地域雑誌「谷中 根津 千駄木」10号 / 1986年12月20日(土曜日)発行  250円
おいしい豆腐の買える街 − 酒屋へ三里 豆腐屋へ二里
10号 おいしい豆腐の買える街 − 酒屋へ三里 豆腐屋へ二里 地域雑誌「谷中 根津 千駄木」10号 / 1986年12月20日発行 250円
酒屋へ三里 豆腐屋へ二人 ――おいしい豆腐の買える町

表紙/三谷一馬「江戸商売図絵」(青蛙房刊より)

1p
スケッチ「日暮里・本行寺」川原史敬

目次
地域雑誌―谷中・根津・千駄木一其の十     一九八六・冬
この町に手作りの豆腐屋二十軒、
   谷根千の住民でよかった!
◎特集◎おいしい豆腐の買える町
酒屋へ三里豆腐屋へ二里
◎谷根干の新名所/日暮里・本行寺
一茶と山頭火、本行寺にて邂逅
◎町並点描/the・根津観音仲見世通り
◎手仕事を訪ねて 
郷土玩具、京楽堂 河江次朗さん
◎谷根千の風景
谷中墓地の自然《野鳥》
◎この街にこんな人
根津の大好きな《桐谷エリザベスさん》
◎ご近所調査報告/続・山車の話
谷中町の山車は、早稲田の演博にあり
◎エッセイ/この町に住んでよかったこと―古川恭子
◎光太郎・智恵子特集補遺 仁喞はこんな町だった
◎トヨタ財団研究助成ニュース
谷中・上野桜木の親しまれる環境調査より(一)

情報トピックス
おたより
谷根千ちず
編集後記 
文化ガイド
スケッチ「本行寺」/川原史敬
エッチング「三段坂」/棚谷勲
剪画「夢境庵」/石田良介

題字/本郷松しん タイトル文字/岡本明子・草野権和 地図制作/柳則子
町並イラスト/手島直人 助っ人/木村民子・岡本暢雄
写植/今野早苗 印刷・製本/蟷粟梗


口上
江戸の面影を残す寺町■谷中
かつては遊廓も栄えた職人の町■根津
鴎外、漱石ゆかりの■千駄木山
芸術家の卵を育てた■上野桜木
日の暮るるのも忘れる風雅の里■日暮里
帝大生の青春の町■弥生

 私たちの町には東京には珍しい自然――樹々や鳥や風と、地震・戦災に耐えた建築物、史跡、そして形にはならない暮らしぶり、手の芸、人情がまだたっぷり残っております。 それを調査、記録、紹介し、良い環境を大切に次代に手渡す手だてとして、
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を発刊いたしました。
 懐古趣味ではなく、良いものを生かしながら、暮らすのが楽しい、生きのいい町として発展するのに少しでもお役に立てたらと思っています。まだ若く非力な私たちに街の皆々様のお力をお貸し下さいませ。


2〜11p
■特集/おいしい豆腐の買える町
酒屋へ三里 豆腐屋へ二里

●協力/品川力、品川約百(よぶ)、桐谷逸夫、木村民子、天野真知子、古川恭子、野沢延行、ジョルダン・サンドの各氏と、鴎外記念本郷図書館、豆腐について語って下さった町の方々。

湯どうふや いのちのはてのうすあかり  久保田万太郎

白くて、四角で、
何の変哲もない味だが
体に馴染んでいる。
いや実に奥深い味だと
いう人もいる。
毎日食べても飽きない。
どんな料理にも合う
それが豆腐。
昭和の初め、東京には
三千軒以上の豆腐屋があった。
いまでは二千軒余しかない。
しかし、谷根千の町には、
まだ二十軒の
手作り豆腐屋が健在。
うれしいことだ。


特集のキッカケはこの人
 品川力氏との出会いから書き始めると、長い話になる。戦前の帝大生のたまり場であったレストラン・ペリカン主人、織田作之助の『ダス・ゲマイネ』の登場 人物、ときには雑誌「アンアン」のモデル、そして内村鑑三研究の書誌学者と伝説には事欠かないが、その本職とするところは、本郷の古書ペリカン書房店主に して、一名“資料配達人”と呼ばれている。
 品川さんは冬でもシャツ一枚、カウボーイハットで扇子を持ち、本郷の自宅を出て、木下順二、北川太一、猪野謙二といった方々の家に、資料となる古書をおいていく。そして今年の一月、『谷中スケッチブック』を読み、井戸水で作る谷中の石川屋豆腐店に立ち寄った。
 これが、明治三十七年生れの品川さんが自ら豆腐を買った瞬間である。それから何十回豆腐を買いに谷中へ行っただろう。すっかり石川屋に魅せられ、
「あそこの豆腐はうまいですよ」
と書斎で品川さんは私たちに確言した。
「そしたら山崎正一さんは、僕は小松屋の豆腐がうまいと思うけど、一度、小松屋のも食べてみなさい、と言うんですよ」
    ◆   ◆   ◆
 ふうん、じゃ私たちも石川屋と小松屋のを食べてみるか。すると、「豆腐ってのは、歯ごたえがあって味がきちんとなくちゃあ。僕は千駄木の横田豆腐店のが 一番うまいと思う」とスタッフの亭主が話に混ざってきた。続いて「あら、あたしは白山の星野さんのがものすごく好き」と料理研究家の古川さんも。
 話が広がって、会う人ごとに聞いてみると、本当に「好きな店はさまざま」ということと、「みんな豆腐に執着してる」ことかわかった。そこで、これから鍋物がおいしい冬場でもあるし、豆腐特集をしよう、ということにあいなった。

◎豆腐・雑学ノート
●豆腐を発明したのは今から二千年ほど前、漢の高祖の孫、准南王劉安と伝えられる(『本朝食鑑』)。ゆえに“准南佳品”とも称す。朝鮮ではトブ、ビルマやジャワではトーフーと発音し、東アジアで食されている。
●日本へ豆腐が伝わった年代は明らかでないが、室町時代の『職人尽歌合』の、「豆腐売」に
「ふるさとはかべのとたえにならとうふ
  しろきは月のそむかさりけり」
 とある。奈良で作った豆腐を京都まで、三十キロ連んで行商していたらしい。
「とうふめせ、奈良よりのぼりて候」
●「世の中はまめで四角で軟らかで
  また若弱に憎まれもせず」
 と豆腐を礼賛したのは隠元禅師。
●一説には、豆腐は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻の時に、兵糧奉行岡部治部右衛門が持ち帰ったという。それゆえ“おかべ”“しぶ”というとか。これは豆腐が白壁に似ているのに女房言葉で敬語がついたともいう。
●江戸の一丁は大きく五〜六〇文。京阪の一丁は小型で値もまちまち。天明二年(一七八二)に『豆腐百珍』が発刊されブームに。

◎豆腐雑学ノート
  ほととぎす自由自在にきく里は
    酒屋へ三里、豆腐屋へ二里
●本特集の題は桑揚庵つぶり光のされ歌より。豆腐資料を当ると必ず出てくるが、「隣家が一里で豆腐屋三里」「酒屋へ三里豆腐屋へ五里」と誤り伝わったり、 解釈も勝手なもの。「ほととぎすが聞ける田舎とは豆腐屋から二里も離れた不便な土地」とか「どんな田舎でも二里も歩けば豆腐屋はある」「戦前の田舎では豆 腐など自家製だったから、この歌は都会的発想の机上の作」というのまで。
●日暮里の平塚春造さんによると、「大田南畝がこの下の句を記した石碑が日暮里青雲寺にあったが、いつしか田端の料亭、天然自笑軒に売られた」とのこと。
●根岸の有名な豆富料理「笹の雪」は元禄年間、玉屋忠兵衛が開いてから九代、三百年つづく。この屋号は、創業のころ、上野寛永寺の輪王寺宮から「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞められたことによる。
  南禅寺何こちらにも笹の雪
  吉原雀チヨッチョッと笹の雪
 吉原帰りの遊客で賑わったが、今は法事客に観光客。入谷朝顔市の日は朝五時に開ける。


懐しの豆腐屋さん
 吉村昭氏の『東京の下町』の五五ページから、戦前の夜明けの風景がはじまる。
 遠くから牛乳屋の箱車がひかれてくる音、新聞配達が新聞を指でしごく音。「豆腐屋の朝も早い。真鍮製のラッパというよりも笛というにふさわしい細身のものを口にあてて吹いてくるが、その音色が『トッフィー』とも『トーフィ』ともきこえる」
「朝倉さんの通りの小松屋の親父は菅原といったが、暑い日も寒い日も、紺の伴纏に腹がけで天秤かついで歩いてきた。
『豆腐ー、油ゲー、ガンモドキー』ってラッパを吹いてさ、頑固一徹の面構えでね。
 うちの親父も豆腐が好きだったからね。仕事場でもニラメツコ、夕飯の膳でもニラメッコだが、あの湯豆腐つついていた父親の姿が忘れられないね」
 と指信の森田さん。昔の豆腐屋はその場で切ってくれたんだそうだ。森田さんは「ナニ、あんたハチハイも知らないの」と切り方を教えてくれた。
 この辺に住む豆腐屋さんの最長老ともいうべき木村義広さん(根津)に会えた。「私は明治二十九年生れ、今年で九十一歳。新潟で生れ、十七歳で東京に出 て、坂下町のリボン工場の前の武蔵屋に入った。人のやりたがる商売は利が薄い。人の嫌う商売、四季当りはずれがない商売がいいと思った。七年年季をつと め、今の横田豆腐店のところの店を三五〇円で買い、身上(しんしょう)をもった。二十二〜三の頃だ。
 大正の初め、豆腐が二銭でガンモや揚げは一銭。仕事を覚えたい一心で、たくさん作るから、豆腐一丁買ってくれた客には、揚げを一枚おまけしていた。一時 に起き、自分のところに豆を挽く機械がないので、坂下の店までリヤカーで豆を運んだ。何度も往復するのが嫌だから、一度ですまそうとするとこれが重くてつ らかった。やっと運んできた呉汁(ごじる)を、横丁でぶちまけてしまい、他人様の軒下にするすると流れ込んでいくのを途方にくれて眺めたこともあった。
 そうして金を貯め、上野にあった石亀という豆腐屋専門の道具屋で、一式あつらえた。私を小僧と見くびった店に代金八五〇円を即金で払ったら、向うがたまげてへっついに銅板(あか)をかぶせてくれた時はさすがに誇らしかったね。
 できた豆腐はリヤカーにつんで、急な大給坂を上る。大給さんは兄弟子の野本の得意だから、私は坂上を右に折れ、藤堂子爵邸へ行った。小僧の私に、女中頭が菓子を皿に乗せてくれる。それも空では返さず、必ず揚げの二枚も乗せた」
 朝売り、昼売り、夜売りとせわしない労働の間に、ほんの一時、昼寝ができる。それが体に良く、子供の時から内臓の薬は飲んだことがない、と木村さんはいう。
 さて、谷中側で古いのは杉田直次さん。「豆腐屋に多いのはまず新潟人で、越後屋が多い。二位が埼玉で埼玉屋とか武蔵屋という。あとはぐっと少ないんです。
 あまりにも地方は貧しかった。郷里の先輩が成功すると東京は憧れの的だった。私は明治四十一年、埼玉の農家に生れたんですが、不況で小作争議が多くて、次男、三男は小僧に行かされた。
 大正十二年、十六歳で親戚筋の杉田光吉がやっていた谷中三崎坂の店に住み込みで入りました。そのころはもう手動でなく、豆を引くモーターの機械はあった。
 所帯は、よみせ通りの今の朝岡眼科のところで持ちました。見合もせず従妹をもらって二人してよく働いたこと。当時のよみせ通りは年中、夜店がたって賑やか。金魚屋、風船屋、かき氷屋、バナナのたたき売り、八つ目鰻に辻占い。
 昔はお彼岸には稲荷鮨をたくさんこしらえて近所に配ったので揚げが売れた。それからここいら賄い付の下宿が多く、そういうところには豆腐が必ず入った。
 岡持ちかついで桜木町の方まで歩きましたね。声楽家の佐藤美子さん、桜木町十七番地の宇野浩二さん、イタリーのコーヒー王と結婚した田中路子さん。日本 画の山川秀峰さんが帝展に搬入するのも手伝ったし、平櫛田中さんが木彫の桜の木を干すのも手伝いました。着流し黒足袋姿の川端康成さんはなんだか狐つきみ たいで人相が悪いと思ったな。どこの路地に誰がいたか全部覚えてますね。
 戦後は大豆がなくって、下仁田のコンニャク粉を手に入れて、コンニャクを作ったら、これがよく売れたです。
 豆腐屋は誰でも俺のが一番だと思ってますよ。作り方は人には見せない。固いのがいいったって、ただ固ければいいもんじゃないです」
 町の世話役、杉田さんの話は明快だ。


