地域雑誌「谷中 根津 千駄木」2号 / 1984年12月15日(土曜日)発行  250円
寒い日はお風呂へ行きませう
2号 寒い日はお風呂へ行きませう
表紙

地域雑誌「谷中根津千駄木」其の二
寒い日はお風呂へ行きませう

(表2)
口上


江戸の面影を残す寺町■谷中
かつては遊郭も栄えた職人の町■根津
鴎外、漱石ゆかりの■千駄木山
芸術家の卵を育てた■上野桜木
日の暮れるのも忘れる風雅の里■日暮里
帝大生の青春の町■弥生

私たちの街には東京には珍しい自然―樹々や鳥や風と、戦災・地震に耐えた建築物、史跡、そして形にはならない暮しぶり、手の芸、人情がまだたっぷり残っております。
それを調査記録、紹介し、良い環境を大切に次代に手渡すてだてとして、「谷中・根津・千駄木」を発刊いたしました。
懐古趣味ではなく、古き良いものを生かしながら、暮らすのが楽しい、活きのいい町として発展するのに少しでもお役に立てたらと思っています。
まだ若く非力な私たちに街の皆々様のお力をお貸しくださいませ。


(1ページ)
目次―「谷中・根津・千駄木」其の二   一九八四・冬


●特集  ありました、この街に十五軒。タオル片手に湯屋めぐりをしてみた次第・・・寒い日はお風呂へ行きませう―2
●郷土史発掘  根津は近代レンズ工業の草創の舞台であった
根津とレンズ 小瀬健資―14
●この街にこんな人
〈千駄木〉浩宮様の産着を縫った楜沢のおばあちゃん―12
〈根津〉蛇の道を行く爬虫類研究所の高田さん―13

●ノスタルジック・アルバム 森晃子さん―11
●手仕事を訪ねて ”雋愧氛禿后州横
●ひろみの一日入門 今日は八百屋の看板娘だ―28
●町並点描 谷中銀座商店街・太陽信用金庫―22
●味のグランプリ 手打ラーメン玉川―26
●エッセイ 自然食雑感 鳥居房枝―27
●地図 谷根千マップ―30
情報トピックス―19 谷根千・村だよりー32
文化ガイド―33 根津の三階家―33

題字=本郷松しん 目次カット=川原史敬 本文タイトル文字=岡本明子 写植=今野早苗 印刷・製本=(株)三盛社


(2〜9ページ)
寒い日はお風呂へ行きませう


ご存知、江戸名物浮世風呂。
火事を出さぬよう、江戸ではいかなる大家といえど、町人は内風呂を許されない。そこで銭湯が大はやり。ことに職人は何をおいても朝湯へ行く。歯楊子をくわ え、肩へ手拭いをのせ、草履をつっかけてそりゃ粋なもの。人が集まれば世間話に花が咲く。お上は必ず銭湯に密偵を張り込ませて情報収集したぐらい。
さて時移り、昭和元禄の浮かれ様もやや下火の今日このごろ、斜陽を嘆かれる銭湯のありさまやいかに。と探し歩くと、ありましたありました、この街に十五軒、いまだにかまどの火を絶やさないお風呂が。
まずはタオル片手にタライを抱え、ときには子供も連れて湯めぐりしてみた次第。



谷根千湯屋めぐり


子供が騒げば大目玉 真島湯
旧藍染川沿い 谷中2の5の7 4:00〜11:00 月休 
佐藤仁作さん
昭和26年創業。当時のままの広い脱衣場、格子の天井が広くて気持ちいい。古い木の長イス、テーブルが長年の人肌ですり減ってステキ。これ欲しいな。赤ちゃん用年代物体重計もあるが、今赤ちゃん連れはほとんどない。
常連客のおしゃべりにご主人も加わる。嫁の悪口とか、老後の生きがいとか、悩みの相談とかをする場所なんだ。
「雨の日にフロ屋であばれたのが楽しかったって中年のヤツが懐かしがるけど、ホント、子どもが誘い合ってきた日にゃ、すごい騒ぎだったよ。雨天体操場みた いなもんさ。ケガされちゃ困る、他の客の迷惑になっちゃ困るとけっこうどなったもんだが・・・」とご主人も懐かしそうだった。


大きな金魚もいるよ 朝日湯
谷中、三崎坂途中 谷中2の18の7 3:45〜11:00 土休
小島俊男さん
牡丹燈籠で有名な法住寺跡。
ご主人が留守でおばあちゃんのハナ子さんに聞いた。もとは坂の反対側、大円寺の隣にあって、昭和二十二年にこちら側へ。
ここのお湯は一部、夏はカルシウム、冬は人参実母散の薬湯になっている。「おじいちゃんが亡くなってから手入れができなくて・・・」という庭は石造りの立 派なもの。大きな鯉にまじって体長20センチの金魚もゆうゆうと泳ぐ。ナント縁日の金魚の育った姿。貸しロッカーひと月300円。


アンチックな下足箱に感動 初音湯
天心公園近く 谷中3の10の3 3:30〜11:00 月休
鳥谷宏治さん
雰囲気の良さではピカ一かも。よみせ通りから天心公園へ抜ける少し曲がった路地の雰囲気がまたいい。木作りの建物も手入れよく年代物のつやがある。
洗い場の中央にある二つの浴槽が特徴。一つには草津の湯花が入っている。牛乳色で硫黄の匂い。これ目当ての遠来の客もある。番台の上の大入り額がすごい。
「これは、昭和37年の建て直しの時に常連さんが下さったもの。ほら皆さんの名前があるでしょう。あの方たちもすべて故人になられて」とお姉さんの作智子さん。どのお風呂も常連さんの数がめっきり減った。


バスクリンのお風呂 世界湯
よみせ通りから入る 谷中3の13の14 3:45〜12:00 木休
綾部恵造さん
戦前は本駒込、その前は蛎殻町と代々銭湯の四代目。よみせ通りを少し入った初音町のこの場所に移ったのは昭和二十五年。奥さんの幸子さんいわく、「それは賑やかな通りでねえ。四のつく日のお地蔵様(小僧寿し隣の延命地蔵)の縁日には、夜店が並んですごい人出でした」
バスクリンを入れた浴槽はしきりがなくて大きい。だから子供が泳いじゃう。湯につかって一節うなる人がいなくなったのが少し淋しいが、冬になると、「やっぱり銭湯はいいね。芯からあったまるよ」と番台に声をかけて行くお客がうれしい。


湯屋のギャラリー 柏湯
高台の谷中署前 谷中6の1の23 4:00〜11:00 土休
浜崎正巳さん
町で一番古い銭湯はこの柏湯で、創業は文化元年に遡る。今から、180年前のこと。持主の松田家は、今はなき善光寺湯を継ぎ、こちらは昭和二十七年より浜 崎さんがきりまわす。脱衣場に江戸時代の銭湯風景の浮世絵が掲げられて、体をふきふき眺めていると楽しい。井戸水の風呂。
もとは世田谷で風呂屋をしていたご主人いわく、「谷中の人はのんびりしているよ。ゆっくりつかって風呂をたのしんでいるね」とのことです。


自動ドアで勝負 菊の湯
谷中高台功徳林寺並び 谷中7の5の9 4:00〜11:30 日休
山田利武さん
あの宮作りの屋根を探したら見当たらない。四年前にマンションに建てかえ、その下で銭湯を続けている。普通マンションになると廃業してしまうのでは。
「井の中の蛙だもの。他の商売ができなかっただけよ」とやはり風呂屋から嫁いで来たモダンな美人の奥さん千鶴子さん。
お風呂の方もいたってモダン。全列にシャワーも付き、自動ドアのサービスもさることながら、浴場のタイル絵も、四方の壁も、ホテルのロビーなみ。
「夜、店を閉めたあと掃除でしょう。どうしても寝るのは1時過ぎ。朝は子供にお弁当を作るので6時には起きる。どこのフロ屋の奥さんも苦労してるわよ」惰眠をむさぼる我が身には痛い言葉だ。


昔はプールもあった 人参湯
池の端弥生会館向い 池の端2の8の15 4:00〜11:30 土休
石田浜太郎さん
大正九年創業。一見怖そうだが話をしていると温かい人柄が伝わってくる二代目ご主人が聞かせてくれた話にはびっくりした。
「それ以前は高湯温泉といってね。白湯と薬湯と、外にプールもあってすごく広かったんだ。湯銭を払った子供たちはプールにただで入れたんだよ」
へえと驚き脱衣場のガラス戸を開けると、確かに外にもタイルの壁があったり板の間があったり、昔はそこまで洗い場だったことが伺い知れる。
「近所に伴淳(伴淳三郎)さんがいてね。有名人だから、店が終わったころこっそり入りに来ました」。入り口の上の所に女浴男浴と不思議な字で書いてあった。


ホンマもんの温泉だよ 六竜鉱泉
上野動物園通用門前 池の端3の4の20 4:00〜11:00 月休
野神三郎さん
昭和2年に銭湯を建てたはいいけど、客が少なくて水道料金が払えない。そこで井戸を掘った。オヤジが信心深くて神様のお告げの通り一年一ヶ月、500メートルも掘ったらこの温泉が出た。鉱泉で温度は23度」。東京の下町にホントの鉱泉があるなんて。知ってた?
黒湯の愛称で通り、小岩や大宮の遠方からもこの茶褐色のお湯に入りに来る。薬湯だからと長くつかりすぎて、昔はお風呂で亡くなった方もあったとか。
水道代はかからず汲み上げるポンプの電気代だけ。燃料もまきを使う。リヤカーでまきを運んでナタで割る力仕事はもっぱら息子さんが引き受けている。鉱泉が 出るかぎりはやめない覚悟。40年近い番台人生から「お湯を沢山使う客は見てると変りもんだね。水は天下のまわりもの。神様が下さったもんだから、無駄に はしないで欲しいよ」


