫茶店と思いきや、一昨年十月からスパゲティ専門店に姿をかえた。そんな新しい店なの、というなかれ、ご主人はホテル等で洋食一筋三十三年という大ベテラン。根津に来て十三年。
 昼どきは学生、OLで大賑わい。五百円からの日替りランチメニューは、スパゲティにスープ、サラダまで付いてるサービス値段。
 まあ、このメニューを見てちょうだい。スパゲティだけでなんと60種類。人気もののタラコイカや、とろっとしたネリウニ和え、サッパリ和風の梅肉と青ジソ、季節を感じるカキ入り、ホタテやエビの海の幸をごっそりのせた海賊スパゲティは少し甘辛い懐かしい味。
 そして、おすすめはアサリとしめじのスパゲティ。このスパゲティがデュラムセモリナ百%の特別業務用。噛み終りがプチッという感じのゆで加減は、本場イ タリアではアルデンテという。普通はアサリとしめじをあらかじめ炊いてしまうが、ここでは生のアサリとしめじを一回一回炒める。醤油味にこれは生姜の香 り。
 手作りポタージュスープの味、サラダのドレッシングにも感動した。ドレッシングの秘密は、酢が一滴も使われていないかわりに、大量のレモンを搾ることにありそう。
 お昼を過ぎると落ちついた雰囲気に。味を知ってのファンは早くも定着して、オートバイで毎日通う東大生、イスに正座してのおばあちゃん。子連れのお客が多いのは、ウエイトレス役を引き受ける奥さんのやわらかい人柄かも知れない。
「注文を聞いてからゆでる。これがスパゲティの命だな」と、高く白いコック帽が良く似合うご主人田中節さん。言葉少なく目立つのは嫌いという。
 毎月第二、四水曜日の全品二割引きサービスデーの他に、今回は午後五時過ぎこの『谷根千』持参の方には、一人一回50円引きのサービスもしてくれる。Y

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じょーほートピックス
12・8「谷中・根津・千駄木の生活を記録する会」発表会は汐見会館で開かれる。芸大・前野堯助教授(建築史)より、上野芸大の赤レンガ保存運動や、街を どうしたら美しく再生できるか。法政大・陣内秀信助教授(同)より、下谷金杉地区の町並調査の経験などの話を聴き、皆で谷中を散歩した。

12・29 フジテレビ「あなたの東京」で、谷中小学校、汐見保育園の子らわらべうたの風景放映。大円寺境内や観音寺の土塀も美しく映し出された。

85・1・4 谷中銀座商店街主催の谷中七福神めぐり開かれる。総勢百人以上で、田端東覚寺より池の端弁天まで巡る。

1・19 「生活を記録する会」第二回をはん亭で開く。はん亭の建物見学、のち丁子屋、中小路紺染店の手仕事を見学。

1・20 第二回根津寄席、上海楼にて開かる。正月とあって獅子舞もあり大盛況。

1・26 「古き田端を語る会」新装なった北区田端図書館にて、田端文士村関係者とそのご子孫、香取正彦、室生朝子氏はじめ古き楽しい話続出。興味ある人は近藤富枝「田端文士村」(中公文庫)を読むべし。

2・3 節分、根津神社・諏訪神社で豆まき、街中で鬼は外、福は内の声高し。三崎坂上「川しま」では珍しい釜鳴りの儀が行なわれた。芸大学理科の牧野英一郎氏が神主姿で和楽、バイオリンを弾く。

2・6 上野「奏楽堂のパイプオルガンをよみがえらせる会」の会合が芸大赤レンガで。建築・音楽関係者と地元民の力で、奏楽堂のパイプオルガンを実際になるようにしようという趣旨。谷根千では寄付金付「奏楽堂特集」号外を発売予定。(4/15予定)