うまい豆腐のつくり方
 十一月一日午前五時、豆腐作りの現場を見せてもらいに谷中銀座の武蔵屋さんへ急行。シャッターの隙間から入り込むと中は湯気でまっ白。三時半から仕事を 始め、すでに水槽に出来たて豆腐が泳ぐ。「冬場で一八〜二〇時間水につけ、ふやかした豆をグラインダーですりつぶします」
 豆は水といっしょに石臼のようなものですりつぶされ、下の口からドロドロになってでてきた。
「この呉汁を七、八分煮ます」
「それをパイプの中へ流して、布で濾して豆乳とおからに分離します」
 とあくまで真面目な杉田さん。真剣勝負なのに説明させてごめんね。
「この豆乳をそのまま、ニガリを入れた木型に流し込むと絹ごしの出来上り」
 何も絹の布で漉しているわけじゃない。
 木綿はもう少し手がかかる。豆乳の中にニガリを手で振り入れ、ざっと寄せ(固める)てから、小さな片手鍋にすくい、穴のあいたアルミ型に入れ、さらに押しをかける。
「他の作業が全部うまくいっても寄せ方がまずいと何にもならない。日によって出来は違うし、まあ、お父さんの機嫌しだいかしらね。今日のは、若い女の人に見つめられて上っちゃったかしら、いつものよりちょっと出来が悪いわ」
「豆腐の大きさには別に規定はないんです。うちのは長くて大きい方。千代田区とか都心にいくと豆腐も小さくなるらしいから、土地の値と反比例かな」
「実家は勤め人でしょう。結婚前に、炊事、洗濯、掃除なんか仕事のうちに入んないと言われてはきたけどね。新婚旅行から帰った次の日から四時起きたもの。 それから二十四年、休んだのはお産の時だけですよ。“豆腐は水を売ってるようなもんだ。豆腐屋丸もうけ”なんて言われると腹が立つわ」
「どこの店でも、おかあちゃんの顔のでかいこと。大事にしてやんないと仕事にならないから、仕方ないね」
「大事にされてますよ」

 ううっ、熱いのは湯気のせいではない。
 ほかのお店にも話を聞いた。うまい豆腐をつくるコツは?
「やっぱりいい豆を使って、ていねいに作ることです。うちは一番いい豆を使ってます」(動坂ストア池田屋・大場さん)
「そろそろ新大豆の季節。11月中頃から12月になると、どの店も今年収穫した豆で作りはじめる。そうすると豆腐にぐんと甘味が出てくるんだ。新大豆だけじゃトロつく豆腐になっちやうんだけどね」(千駄木二丁目小松屋・田沼さん)
「豆腐の成分の大方は水ですから、水が良いということが大切。うちは井戸水です。この山の上はまだまだいい水が出ますよ。愛玉子(オーギョーチー)さんもこの間まで自然水でないとあれが固まらないと毎日水を取りに来ました」。(上野桜木藤屋・高橋さん)
 入口には狸がラッパを吹いてお迎え。
「一番の決めては寄せ方です。つまりニガリと豆乳をまぜあわせるあんばい。というかタイミシグで、ここに豆腐屋の個性とウデがかかってるわけ。味の違うのもこれが原因してるかも知れん」
 善光寺坂の小松屋の小島さんはいう。豆腐の売れるのは夏の暑い日と冬の寒い日だが、ワシは家族で毎日食べるねえ。「寄せ方」で決まるとは、ほかのどの店でも聞いた。
「にがりの量を少なくして作るのが大事。にがりが少なければ、豆腐の甘味が引き出せる」と団子坂たけやの石島健さん。豆腐づくり60年だが、出身の埼玉の村には、七人も豆腐屋になった人がいる。
「あとはお客さんにおいしい豆腐を食べてほしいという真心こめてつくること」日医大前のたけや・熊谷さんで決まり。


きき豆腐会レポート
 豆腐……この白いかたまり。編集部では、二組の夫婦で連日連夜豆腐の味見を重ねてきた。夫はついに冷蔵庫の中の番号のついた豆腐を思うだけで、帰宅が遅 くなる始末。しかし、人間の好みは十人十色。そこで、三十代から八十代までの男女十一名で「きき豆腐食」なるものを開いた。
 集めた豆腐は木綿ごしばかり二十三丁。中にはスーパー、生協、そして私が試作に試作を重ねて、やっと「トーフ」と呼べるようになった「いたらぬ豆腐」まで参加した。
 余談だが、豆腐作りに熱中すればするほどたまるのはおからの山。しかしこれも立派な大豆タンパクと思えば簡単に捨てるわけにもゆかぬ。と考えて、そこらの野菜を細かくきざみ、卵と小麦粉を入れて団子に丸め、油で揚げたらこれがナカナカの味。名付けて「おからコロッケ」。
 さて十一月六日正午。事務所には朝から買い集めた豆腐、トーフ、とーふ。
 風邪気味の料理研究家、水物ならおまかせの自称「水人間」、主夫、生協党、中堅主婦、万年薄着青年などなど、集った人々は、準備ができるまで思い思いに豆腐の話。
 冷奴の好きなサンド氏に、画家の桐谷氏が「“豆腐の角に頭をぶつけて死ね”という話を知ってますか」と尋ねれば、さすが日本通のサンド氏も「あんまりなさそうな事件ですね」と答え、雰囲気は盛り上る。
 準備が整い、大皿にのった豆腐は番号をつけられて机に勢ぞろい。ひと口に言えばみな白くて四角い。が、よく見れば色、つや、それぞれ微妙に違う。
 小皿にとっては「ウーン」「ナルホド」「コレハ」「いわくいいがたい」など叫びつつ、アンケート用紙に書き込む。
 結論、これは本当に個人の好みなり。二十三丁の豆腐を食べ続け、益々わからなくなってしまったというのが本音。たった十一人の意見であるが、最も評判の 高かったのは、根津藍染大通りの「越後屋」と団子坂上の「たけや」だったことくらい書いてもいいかしら。あとは全く評価が分れた。
  とにかく、この地域にこれだけ手作りのおいしい豆腐を作る店があるなんて、谷根千住民の幸せをまず感じた、というのが一致した意見。それと、自分のいつも食べている豆腐を当てる人が何人かいたのには驚いた。
 ほめ言葉としては「甘い」「腰がある」「きめが細かい」「さっぱり」「のど越しが良い」「まろやか」「深みがある」「なめらか」「豆腐のあるべき姿」 「イイジャン」。辛口意見としては、「豆つぽい」「風味なし」「水道くさい」「バサバサ」「ニガイ」「ヒェー、クサイ」「かみしめに欠ける」などと、自分 で作らないからみんな勝手なこと言っちゃって。
 因みに、私の試作品はなぜか男性にモテ、「カッテージチーズの代りに使える」とか「荒い、男らしい味」「なつかしい味、グーよ」と複雑なおほめの言葉をいただいた。


ジョルダン・サンド氏 アメリカの豆腐事情
 アメリカでは今、豆腐が大人気で、ニューヨークあたりならふつうのスーパーで買えますね。でも工場生産ですから新鮮でなく、まずいというか味がないです ね。トフティて知ってますか。トウフのアイスクリームで、「フロム・ニューヨーク」って書いてあって逆輸入され、日本でも売っているの。
 何でアメリカ人が豆腐を食べるかというと、健康のため。油や肉の食べすぎへの警戒から、日本料理やトーフが健康食だといわれて、カッテージチーズ感覚で サラダに入れたり、トーフ・バーガーにつぶして入れたり。すし屋もはやっていて、ボストンやシカゴには数百軒もあって、大人気。たぶんね、手で食べるとい うのがかっこヨイとかおいしいとか。カニ足カマボコやイクラのにせ物でごまかしてるけど、値段はけっこう高いよ。十二ドルくらいだね。
 それでも、ニューヨークの人たちは、外食とか衣服は高くてもいいという感じ。ヤッピーって知ってますか? 一九六八年頃学生運動やっていて、今は企業の 中に入ってるホワイトカラーの人たちのこと。とても金持ちだし、物質的な物の見方しますね。(ああ、日本でいうと団塊の世代というあれネ。不倫ブームとか 金曜日にワインを買って、とか。)それそれ、まったく同じ。アメリカではシャンペンブームになりました。彼らは、雇われていても賃金労働者という自覚はな いですね。
 野心があって、自分でも企業に投資している。金のあるそういう連中が、インスタント食品にも飽きて、健康のためにトーフなんか食べてるんじゃないかな。