桶の響きがたまらない 山の湯
根津権現斜め前 根津1の22の7 4:00〜11:30 第1,3,5、木休
今井勇孝さん
都内二四〇〇軒 の中で、木の桶を使っているところはたった三十軒ほど。その中の1軒がここにある。
「いやぁ、あのプラスチックが大キライでね。」とおっしゃるご主人は根津の土地に来て16年。その前は平塚で風呂屋を。「小僧の頃からフロ屋よ。」番台から気風のいい声がとぶ。


若者受けする立ちシャワー 宮の湯
根津交差点近く 根津2の19の8 4:00〜11:00 水休
鈴木良一さん
昭和26年創業。「オヤジが急に亡くなったので」洋菓子の道から転じた若いご主人は研究熱心で設備を改善した。
ひとつは立ちシャワー。プールや海水浴場にあるアレ。ここ根津の谷は東大と芸大を結ぶ坂下で、学生客がめっぽう多い。若者受けする設備である。
そして天井もカラフルなドームに変えた。背景画もふつうは富士山とかスイスのレマン湖なんかが多いのに、ここは南国ハワイのやしの木。それもペンキ絵でな くて写真のプリント。それに合わせて観葉植物を置き、トロピカルムードを演出。男湯の脱衣場に洗濯機があるのは珍しい。便利ですね、というと「私も使うの で・・・」笑顔がシブい。


客の入りで季節を知る 梅の湯
富士銀行根津支店向かい 千駄木2の47の1 4:00〜12:00 土休
三野みさをさん
明治年間創業とこのあたりではかなり古い。三代目の女主人は三野みさをさん。その娘の保科とし子さんと女二人で切り盛りしている。「昔はあそこの人、ここ の人と顔馴染みだったけど、今はよくわからないわね」最年少のお客は一歳八ヶ月のめぐみちゃん。「学生さんも多いですよ。学生さんが少なくなるとああ春休 みだ、夏休みに入ったんだなあって、季節を感じるわ」とは現代銭湯風情。


風呂屋のプロに徹する 大菊の湯
千駄木須藤公園隣 千駄木3の33の10 4:00〜11:00 金休
小宮山巳之吉さん
十七の頃からフロ屋で働いて、戦前には浅草の吉原の銭湯で、お女郎さんの肩をもんだり、衿足をそったりしていたというご主人。生まれは新潟。回ってみると 経営者の出身地はほとんど新潟「、あとは富山、石川。どうしてでしょう。「風呂屋はゴミの中に生まれゴミの中に育つような商売だもの。しんぼう強くなく ちゃできないんだ」。北国の実直と寡黙そのままのお人柄。
今、どこも赤ちゃん連れが少なくなっているのにこの湯は幼児が多い。それは母親が体や髪を洗う間、奥さんが、子供を見ててくれたり、服を着せてくれたりの サービスがあるから。昔はどの湯にも下働きの女中さんが何人かいたものだが、今はどこも人手不足。ここも奥さんの手が回らないと、子供をご主人が番台で抱 いていてくれる。人呼んで「泣く子も黙るおじいちゃん」なのだ。


この間まではらたいらの絵 宝湯
道灌山下交差点近く 千駄木3の50の2 4:00〜11:00 土休
高橋敏三さん
大正年間に創業で、空襲で焼けたのを昭和23年に再建したのが二代目のいまのご主人。気さくで話し好きの方だ。「その頃は他に風呂屋がなくて、神明町(の 花柳界)から都電に乗って芸者衆もきたよ。美人がいてね。昔はこの辺にドサ回りの芝居小屋(三晃座、坂下会館)もあったし、ミルクホールもあったよ」
その頃は落語の古今亭志ん生や馬生、志ん朝さんらが入りにきた。「ある時志ん生の入浴風景を撮りにきたんだけど、あんまり長くかかって志ん生、ゆでダコみたいになっちゃった」あのハゲ頭ととんがり口ですもんねえ。
ついこの間まで背景画は漫画家にはらたいらの原画。いまは富士山。
「昔は時間がのんびりしてたからね。フロ屋にくると肩を流しながら話をしたもんだ。社交と情報収集の場だったんだよね」と目を細め、ジュースをくれた。


凄いぞ現役おばあちゃん 鶴の湯
文林中学裏手 千駄木5の32の2 4:00〜11:30 金休
中島秀一さん
大正十五年創業「おじいちゃんが富山の団十郎って呼ばれるほどいい男でさ。それにホレてお嫁にきたのよね。おばあちゃん」とご主人の嫁さんキミエさん。 「そうですよ」とうなづく働きもののおばあちゃんもキミエさん。嫁と姑が同姓同名。明治25年生まれ。12月25日の誕生日が来ると92歳になるが、いま だに毎日番台に坐る現役のおばあちゃん。話を始めれば後から後から・・・。
「つらい仕事といえば、昔はまきを取りに上野の森まで行ったことだね。まだ番頭さんや女中さんが寝てる時間に起き出して、毎日毎日、おじいちゃんと大八車を押して団子坂を上ったもんだ」と初代。
「終戦の時よ。進駐軍がドカドカ女湯に入ってきて、写真を撮ったり、脱衣所でDDT浴びせかけたり。なんでこんなことされなきゃいけないのって涙が出たわね」と二代目キミエさん。
雨の降る日は赤ちゃん連れのお客を家まで送ってあげたというやさしいおカミさんたち。「親に建ててもらったおフロだもの。色んな思い出がありすぎて、フロやを取り上げたら私の人生なんてないよ」の一言で決まり。


サウナもあります 富久の湯
動坂上 千駄木5の41の5 3:30〜12:00 月休
村西富子さん
駒込病院を横目にみてその先の左側。マンションの一階。二、三階はサウナ。以前は蒲田で喫茶店を経営していたという、女主人村西富子さんの名前から富久の湯の名が生まれた。
最近の若い人を番台から見てどうですか。「今は男の人も女の人も同じね。気にはならないけどね。女性でもタオルで前を隠す人も少ないし、男性なんか、平気で出してスタスタ歩くもの。それに上り湯だけで30ぱいも使う人いるのよ」
昔は店の開く時間には人が並んで待っててくれたけれど、そんな時代はもうこないわね、と笑った。


下段
右頁写真
言問通りにあった旧善光寺湯の松田里うさんの現役時代。ドラマ「時間ですよ」のモデルでもある。松田家は柏湯の持主で、文化七年の創業より二百年、六代を数える。


銭湯あれこれ

●銭湯の建物はなんとなくお寺みたい。
それもそのはず、銭湯の由来は仏教の沐浴の五功徳にさかのぼる。昔はお寺が庶民への医療、施しとしてお風呂をふるまっていた。その名残があの「宮作り」という建物なのだ。

●江戸時代の銭湯の走りは天正十九年(1519)、伊勢の与市が銭瓶橋のほとりに用いたもの。湯女とよばれるホステスが客の垢をかき、髪をすき、酒の酌をして舞いも舞った。それが一種の娼婦化する。

●幕末になると湯屋の二階を娯楽場のように作った二階風呂が流行。庶民の社交場となった模様を描いたのが式亭三馬の「浮世風呂」。

●幕末から明治初年にかけて、開国でやって来た外国人たちは男女混浴に驚いた。コレはいかにも後進国みたいでまずいと、政府は明治五年(1872)、混浴を禁止。最近また温泉で流行ってます。

●そして明治九年(1877)。鶴沢紋太衙門が屋根に湯気抜きをつけて、古来の石榴口を止め、近代的な風呂屋を神田に開いた。以降、洗い場や浴槽もタイル張りとなっていく。


聞きかじりエピソード

●どの風呂でも湯あたりや脳卒中で救急車を呼んだことがあるそうだ。あまり長湯をしないこと。満腹で胃にガスがたまっているときは入っちゃダメ。

●お風呂に入るエチケット。浴槽に入る前は必ず体を流してから。湯は高い所からかぶらない。使った桶は濯ぐ。脱衣場に上る前にはしぼったタオルで水気をとる。せめてこのくらいはネ。

●燃料は重油が主流だが、中には廃材をくべている湯も。大工の棟梁とのつきあいも大事だ。なかには立派な床柱が混じっていて燃やすのが惜しい時もある。

●最近の浴槽についているブクブク。正式名称は、横から出るのが超音波。下から出るのがバイブレーション。

●昔、風呂の休みは月に1回。その日は桶を砂で磨き、浴槽、タン壺、便所掃除で大変だったとか。

●銭湯ならではの背景画。関東主流のペンキ絵は、一、二年に一度書き直す。背景画伯の所要時間は、男・女湯合わせてナント二時間足らず。

●全国の銭湯めぐりをしている田端在住の草野さん。北から南までの下足札を集めたが、残念ながら地域色のないことが判明。題して「下足札に文化なし」。

●銭湯の湯は熱い。あれは42度以上を保つべしとの条例による。

●一日の客数は大体250〜300人。水道料、重油代と仕事量を考えると厳しい商売だ。「それでも好きだから道楽みたいなもんですよ」と宮の湯のご主人。

●最近消えた銭湯は、言問通りの善光寺湯がマンションに、根津権現裏門坂の浜田湯は日医大の建物に。協和湯や赤津湯もなくなった。

●大正時代、団子坂上、今のハイライフ文京のあたりに、七階建ての銭湯があって「見晴らしの湯」として賑わったとか。



寒い寒いと女湯の戸を開ける。250円。おっと石けん忘れた。旅行用みたいな小さいのが20円。さて自動ドアがスルリと開いて、中はもう湯気の世界。天井は煙って見えぬ。水と桶の音。