2・9 第3回生活を記録する会(コミュニティセンター)、東大生産技研・藤原惠洋氏を講師に、旧藍染川下流水域の都市の形成、今後の開発可能性などをディスカッション。

2・18 根津郷土史研「藍染川」テーマに古き思い出の川を語る。遠くから懐かしの根津を尋ねて、パレスホテル会長、溝部五郎氏参加。
 秋の第二回菊祭りにむけての会合。コミュニティセンターで。十月の十五、十六日と決定。

2・20 谷中銀座主催、松平康隆氏の講演会。「スポーツと人生」を語る。太陽信用金庫駒込支店で。

◇砂場が危ない! 猫のフンもさることながら、公園の砂場にはガラスの破片がいっぱい。誰かが空きビンをおもしろ半分にたたきつけたのか。許せん!憎い! 敵だ!と騒ぐだけじゃダメ。小さな子を持つおかあさん、子供の遊ぶのを見てないで、井戸端会議もほどほどに、ガラス採りましょうよ。細かいのも子供にふる いをかりれば簡単。子供の事故は未然に防ごう!

◇Olの失敗 谷中に住むS江さん。会社のつきあいで深夜帰宅。疲れてストッキングとズボンを一ペンに脱いで寝ちゃった。次の朝、新しいストッキングと、昨日のズボンをはいて出かけた。駅へ向かう石段の途中、「お嬢さん、しっぽが出てますよ」エッ!

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ひろみの一日入門―◆|中銀座「魚亀」
 今日はししゃもが安いよー

 今日は谷中銀座商店街の三代続く魚屋さん「魚亀」へ弟子入りだ。私のにわか商売を「ひきうけましょう」といってくれたのは、若旦那の芹沢幸雄さん。背が高くがっしりした体は頼れる兄貴といった感じだ。

兄貴、長靴がキマッてるネ
 朝七時、地下鉄で河岸へ向う。言われた通り長靴をはいてきたので、都心へ行く人の群れに場違いみたい。日比谷で乗り換え、築地に到着。築地本願寺を通り 過ぎた辺りから、魚屋で使うゴム長、前掛、ホース、タワシ、買い出し篭などを売る店が並ぶ。刺身のつまを売る店もあり、飾り用の花だけの水仙や、ワサビが ある。

都民の台所へ
 中央卸売市場ができて今年で五十年、昔は近県の魚屋が皆集まった。各県に市場ができた今も、品数が豊富で鮮度もいいから、わざわざ遠くから来る人もいる。二千軒の仲買い店がずらり。働く人は二万人。迷子になったら大変と、「兄貴」の後を追う。
 鮪、海老、貝、冷凍物、干物、佃煮、イクラや鱈子等、店ごとに扱う物が違い、同じ小魚の鯵や鰤でも近海ものだけ売る店もある。

なぜか男前が多いよ
 コチコチの鮪がゴロンところがっている。貝が潮をピュー、海老がおがくずの中でモソモソ、鮃がバタバタ。そんな中に「花子と太郎」という桜餅も売っているのがおかしくて。
 鱈子を売る店の大滝秀治みたいなご主人の話。「昭和6年からやってるけど、今の食べ物にはうま味ってもんがなくなったね。いくら説明してもわかっちゃもらえないけどさ。」鰊が大漁だった頃が懐かしい。今は魚の獲り過ぎで近海にはいないとも話していた。
 魚河岸に気の荒い男達のワサワサしたイメージを抱いていたが、皆やさしく男前でいい感じなのだ。「亀さん亀さん」と呼ばれている芹沢兄貴によると、仕入れが一人前にできるようになるには、十年かかるらしい。

十時半、配達のトラックに便乗し店にもどる
 さて店での荷物おろしは、バケツリレー式。これは奥、これはカウンターと決まっているらしく、無言でテキパキと作業が進む。私、手伝うすべもなくボーっと立つ。
 荷が降り、各々が魚の下ごしらえを始め、やっと白子干しを袋へ入れる作業をおおせつかる。次に身欠き鰊を束ねてひもでくるっとくくる。それから鱈子を一腹ずつパックへ入れ、ラップをかけて目方を計り値段を書く。ラップかけは難作業で二個で断念。
 刺身のつまは、鉛筆削りのような機械で作る。10本の大根があっという間につまになる。これも昔は手で切っていた。