引き売りレポート
 11月27日、午後5時10分。団子坂上の豆腐屋、たけやの君主人石島克二さんの自転車の後について、引き売りに出発。
 まず須藤公園上の山脇邸前に立ち寄る。ここ林町は、今もご用聞きや引き売りが頼りの邸町。ラッパの音を聞きつけ、鍋や皿を手にまず3人。今度はこちらか らご用聞きに行く。毎日声をかける家、一日おき、週末だけといろいろ。「毎日いりませんかとは、声がかけにくいですよ」。
 旧児玉希望画伯邸前に出る。「この辺は名士が多くて引き売りしても楽しい所でした。宝井馬琴さんは男らしい豪放な方で、健康のためだからとよく自転車に 乗っていた。児玉先生の奥さまは気さくな方で、我々といつも世間話。先生のお元気な頃は、庭にあるお稲荷さんのお祭りにいなり寿しを頂きました。数寄屋造 りの立派な塀で、よく月光仮面の撮影をしていました」。
 宮本百合子の実家である中条家名残りのあずき色の門柱を抜ける。「ここは迷路のようで、よく道を聞かれるんです」。
 ラッパの口を手のひらで少しふさぎぎみに鳴らす。音が大きくならないためだ。静かな住宅街の台所に立つひとの耳元に、ラッパの音がとどけばいい。
「寒くなりましたね、お孫さんの具合どうですか」「風邪だったみたいよ、心配させちゃって」大鍋を抱えたおばあちゃんが焼豆腐を買っていく。
「冬は手が寒くてね、水に濡れた手で自転車をごぐと、風を切って痛いくらい。豆腐の水に手を入れると暖かく感じます」。
 鶴の湯の手前で、「あら、今日は少し遅いじゃない」と近所の人。写真をお願いすると、「ダメダメ、美容院に行ってからじゃないと」だって。「ここは少年 ケニアの山川惣治さんの家だった。オヤジにくっついてきて、この家で少年ケニアが描かれてるかと思うとワクワクしちゃって」。
 千駄木公園の前を過ぎる。6時半、早い家ではもう夕食。引き売りも終りの時刻だ。



おいしく豆腐を食べるには
「豆腐がまずくなった」「固めの歯ごたえのある豆腐に出会わない」という声をきくけど、世間一般からみれば少数派。「谷中銀座の石段の下の八百屋では三丁で百円よ。たとえ二丁腐らせても、得じゃない」(斉藤佐知子さん)。
「鍋や奴で食べる時は団子坂上のたけやのおいしいのを。でも味噌汁や揚げたりする時はやっぱりスーパーのを買っちゃうのよね」(竹内直美さん)これも主婦の本音。
「飲み助には豆腐の味のわかる人が多い。だいたい、女の人より男の方が味にうるさいのが多いと思うね」(池の端・小松屋さん)という発言も当ってそうだ。

 それでもおいしい豆腐が食べたい!豆腐をまずくしたのは誰だ。
「昔から、かけうどんと風呂屋と豆腐の値段はだいたい同じだった。いまうどんが三〜四百円、銭湯が二六〇円、豆腐は一一〇円とかなり差がついた。これは、 大量生産でうんと安い豆腐を売り出したからなんだ。だから値段を上げるわけにはいかないし、豆腐屋の売り上げは落ちるし」(丸保食品・黒川さん)。「一日 二百丁出ても売り上げは二万二千円だよ。この労働量を考えると、店をたたむのも無理はないよ」(宮永町越後屋・伊原さん。)
「そのスーパー豆腐ときたら、一度頼まれて分析したけど、蛋白質がうちの豆腐の半分でした。グルコノなんとかいう凝固剤を使うと、うすい豆乳でも固まっちゃうんです」(武蔵屋・杉田さん)
 十月二十七日、近くの某大スーパーで売っていた豆腐は特売で八十八円。日付は二十四、二十五、二十六日のといろいろ。「豆腐はその日に作ったのを食べる のが一番だ。充分水にさらしたものをね。スーパーのパック入り豆腐は水にさらさないまま何日もおいてあるわけでしょ。うまいはずがない。ホントは昔風にナ ベやボールを持って買いにきてほしい。(そんな人は今一日に三人くらいだけど)。それと、家に帰って冷蔵庫にポンと放り込むのはダメだ。すぐ使わないなら ボールに水はって移しかえてね」(千駄木二丁目小松屋・田沼さん)

 湯豆腐と評議一決す雪の朝  欽一



◎得する豆腐情報
●小松屋(三崎坂上)、丸保食品(夜店通り)、武蔵屋(谷中銀座)などでは、“大豆の唐揚げ”を新発売。一袋130円。夫たちに食べさせてみると、皆“鳥の唐揚げ”と信じて疑わず。旨い。
●未だに井戸水と、自然に恵まれた店が4軒あった。石川屋(朝倉彫塑館並)、藤屋(言問通り)、たけや(白山上)、越後屋(動坂下)。
●引き売りをする店は5〜6軒。午後四時〜六時半頃まで。ラッパの音に耳をすませてね。
●武蔵屋(谷中銀座)では宝袋が新発売。肉や野菜やしらたきが揚げの袋の中に入っている。おでん種でもコンソメスープで煮ても旨い。今なら80円と赤字覚悟の大サービスだ。
●午前中に豆腐屋へ行けば、ホカホカのおからが手に入る。高くても50円どまり。卯の花炒りやおからコロッケがいい。また豚バラの煮込みは、先におからと煮て脂を吸わせたあと、肉を洗って煮込むとさっぱり。
●柔らかい豆腐が多いとお嘆きのあなたに。店頭で「モメンの耳!」と叫んでごらんなさい。
●豆腐のアイスクリーム(材料)絹ごし1丁、砂糖100g、生クリーム150奸▲丱縫薀┘奪札鵐后∈猯舛鬟潺サーで混ぜ冷凍庫で冷やす。


元気印の豆腐です
 町を走り回っていると、豆腐によせる人々の熱い思いが伝わってくる。
「豆腐が好きなのはね、私の生れた茨城の家の隣りが豆腐屋で、石臼でゴロゴロ引いてた、あの昔の混りけのない豆腐の味が忘れられないから。今は根津の越後屋か根津の谷で買いますが、私はネギもショウガもいらない。素豆腐がいいの。
 小さいころ兄がイタズラで、豆腐屋の水槽を棒でかき回して全部だめにしたこともあったわ」(根津片町・西巻きよさん)
「私の子供時分は、戦後の物のないころで、豆腐はぜいたくだった気がする。母が煮奴や白あえを作ってくれると嬉しかったね。よみせ通りの延命地蔵の隣りが豆腐屋だった」(赤塚べっ甲主人)
「私は駒込保育園の給食を作ってましたからね。子どもたちにおいしいのを食べさせようと、あちこちの豆腐を食べてみましたよ。味がわかる子に育てたいから。私は動坂の越後屋さんの味が好きネェ」(千駄木・中野ツタさん)
 こんな思い入れのある手造り豆腐よいつまでも、と願わずにはいられない。こんどは豆腐屋さんに仕事の喜びを聞いてみた。
「いいのができた日は気分よくてね。引き売りしても楽しいけど、うまくいかない日は一日気分が悪い。ラッパの音も小さくなる。でも幼ななじみの客もいて、顔みりゃ絹か木綿か好みもわかるしね」(坂下町藤屋・南雲晴雄さん)
「よくできた日の豆腐はかわいくって、とっておきたいくらいです。引き売りも待っていると思うと休めない。毎日五分とたがわず、同じ道を通っています」(日医大前たけや・熊谷正吾さん)
「朝起きてすぐ仕事になるのがいいわ。お化粧も着かざる必要もないし。カーテンを開けると朝からお客さんがお金もって買いに来て下さる。ありがたい商売よ」(三崎坂上小松屋・福島雅子さん)
「夫婦どちらがいなくても仕事にならない。女だって力仕事もしますよ。忙しい日には家事の方は手を抜いちゃうけど、そんなときは目をつぶってくれますよ」(横田豆腐店・横田勝枝さん)
「町の人とのふれあいだね。近くの沢の屋さんに来る外人も、豆腐屋にずいぶん興味あるらしいよ。よくじっと見てるもの。スイスの人が豆腐はチーズみたいっていってたよ。一丁あげたら喜んでた」(藍染通り越後屋・桜井増雄さん)
「やっぱりお宅のがうまい、といわれるのが嬉しい。真冬にゴム長はいてると足はしもやけがくずれちゃって痛かった。それでも昔は雪やみぞれが降る日は、特に売れたので、銭が降ってきたと言ったもんだ」(白山たけや・高橋八郎さん)
 泥のごときできそこないし豆腐投げ
  怒れる夜のまだ明けざらん(松下竜一『豆腐屋の四季』より)
 大変だと思います。でも豆腐好きの私たち、なんとかがんばって欲しいのです。「豆腐屋はまじめですよ」という杉田直次さん。「スーパー豆腐で育った子供 たちが大人になったらもうお手上げ」と黒川太三さん。「そのうち豆腐は陸(おか)に上って化粧箱入りで売られるようになるよ」と伊原敏幸さん。
 どの言葉も私たちにはショックでした。
 おいしい豆腐を守るために、私たちは何をしなければならないか! さあ、今すぐ、おなべを持って豆腐屋へ走ろう。

 湯豆腐や雪になりつつ宵の雨  松根東洋城



12〜13p
◎町並み点描 
the 根津観音仲見世通り  渡辺肉店主人に聞く

●戦前は廉売横丁
 父、渡辺松次郎は越後の生れだけど、ここに肉屋を開いたのが昭和の三年です。浅草の米久に勤めていて、休みの日にあちこち場所を物色してたんでしょう。 当時は廉売(れんばい)横丁といって、両脇の路地にはやたら子供(ガキ)が多くって。根津はそう金持ちがいたワケじゃないから肉は売れない。最初はコロッ ケ屋ですよ。父親はご用聞きにいく、母親は揚げもの、二人で朝から晩まで働きづめだから、私は妹をおぶって根津学校へ通った。私ともう一人松村君という人 だけだったな。松村君、今どうしてるかな。ミルクとおしめ持ってって、一番後ろの席でね、赤ン坊が泣くと教室の外に出てさ。用務員室でミルクあたためても らうの。
●ヤミ市救済のバラック
 戦時中の十八年ころ、うちの前っかわが強制疎開になった。根津は道が狭いから類焼を防ぐためだね。その空地になったとこへ、戦後根津銀座に出ていた露天商、いわばヤミ市だ、あれを救済するために、東京都がバラックみたいな店の建物を建てたんです。
 そして組合を作って、露天商に組合員になってもらって、そこの店へ入れたわけ。その時の世話役がおせんべ屋の鰭(すずき)正蔵さんで、それからようやく 店も揃ったが戦後の物のないころだ。なんとか商店街の目玉を作りたい、そうだお地蔵様がいいと、若い衆が桜木の浄名院でお地蔵様のいっぱいある寺があるで しょう、あそこに夜陰に乗じてしのび込み、一体かっぱらってくるはずだったんだが、だめダだめダ、大きいのは重いし、小さいのは顔が欠けていいのがないっ ていうの。そこで鰭さんの郷里の長野で、観音様をどっかから見つけてそれをお迎えしたんです。それで八畳敷くらいのお堂を建ててめでたく観音仲見世通り商 店街。いまは名前だけ残って観音様は七軒町の久昌院に安置してあるけどネ。
●いま明かす花札マッチの謎
 それからはみんな気を合わせて、年中売り出しをし、七夕の時なんてチリ紙で飾りをこさえるのに二ヵ月もかけてさ。それから景品の花札マッチに人気が集中 した。商品十円で一コ。その図柄が花札で、四十八種全部揃えると三千円の賞金、こりゃいまなら十万円くらいだよ。よく見てみな、同じカス(一点札)でも微 妙に違うでしょう。誰も集めるのに夢中で、町中で花札やってたようなもんだ。そのうち五光持ってくると旅行、百五十点で汐干がり、暮は三光でしょう油、赤 タンで砂糖とか、いろいろあって皆喜んだもんね。
 ただし何の柄が何個出たかのチェックが大変で。それからダブッて持ってる人同士交換すればすぐ揃いそうでしょ。ところが揃わないんだ。五年やって三千円 当った人は八人だった。というのは、二種類のマッチを出すのを制限した。まったく出さないとバレるから、この菊見の飲み(杯のついた十点札)は十個しか出 まわらなかった。それでまだ、うちに残ってこうして使ってるワケ。