さてもいろんな体つきの人がいるものだ。お婆さんが三段腹をタワシでこすってる。若い娘は無駄なくふっくらして、胸のあたりなど、我が授乳済みオッパイと比べてガックリ。ゆっくり温まり、手配の人相書きを眺めつつまたコートを着て、冬の街に出る。夜風快くなんたる贅沢。


(10ページ)
柏湯と善光寺湯 十番組湯屋

「古いこと聞くならいまはもうないけど、善光寺湯に行ってみな」と聞いたので、旧善光寺湯の経営者、柏湯の持主松田里うさんを訪ねた。
「まあ、主人が生きているうちにお見えになればよかったのに。歴史が好きで、自分でも浴場史を書きましたから」
 ふと見回すと、垂涎(すいぜん)の史書が壁一面。
「古いのは柏湯のほうで、いまの場所に文化元年(一八〇四)創業といいますからもう一八〇年。この『下谷十番組』と言う鑑札は、当時のものなの。江戸中の 銭湯が十組に分かれてたのね。けやき板に漆が刷り込んであって、これだけは大切だと、戦災の中を毛布でくるんで背負って逃げたんですよ」
「私は明治四十三年川口生れの七十三歳、昭和七年に柏湯に嫁ぎまして、その時は若い衆が二人、小僧さんが二人、女中が二人、姑と弟二人と私共夫婦それに居 候の大所帯で、姑の実家が農家で一日十五日に二俵ずつ米俵を送ってくるんですけど、それでも足りなくて、米の一升買いに行く、それが惨めでいやでねえ」
―私など五キロ買ってもずい分長いことありますのに、一回二合炊きで。
「んまあ、うちは七升炊き(一升は十合)のお釜で、朝に五升、夕に二升追い炊きしたものですよ。おかずの方は一汁一菜でたいしたことなかったけれど」
「今までで一番つらい思い出は、戦争中、強制疎開といって、昭和二十年三月に類焼を防ぐために柏湯も壊すというの。それが普通の家なら柱をノコギリで切っ てバタンと倒すんですけど、風呂屋で大物だから最後の最後、五月いっぱいかかってやっと壊したら、八月に終戦でしょう。悔しいというか、空しいというか、 ああ、これが戦争というもんだって思ったわ。
戦後、たまたま善光寺湯を買って開いたのが二十一年の暮。雨漏りどころかジャージャー雨が降るようなのを修繕して。
 当時は戦争で十一湯が七湯に減ってしまうし、イモ洗いみたいに混んでいましたね。もう終い湯なんか真っ黒で ドロドロなの。でヤミ湯といって、本当は入 浴料二十銭なのに、朝湯がきれいなうちは一円とか、昼は五十銭とか、高くとるわけ。主人はとにかく曲がったことが嫌いで、ヤミ湯はしませんでした。
 そのころウチの湯は 電気でわかしてましたね。それも時間制限があって不定期なんです。その電気を三千三百ボルトの高圧線から引く操作なんか、私がやってたのよ。今思うとゾッとするわ」
―有名人でお風呂に来られた方は。
「昭和初期は内風呂が少なかったですから、桜木町あたりの宇野浩二さんは裏口から入って釜のあたりで長話。川端康成さんもよく見えたわ。奥さんは断髪でス ピッツ連れで歩くモダンな方。みんな振り向いたもんよ。日本画の山本丘人(きゅうじん)さんは主人と力(りき)ちゃん、正ちゃんなんて呼びあったお友達な の。武見太郎さんも小学校の同級でした」
 近々、亡きご主人の句集をまとめるつもりと、夕暮れの居間でいつまでも短冊に見入っていらっしゃいました。

(11ページ)
花電車のころ
<

橘樹歯科 森 晃子さん
 もともと歯科医の私の父が浅草で開業していたのですが、戦災にあって焼け、戦後の二十五年にここ動坂に来ました。この写真は母と三人、不忍通りに出ているところです。この坊やは隣の染井さんの宏祐君で、いまはやはり歯科の方で岩手医大の講師をしています。
 私が来たころ、正面の一帯は焼け野原で田端の山がよく見えました。今のガソリンスタンドのあたりは、戦前は生花市場で、戦後はその看板をかけたまま、上 野の辺のなんだか怪しげな女性たちが住んでいたようです。窓から男の人が出入りしていました。私の側の家はサミットあたりまで焼け残って、うちも震災前の 建物でした。
 このころ私は駒込病院の医局勤めで同業の歯科医と職場結婚して森姓となり、いまは二人でやっていますが、最初にはじめた父の思い出のため「橘樹歯科」の 名は変えずにあるのです。主人は写真と絵が好きで、自分で育てた花を写真に撮ったり、歯ブラシや注射器で油絵を描いては待合室に飾っています。
 不忍通りに市電が走ったのは大正のころ(大正六年七月二十七日に上野から動坂まで開通)といいます。この先の本駒込勤労福祉会館のところに都電の神明町 車庫という赤レンガの建物がありました。昭和二十九年には香水電車といっていい匂いがする電車が走りましたし、この写真は、三十二年の大東京祭の花電車 で、家の二階から主人が撮りましたが、それはきれいで子供たちは大喜びでした。
 蛇足かも知れませんが、この界隈では上野方向の四〜五軒先に渥美さんという人がいましたがその息子さんが歌手の渥美二郎さん。また前のハンコ屋さん印友社の息子さんが 二枚目俳優の中島久之さんです。
(街が写った古い写真をお持ちの方、ご一報を!―編集部)


(12ページ)
この街にこんな人〈千駄木〉

浩宮様の産着を縫った
 楜沢のおばあちゃん

 八十過ぎで、元気で、明るくて美人で、いまだに針仕事で現役のおばあちゃんが林町にいるというのですっとんで行った。 
 楜沢多美次(たみじ)さんという不思議な響きのお名前で、明治三十四年、長野は安曇野の生れ。生家曽根原家は国の有形文化財に指定されているほどの旧家だ。近所で懇意にしていた楜沢家に二十一歳で嫁ぎ、 夫に従って上京したのが大正十二年、震災直前。
「新婚時代の四谷小伝馬町の六畳一間が家賃三円ほどでした。東大出て給料が四十円という頃、主人は電気会社で八十円くらいでしたか。でも大地震で住んでい た辺りは全部焼けて、私たちも上野まで逃げてきたけれど、山の正面からは上れない。線路には馬が避難してるし、列車の中にはどこかの病院の患者さんがいっ ぱい。それで鶯谷の方から崖をロープでよじのぼったの。そして博物館の裏の池の泥水をすすり、王子から板橋まで逃げました。それから林町の知り合いを頼っ て来たのですけど、団子坂を上るのに、草履の裏が焼けるような暑さだったの。何日かして小伝馬町へ戻ってみたら、家財が全部焼けてて、長火鉢の銅こん(ご とく)と鉄びん一つだけ焼け残ってた。それをぶらさげてまたまた千駄木に戻ってきたの。
 それからずっとこのあたりですが、千駄木といえば学者さんの多い、広いお邸ばかりの土地で今みたいにブロック塀でちまちましてなくて、生け垣がずうっと続いていました」
 そのあと実に珍しい事実が判明した。
「あんまり人に話さないんだけど、私、浩宮様の産着を縫ったんですよ」
 と肌身離さぬ写真入れを見せて下さる。
「赤ちゃん服のメーカーの方が知り合いにいて、注文が来たがやってくれませんかとのことでした。お受けしますと、西陣から菊と桐の紋章の入った緞子(どん す)(絹)の生地が届き、一ツ身を上下二襲(かさね)作らせて頂きました。緊張しきっていたので、何日かかったかも覚えてないけれど、たち板に布を張って 切るときは緊張でクラクラしましたよ。まぎれ込むと危ないから針の数もすっかり数えてね。それを桐の箱に入れてお納めしてから、いつ宮様が着て下さるんだ ろうとドキドキしてましたの。そうしたら、お誕生の時、皇太子夫妻に手を取られてヨチヨチ歩きの姿、この着物私が縫ったんだってすぐわかりましたよ。たも との長さでね」
 お嫁さんとしごく仲が良い。実の娘で婿を取ったのだろうといわれるくらい。
「だってあの子は、息子が小石川高校のサッカー部にいたころ、長野で合宿した宿の隣りの娘で、小学生の頃からうちに来てたし、私が抱いて寝かせたりお風呂に入れたりしたんですもの」
 息子さん二人は建築家、「あの子」といってもすでに大学生以下四人の子のある奥様である。