11時半
 お昼の仕度か、お客が多い。迎えるお店は総勢8人。皆、無駄な動き一つなく、片付けながら仕事をするので散かることはない。さすが、見習わなくては。
 ところで、魚亀さんや貝屋の福島さんでは、自家の井戸水を使っている。水が冬温かく、夏冷たくて魚屋としては助かるそうだ。

どこへ行くのか鰯の開き490枚
 そうこうしていると昼食。昼すぎには、某電気店の寮から注文の鰯の開き490枚が待っている。
 台の上に山と積まれた鰯の頭と腹を取って開くわけだ。こんなにと思ったが、包丁がよく切れるので早いこと早いこと。頭やハラワタは飼料となるべく業者が 買ってゆく。開くのは手作業。頭を右にし、腹から左の親指を突っこみ、骨の上を尾の方へしごき、右手で骨を引っぱがす。リズミカルにやるのが肝心。やって みて。私が一枚やるうちに、店の谷田部さんは三、四枚開く。あーくやし。

いよいよ本格的に
 午後はケースに冷房が入り、見易いようにガラス戸をはずす。表にも出店したので、手伝う。
「いらっしゃいませ、ししゃもがお安くなっていますよ」と恐る恐る言ってみた。第一声が出れば後はこっちのもの。前回の八百屋さんでの経験がものをいう。 ビニール袋を裏返して手を突っ込んでおく。注文がくるとそのまま魚をつかんで袋をひっくり返す。これがコツ。早いし清潔で一挙両得。

4時半、ピークをむかえる
 人は吸い込まれるように店の中へ。「今日は鰯が安いよー。」と威勢のいい声が響く。
「ちくわ下さい。」小さな手がニュッと出た。見ると四つ五つの女の子が100円を握って立っていた。
「ちくわちくわ、いくらだっけ。そうか100円だ。ちゃんと値段を知って来てるんだ。」
 鮭があと二切。と喜んだのも束の間、奥からトレイに並んだ切身が出てくる。果てしなき戦いだ。

片付け目標7時15分
 6時半過ぎると人出も減り、刺身もそろそろおしまい。
 奥で夕食を終えて店に戻ると片付けが始まる。カウンターを磨き、水で流す。床をゴシゴシやって、刺身の下に敷いてあった氷の板を冷凍ボックスへしまう。値札を干しておく。
 シャッターを下ろす音で張りつめていた気持がゆるむ。

一日働いて
 今日よく売れた魚。塩鮭は根強い人気。それに室鯵の干物。ししゃも。鮫が売り切れたのは意外だった。どうやって食べるんだろう。私のつめた白子干しもよく売れた。
 魚屋さんは並べて売るだけでなく下ごしらえが山ほどあって驚かされた。電話注文も多くこなしている。
 魚亀の皆様、お邪魔しました。ずうずうしくも三度もご飯食べて。でも皆と同じ物食べて働きたかったのです。ごちそうさまでした。
 ところで、本文中の「魚へんの漢字」いくつ読めましたか?