14〜15p
手仕事を訪ねてァゞ薪擺甼餤楽堂(きょうらくどう) 

 動坂を上って駒込病院を過ぎたところに郷土玩具「京楽堂」、河江次朗さんの家がある。
 翁の面を思わせるやさしいお顔のご主人と、元気のいい奥さんの寿美江さんは千駄木小学校の同窓生。ご主人は大正五年卒。この地に生まれて八十三年。
 今日は畳の仕事場で、豆七福神の色つけをしているところ。静かに筆を動かしながらポツリポツリと話してくれた。
 この豆七福神は品川神社から始まる東海七福神の一つ。二センチ程の恵比須様が、お菓子の空箱にずらっと同じ方を向いて待機している姿が壮観だ。
 七福神を作る工程は、まず柔らかくした多治見の粘土を、石膏の型に入れ、型からはずして形を整え、乾燥させる。窯で焼いて、彩色して包む。と書くと簡単 だが、「一つの人形が小さいので、型から出す時にあるかないかの鼻が欠けてしまったり、窯焼きの時は、さやという植木鉢に似た入れ物に入れて焼くなど、手 間がかかるんですよ。色つけ一つとっても、一体につきだいたい十二工程くらい。寿老人はあごひげだけ最後に塗るとか、恵比須様の鯛の目なんて、小さいです からねえ」。それを細い筆で、息をつめ、ていねいに塗り上げる。こんな仕事が何時間も何日も続く。「今年こそいい年にしたいと七福神めぐりをするんですか ら、やはり皆が幸せになりますように、という思いを込めて作ります」
 十二回も塗るごとに願いを込めるのですから幸せにならないはずがありません。
 小さな神様たちは、どれをとっても河江さんのやさしい顔にそっくりです。
「一番多く作った時は、三千組くらいかしらね。若かったからできたけど、あの時は大変だったわね」とは、仕事のよきパートナーである奥さんの弁。
 この東海七福神は、神社とお寺の混成七福神で、作り始めた五十年前とかわらぬ姿で並んでいる。
「巡りながら一つずつ集める人、揃いで宝船に乗ったのを買う人などいろいろね。うちでも赤い台を付けておわけしてます」
 赤・金・緑・青などに塗られた七人の神様たちは、いかにもお正月らしい色どりだ。
「お正月の一日からお寺の住職が売れちゃったと取りに来たことがありました。近所の人が、元旦から坊さんが来るなんて珍らしい家だって。でも、もうこんな手間のかかる仕事をする人もいないでしょう。うちも今は三百ずつくらいしか作りません」
 三百といっても、七人揃うと二千百体。並の数ではありません。
 七福神の他にも毎年、干支の土鈴も作る。その他、どんな物でも注文を受ければ、型を作るところから始まり、粘土をこね、形をつくり、焼くというのが河江さんの仕事だ。
 もともと、河江さんのお父さん秀次郎さんは、明治の中頃、京都から巣鴨に来て万年青(おもと)用の植木鉢を作っていた。植木屋の多い巣鴨、駒込辺りの地 場産業だったのでしょう。資料によると、「明治の中ごろ万年青が爆発的に流行」とある。「万年青の鉢は、強火で瞬間的に焼くので黒楽(くろらく)という まっ黒い植木鉢です。京楽堂というのは、京都の楽焼きの流れなんです」
 万年青の鉢の他にも、五徳や今では見かけない水こんろという大変便利なこんろも作っていたそうだ。
 そしてこの地へ、「あたりにはバラの花を宮中や鹿鳴館に納めていた『バラ新』とか『美香園』といった大きな植木屋がありました」
 万年青ブームが過ぎると今度は楽焼き。「若い頃は、芝の藤山雷太邸など園遊会や茶会に窯を持って五〜六人で出向き、絵描きさんにお皿や灰皿、茶椀などに 絵付けをしてもらい、会が終るまでに焼き上げてお土産にしたりしました。画会にもよく行きましたよ。池上秀畝さんや荒木十畝さんがいらしてました。夏は逗 子や鎌倉で楽焼きのよしず張りの店を常設してましたから、保養の人たちがたくさん来て、忙しかったですねえ」
 それに埴輪や銅鐸の模型を学校に教材として納めていた時期もあった。
 毎年11月28日には「ふいご祭り」をやり、窯にお酒や新米・おこしなどをお供えし、ご近所にも配る。
 けれどこのごろは、住宅やマンションにとり囲まれ、煙を出すのも遠慮がち。「前に雑誌に後継ぎ募集の広告を出したことがあるけど、もう出さない」という。
 この仕事、河江さん一代限り。それが惜しい。



16〜17p
谷根千の風景  谷中墓地の自然――野鳥――

 十月五日、朝七時、谷中墓地で探鳥会を行なった。案内役はわれらが歩く鳥類図鑑、伊東清隆さん。総勢十九名と少なめで日暮里駅を出発。ちょっと集合が早すぎましたネ。しかし鳥を見るにはギリギリの時間です。
 最初に見つけたのはメジロ、続いてヒヨドリ。このところ都会に数多く姿をみせる鳥が増えてきた。ヒヨドリもそのひとつ。これは鳥にとって町が住みよいわけじゃなくて、山に鳥たちの住む場所がなくなってきたからだ。
 谷中墓地は広さ約三万坪、さらに上野公園から不忍池とつながる、都心には数少ない鳥のパラダイスだ。不忍池が近いためゴイサギ、ササゴイなどの水鳥もみられる。
 ドバトがいる。もとはヨーロッパのカワラバトを伝書鳩として使うために、日本へ連れてきたのだ。故郷では岸壁に住む鳩たち、はぐれた伝書鳩が都会のビル に、懐しいふるさとの岸壁を見い出したのだ。勝手に連れてきといて、なんで鳩公害を口にできるのか。呼び名もドバトとはねえ、かわいそうなドバト。
 空中を編隊でやってきた。スワ雁か、と思うとカワウでした。不忍池のカワウがエサ探しに飛ぶのだ。時たま雑誌に“都会に雁が…”風の写真がでるが、あれはまずカワウの間違い。首を伸ばして飛ぶ姿、そうか、東映映画の“ラドン”のモデルはカワウだったのだ。
 一番身近かなはずのスズメが意外に少ない。今の時期、イネ科の植物が好きな鳥たちは米作地帯に出かせぎにでている。
 カラスがゴミをあさっている。正式名、ハシブトガラスは大きいうえにまっ黒け、はっきり言って気味悪い。「最近カラスが増えてこまる」の声を聞くけど、 カラスの大好物は生ゴミ。誰がカラスにサービスしてるのでしょうねえ。カラスは集団で寝ぐらを決める。この辺りでは東大。墓地で見かけるカラスも、実は朝 四時半頃から出勤して来ているわけ。たまに、はぐれガラスが墓地の中に巣をつくる。巣をのぞきに行く伊東さんは、すっかりカラスに目をつけられていて、近 づくと襲撃される。「とくにヒナを育てている時のカラスは、子どもを守るために必死ですよ」。
「この声はシジュウカラ」といわれて耳をすます。駐在所の桜さんが巣箱をかけたとき、一番乗りしたのはこの鳥だった。
●歩く鳥類図鑑、伊東清隆さんのこと。
「山のぼりが趣味、だんだん高い山に登る体力がなくなったので、鳥や植物の勉強をはじめたんです」という。谷中墓地の野鳥観察記録を取り出したのは一九七五年。で、八○年までに二十一科五十五種を確認した。
 墓地で問題なのは「殺虫剤をまくと、鳥がいなくなる」こと。虫がいなくなる→虫を食べる鳥が減る→虫がまた増える、という悪循環にならないかと心配。
 次に野鳥の密猟者が出没すること。「暴力団がやっているというので、富山のカスミ網猟が禁止されたけど、なぜか野鳥焼きは料亭のメニューになる。谷中では駐在所の桜さんが取り締りに熱心で、何人か逮捕者が出たようです」。
 墓地にはたまに痴漢やのぞきも出るのでご用心。「僕は夜中に双眼鏡を首にぶらさげ懐中電灯を持って観察に行くでしょ。これでは間違われちゃう。だから、 野鳥の会の腕章をしっかり巻いて行くんです」。最後に「人間のつごうで公園を設計するだけじゃなくて、鳥のこと、植物の立場に立って公園を作る人、いない かなあ」という。



20〜22p
■谷根千の新名所/日暮里・本行寺
一茶と山頭火 本行寺にて邂逅

 日暮里の長久山本行寺は日本一、駅に近い寺である。それもそのはず明治三十八年、寺の境内を削って鉄道を通し、駅を作ったのだから。日暮里駅の西口を出て、右手まず最初に本行寺の大きな山門が現われる。
 山門をくぐって、本堂へ向う参道の両脇に、新しく句碑が二つ建った。かたや江戸時代の俳人小林一茶、かたや放浪の俳人、昭和の種田山頭火。いずれも揮毫は大山澄太氏。
 去る十一月十五日、秋も晩い曇天の下、しめやかに句碑の除幕式が行なわれ、ゆかりの人々やファン、報道陣で賑わった。四国は松山在住の大山氏も八十八歳の高齢にもかかわらず、単身上京、元気な姿を見せられた。もちろん谷根千も馳せ参じた次第。以下ご報告します。