(13ページ)
この街にこんな人〈根津〉

蛇の道を行く
  爬虫類研究所の高田さん

 十月三十日、かねてから気になり続けた高田爬虫類研究所という異様な表札のある家に、初めて足を踏み入れた。
 何も知らずに来たのが恥かしいほどの有名人、所長の高田栄一さん(54)は著書も多く、テレビにも出演している。
 なぜ、爬虫類研究所を・・・。

小学校に入る前だな。動物園ではじめてニシキヘビを見たときのショック。これはすごかった。こんなすばらしい動物が地球上にいたのかという驚きね。ぼくと爬虫類とのつき合いは、ここに始まったんだよ。
 小さな頃から動物が大好きで、ナメクジやカタツムリや色々なものを飼ってたよ。なんでもかんでも身近なところに置きたくてね。
 それにぼくは詩を書くんだ。そんな心の営みからか、自分も含めて生きとし生けるもののすべての姿に、非常に感動するんですよ。あァー生きているんだなァって。だからこそ傍らに居て生命の実感を味わいたかったし、どの動物がとりわけかわいいということもなかったな。
 なんで人はナメクジは気持ち悪くてカタツムリはかわいいと感じるのか、どうして動物を差別するのか不思議でしかたなかったんだよ。そして、ヘビが嫌いでイヌが大好きという人に腹が立つようになってきたんだ。
 そういうことから、日陰ものの動物たち、たとえば爬虫類にね、ことのほか心ひかれるようになったんだね。
 戦後、まずカメから飼い始めてね。飼うと楽しくて何でも知りたくなる。トカゲのこと、ワニのこと、ヘビのこと・・・。
 ぼくはとっても好奇心の強い人間だからね。五十を過ぎた今でもものすごくある。たとえば、缶詰はどうやって真空にするんだろうか、とかね。何を見てもどうしてだろう、なぜだろうって考えるんだ。
 詩人と、自然科学者の二つの目を持っているから、情緒だけでは終わらずに、いつも本質を見ようとすることができるんだろうね。
 爬虫類だって、研究所を三十年やっていても、まだまだ不思議がいっぱいある。

考えてみれば人間ももちろん、動物は全体でつながっているんだよ。その後、飼育室へ入れてもらうことができた。これがものすごい臭い。ここには五十種、百 匹以上の爬虫類がいる。大ガメ、スッポン、大トカゲ、ワニ、イモリ、ニシキヘビ、キングコブラ、大サンショウウオ、サソリ・・・。
 ほとんどの動物たちは、じっと動かない。「本来動物は必要以外には動かないもんだよ。古代の人間もそうだった」
 今、私たちは無用なことで動きまわりすぎているのか。




(14ページ)

■郷土史発掘 根津とレンズ 小瀬健資


 大正の昔、空気も水も美しかった根津に赤い下水が流れていた。あの“赤い水”は何だったのか? 遠い少年の記憶をたどり、根津に始まる近代レンズの歴史を今解明する。

 私が子供のころ、根津には清水が湧き、川が流れていた。その中で、根津小学校の脇に赤い水が流れている下水があった。それは眼鏡のレンズを作る「高林」という工場の排水だと聞いた覚えがある。
 いつの頃のことかも定かでなく、いつその工場がなくなったのかもはっきりしない。久しく忘れていたが、最近、私どもの根津郷土史研究会の会員、金子春二 (75)さんの父上や、百瀬ナツ子(67)さんの亡き御主人のお母さんとその弟さん、また区議の小平千里さんの母堂の兄川島さんがこの工場で働いていたと いう話が出て、急に調べてみたくなった。金子さんなど、お父さんから貰った四角いガラスで石けりをしたことがあるという。
 そこで金子さんの同級生にやはりレンズ関係の住田という人がいた、という言葉を手がかりに電話帳で調べ、まず西巣鴨の住田光学工業KK社長住田進氏という方に連絡がついた。
 その話では、住田氏の両親は昔、千駄木に住み、お兄さんは根津小学校出身だった。そして「高林レンズは朝倉松五郎という人が明治六年、オーストリアに洋 行し、レンズ製作機とレンズ研磨技術を持ち帰り、四谷信濃町で高林氏を使用してレンズ製造を始めたが、その後高林氏は明治二十一年、本郷に工場を建設し、 レンズ製造を開始した」という話を聞いている、とのことだった。
 つまり記憶と口伝えであった「高林レンズ」の実在が確かめられたわけで、私の勇躍、さらなる調査をはじめた。

 確かに工場は実在した

 その前に偶然、大正七年、根津地区での消防分遣所小舎の建設承認申請書の委員の中に、高林吉蔵という人の名前がみつかった。この人は弥生町に在住し、申 請書の発起人、大口寄付人の中に、名士として名を連ねているところから、目あての「高林レンズ」の当主、または関係者であると思われた。
 次に「高林レンズ」工場の場所は、私の記憶から容易に確定できた。それは文京区弥生2−13−3(旧本郷区弥生町三、ロの四号)、すなわち今の弥生マン ションで、弥生坂中途にある駐車場の右隣に位置している。数年前までは木造で「弥生アパート」と呼ばれ、戦後は落語家や芸人が多く住んだので、芸人アパー トの別称もあった。
 当会員の一人であり、弥生町役員の二階堂雲集氏と旧「高林レンズ」の隣家の大下ふみ氏(83)、中野つる氏(91)を尋ねたが、お二人とも高林家との交 際はなく、話したこともないとのことだった。ただし、大下さんと根津小学校の同級(大正二年卒)に高林吉蔵の実弟の泰一郎氏がいたことが判明した。
 次に違う角度から調べてみようと思いたち、朝日新聞社を尋ね、その紹介をたどるうち、西新宿の山崎毎平氏(山崎光学工業KK、明治三十一年生)に出会うことができた。その話によると、
「私は高林レンズにいた草苅一之助氏のところへ大正三年、十五歳で徒弟となり、技術を学んで独立した。草苅氏の工場は当時駒込神明町四五(今の本駒込)にあり、二人男の子がいた。草苅レンズには、私の他、勝馬氏、斉藤氏という人が奉公していた」との証言を得た。
 また、明治四年に浅沼藤七氏が創業したKK浅沼商会(旧麹町区平河町)の筋をたどっているうち、そこの顧問川端辰市氏より、日野市で山崎光学研究所を開 く山崎光七氏(92)を紹介してもらった。この方は前出の山崎毎平氏の伯父にあたり、昭和初期、「金剛レンズ」を発明している。その話によれば、
「私が神田明神下でレンズ製作機械の販売をしていた時、多分大正十一年頃と思うが、高林吉蔵さんが来社され、機械を買ってもらったことがある。そのとき確 か田端にいるといっていた」とのことだった。これで消防小舎申請書の高林吉蔵氏が高林レンズ当主と同一人物であることをいよいよ確認できた。また、前出の 住田氏も、高林氏を田端に訪ねたが、邸を探し出せなかったともらしていた。

高林氏との出会い

 もしかして、「高林レンズ」の子孫は今も田端にいるかもしれない。と私ははやる心を抑え、電話帳を繰り、田端に住む「高林」姓十軒くらいに片端から電話 をかけた。すると「高林五郎」という方の奥さんであったが、「それは確かに私の家です」とおっしゃるではないか。まあ驚くやら嬉しいやら。以下はその話。 「主人の高林五郎(64)は吉蔵の養子で現在、入院加療しております。私は祖父銀太郎の弟に当る山本常次郎の娘です。銀太郎には吉蔵、泰一郎、とし子の三 人の子供がいましたが、吉蔵には子供がなく、五郎を養子にしました。
 吉蔵の妻は銀座の松島眼鏡店の娘で、嫁に来てからも跡見高女に紫の袴をはいて通学していましたが、結婚が学校にバレて退学したそうです。私の姑というわけですが、美しい人でした。
義父吉蔵は体が余り丈夫でなく、あまり近所付合いもしなかったので、『高林レンズ』のことが知られていないのでしょう。食品なども近所で買わず、デパートから配達してもらっていたそうです。また会社の製法技術などは特に秘密にしていたようです。
 でも社内で技術者養成には非常に力を入れ、業界へは多数の技術者を送り出し、日本のレンズ工業の発展には大変な貢献をしたと聞いております」