下の段囲み
築地市場に行ってみよう。
・築地では誰でも買うことができる。10時ごろ行けば歓迎。但し、箱買いだったりするので注意が必要。雰囲気を味わってみるのもおもしろい。長靴は黒の男物をはいて行こう。

ぶりとはまち
・養殖のはまちは脂がこってりしているが、ぶりなら毎日食べてもあきがこない。

鰊を食べよう!
・今の鰊は昔程かたくない。脂もあるので、そのままあぶってもおいしい。前の小林鶏肉店のおばさんの話では、鰻のたれをつけるとおいしいそうだ。ちなみにたれは小林さんで50円で売っている。

安くておいしい鰯料理
・新鮮な鰯は焼いてレモン汁をかけるか生でもおいしい。開いてかば焼風にする、カレー味をつけてフライに、身をすりつぶしてつみれにし、味噌汁に入れても良い。しょうがを使うとくさみが消える。

・魚へんの漢字正解は、
 鮪(まぐろ)、鱈子(たらこ)、鯵(あじ)、鰤(ぶり)、鮃(ひらめ)
 鰊(にしん)、鰯(いわし)、鮭(さけ)、鮫(さめ)、鰻(うなぎ)

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編集後記―
◆こんな寒い夜は近づく春が信じられなくて、ドテラにくるまって後記を書いています。お元気ですか。どうにか谷根千三号ができ上がりました。
◆二号発刊以来、新聞・テレビの報道のお蔭もあって、暮れも正月もなく過ごしました。今までお金の勘定もしたことがなくて、どうも50円合わないヨ、十冊行方不明ダなんて騒ぎながら、配達、集金に歩きました。なんと半月で、三千部がきれいに手もとから消えました。
◆買ってくださった皆様、お便りを下さった皆様、本当にありがとうございました。そして地域外の方からもたくさんお便りを頂きました。昔、根津や谷中に住 んでいる方にとって、この町がいかに心の故郷となっているか、それだけの値のある町だとしみじみ思い知らされました。記憶の地図を書いて下さった方。そう した街の住人・旧住人の心の架橋に、谷根千がなれたらと念じております。
◆特集は予定変更でごめんなさい。考えてみたら「花見」の写真がなかったのです。今年、バッチリ取材して、来年充実してお届けします。替わりまして「藍染 川」。こちらも一回切りでなく、川のようにホソボソと続け、人の暮らしと川の接点を探ってゆきます。そのうち流域の台東、文京、北、荒川、豊島の方々と 「藍染川サミット」がやりたいものです。
◆スタッフの仰木ひろみが、コピーによる「大きな字の谷根千」、テープによる「声の谷根千」を作りました。普通の判ではご不自由な方、活用して頂ければ幸いです。
◆四月初旬、谷中墓地で「谷根千・大花見大会(カラオケ付?)」を計画中。飛入り歓迎。別に料理研究家古川恭子さんの指導でケーキを作り、それを食べながら子育てを語り合う会もやります。子連れもちろん大歓迎。
◆次号は「昔気質のお菓子屋さん」で谷根千の甘ーい生活を楽しんで下さいませ。

お知らせ―
●地域雑誌「谷中・根津・千駄木」のカバーする範囲を、地名で申し上げますと、台東区は谷中・池之端・上野桜木・上野公園、文京区は根津・千駄木・弥生・ 向丘二丁目、荒川区は西日暮里三丁目、北区は田端一、二丁目あたりと考えています。この地域の方は、15ページ地図上の「谷根千」のあるお店でお買い求め いただけます。それ以外の地域の読者の方は郵便振替が便利です。
00150−1−162631 谷根千工房
1冊250円+送料

(訂正)其の二
 表紙裏広告/サトウハチロー記念館「詩の勉強室」会場費三千円→二千円 18P広告/銀座メガネ店住所 千駄木→根津 22P中段/ 石橋の上→石段の上 19P上段 千三南町会→北町会
 広告に協力して頂きましたサトウハチロー記念館、銀座メガネ店にご迷惑をおかけしまして申し訳ございません。
●「谷中百景」の著者、石田良介さんの剪画が、毎号本誌を飾ります。棚谷さん、川原さんの絵とともにお楽しみ下さい。

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」其の三
一九八五年三月十五日発行(季刊)
編集人/森まゆみ 発行人/山崎範子 事務局/仰木ひろみ
発行 谷根千工房〈編集室トライアングル改め)
定価 250円
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