――二つの句碑の因縁
 一茶の句碑は、大人が三人、両手を広げたらやっと届くほどの丸やかな大石、四トンもある。この石を悠々と運んで、深夜、本行寺にドシンと着いたときには、ご近所の人々が「すわ地震か」と外に飛び出してきたという。
 白いなめらかな川石がよいと決めた加茂行昭住職が、鬼怒川の清流に入り、あちこちの石をさすったり、たたいたりしたあげく、目先の東照宮のふもと、霜降りの滝近くで出会った石である。川の流れの跡が年輪のように刻まれた、青みがかった美しい石だ。
 山頭火の句碑は、群馬県産の赤城石。台座も共に赤いみかげ石で、高さ約一、五メートル。頭部は磨かずにわざと自然石を荒削りにしたまま残し、微妙な色の対比をみせている。この石も加茂住職が知人を介して尋ね、製材され門柱として使われるところを見出したもの。
 加茂住職のいわれるには、「先代日童上人のときより、一茶の句碑を建立するのが夢であり、ようやく俳人で一茶研究家の荻原井泉水氏に揮毫をお願いしよう としたが、すでに亡くなられて叶わず、井泉水氏の奥様より大山澄太氏を紹介して頂いた。井泉水氏の高弟である大山氏は喜んで引き受けて下さり、その時、本 行寺が別名月見寺というのを知るや『山頭火の句碑は全国に五十もあるが、東京には一つもない。山頭火の月の句碑もあわせて建立してはくれまいか』と切に懇 望され、『費用は私がもちます』との言葉に、私どもも喜んでお引き受けしたのです」
 かくして一茶と山頭火が時を超えて、この本行寺にあいまみえることになった。山頭火を世に出した大山先生の思いも一入であったが、除幕の際には山頭火の 遺鉢に美酒“山頭火”をなみなみと注ぎ、「立派な句碑を作ってもろうてよかったなあ、喜べよ」と、句碑にふりかけた。無類の酒好きだった山頭火のこと、碑 石までもほんのりと桜色に染まり、ほろほろと酔うているようであった。

――小林一茶と本行寺
 除幕式の後、会場を本堂に移し、講話が始まった。まず、荒川在住の一茶研究家小松鉦太郎氏の話。
 一茶と本行寺の関係は深い。信濃の人小林一茶が本行寺二十一世日桓上人に出会ったのは、文化二年(一八〇五)、すでに前半生の辛酸をなめつくし、俳人と して功なり名遂げた頃であった。日桓はのちに京都の本山妙顕寺の山主ともなる信望厚く学識の高い僧で、俳諧を好み、俳号を一瓢あるいは知足坊といった。彼 は一茶の後援者、よき師友となり、一茶はこの本行寺を吟行旅立ちの際の定宿とした。それはちょっと立ち寄る程度のものではなく、文化十二年九月などは、し めて十日も滞在している。そうした深い交りは「七番日記」「我春集」などにもみえる。
 さて句碑に記された句は、文化八年(一八一一)正月二十九日、本行寺句会で、一瓢の句に続けて一茶の詠んだもの。
   菜の花と知りつつ春や釣瓶から   一瓢
   陽炎や道灌どのの物見塚      一茶
 この時、一茶は四十八歳である。
 道灌物見塚といわれる小山は、昔本行寺境内にあり、一瓢の「物見塚記」によると、「塚のもとの断崖三十五丈、東南北の眺望は須弥の金輪をかぎりとす」と あるから、ここからの眺めは絶品であったろう。この句の鑑賞の手引として、小松氏は「“や”という切れ字一つ、残りはすべて名詞で構成され、実に現代的な 趣きのある名句」と賞讃された。
 ところで、本行寺と道灌の関係について、少し補足しておきたい。もともと本行寺は、江戸城を築いた太田道灌公(ちなみに今年は没後五〇〇年、合掌)の 孫、大和守資高公が江戸城(当時は武江城)内に大永六年(一五二六)建立した日蓮宗の寺である。太田家の菩提寺として名高いこの寺が、時の政権の都合に よって、神田、谷中と転々とし、ついに宝永年間、日暮らしの里に落ちついたのは不思議な緑ともいえよう。なぜなら、風光明媚なこの岡は、昔道灌の斥候台で あったといわれ、この辺りは道灌山に連なり、道灌物見塚や道灌舟つなぎの松なども存在した。その物見塚も、いまは国鉄の用地となってしまった。

――大山澄太氏の語る山頭火
 続いて大山氏の山頭火談(一時間半に及ぶ講話のあいだ、直立不動でおられる氏に対し、足がしびれてもぞもぞする私は、わが身を恥じた)。
 大山澄太氏は、山頭火と共に自由律俳句の荻原井泉水の門下、山頭火より十七歳年下であるが、肉親以上に交わり、陰に陽に山頭火を支えたよき理解者であり、没後は『山頭火全集』(春陽堂)を編んだ。
 種田山頭火は、一八八二年山口県防府に生れ、一九四〇年松山にて死去。子規、虚子の出身地松山を死に場所と定め、最後の庵をこの地に結んだのである。大庄屋の出身ながら、故郷を捨て、妻子を捨て、行乞流転を続けながら、心を打つ自由律の句を数多く残した。
 この山頭火との交情を、大山澄太氏は、感動的な出会いから死まで、ときには涙ながらに熱っぽく語り、聴く者も思わずもらいなきするほどであった。
 ところで、種田山頭火の慕った正岡子規もかつて谷中、根岸に居を構え、日暮里の句をいくつか詠んでいる。その子規の高弟である高浜虚子が、一茶の跡を慕い本行寺を訪れたことがある。その時応対したのが、先代住職日童上人であった。
「一茶−子規−虚子−山頭火と、偶然にも俳句の道が当山で通じました。これも何かの御縁でしょうか」と感慨深げに語る加茂住職もまた、一茶-山頭火の思いを継ぐ人のように思われる。

 山頭火の句碑は、昭和十一年、「東京をうたふ」の中にある。
   さくらちる富士がまっしろ
   さくら咲いてまた逢うてゐる
   旅ごころかなしい風が吹きまくる
   ほっと月がある東京に来てゐる
   ビルがビルに星も見えない空
 傍には白雲木、一茶のそばには山桜が植えられている。春になれば桜の花びらが句碑に散って、また格別の趣きを添えるだろう。(木村民子)



23p
■ご近所調査報告/続・山車の話
谷中町の山車は早稲田の演博にあり

 前回はみ出したところから。まず、岩槻の民俗資料館で撮影してきた初音町の豊島左衛門尉の人形の首と幕の写真を掲げる。頭の作者は古川長延と箱書きにあり、高さ三十センチ、ハリボテの手足を組みたてると、かなり大きなものである。
 また、幕は赤い毛せんの厚布に金糸銀糸のぬいとり、刺繍で岩や木々花鳥をあしらった大きなものであった。この山車を越生(おごせ)では大正八年に百五十 円で買ったという。また、箱書き、幕裏の名のうち、篠田五衛門氏は伊勢五酒店、高梨市太郎氏は高梨商店、三好長兵衛氏は花重関江氏の四代前花長主人、高橋 六太郎氏は石六石材主人、加藤六太郎氏は乾物屋さん、石井力之助氏は石力石材、その他数名の方もご子孫が現存していらっしゃることが判明しました。
 次に谷中町の関羽の人形が、御酒所に飾られた珍しい写真を、加藤勝丞さんに貸して頂いた。加藤さんの父上は吉田酒店の番頭、母上は谷中で流行った髪結いさんである。
 この関羽の人形を作った原舟月は江戸末期の著名な人形師で、お墓は多宝院でなく、妙雲寺にありました。
 この人形は早大の演劇博物館に昭和二十九年に寄贈され、寄贈式はおはやしも呼んで賑やかに行なわれたそうです。故松田力治氏が杖をついて演博までいとし の人形を見に行ったが見せてもらえなかった、などの風説もあるので演博に問い合わせたところ、「博物館からは遠い貯蔵庫にしまってあるので、出すのは大変 だが、要望が多ければ忙しくない折にお見せできるかも知れません」とのことです。人数がまとまったら早大に交渉に行きます。見たい方は谷根千までお電話下 さい。



24〜25p
◆この街にこんな人
〈根津〉が大好きな桐谷エリザベスさん

 ボクの名前は鞍馬天狗。寒い日に外に放り出されたボクは、露地で出会ったエリザベスの肩にはい上がった。最初は驚いた彼女も、二度目にはボクの「死にたくない」気持を分かってくれたみたい。
 ボクを家へ連れて帰って彼女は夫の逸夫とケンカした。二人は借家住まいで、昼間は仕事をしてる。「飼えるわけがない、もう一度外へ出そう」という彼にエリザベスは「外に出すのは殺すことと同じ」と怒った。
 ボクは生まれて数週間だったし、その日は十二月の特別寒い晩だった。ボクは運が良かった。
 エリザベスはあかぢ坂下の三軒長屋の端に住んでいる。前の人が店に使っていたので、そこには小さなショーウインドーがあった。ボクはそのウィンドーの中で、二人のいない時間を過ごした。
 数日後、逸夫がボクの飼い主を探すポスターを貼り出した。ポスターやボクを見にくる子供たちで、ウィンドーの前は急に賑やかになった。留守番をしながら ボクは子供たちと遊んだ。エリザベスは仕事が終ると一目散に帰ってきた。ボクが待つ「家に向って歩くのは幸せ」と彼女は言った。
 ほどなく、池の端に住む人にボクはもらわれた。
 ボクのいなくなったウインドーには、そのあとも子供たちが遊びに来た。何もないとわかるとがっかりして帰った。「今度は何?」ひとりがエリザベスに尋ねた。
 そして、このショーウィンドーでのエリザベスの活躍が始まった。
   ◆   ◆   ◆
「ステキなショーウィンドーがある」と真向いの三盛社の大石さんから連絡を受けた。行って初めてみたのは鏡餅。和菓子屋さんに売ってるにしては形が…と思ったら、それがエリザベス作だった。
 節分、バレンタイン、ひな祭り、イースター、鯉のぼり、虫歯予防、夢(ドリーム)、月見…とウィンドーは華やかさを増していった。時には桐谷家の急須がカニに化けたり、慣れぬ針を持ち、夜なべして人形を作ったりした。
 そして十月十八日、ハロウィンの展示は、友人、知人、道ゆく人を巻き込んでのストリートパーティーから始まった。ライトの下で不気味に笑う大かぼちゃ。八百屋さんが特別に探してくれた。千五百円也。
 今、なにが飾ってあるか、さっそく行ってみてごらんなさい。
――さて、桐谷エリザベスさんはどんな人だろう。
   ◆   ◆   ◆
 私はボストンで育ちました。ボストンはアメリカの最も古い町で、この町の人々は古いということを、とても誇りにしています。例えば「ウチは百年前の建物よ」と自慢して言えば、「ウチなんか百二十年も前さ」と隣のオヤジさんが胸をはります。
 七年前に日本に来て、逸夫と結婚したあと根津に住み、一年程ボストンに帰ってましたが、この辺りが好きで昨年十月からまたここで暮らしてます。
 でも一年の間に、この町はみにくい近代的な建物が多くなりました。近代的になるのはしかたないけれど、デザインが悪いですね。経済を優先させ、安く作ろ うというのが分かってみにくいの。そこに住む人間を優先しなければいけません。新しく高層のマンションが建つと本当にがっかりします。
 根津の町はとても好きだし、住みやすい。ここに居ると自分が外人であることを忘れます。根津の人々が私に、外人に慣れたのでしょう。
 今住んでいるところは、もと四軒長屋だった一番端が老朽化して使えなくなり、そこを切って三軒長屋にしたものです。押し入れの中を二階に住む人の階段が 通っています。今は仲良しになった二階の「トラさん」が引越しできたばかりの頃に階段を叩き「今、帰ったぞ!」と怒鳴った時には、部屋に闖入者がいる、と あわてました。
 古い家には、前に住んだ人の香りが残り、何をどう使って生活していたのか、想像することが楽しくて、歴史のない新しい家には住む気がしません。
 小さな店に立ち寄ることの大好きな私は毎日少しずつ買い物をして帰りますが、なかなか大変です。アメリカでは週に一度スーパーへ行き、山程の買い物をするだけです。
 たまに根津のスーパーへ行くこともありますが、買ったあとでがっかりします。ただこまるのは、本格的な西洋料理を作る時。オリーブオイル、チーズ、スパイス、どれも欲しいのが根津にはなくて探しまわります。
 和菓子、お茶の店へ買い物に行くのが好き。そして新しくできた文楽人形の店も。親切で色いろ話を聞かせてくれますが、お金が無くてなかなか買えません。私は今、歌舞伎にこっています。女形を愛してしまいました。どうしましよう」。
●米・ボストン生れ。