朝倉氏との出会い

 さて、高林家子孫との連絡が取れて喜んでいるとこへ、前出の住田工学の住田社長から、高林氏の使用者である朝倉松五郎の後裔が中目黒にいるとの情報を頂 いた。そこでまた電話帳を調べ、松五郎の曽孫朝倉一貴氏と連絡がとれた。ご本人も少し前まではレンズ関係の仕事をなさっていたとか。
 その話や資料などを総合すると朝倉松五郎は天保十四年(一八四三)江戸は本所に生れ、安政五年(一八五八)、十六歳で四谷伝馬町の朝倉家の養子となっ た。明治六年、三十一歳で内務省の命を受け、オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会を視察し、レンズ製作機を持ち帰った。そして翌七年、四谷でレ ンズの試作を始めたが、九年、三十四歳の若さで亡くなっている。
 一方、先の高林五郎氏の祖父にあたる銀太郎は、文久三年生れ、明治五年、十歳で玉屋の屋号を持つ朝倉小間物店へ小僧奉公をはじめ、朝倉松五郎からレンズ 製作を教わり、当主早逝のあと、未亡人と協力してレンズ製作にはげみ、明治十九年には乱視鏡の製法を発明した。つづいて二十年、二十六歳で四谷信濃町に工 場を建設したがこのときの職人は八人だった。さらに二十二年、滝ノ川に岩崎宗吉という人が鶴屋という眼鏡社を設立した時は技師長となっている。
 その三年後の明治二十五年、高林銀太郎は、本郷弥生町に独立して新たな工場を建設した。翌年石油発動機を入れ、三十年には八馬力の瓦斯発動機に改造。最 盛時に工員は150名もいた。さてなぜ、高林氏が根津に工場を建てたかといえば、この地が郊外の山紫水明の地で、空気よく、いたるところに清水がわき、 いってみれば今の精密機器の製造地諏訪地方みたいな土地柄だったからではないか。
 ここで、高林レンズは根津に新しく工場を新築したのではなく、既設の建物に入ったのではないか、と思われるのだ。というのは、明治十九年の参謀本部関係 の地図を調べているうち、私は、高林レンズのある場所が、内務省管轄の梅毒検査所の存在地と重なるのではないかと考えるようになった。
 周知の通り、この辺には明治初期より根津遊郭が公許され、許可の条件の一つとして娼妓の検梅を行う検査所の設立があったのだが、遊郭は明治二十一年の六 月いっぱいで洲崎に移転になったため、その建物はそのままの状態で空家だったと思われる。また遊郭は江戸時代、寺社奉行の支配下にあったが、明治に入って は内務省の所管に移っており、朝倉松五郎が内務省の命によって洋行し、後帰朝して、日比谷山下町の内務省内(今の帝国ホテルの場所)で、持ち帰ったレンズ 製作機を試運転したとの記録もあるので、高林氏が内務省の梅毒検査所の払い下げを受け
たことは十分に考えられる。これは今後、研究をすすめたい点である。
 この高林レンズが独立したとき、銀太郎に従った人々は沢田銅男(桜レンズ)、恩田作次郎、中根松四郎、鈴木全平、磯田徳治郎などの人々であった。他に、 高林氏の元で修業し、後にレンズ業界を担った人々として、坂下善造(桜レンズ)、小林幸三郎(蝶印双眼鏡)、草苅一之助、二武(会津藩出身、明治二十七 年、十四歳で高林へ弟子入り、六年修業の後海軍へ、大正三年独立)、勝間貞次(勝間レンズ)、奥田平兵衛(鳩印レンズ)、瀬田太二三(奥田の義弟・瀬田レ ンズ)、森福松・一郎・弘幸(森レンズ。福松は大正十一年勝間氏と共同で独立した)、北
村伝太郎、牧野松五郎、滝田栄吉(以上三名は陸軍砲兵工廠に入所し、双眼鏡や測量レンズの製作に寄与)、肥沼新三郎(池谷良平と共に高林の技術者を連れて 事業を興す)、斉藤弥左衛門(昭和六年独立、現在京都)、酒井啓之助(明治四十四年、高林入社、大正十四年独立、土浦市に健在)などが確認されている。
 高林レンズは大正九〜十年頃、根津工場を売却して、北区田端一−二四へ移転、新工場を建設、そこで終戦の昭和二十年頃まで事業を続けていた。

レンズ製造技術の輸入

 さて、過日(九月二十六日)の根津郷土史研究会で私は以上のような研究を発表したが、その席には、遠方より朝倉松五郎氏の子孫、一貴氏も来席され、朝倉 家所蔵の数々の歴史ある品々をお見せ頂いた。その中には松五郎がオーストリアに行った時の博覧会の賞状(有功賞牌)や、松五郎の著述した「澳国博覧会参同 記要」もあった。
 その「参同記要」の記載によると、松五郎は明治五年六月、オーストリアの博覧会へ事務官として随行、横浜を発った。五十三日間の船旅を経てウィーンに着 き、博覧会の飾付などしている。このとき自作の石玉細工も陳列し、博覧会の総督であった皇族ライネルより有功賞牌を受けたのであろう。
 のち十二月、佐野常民の命を受け、まずグリウネルトについて五十日間、レンズ製作を学び、のちローマに回ってモザイクの勉強をするが、翌二月、病気に罹りそれが癒えて五月に欧州を発ち、六月、帰朝している。このモザイク技術の方は残念ながら後継者がいない。
 明治文明開化の途上において、写真機の暗箱作りは腕のよい指物師がやったように、レンズ磨きも、そのとっかかりは数珠や飾り物の石玉作りの研磨職人が、転向してレンズ屋になったのではないか。朝倉家の屋号の「玉屋」というのも何かそれを連想させる。
 そうした旧来の職人のうち、進取の気性に富む者が、外国の技術を習得し、新しい仕事に取りくんでいった。それまでのレンズは鉄鍋のような皿の底に、手磨 りで一枚ずつゴリゴリやっていたのだから、朝倉氏の持ち帰った一回に一ダース作れる機械は驚くべき技術革新をもたらしたであろう。いわば朝倉松五郎は日本 レンズ工業の生みの親であり、高林銀太郎はその志をついだ育ての親といっても過言ではない。
 レンズそのものが日本に伝わったのは古く、フランシスコ・ザビエルが薩摩に上陸した時の大内家への献上品の中に眼鏡があったとも、それ以前、足利十二代 将軍義晴が京都大仙院に寄進したものもあるという。が、少なくとも、レンズが、眼鏡、双眼鏡、カメラ、顕微鏡、望遠鏡など、広く人々の生活、科学、軍事に まで用いられるようになったのは、明治文明開化、それ以降のレンズ研磨機による大量生産を待ってのことである。
 さて、私が子どものころ見た、あの赤い下水、あれはレンズを磨くべんがらの色であったことも調べていくうちにわかった。明治初期のレンズの精算が、根津 弥生町の小さな町工場をいわば草創の舞台とし、そこから多くの製造技術者が育ち、日本のレンズ工業を発展させたとは、思うだに楽しいことである。これから も研究を続け、事実を確認していきたいが、まずは中間報告として、まとめた次第である。
〈参考文献〉高田功「めがね繁盛記」眼鏡図書館KK/「日本光学五十年史」/大坪指方「東京眼鏡レンズ史」
                  (おせ・けんじ 根津郷土史研究会会長)



(19ページ)
じょーほートピックス


10・13 根津小学校で伝統工芸を観る会が開催された。根津は古くからの職人の町。そこに残る伊藤風呂店(ヒノキ風呂)、福島人形店(木目込)、尼ヶ崎 科学標本社(はくせい)、岡田彫金、杉本染物店、広瀬文輝堂(和筆)、甲洋眼鏡(べっ甲)、伊藤美術木版の八店の職人さんが自慢の腕前を披露。よその小学 生や外人客も多く、根掘り葉掘りの質問も出て楽しい一日だった。

10・14 千三北町会の防災訓練が水晶ローソク前の公園であった。折しも長野県王滝村で地震による死者が出たあとなので、ヘルメットをかぶった町会の人 は真剣な眼。いま関東大震災なみの地震が東京で起きると文京区で914人が死亡、八万人以上が罹災すると予想されている。
消火訓練もあったが、消火器を実際使ったことのある人は一人しかいなかった。「家庭では15秒噴射の10型がいいでしょう」とは近くの永田消火器店 (821−2651)の話。火事になったらどうする、と遊んでいた松沢よしえちゃんに聞くと「110番する」とのこと。間違えないで、119番ですよ。

10・15 三崎坂大円寺で菊まつりが行われた。これは「自然と手を結ぶ四季の祭りをどうしても谷中で作りたい」という 三崎坂商店街野池幸三理事長をはじめ、大円寺、町会、江戸のある町会の協力でできあがったもの。当日は晴天にめぐまれ、菊鉢も飛ぶように売れた。私ども 「谷根千」スタッフも馴れぬ着物姿で雑誌第一号と菊酒を売らせてもらった。来年は文京区側の方々のご協力も仰ぎ一層盛り上げたい、と実行委でははりきって いる。

10・27 諏方神社では荒神さま大祭も開かれた。荒神さまはカマドの神さま。本殿の階段を上った右側にあり、今年祠が新築されピカピカ屋根が光ってる。当日午前11時より祝詞
、参列者が榊を供え神酒を頂く。昔、今の千代田平安閣あたりのどぶ池の畔に、荒神さまが祠られていたが、それを無視して家を建てた人が大火事にあったので、これは大変と現在地に場所を借りておまつりしたものという。

11・4 恒例の谷中コミュニティー祭りがコミュニティセンターで開催。加瀬時計店ご主人のヨーヨーをふくらます手つきなどもう馴れたもの。地元商店街協 賛の安売りコーナーでは野菜や果物がアッというまに売れ、ヤキソバにも長い列ができた。「菊まつり」のビデオもあった。子供の食生活に関する消費生活展も 見て役に立った。

11・4 谷中銀座商店街主催の史蹟めぐりオリエンテーリングが朝10時より行われた。渡された問題の解答(穴うめクイズ式)を探しに谷中付近の寺や史跡 を二時間以上も歩いた。宝探しみたい。帰りにヤキソバをご馳走になり、抽選もあったがこれはハズレ。一等賞の自転車は誰に当たったのかな。