26〜28p
情報トピックス
 毎回“最近のうごき”から始めるのでは芸がないので――

◎九号後日談
*「谷根千路上観察」は好評でした。かわいい赤電話の家主さんから聞いた話。このお宅は以前ご商売をしていて、店をやめるとき、赤電話もやめようと思った が、ちょうど初音湯の前で利用者の要望もあり、ふつうの家なのに赤電話を置いているそうです。「お風呂の終る頃を待って、閉めて鍵をかけるのよ」とは谷中 らしい。
 無用のドア、無用のはしごの芸術的壁面を誇っていたビルはなんと、谷根千の印刷所の三盛社のビルで、専務の渡辺さんいわく「あれは無用じゃないんです。上から荷物を出す時のドアで、それを降ろすはしご、不用心だから一階部分は引きあげてあるだけ」
 屋上のラクダとマンホールの件はおたよりをお読み下さい。
*おたより欄の谷中初音町「加藤多聞様」とあるのは「加藤ふゆ様」でした。あまりの達筆に仰木が苦しんだあげく誤読したもの。年輩の方からお手紙を頂きますと、読みこなすのも大変ですが、時候の挨拶や配慮あるいいまわしなど、私たち若い衆は勉強になります。
*「ひよどり通信」にてご紹介の幼な鳥は、連休をまるまるつぶした野沢先生の介抱のかいなく、立派なカゴに入れてもらったのが仇か、カゴの桟の間に足をはさんで昇天しました。「絶対うまくいくと思ったのに」と先生も無念そう。
*三回目、年々豪華になる菊まつり。菊人形二体のはずが菊が足りず、片方は骨組みだけで「菊人形のできるまで」になってしまった。
*「ひろみの一日入門」先の沢の屋さんは、記事の出来がよかった?ためか、エリザベスさん(P24参)らとともにTBSTV「すばらしき仲間」にも出演。沢さんには忙しい秋でした。
*彫刻家戸張孤雁のお墓が大行寺にある、と記しましたのは誤りで、谷中大泉寺にあります。現在、谷根千地域に関係の深い画家、彫刻家について調査中。来年の春より連載いたします。乞ご期待。

◎確連房通信
*ついに山崎範子が「小説新潮」に登場。題して「千駄木不良主婦と鴎外のぺーパーナイフの浅からぬ関係」。日本のピート・ハミルといわれる筆者枝川公一氏 は、このルポのため、よれよれの子供用自転車で深川辺からやってきて、範子の配達にくっついて回った。氏の自転車運転技術があまりうまくないことは、お土 産にもらったナシの満身創痍ぶりでわかったので、範子はいく分手加減して坂を上ったが、氏にはそれでもキツかったようだ。無口な範子は取材されてもあまり 上手く話せず「あれで記事になるのかねぇ」と気にしていたが、さすがにプロの仕事は凄かった。みなさん「小説新潮」十二月号を買いましょう。
*根津神社のお祭りで、金魚すくいをした娘が二匹貰ってきたが、受け入れ態勢が悪く、まず一尾が翌日昇天。大層悲しんだ娘はミッキーと名をつけてベランダ の火鉢にワリバシのお裏を建てた。生き物が死ぬのを見るのはしのびなく、夫は娘をつれて須藤公園の池に残りの一尾を放しに行った。ところがガックリして 帰ってきていうには「放したとたん、アヒルに食べられちゃった」んだそうで。次の日行くともっとびっくり。須藤公園の池の水が全部抜いてあってコンクリの 底が見えていた。どっちみち哀れ三日の命であった。
*十一月七日、仰木ひろみが「歩く問題意識」の仲間入り。神奈川県主催のシンポジウムで「地域社会における男女平等」を論ず。
*十一月一九日、「歩くワープロ」森まゆみが、東京都主催のシンポで美里美寿々、筑紫哲也、三枝成章氏らと「マスコミとのつきあい方」を論ず。

◎ご近所情報
*谷中の住人ジョルダン・サンド氏より「根津で古い蔵を壊している」との通報があり出動。藍染町沢新さんの材木屋さんの隣りで、旧高崎屋質店の蔵。よく聞 くと、壊すのではなく、改修して賃貸にするのだということでした。結局蔵らしい土壁の面影はなくなりましたが、鬼瓦はまだついてます。「こんなボロ家をそ んなに大事に思ってくれるなんて嬉しいね」と持主の高崎さんは、蔵の中の資料を谷根千に下さいました。
*古い家に住むのも楽じゃない
 十一月四日、あかぢ坂下の山崎ゴムの建物が壊されるとの情報が桐谷逸夫さん(画家)より入った。
 この建物は震災後の大正十二年に建ち、昔は足立屋酒店であった。梁の厚さは数十センチ、長さ十二メートルというもので、前の三盛社の渡辺専務も「エーッ、それ切っちゃうの」と声をあげたとか。釘を一本も使っていない建物は、解体に十一日もかかった。
 古い建物を残してほしい私たちには残念な話だが、山崎ゴムのご夫妻の話を聞くと……「私たちだって本当は残したかったんですけどねえ。今四人家族で部屋 が七つもあって、無駄は多いし雨もりもして、あちこち痛んでますし。地主さんとの更新時期でもあって建替えることにしました。ところが鉄筋にするとなる と、地主さんへの承諾料がとても払えないし、いろいろ勉強したけど、結局、谷中に似合う家にはなりそうもないんです。
 壊してから、町の人々に勿体ない勿体ないといわれて。こんなに反響があるとは思わなかった。大正村でもあれば移築して欲しかったですが。でも、谷中の古建築を守る趨勢になってくると、今しか壊せなかったという気も」。
桐谷氏が壊す前の山崎さん宅を描き、山崎さんは梁を三枚に製材して谷根千に一枚下さるそうだ。製材だけで十六万円かかるという。
*もう黙っていられない!
 読売新聞(9/21朝刊)によると
「近隣住民が桐杏学園のプレハブ校舎に通う子どもたちの騒ぎ声やいたずらにたえかね、苦情を申し込んでも何の手も打たない塾側と対立。通学路に塾非難のビラを張り出したのに対し、塾側が住民を相手に三千万円の損害賠償請求訴訟を起こした」という。
 11月24日、問題の西日暮里駅前の崖上に立つ桐杏学園(代表取締役、斎藤芳一氏)裏のプレハブ校舎周辺に行ってみた。片側を開成学園に囲まれたこの一帯は一見して静かな住宅街。
 問題のプレハブは、住宅の間を通るわずか幅二メートルばかりの私道の奥にある。この狭い道に毎日、三百人からの生徒が行き来し大騒ぎ。ベルは押す、落書 きはする、物干し竿が飛んできたり、あたりはお菓子の袋や空き缶、ガムだらけ。注意すると「クソババア」と悪態をつきアカンベをして逃げ出す。「非常口と してだけ使う」という約束も反故にされ、忍耐も限界の住民が「悪徳塾!」「恥を知れ」「住民の迷惑を考えない金優先の経営方針、桐杏学園建設絶対反 対」(訴状より)などの貼紙をしたら、戸田等という弁護士を代理人に、逆に住民が名誉毀損で三千万円の損害賠償を請求されてしまった。
 それまで普通に暮らしてきた人々は、ふりかかる火の粉を払おうとして「被告」にされてしまいビックリ。奇怪しごくな告訴である。
 急成長を誇る桐杏学園だが、先住者の静かに暮す権利をふみにじって利潤追求をするならば、周辺の街全体が黙っていないし、いつかは社会的制裁を受けることになろう。

◎おめでとうございます。
*第二回全国タウン誌大賞が決まりました。編集後記で私共を温く励まして下さった「うえの」、いつも仲良しの「下町タイムス」、谷根千創刊時に一番参考にさせてもらった「月刊土佐」の三誌が受賞したのが嬉しいです。
*藤森照信氏が『建築探偵の冒険』でサントリー学芸賞受賞。昨年の陣内秀信氏に続き、谷根千の「自筆広告」の欄はツキが良いのだ。もっとも藤森先生には賞より時間をあげたいナ。マスコミさん、あんまり追いまわさないで下さい。
*でも、目下の路上観察の盛行ぶりは目に余るものがある。とくにマスコミがいけない。「ちょっとアソコにおもしろいモンがあるよ」「ドレドレ」という秘や かな楽しみでいいんではないの? いまの世、ほかにおもしろいことが余りに少ないからって、若い人が大挙、路上観察なんかにばっかり夢中になってると、ス パイ防止法で路上観察できなくなるんでないの?
◎三崎坂より耳よりなお話
*坂上り口朝日湯にサウナができました。二百円也。
*坂上、墓地入口の「川しま」さんのところ。ビルになる前は「ブドウ棚」があった。ビルになってから入った川島左知子さんはブドウ棚のかわりに何か谷中ら しい木陰を作りたい、と今年の夏、ヒョウタンの棚を作りました。すると棚に短冊をつけていった人がいる。川島さんが返歌を書く。と風雅なやりとりが続いた そうです。その風流な人の作
「蔓許り伸びて瓢箪実をつけず」
*坂中腹の旧大和クリーニング店が喫茶乱歩に。ウーム、おじさんにはこっちの方が似合う。

◎範子の失敗
 なぜかオカしい話はこの人に多い範子さん。品川力さんと谷中の豆腐屋を行脚中、品川さんが「おお、そうだ、興禅寺の山崎マサカズさんのとこへ寄りましょう」と連れていって下さった。
 ところが範子は山崎正和さんと混同してしまい、「いつも丸谷才一さんと鼎談なさってますね」「『真夜中の散歩』とか読みました」などとトンチンカンなこ とを言ったため、品川さんもビックリ。帰りに表札をみて範子は誤りに気づき、事務所に帰って「ごめんネごめんネ、あたし一人で谷根千のレベル下げちゃう」 と泣いておった。ちなみにカント哲学者の山崎正一先生(東大名誉教授)が上野高校出身で興禅寺のご住職であることを知る人は読者に少ないと思うので、後日 の探訪記事を期待されたい。