11・10 根津寄席が宮永会館で開かれ大盛況。立見客もでるほどの大入り満員。根津には昔、寄席や芝居小屋もあった。この根津寄席は、根津小の卒業生の 柳亭芝楽師匠を支援する根津仲間が始めたもの。古典落語二題の他、二人羽織、あやつり人形は大喝采、「おせんにキャラメル」の売り子も現れた。

11・23  文京一葉忌が東大赤門前法真寺で開催。本堂前には一葉の写真が菊の花にかざられ、読経に続き近藤富枝氏の講演、幸田弘子さんの「大つごもり」の朗読、寮歌際などがあった。本堂は立錐の余地なく、若く貧困のうちに夭折した一葉の人気を偲ばせた。

◇ 若妻の失敗談その1 千駄木にすむM子さん、同じマンションの独身男性が、引越しの挨拶に来た。「これどうぞ」と手みやげを差し出され、つい「 まあ、こんなつまらないものを・・・」といってしまい、すぐまちがいに気付いたが、どう訂正しようもない。ドアが閉まったとたん爆笑。
あなたの「あやまち」も教えて。



(20ページ)
手仕事を訪ねて 1  武関花籠店

   西日暮里3−13−5  電話(828)1746

 日暮里駅西口から真っすぐ来て石段を降り、谷中銀座に入る前を右に曲がって二十メートル程行くと、入口に盆栽をずらり並べたこざっぱりした風雅なお店がある。ここが東京でも数少ない竹細工の店。
 外に立って二階を見上げると、なるほど材料の竹がたくさん。出窓には凝った花籠が往来の人の足を止めている。創業者先代の武関翠心(幾之助)さんは栃木 の人で、十二歳で上京、湯島で修業し、台所用品や民具のような竹細工では飽き足らないと、花籠を専門に作るようになった。
 いまのご主人、二代目の翠月(隆)さんは仙台の大農家の生れで五十五歳。昔の農家の子は農閑期には竹細工やぞうり作りをよくしたものですという。その中でも幼少から手先の仕事が好きで、近所の竹を切っては何か作っていたそうだ。
 二十五歳で東京に出て、先代翠心に弟子入りし、それは厳しく仕込まれた。朝は五時から夜十時過ぎまで、休日もなく竹一本やりの生活が続く。そして見込ま れて養子になった。奥様も先代の見込んだ方。その先代は今は亡く、今度は翠月さんが、三代目を継ごうと決心した息子さんを鍛える番である。
 店内の数々の作品には野の花が活けてある。竹は真竹、すす竹、ほうび竹、根曲り竹などを使う。若い竹も使うが、中でもアメ色で艶やかな作品は後から着色 したものではない。茅葺きの民家の梁に使われて百年以上もいろりやかまどの煤でいぶりだされたもの、スモークド・バンブーというわけである。
 日本の民家の屋根の支えには、木では重いし、元と先で太さが違う。その点竹は軽くて、太さもわりあい一定なので梁に使われてきた。この年代を経たすす竹 を探して、翠月さんは北に壊しそうな民家があると聞きつければ飛んで行き、あるときは南へ走りと、全国を歩き回っているそうだ。
 家の解体に立ち合い、竹を探すときは耳や鼻の穴まで煤でまっ黒になる。そうして見つけた竹も、表面に厚くこびりついた煤を、うるかし、もみがらなど柔ら かいものでそうっと洗い落とすと、キズがあったり、堅くて折れやすく使いものにならなかったりでがっかりすることも多いとか。傷がなく、色良し、節低く、 粘りのよい竹、そうしたこれはと思う材料が手に入ると、気を引きしめ、表面の味を生かし、凝ったいい物を作るのだそうだ。
 一方、若竹は表面の薄皮をナタで「むき、細くさいて、霧を吹きながら、組んだ時ピタッとつくようにしながら成形していく。それは手先の勘で、別に設計図を引かなくても応用ができ、変幻自在のオリジナルな作品が生まれる。
 やはりすす竹の渋さに魅かれる。一つで六通りに使える「みの虫」、竹を二つ折りのすっきりした「なた胴」、小さくざっくり編んだ「巣ごもり」、茶道で使 われる「宗全籠」などがすてきだ。一つ一つに名前をつけ、我が子を見るようなやさしい目で説明してくれる。値段だけを聞くと高い気がするが、竹探しの苦労 から工程の複雑さ、手作りの一品物ということを考えると、本当に大変な仕事で値段も納得がいく。大変ゆえに愛着もひとしおなのだろう。何ヶ月もかけた展示 会出品作品などには非売品の札が付いている。
 もちろん若い竹で編んだ手ごろな花籠も千円くらいからいろいろある。私の姉も出産の内祝いにこの籠を差し上げて、珍しいものと喜ばれた。引出物、新築祝その他にも風雅な贈り物である。
 宮家や茶道、華道の方、上流のお邸の注文も多いが、街の人の実用にも答えている。取材中にも、「小銭入れがほしいの」と近所のおばさんが手付きの丸籠を買っていった。最近では外人客も多く、目が肥えて、本当にいいものがわかって頂けるようです、という。
 「職人は同じことを繰り返しているのでは遅れる。常に新しいデザインを考え、オリジナルな作品でお客様に喜んでもらわなくては」と、店先に坐って手を動かしつづけている姿が、この静かな街に溶け込んでいる。年中無休である。



(22ページ)
ポエムナード 谷中ぎんざ


 日暮里駅の西口を出て坂を少し上がりまた少うし下がりますと、視界が開け、石段の上に出てまいります。そこから眼下に続く狭い商店街が、谷中銀座商店街という賑やかな通りです。
 私の友人は、あるときふっとこの通りに来かかりまして、その一種独特の雰囲気に引きずられて、また先の夜店通りを通り、ついに田端銀座から駒込の先の方 まで歩いてしまったそうです。何といいますか、ここには人間の生活臭みたいなものがモロにある。原宿とか吉祥寺にはない臭いです。
 この谷中銀座の、路上までゴチャゴチャと溢れた商品をみて下さい。駄菓子の久助、安いサンダル、チョコロール、カボチャの煮つけ、どてらやモンペ、ナイロンのネッカチーフに仏様へ上げる花、生肉のスタミナ漬、お味噌にシューマイ。
 午後四時をすぎると人出で身動きもできなくなるんです。人間て、いろんなものを食べて飲んで、着て、寝て、産んで、すごいバイタリティーなんだなーって、この商品みてるだけで思うんです。
 そもそもこの通り、本当はもう少し西日暮里よりの谷中幼稚園のあたりにあって、安八百屋通りといったそうです。何でも落合さんという夫婦で働き者の、す ごく安い八百屋さんがあったんですと。遠くから奥さんたちが風呂敷持って買い物に来て、周りに他のお店もできそのうち商店街になりました。大震災の時な ど、他所の罹災した人を商店街ぐるみで助けたといいます。
 それが今の場所に移ったのは戦後、ちょうど強制疎開になって広がった今の通りに、戦後直後のモノがないころ、それこそナベカマから塩や砂糖、着る物まで、露店みたいな形で出たんですね。それがだんだん建物に入って、今のようになりました。
 台紙に貼ると一冊五百円の商品券になるスタンプカードをくれたり、毎週土曜のスタンプ二倍セール、一日十五日の一割引き、その他、夏には盆踊りなんかも やっています。スーパーなんかでボンボンカゴに品物を放り込んでレジで精算というのも速くていいみたいですけどね、本当の買い物の楽しみってのはない。 やっぱり、今日は何がおいしいかと話をしながら、おまけしてもらって、近所の人と立ち話してという方が生活が豊かですよ。とくにこの商店街は品物もいい し、ゼッタイ安い。
 最近、少し新しくなりました。あの敷石の模様は、谷中五重塔の礎石なんですって。言われてはじめて気がつきました。ゲートの字や谷中の名所の切り絵は、石田良介先生が作られたもの。いい雰囲気を出しています。
 
 さて商店街のどんじりに控えた大きな建物は太陽信用金庫。夕暮れ時、その扉はもう閉まって、前には電球つけた露店と、おでんの屋台がでています。
 この信金、地元の人はみんな「光信用」「光さん」なんて親しげに呼ぶんですよね。というのはもと「光信用金庫」といったんです。イヤその前がありまし て、モトは南千住信用組合といって昭和十三年に開業しています。お互いお金を出し合って困ったら貸しあおうということだったらしいのです。その創業者が、 千住の神社天王様を通りかかると、その境内にピカッと光る石があった。そこでひらめいて「光信用金庫」と名を変えたのが昭和二十六年のころ。
 この駒込支店ができたのは五番目で、昭和三十四年五月。その前は材木屋があったそうです。当時の地名は文京区の端っこの駒込千駄木町ですから「駒込」の 名を冠したのですが、今では「駒込」は地名に残らず、よく「今駒込駅で降りたんですが、ここからどう行くんですか」なんて電話がかかって困るそうです。 「太陽信金」になったのは昭和五十年、光信用金庫が大洋信用金庫と合併したからで、今は全体で社員が千人、二十九の支店の場所をみても足立、台東、荒川、 墨田、草加、葛飾………と本当に下町の「太陽」なんですね。
 モットーが壁に張ってありました。「当金庫はみな様の豊かな暮らしと地域の繁栄に寄与するため、輝く太陽のように希望となり、力となり、真心をもって奉 仕する」のだそうです。中小企業、商店、そして地域のための金庫です。江戸時代には無尽という助け合い機関がありましたが、隣近所で融通しあう心、それを 大きくしたのが、信用金庫です。建物も待ちに馴染んだ、気軽に入りやすい建物です。