◎患者さんの失敗
 動坂のT歯科医院で、「長年診療してビックリした経験」を聞く。
 その一、年も押しつまった三十一日になって若い娘さんから、「日本髪も結ったし、明日は晴着も着るので、今から歯並びを直してほしい」と電話がきたことがある。
 その二、初めてきた八十近い小柄なおばあさんが、「よろしくお願いします」と診療椅子にうしろ向きに上って正座し、頭をのせる台にあごをのせ、口を開けたことも。



29p
この町に住んでよかったこと   古川恭子

 結婚以来、谷中と千駄木に住んでもう五年半。
◆諏方神社でたくさん電車が見られてうれしい。日本一◆バスにちょっと乗れば上野動物園、パンダにちょっと会ってくるというのもいい◆秋葉原に近いのがウ チのダンナはうれしい◆神田に近いのも本がすぐ買えてうれしい◆でももっとうれしいことはネ。◆となりのおばあちゃんが、“ちょっと遊んで作ったの”と甘 辛い五目寿司、“たくさん揚げちゃって”と精進あげ、なす、かぼちゃの煮物など下さった◆二軒先の大石さんがお彼岸におはぎをくれた我家の玄関先を一生 けん命掃いているおばさんがいた。“すいませんねえ”というから何かと思えば、道の向う側の家の方でご自分ちの柿の木の葉が飛んで……ご近所中の玄関先を 掃いていたのだ◆焼鳥買ってお金だけ払って現物忘れた。いろいろ買物して帰ってみると小林鳥肉店のおばさんが我家の前に立っていた。“たぶんこの辺だと 思ったからサ”◆そろそろ灯油がないとタンクをみると満たん、アレ、と石油屋さんに電話したら“ちょっと通ったら空だったから入れといた。赤ちゃんいるも のね”って◆谷中銀座の石段近く“ノラ猫にえさをやるな”じゃなくて“ノラ猫にえさをやったら最後まで始末して下さい」だって◆そしてわが家の小さな庭に くる動物、てんとう虫・赤とんぼ・でんでん虫・ガマガエル・チビガエル・ナメクジ・バッタ・いなご・アゲハチョウ・モンシロチョウ・やもり・こおろぎ・は ち・この前は電線をリスが走ったんだけど、遠くの親兄弟は誰も信じてくれないのですヨ。


30〜31p
■光太郎・智恵子補遺 
林町はこんな町だった

 九号特集は資料が多すぎて、限られたページにつめ込んだため、かなり読みにくいものになりました。ここでは、林町の当時の雰囲気を中心に補足します。
●木下順二さんの『本郷』には保健所の前の通りも藪下となっているが、私は当時林町の往来と呼んでいた。桜並木があって、藪下よりもっといい道だった。交番だけ道にとび出していました。(佐々木安正さん)
●その往来に子供たちが絵を描くと、高村光太郎さんが若い画家たちに、「無心な分だけ君らの描くのよりよっぽといい。これが芸術だ」なんていってらした。(西原金二郎さん)
 この辺は安田銀行、川崎銀行、岡本銀行と銀行の頭取や重役の邸が多かった。また藤堂、大給両子爵が在住。
●藤堂さんのお姫様が千駄木小へ入学時、皆で威儀を正してお迎えしたのを覚えています。何年か前、その方が六畳一間のアパートで亡くなった、と週刊誌に出 ていてびっくりしました。大給さんの方は、宮中で親王、内親王が生れると、衣冠束帯で弓を引きに行かれ、宮中から下された菊の紋章入りのお菓子と同じもの を、団子坂上の伊勢屋に作らせ近所に配りました。(西原金二郎さん)
 その大給邸がのち大平正芳邸となったが、大給坂が狭いので、政界要人の車の出入りがしにくく、引越し、あとが分譲された。大平公園に名を残すが、公園の太いちょうは明治以前からの大木である。
●光太郎さんのアトリエの前の市島家は、越後の豪農で、当主がお国入りする時は、駅から邸まで沿道に人々が盛装して出迎え、執事を通じて知事にお金を下げ 渡すというほどの勢いでした。その裏が武蔵七党の一つ、久米さんの邸で、今は半床庵の茶室が都重宝に指定されています。うちの親父(蔵石徳太郎氏=植木屋 で地主)はよく、「久米さんでお茶を飲んでくる」と出かけました。(佐々木安正さん)
●市島家の隣が私の父伊東三郎の家で、祖父は伊藤博文の下で明治憲法を作った伊東巳代治です。母が市島家の出なので隣に住んでいました。女中の一人が高村家の並びの長屋にいて、光太郎さんとも懇意でした。(岡本よね子さん)
 林町には学者も多かった。九号にも登場頂いた島薗順雄先生(東大・生化学)のほか、桑田熊蔵(欧州社会政策理論の紹介者、中央大教授、貴族院議員)、渡 辺渡(帝大工学部長)、もっと奥には三上参次(歴史学者)、広文庫の物集高見などの諸氏がいた。また高村光雲邸隣の中条精一郎は、明治の著名な建築家で、 光太郎の彫刻頒布会の後援者として名を連ねている。作家宮本百合子の父である。
●私の家が昭和五年頃に桑田さんの地所を買いました。今も裏には桑田さん時代の書庫や地守りの神様、つるべ井戸などが残っています。私が嫁に来た頃はイタ チ、ヘビ、リスもいましたし、この辺には下宿屋が多くて、書生さんが手拭いを肩にかけ、下駄をカラカラ鳴らして歩いていました。
 戦時中は、宮本百合子さんがモンペ姿で獄中の顕治さんにさし入れにいく姿も懐しいです。元気でにこやかな方でした。裏の高村さん(豊周氏)も戦争中は大変でらして、私どもで女中さんを一人お引受けしましたし、光雲先生の木彫も三体ほど譲っていたたきました。
 今は林町も大分変わりまして、こういう家を維持するのも大変です。なにしろ庭師を一回入れると、三〜四十万かかりますし、固定資産税も上る一方で、やはりこの辺もだんだんマンションになるのではないですか。(天野松子さん)
●本当に、芸術家の家は大変で、光雲の作品やカメラなども、私たち育ちざかりの子供の食糧に化けました。戦後、母(きみさん)がかりん糖を作っては、アメ横で買ったセロハンに包んで京劇で売ってしのいだこともあります。(豊周氏子息 高村規さん)
●豊周先生は温厚な方で、お子さん方が千駄木小でした。私が校長をしていた時分、四十年の台風のあとに校庭の大きな棒の木が倒れそうなので切り、製材し立 板に、人間国宝の豊周先生に揮毫していただいた「我以外、皆我が師」の額が、いまでも校長室にかけてあります。(和田清さん)
 光太郎の弟豊周氏(鋳金家、芸大教授)については、また稿を改めたい。
 その他、若き日の智恵子が、日本女子大の寮に住む前、一時、弥生町にあった桜井女塾にいたことがあるそうだ。ただ今調査中。
 光太郎若き日の一頁を彩る「よか楼のお梅さん」のお墓が谷中一乗寺にあるという。ただ今調査中。


千駄木町小学校附近 高村光太郎
子供らは道に坐りて我家を自由画にかくと並びたらずや
子供らがかきし自由画の我家はいたく曲りて美しきかも
一心に絵具をぬれば自由画のわが家の屋根に太陽がのる
ぱきぱきと表紙を鳴らし子供らは新教科書をひとりひとり持てり
よび鈴をそっと鳴らして逃げし子はいま横丁をまがらんとする
子供らがくづしし砂利の山なほす道路工夫はしづかにひとり
むらさきに透きし桐油にくるまりて雨ふる中を来るは少女子



32〜33p
トヨタ財団研究助成ニュース
谷中・上野桜木の親しまれる環境調査より(一)
 この春、上野から谷根千地域の環境と町づくりに興味をもつ人々が集まり、上野・谷根千研究会を結成、アンケート、インタビュー、座談会などによって、谷中と上野桜木の『親しまれる』環境調査を行ないました。
 アンケートにご協力下さった町会や町の皆様、ありがとうございました。とりあえず「谷根千」の誌上を借りて、調査結果の簡単な報告をします(回収802)。
 念のために。このアンケートは町民が、町のどこに親しみや誇りをもっているかを掘り起こすアンケートで、数量的な多少を集計する目的はありません。
「設問1 谷中・桜木界隈らしいと思う食べものや店、職業をあげて下さい」
 では、,擦鵑戮げ亜↓∀族杙辧γ鳥匆亜↓石材店、げ峅亜↓ツ兌囘垢僚腓任靴拭6饌療な店名では、愛玉子、喜久月、中野屋、菊見せんべい、羽二重団 子、後藤の飴、銅菊、いせ辰、桃林堂などが頻出していました。谷中せんべい、都せんべい、嵯峨野あられとさすがにせんべい屋さんも多出。田口人形店、赤塚 べっ甲店、武関花籠店など珍しい手仕事の店も目立ちました。また、いまはなき酒場「よっとくれ」、夜店通りの「鳥よし」の畳と茶ぶ台、浪花家の今川焼きが 忘れられない、と詳しく書いて下さる方もいました。
「設問2 谷中・桜木という地名で各々何を連想しますか」
 谷中では、お寺、谷中裏地が圧倒的多数を占め、ぐっと下がって、五重塔、桜並木、しょうが、坂のある町、天王寺、花見、古い町並、職人さん、と続きま す。そのほか、鐘の音、下町、画家が多い、鶯、文豪の里、長屋など、それぞれに谷中のカラーを表わしており、どれもキャッチフレーズに使えそうです。また 「蚊が多い=いやなかという」などという楽しい回答も。
 谷中と対照的に、上野桜木の方は、屋敷町(高級住宅街)という回答が多く、静か、緑、桜並木、山の手などを連想する方が多い。同時に上野の杜、芸大、寛 永寺、博物館と上野文化ゾーンに引力を感じる回答も多かったようです。これだけ近接し、谷中も高台の部分が多いのに、桜木を山の手、谷中を下町とする答に 分れたのがおもしろいところ。
設問3は、年中行事に関するもので、「初詣はどちらへ行かれますか」の問には、圧倒的多数の回答が諏方神社でした。そのほか、浅草観音、明治神宮、成田山、寛永寺、川崎大師、西新井大師などが少数がありました。
「周囲で行われるどこのどんな行事や祭りに参加されますか」の回答でも諏方神社の祭礼が圧倒的ですが、改めて、多彩な催しのある町であることに気付きました。月別にまとめると、
1月 諏方神社初詣、大黒天講、谷中七福神
2月 諏方神社、根津神社節分
3月 彼岸、墓参
4月 天王寺で花見
5月 根津神社つつじ祭り
7月 不忍池精霊流し、各寺院お盆と施餓鬼、入谷朝顔市、浅草ほうずき市
8月 全生庵円朝まつり、町内や学校の盆踊りやお祭り
9月 根津神社祭礼
10月 谷中菊まつり、コミュニティまつり、町内、学校の運動会
12月 浅草羽子板市、養福寺院除夜の鐘つき
 これだけ参加すれば、めいっぱい楽しい町内生活が送れそうですね。(設問4・5は省略)
「設問6 俗称を持ったみちや坂、樹木、石、場所などをご存知でしたら教えて下さい」では坂の名称が多く出ました。
 螢坂(三年坂、星降る坂、なか坂)、三崎坂(首振り坂、坊主坂、幽霊坂)、御殿坂(乞食坂)、三浦坂(モデル坂、見返り坂)、三段坂、寛永寺坂、富士見 坂、芋坂、あかぢ坂、七面板、団子坂、善光寺坂、清水坂、紅葉坂。別称のある坂も多い中で、研究班員の誰も知らなかったひょうたん坂(谷中墓地の中)とい うのもありました。
 坂以外では、ぎんなん横丁、千人塚、いろは長屋、お化け洋服屋、お化けイチョウ、お化け灯籠、萩寺、おたまや、赤土山、ぜんそく地蔵、二本杉、百軒長 屋、首つりの木、赤門の寺、貝塚、六阿弥陀横丁、末広稲荷、銭降稲荷、鷹取山、抜穴、とおもしろい名前ばかりです。どこだか分かりますか。
 設問7以降の回答は次号の谷根千でご紹介します。
 この調査結果について、上野・谷根千研究会代表浦井正明氏(寛永寺執事)は、「調査の過程で、現代の東京には失なわれつつある人情やお付き合いのルール、生活様式がいまだに生きている街だと痛感しました」
 また同会事務局長の前野まさる氏(芸大助教授)は、「われわれ建築学の分野でも、この地域は、震災、戦災を逃れ、貴重な町並の残る、東京でも珍しい地域である、というのが定説です。二十一世紀にぜひ残し、東京のふるさとにしたいですね」
 とのことです。
 この調査結果は、近々「谷中・桜木親しみマップ」としてまとめますが、さらにトヨタ財団より二年間の研究助成(五百万円)がでることも決まり、研究チームは張り切っています。こんどは根津、千駄木、池の端まで範囲を広げ、より専門的な、掘り下げた調査をすすめます。
 行政まかせでない、すてきな街づくりを目指す調査です。よろしくお願いします。(広報・中村、森)