(26ページ)
■味のグランプリ■本当においしいお店  手打 ラーメン 玉川


 よみせ通りと不忍通りの間にすずらん通りという飲み屋横丁がある。そこに出来た手打ちラーメンの「玉川」という店がとにかく評判がいい。近所の人に勧められて、「手打ち」の現場を見せてもらった。
 女主人の玉川知子さん。お父さんも中華料理の先生だったとかで、一家中が中華好き。昨年までは「三恵」という飲み屋をやっていたが、手打ラーメンを習いに行ってヤミ付きになり転向した。
 十人も入ればいっぱいの狭い店のカベに1m×2mの大板。 
 これがラーメンを打つ台。強力粉、かん水、塩、玉子をまぜてこねる。三十分粉と格闘したあと、十時間寝かせる。その後、のして中華包丁で体重をかけてトントントンと切っていった。
 スープはトンコツをベースにタマネギ、青ねぎ出しコブほか、そして汁を澄ますのに卵のカラを入れる。チャーシューも自分で作る。このチャーシューがめっぽう厚い。
 さて日によって、ラーメンの粉の中にゴマ、ワカメ、青のり、ユズなどが入るのがこの店の売り物だ。出来上がったラーメンは歯ごたえがあって、しかもサ ラッと舌ざわりがよくて、本当においしい。このラーメンやつけメンが四〇〇円。定食にはギョーザ、シューマイ、マーボ豆腐付のセットがあって、ラーメンに 大きなシューマイ二個にみっちりしたサラダ、おしんこ、ごはん、とても食べきれないほどあって七〇〇円。このシューマイがまた肉たっぷりで甘みがあってウ マい。
 こんなに安くてやっていけるんですか。
「だって人件費いらないもの。チャーシューだって私が煮るからと思うと、ついつい厚く切っちゃうの。でも休むヒマないわね。次の仕込があるし」おばあちゃんと次女が手伝っている。
 いつが混むんですか。
「十二時から一時にパァッといらして、あとは夜飲んだあとにラーメン一杯食べて帰るとか。昼一時になれば空きますから、ぜひお子さん連れでいらして下さい」
小さい子持ちも歓迎の店。
 二十で結婚し、その娘さんも早く結婚した玉川さん。三十代で孫ができたそうだ。“肝っ玉かあさん”みたいな方で、すっかりファンになってしまった。
ラーメン400円 つけめん400円 チャーシューめん700円 うまにラーメン600円 カレーラーメン500円 カレーライス500円(サラダ・おしんこ付)
定食・ラーメン・ライス・サラダ・おしんこ付 ギョーザセット600円、カレーセット600円 マーボーセット600円 シューマイセット700円 中華丼セット700円 チャーシューセット800円 
ギョーザ400円(5ヶ) シューマイ500円(5ヶ) チャーシュー700円 焼鳥300円(3本) 各サラダ付 ●他飲み物各種
日曜休 ●PM0:00〜2:00 6:00〜10:00 ●?・821−8761



(27ページ)
自然食雑感 鳥居房枝

 この頃、自然という字がやたらと目につくようになりました。自然素材を生かした綿や麻の服、植物を原料とした自然化粧品、そして合板を排した天然木の家 具調度など、いたる所自然という宣伝文句があふれ、衣食住の中で最も重要とされる食にまで、自然という言葉が使われ始めたのです。
 そんな風潮を人々の眼がいよいよ日常生活において、自然志向、本物志向に向いてきたものと喜ばしく思うのです。しかしその反面、依然として自然が破壊され続けているということも目をそむけることのできない事実です。
 私が自然食を始めたのは、そのような自然ブームになる以前、十二年前のことです。冷え性の体を治すのに食物が一番近道だと思ったのがきっかけです。食物 が体を作るのなら、体によい食物をとらなければいけない。冷え性になったのは、冷えるような食物をとっていたからだ。そう思った時から、主食を白米から玄 米に変え、生野菜は加熱し、甘いものは控えるようにしました。食習慣を変えたのです。十二年たった今、冬の寒いときでも火の気のない北向きの店に一日立っ ていることができるようになりました。自分の体を自らがチェックすることが病気から護
る、そんな姿勢が出てきたのです。今最も多く、恐れられているガンも、食習慣を変えれば防げます。
 一刻を争う多忙な日常生活の中で、体を作る食事だけは嗜好にとらわれないで、バランスのとれた本物の、自然の食物をとりたいものです。
 私たちの祖先が残してくれた食生活のよい面を、この自然食の仕事を通して、受け継ぎたいと思っています。
     (とりい・ふさえ 根津の谷主人)


著者自筆広告

ぼくらの三角ベース  ノスタルジック・カタログ
 草野のりかず著  平凡社刊 980円
 おもしろくて懐かしく、思わず読んでいくうちにちょっぴりホロ苦い思いのこみあげてくる本ですよ。青バナ、お腰、おさがり、学生服の小学生、蚊帳、検便、車内でお乳を与えるおかーさんetc.を事典風にならべほのぼの体験を綴ったミニ・エッセイ集!



(28ページ)
ひろみの一日入門 1 今日は八百屋の看板娘ダ!


初めての一日入門
 前夜から興奮してやっと寝ついたら朝がきた。今日入門するのは、千三商店街の対馬青果店。この店の品は鮮度がよく安いので飛ぶように売れる。
 約束の七時に行くと、おじさんはもう店の前に立っていた。細身の体にジーンズをはき、手にはおなじみの紺の前掛けを持っている。

タクシーでやっちゃ場へ
 市場は巣鴨のちょっと先、不忍通りからタクシーに乗るとアッという間に着いた。中に入るのは初めてだ。「東京都中央卸売市場豊島市場」とある。小学校の社会科見学を思い出した。
 江戸時代には、江戸へ野菜売りに行く近郊の人たちが往来して、駒込の辻、天栄寺前に「土物店」(つちものだな)ができた。そして昭和になって、今の所へ移転した由緒ある市場なのだ。

市場はインターナショナル
 まずはもやし、納豆、漬け物。買った物とわかるように一ヵ所にまとめ、自分の店のナンバーをマジックでかいてゆく。シュークリームや団子まであってびっくり。
 むこうでは雛壇に多勢並んでせりをしているのがみえる。これぞ市場だとうれしくなる。それにしても、会う人ごとに「今日は何?」「遅いね」とかいわれていたけど、私のために時間を遅くしてくれたのかと思うと申し訳ない。
 キャベツ、うどは東京の産。セルリーと書いてある箱は信州や青森、レタスは茨城や静岡と全国各地から、アスパラはオーストラリア。野菜の間を歩きながら旅をしている気分になってきた。
 さらに奥へと行くと仲買いの店が四十軒近くあった。仲買人は朝三時にはきてせりで買い、よほどたくさんでない限り、小売りの人は仲買いから買う。行きつ けの店はだいたい決めている。果物専門の仲買人もいる。今は柿やみかん、りんごが主力。りんごはいまだに木箱入りもあって、おいしそうだ。

これが目的、市場隣接食堂
 ほぼ買う物を決めると朝食だ。どこの河岸や市場にも必ずある「通の為の朝めし屋」。豚汁が冷えた体においしい。朝からカツ丼を食べる人もいてびっくり。ちなみに朝定食は納豆・卵・のり・漬け物・みそ汁・ご飯で450円也。
 最後にもう一度ワゴンで市場をひと回り。仕入れた野菜を効率よく集める。このワゴンはプロ野球のリリーフピッチャーの乗ってくる自動車に似てる。後は千駄木の店まで届けてくれるという。巣鴨駅からタクシーで帰ってくる。
 今ごろになって、眠たくなり、コーヒーをがぶ飲みする。

なんと卵のパックづめ
 十一時。ぼちぼちお客さんが来る。何でもやりますからとお願いし、梨をさらに並べるのから始める。三つのうち一つは包んである紙を開いて中が見えるように並べる。
 その次は袋づめ。みかんも大きさによってつめ方が違う。さつまいもは目方でつめるが長いのや丸いのがあってむずかしい。少しやっているうちに見当でぴったり目方が合ってくる。かんが良いのか天才なのかと一人でうぬぼれる。
 曲がったきゅうりは、形を見ての通りCと箱に書いてある。皿盛りにして売るが、売れゆきがよい。
 それが終ると卵の箱だ。卵はすでにパック入りを仕入れていると思っていたが、これが一つずつ手で入れるのだ。空のパックを持って買いに来たおばあちゃんがいた。省エネでかしこい。
 ダンボール二つ分のパックづめをすると一時の時報が鳴る。自分で入れたばかりのホカホカのみかんを買い、昼食のため家に帰る。

いざ出陣!!
 二時。客の出足はけっこう早い。おばさん達は慣れた様子で、客が来ると袋づめや並べていた手をやめて売り、すぐまた元の作業に戻る。私は店の奥でパックづめ。今のところはそれオンリーだ。
 少し出てきて売ってみたらといわれてやってみるが、「いらっしゃい」の声が出ない。袋づめをしながら値段も少しずつ憶えていったが、店の前に出てくると 勝手が違う。今日はホーレン草と小松菜130円・大根は130円と150円。知ってはいても、玉ねぎやにんじんなどの目方を計っているともうわからなくな る。仕方なく野菜を入れた箱の裏に20円とか35円とか書いてアンチョコにする。しかし、急激な変化に頭がついてゆけなくなり、奥でみかんの袋づめをして 心を静める。卵やみかんだけ単品で買うやさしいお客様はいないのか。たいがい「これとこれ」と袋に入れてから、「ああついでにこれ。あっ、それとこれ 100グラム計って」、こうなるともういじわるとしか思えないのダ。でも新米の私以外は苦とも思わないから大丈夫。