34〜35p
おたより

 九号路上観察のマンホールは、東京帝国大学と銘のあるマンホールではないか……。と見たはヒガ目か。弥生門の鉄のカザリのみごとさを君知るや。谷根千石碑めぐりをぜひ載せて下さい。(新潟市 今井寛様)
「ひろみの一日入門」いつもながら愛読。カナダ人夫婦の感想(谷中では相席がよい思い出)に同感。本来の町の魅力は万国共通です。
 御誌の意義、役割は、過激なほどに重要と存じます。が、まあ、悠々と毎号のペースで歩まれんことを切望します。(豊島区東池袋 小沢信男様)
▼記事中のマルコムさんのお母さんが日本に住むことになりました。

 いい雑誌だからと勧められて読んで、なるほど、作っている人たちの気持ちの伝わってくる手抜きのない本だなと感想をもちました。先日、東京の友だちの家 で、谷根千を見つけて驚きました。正直いってそんなに浸透してると思ってなかったので。その友だちは、こんなマイナーな本、私ぐらいしか買わないだろうと 思ったんだそうです。増刷ですってね、失礼しました。(神戸市 小野弥佳子様)
▼本音のお便りありがとう。

 女房、子供を連れて根津神社の祭礼に行ってきました。この祭りは、秋の長雨がつきもので、今年は特にひどく、境内はドロドロでした。そのせいか、例年な ら拝殿付近で少し立ち止っていれば、一人、二人と昔懐かしい顔に会えたのに、今年は全く会えなくて残念でした。子供たちはといえば、お祭りが一番うれしい 年ごろで、大人にとってはガラクタの様な物をたくさん買いあさっては喜んでいました。(江東区南砂 村山建夫様)
▼私たちも子供に近い年令なので、お祭りは楽しいです。

 過日、連載なさった、自由民権のために戦った先輩たちの墓にお語りしました。また、四号を見てましたら、31頁の「おたより」欄の中に浦和市に住む帷子 弓男様の記事と名前が出ていたので、もしや大正、昭和初期の漫画家、帷子ススム君の遺児ではないかと思いお手紙しました。私も77歳の老漫画家です。(横 浜市戸塚区 森態猛様)
 大阪から出てきて、日暮里の駅前の小さな文房具屋さんでみつけたのが「谷根千」でした。帰阪してからもページをめくる度に谷中を訪れた感激がよみがえっ てきて、谷中の町の魅力がどんどんふくらんでゆくのを感じます。今回は時間がなくて根津や千駄木までゆけなかったのですが、貴誌を読み返すにつけ、それが 残念でたまらなくて、今すぐまた旅仕度をして東京へとんで行きたくなります。でもそれは時間とお金が許さないので、ひたすら「谷根千」を読み返していま す。(大阪市東住吉区 永富恭子様)
 私は駒込にある企画会社に勤めており、武藤書店のご主人に毎週何冊かの書籍を届けていただいています。それで『谷中スケッチブック』を読む機会を得まし た。そこで路上観察のラクダの件で一言。ラクダの会社は正式には「東京スタデオ」といいます。私の会社のスタジオになっており、一部の業務を行なっていま す。何年か前の新聞に、広角レンズ撮影で三段ヌキぐらいの扱いで、「東京砂漠」と銘うってのっていました。やはり誰の目にも不思議に映ったのでしょう。デ パートの装飾用に何体か作り、あまりにリッパなので、一体をなんとなく屋上に乗せたそうです。(練馬区 後藤智子様)
▼いつも展覧会の入場券ありがとうございます。

 昭和四年、谷中小学校を出た者として、大変なつかしく存じました。十月中旬、池の端の弥生会館へ二泊して、いせ辰やら、昔住んでた根津へゆきました。リ ボン工場(昔の)がそのまま残っていて、交番まであったのは、驚きました。尚その上に、当時の方々が住んでいて、昔話もでき、またまたビックリしてしまい ました。リボン工場のストライキに、五米おきに警官が出ていたこと、又市電の争議や上野へ向う下駄ばきの労働者のデモなどもなつかしく想い出しまし た。(別府市 芳村久太郎様)
 秋日よりの一日、谷中瑞輪寺に神田上水を引いた大久保主水の墓を写しに行ったのです。そういえば『谷中スケッチブック』には、瑞輸寺のことはくわしく書 いてあるのに、そのお寺で開いていた慈愛幼稚園のことにふれていなかったのが残念でした。いつか慈愛幼稚園のことにもふれてくださいね。実は、私その時の 写真を今も持っています。古い幼稚園で昭和十三年卒の私で、第三十一回卒なのです。驚きますね。
 私、生まれは初音町です。桜木町で三回引越、最後が根岸住い。幼稚園プラス小学校七年間、毎日毎日それこそ谷中スケッチです。(中野区鷺宮 松原基子様)
▼本の刊行後に得たことなど、そのうち続編を出したいのです。

 首相の「単一民族発言」気になるところですが、この附近にもアイヌ地名があるのをご存知? かねがね思っていたのですが、ニッポリ(日暮里)はアイヌ語 のヌプリ(山)ではないか。地形からみて「顔相のルーツ」(横山孝雄著)にも書いてあるので、可能性は濃厚とみるがいかが。(田端 遠藤幸子様)


囲み
弥生・夢境庵(そば)  画と文 石田良介
 根津神社の裏門坂をゆっくり上ると、この店の前にでる。
 萩や柳に包まれた店から、笠森お仙にも似た着物姿の美少女がひょうっこりと現れて、せわしく店の中へ消えていった。


36p
編集後記
◆ブラームスのバイオリン・コンチェルトを背に、新しいわが子の寝顔を横目に、後記を書くなんて幸せな気分です。
◆身重中は温い励ましを頂きました。「忙しそうに見えるけど、案外やることはやってんだな」と笑顔の銀座メガネのおじさん。「もう自転車乗んないでよ、こっちがハラハラするから」と桜やのおばさん。
「私は七人産んだけど、ギリギリまで動いてた方がお産が軽いよ」と根津の谷のおねえさん……みなさんやさしい声をかけて下さいましてありがと。十月十六日、無事に次男・宙(ひろし)が生れました。
 そのお宮参りの前に、敬愛する平塚春造さんが、荒川区伝統工芸の田中作典氏の犬張子を下さいました。これもすばらしいものです。
◆これで創刊以来、三人のスタッフが一人ずつ出産し、「谷根千は雑誌と子供と同時生産なの」とあきれられております。
 そのため行き届かぬ点も多々ございますが、ごかんべん願います。子供たちこそ私たちの活動の原点なのですから。
◆私一人が貧乏性でなにかと焦っておりますが、あとの二人はのんびりしたもので、「いいんじゃない。編集人出産のため一号抜けても」と仰木ひろみ。配達が 遅れて、「あんたたち、一体仕事なの、趣味なの」と叱られて、ついつい「趣味です」と答えてしまった山崎範子。この二人の楽天的確信犯に支えられて、私も のんびりやることにしました。私たちが楽しくなくなったら、きっと谷根千も楽しくなくなってしまうと思うのです。
◆その点、ここ何号か「気負ってカタい」「苦労ばかり見えて楽しさが伝わってこない」といった評も一部いただきましたので、初心に帰り、リラックスしてつ くりました。今号は山崎・仰木の活躍部分が多く、彼女たちの素朴でいい面がどつさり出たと思います。また千駄木生れの木村民子さんはプロのフリーライター ですが、今回産後の窮状をみかねて手伝って下さいました。
◆事務所には電話や来客が絶えません。谷根千工房って家具を作ってるんですか――谷中のお寺はいくつありますか(中学生の宿題)――オルガニストのスタッ フの方にオルガンを教わりたい――障害者が車椅子で散歩できるコースを教えて下さい。こんな地域の方や読者のお問い合せにはできるだけ答えております。
 NHKですが何かおもしろい話は――恋愛マンガの背景に谷中を使いたいのですがどこが絵になりますか――谷根千に載ってない珍しい話は――クイズ番組で すが和菓子をネタにした問題はないですかね。こうしたマスコミのお問い合せにはご自分でお調べ下さるようお願いしております。命短し、恋する暇もほしい。
◆谷中墓地をブラブラしていたら、銀杏の下に見つけた辞世。この余裕がニクい。「まけておけ 五十七でも年の暮」


p37
奥付
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(季刊)其の十
一九八六年十二月二十日発行
編集人/森まゆみ 発行人/山崎範子 事務局/仰木ひろみ
発行 谷根千工房(やねせんこうぼう)
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