三時半からが勝負ナノダ
 ものすごく混んでくる。勇気を出し恐る恐る奥から出てくる。今日は黄ニラやズッキーニといった変わり種があり、「なあにこれ」とか「どうやって食べるの」という質問のたび、説明するが、それでもズッキーニは敬遠されぎみ。
 葉物は新聞紙にくるみ、卵や玉ねぎは茶色い袋へ。それらを最後に白いビニール袋へ入れるが、この袋の大きさを選ぶのと入れ方にコツがいる。一万円札を渡 された時など、入れるのに手間どっていると、すぐにおつりがわからなくなる。そんなドジを横から「はいブロッコリー100円ねー」と軽やかな声でおじさん が助けてくれる。そうしながらも白菜を樽につけたりして全くニクイニクイ。(この白菜漬はお店の自慢)

記憶装置はオーバーヒート
 五時半。ピークは続き、あまりの混雑に頭の回路が狂ってきた。そこへ一日預けた我が子がチョボンと姿を現わしたので、突然ボオーッとして何が何だかわからなくなった。「もうそろそろ帰ったほうがいいよ」ちおばさんの優しい一声で、私の一日入門の幕は降りた。

最後にひとこと
 売る側からの感想。年輩のベテラン主婦ほど品物をていねいに選んで買っている。これは売る側にとってはうれしいことなんだ。
 文句をいわずにやりたい放題やらせてくれたおじさん、おばさん、佐藤さん。本当にお世話になりました。ピーマンの値段、二回程まちがえました。ごめんなさい。猫の手を借りたい時は、是非私を呼んでください。また邪魔しに参ります。
             桜の花の〈よくできました〉マーク。

(32ページ)
編集後記 谷根千村便り

◆寒さが身に凍むこの頃です。お元気ですか。谷根千二号をお届けできて幸せです。一号はお蔭様で千五百部全部在庫がなくなりました。
◆私たちは、一つまた一つと古い木造の民家があと形もなく町から消えていく、その胸の痛みをバネにこの雑誌を始めました。せめて消え去る前に記録に残した いと思いました。ですが町を歩き、取材する中で、一つの建物が消えても、町を大切にする心が残るなら、それでもいいと思いはじめています。懐旧の情におぼ れることなく、街の未来を見て雑誌その他の活動をしていきたいと思います。
◆スタッフの誰かが「一度でいいからのんびりお風呂に入りたい」といったので銭湯特集になりました。毎日子供の体を洗うので精一杯なのです。子供が寝たあとをダンナ様に頼んで一人で銭湯取材。ささやかな楽しみですがやみつきそうになりそう。
◆小瀬健資さんの「根津とレンズ」は地元の方ならではのユニーク、オリジナルな研究でご紹介できて光栄です。引き続きレンズ工場に関する資料提供、また他のテーマを研究の方、ご連絡をお待ちします。
◆過日、日暮里の生き字引・平塚春造さんを小瀬さんと共にお訪ねしました。八十ン歳と七十ン歳のお二人の目はキラキラ、情熱と記憶力には圧倒されるばかり。“古老”と申し上げるのは失礼で、実に“青年”のお二人なのでありました。
◆其の一、菊まつり特集号を読んでお便り下さった方、ありがとうございました。叱咤、激励のお手紙は嬉しい限りです。ご意見お待ち致しております。
◆きんもくせいの香りの中で取材をはじめて、七五三の晴着姿を横目に原稿を書き納めです。次号は三月十五日発売予定。特集は「谷中の花見」です。乞ご期待!(森まゆみ)

お知らせ

●地域雑誌「谷中・根津・千駄木」のカバーする範囲を、地名で申し上げますと、台東区は谷中・池之端・上野桜木、文京区は根津・千駄木・弥生・向丘二丁 目、荒川区は西日暮里三丁目、北区は田端一丁目あたりと考えています。この地域の方は、次の「谷根千」のあるお店でお買い求めいただけます。
 それ以外の地域の読者への郵送いたします。一年(四回)分をまとめて申し込み頂けると幸いです。送金方法はお電話でお問い合わせ下さい。
 A5判32頁/季刊/二五〇円+送料
 購読申込電話八二二−七六二三(仰木)

「谷中・根津・千駄木」のあるところ

谷中地区:乃池/伊勢辰/印沙羅/武関竹篭店/よみせ通り診療所/谷中銀座商店街/真島湯
根津地区:根津の甚八/はん亭/夢境庵/弥生美術館/サトウハチロー記念館/根津診療所/楽屋/銀座メガネ/宮の湯
千駄木地区:クラスティ/タニヒラカメラ/橘樹歯科/中村歯科/鈴木歯科/田中歯科/創文堂/手打ラーメン玉川/鳥清/大菊の湯
 私どもの趣旨をご理解頂き、雑誌を置いて下さるお店を探しております。ご一報下さいませ。順次掲載してまいります。
〈訂正〉其の一 菊まつり特集号
 3P中段  隣り→楼
 8P上段  惠美子さん→美惠子さん
       明治天皇→大正天皇が皇太子のころ
 9P下段  千駄木三丁目→四丁目
 11P下段  昭和四十三年→明治四十三年
 大切な取材協力者のお名前を誤記いたしましたこと、伏してお詫び致します。
〈お詫び〉「谷中スケッチブック」(森まゆみ著・エルコ社刊)鋭意編集中ですが多少遅れております。申し訳ありませんが今しばらくお待ち下さいませ。
 住んでいる者でなければわからない谷中の四季の風と匂いと音をたっぷり書き込んだガイドです。
予価1200円/

(33ページ)
文化ガイド

〔朝倉彫塑館〕日暮里駅西口近く 土・日・月開館10:00〜16:00
       ?821−4549  大人300円
〔大名時計博物館〕谷中三浦坂上 月7〜9月年末年始休10:00〜16:00
       大人300円 ?821−6913
〔黒田清輝記念室〕東京国立文化財研内 木曜のみ開館 13:00〜16:00
       無料 ?823−2241
〔横山大観記念館〕池の端不忍通り 木〜日開館10:00〜16:00 大人300円
       ? 821−1017
〔下町風俗資料館〕上野公園内 月・年末年始休 9:30〜16:30
       大人200円 ?823−7451
〔書道博物館〕根岸子規庵前 月・6〜7月年末年始休 10:00〜16:00
       大人600円 ?872−2645
〔弥生美術館〕東大弥生門前 月休 10:00〜17:00 大人400円
       ?812−0012
〔サトウハチロー記念館〕弥生坂上って右へ入る 火・土開館 13:00〜16:00
       無料 ?812−3080
〔鴎外記念本郷図書館〕団子坂上 日(1・3・5)月(2・4)ほか休
       無料 ?828−2070
〔一葉資料館・法真寺〕東大赤門前 無料 ?813−8241
〔東京藝術大学芸術資料館〕芸大内 日・祝日・12〜3月休 10:00〜16:00
       無料 ?828−6111

根津の三階家について

 根津界隈には、戦禍をまぬがれた古い家並が今も残っている。中でも思わず足を止めてしまうのが、ここ「はん亭」。都内でも珍しい木造の三階家である。
 さらに驚かされるのは、のれんをくぐると家の中に蔵があることだ。この蔵は明治四十年に建てられた。当時、「みた商店」という下駄のつま皮屋さんが商い をしていた。「三田のつま皮といえばかなり有名で、全国的にも知れわたっていたとおふくろがいってたよ」とご主人は語る。その蔵の辺は当時庭で、その手前 には池があったという。それが大正になり靴の時代が来ると皮草履を作るようになって、池の所へミシン場を作り屋根をつけた。そのため、蔵が家の中になった わけである。
 三階家は、大正十二年に増築し、住いにした。中でも三階の部屋は、すばらしい欅板の床の間などの凝った造りで、いまでも隅田川の花火が見えるというか ら、きっと近所の熊さんや八っぁんを呼んで月見や花火見物をしただろうとは、御主人の弁。その家も「はん亭」になる前は、運送会社の独身寮で、中はベニヤ で仕切られ、窓にはナミ板がはってあり、見るも無残な姿だったとか。
「はん亭」は昭和五十三年にオープン。といっても、ご主人は初め自宅のつもりで改築したのだ。それが見学の人が集まって来るうちに、家族のダイニングルームが何となくお店になったという。
 レンガが好きで、店の壁はレンガを砕いた砂で塗った赤壁に、またテーブルも気に入ったものをとことん探した。とにかく、妥協を許さず凝りに凝った男のロマンなのだ。

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の二

 1984年12月15日初版 
 編集人/森まゆみ 発行人/山崎範子 スタッフ/仰木ひろみ、つるみよしこ 発行=谷根千工房(編集室トライアングル改め)
〒113 東京都文京区千駄木3−1−1−102(仰木方)
TEL&FAX 03−3822−7623(振替郵便00150−1−162631) 定価250円
ページトップへ